第三十八話 ひっ迫する状況
一定の距離を保ちつつ、咲弥はネイの後ろを走った。
時折、遠くのほうから轟音が響き渡っている。おそらくは侵入してきた賊と誰かが、戦闘を交えている音なのだろう。
クロエが巻き込まれていないか、不安がひどく胸に募る。
(クロエさん……)
咲弥ははやる気持ちを抑え、ひたすら前を進んだ。
何度か階段を上がった先に、上へと伸びた梯子が見える。
ネイは軽やかに、梯子をのぼる――というよりは、もはや飛んでいく勢いに近かった。華麗に上へ向かうネイの姿を、咲弥は少しの間ぼんやりと眺める。
当然、咲弥にそんな真似はできない。
焦りを覚えるが、堅実に一つ一つ丁寧に梯子をのぼる。
少しして、ようやく最後の一つを掴んだ。
ぐっと体を持ち上げた瞬間――ネイが呆れ声を投げる。
「おっそぉい……」
「いっ――!」
まずネイの股が、咲弥の視界いっぱいに飛び込んだ。
ネイは梯子の手前のほうで、しゃがみ込んで待っていた。だから必然的に、彼女の色香に満ちた股が眼前にある。
短パンをはいているため、かなりきわどい光景に思えた。
唐突に恥じ入り、咲弥は慌てて視線を持ち上げる。ネイは自身の膝で頬杖をつき、じっと半目で見据えてきていた。
ひどくうろたえる中、なんとかネイの不満に応える。
「い、いや……ネイさんみたいなのぼり方、できませんよ」
「ほれほれ、早く行くわよ」
ネイは軽快に立ち上がり、さっと後ろを振り返る。咲弥の視線が、ついネイのぷりぷりとしたお尻へと移った。
咲弥は自身のスケベさに呆れ果てて、ため息をつきながら梯子をのぼりきる。
短い通路の先には、石造りの綺麗な壁しか見当たらない。まるで迷路の行き止まりみたいな構造に思えたが、現実的に考えれば訝しさしかない場所であった。
ネイが右側の壁の一部に、そっと手を置いた。
すると前にあった壁が、静かにゆっくりと沈む。隠し扉が開くにつれ、なにやら激しい物音が耳に飛び込んできた。
開かれた隠し扉の先で――
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
心のままに進んだ結果、クロエは行き詰っていた。
長い梯子をのぼった先は、ただの行き止まりでしかない。
それほど、複雑な分岐はなかった。しかも、見張りとして冒険者がいたのであれば、なにかしらあるはずだと思える。
(行き止まりのはず、ない……)
ふと隠し扉がある可能性が浮き、壁を隅々まで見回した。
焦燥感に心が蝕まれ、視界がだいぶ狭まっている。
それはクロエ自身、しっかりと自覚していた。
それでも、立ち止まっているわけにはいかない。
咲弥には申し訳ないが、いてもたってもいられなかった。
裏組織の首領――賊が攻めてきたともなれば、首領の首が無事という保証はない。両親のかたきである可能性もあり、自分の手で討ちたい気持ちを抱いている。
それとは別に、母親の形見も心配だった。
最悪な展開は、それすらも失ってしまうことにある。
「どこ……どこよ! あるでしょ! 何か!」
クロエはいら立ち、壁を強く叩いた。
その際、何か奇妙な感触を覚える。
少しへこんだような――クロエは、はっとした。
よく見れば、壁の一部分がスイッチとなっているらしい。
クロエは固唾を飲み、壁の一部を押した。
前方にある壁が、控えめな音を立てて沈む。
クロエは不安を抑え込むように、胸に右手を添える。
隠し扉の先は――壁紙や絨毯が豪華なのに加え、調度品や家具も適当な位置に置かれていた。それなのに、広々とした空間のせいか少し殺風景に見える。
クロエは慎重に歩き、部屋の中央まで来た。
周囲を見回したが、ここには誰も――
「誰だ? 君は?」
不意に、背後から男の声が響いた。
腕を取られると同時に、首筋に何か冷たい物が当たる。
クロエはとっさに、それが刃物であると直感した。
扉が閉まっていく音が、かすかに背後で鳴っている。
男が閉じたのか、または自動で閉じるのかはわからない。
「あの冒険者は、いったい何をやっているんだ……中級だというから優遇して任せたのに、のこのこと侵入を許すとは」
「あなたは……」
「可愛らしいお嬢さん、君も賊かな? なら、おめでとう。私が、ライカムだ」
標的と思しき男が今、自分の行動を刃物で制している。
その事実に、クロエは息を呑む。
肩越しに、ライカムへと視線を向けた。
中年の雰囲気はあるものの、まだ若々しいその顔面には、見覚えのある大きな傷がついている。視線を少し下げれば、母の形見も見えた。
この男がライカムで間違いないと、クロエは断定する。
「あなたに、訊きたいことがある」
「答えられるかな? 今から君の喉元を掻っ切るが」
戦慄する発言だが、クロエは恐怖心を噛み殺して問う。
「紅真珠のネックレス……なぜ、あなたが持っているの?」
触れ合っている部分から、わずかな緊張が感じ取れた。
ライカムは明らかに動揺している。
「なぜ……?」
「それは……母の物! 私の、母の!」
「まさか……君――」
ライカムの言葉を遮るように、部屋の扉が弾け飛んだ。
一瞬、掴まれたクロエの腕に、わずかな痛みが走る。
唐突な出来事に驚いたのか、彼の掴む力が増したのだ。
破裂した扉の先から、獣人の女と人間の男がやってくる。
獣人のほうは昇華しているらしく、見た目が虎に見えた。男は聡明そうだが、とても冷徹な雰囲気が滲み出ている。
男は眼鏡をクイッと持ち上げ、静かな声を紡いだ。
「君が、ライカムだね。取り込み中のところ申し訳ないが、君にしか開けられない部屋に用がある。開けてくれないか」
声の端々から、ひどい殺意が飛び散っている。
紋章者ではないクロエですら、怯えてしまうほどだった。
ライカムは、物怖じした様子のない声で応じる。
「残念だが、その願いは応えられないな」
「死ぬ寸前まで痛めつけられるのがお好み? お頭の拷問はきっついよぉ?」
虎女が男へ目を向けてから、酷薄な笑みを浮かべる。
クロエは言葉を失う。賊の頭が、目の前にいる男なのだ。
しかしライカムは、なおも毅然としていた。
「たとえ殺されても、私は開かない。だから、首領だ」
「なるほど……そうか。なら――」
男が眼鏡の位置を正すや否や、瞬時に消えた。
ライカムに腰を抱かれ、クロエは引き寄せられる。
「力づくで、どうにかするとしよう」
背後から声が飛び、クロエは驚愕する。
目には見えない速度で、眼鏡の男は後ろを陣取っていた。同時に、クロエは困惑する。殺そうとしてきたライカムに、なぜか護られていたからだ。
戸惑うクロエをよそに、眼鏡の男が細身の剣を振る。
ライカムがクロエを連れ、素早くその場から離れた。
「がら空きぃ!」
死角から、虎女の爪が襲いかかってきていた。
ライカムは間一髪で回避し、クロエを連れたまま逃げる。一定の距離を取ったあと、ライカムがクロエを優しく離す。
クロエの前に出る寸前に、母の形見を手渡してきた。
「え……?」
ライカムはクロエの前に立ち、肩越しに目を向けてくる。
その金色の目は、どこか寂しさが宿っている気がした。
「よく見れば、ティアナにそっくりだな。それに、目もとが少し、ローアの面影もあるか。どちらも、私のとても大切な幼馴染だ」
ライカムが口にした者の名は、両親の名であった。
訳がわからない発言に、クロエは混乱状態へと陥る。
幼馴染であるはずの彼が、なぜ母の形見を持っているのか――問う間もなく、ライカムは賊のほうへ向かって歩いた。
「さあ、私は逃げも隠れもしない。殺すなら、殺せばいい。そうなれば――君達の目的の部屋は開かずの間となるがね。あと、ただで殺される気もない」
ライカムは黒い紋様を描き、力強い声で唱えた。
「闇の紋章第四節、月夜の護衛」
ライカムの周囲に、複数の漆黒の玉が浮かんだ。
揺らめく漆黒の玉の中、ライカムは逆手に短剣を構えた。
二名の賊は、同時にライカムへ攻撃を仕掛ける。
戦うライカムを眺めながら、クロエはまだ混乱していた。母の形見――紅真珠のネックレスを、ぎゅっと握り締める。
問いたい疑問は尽きない。
だが彼は今、それを答える暇などないだろう。
(どうして……? どうしてなの……?)
まるで呪詛のごとく、同じ言葉を胸中で繰り返した。
そんなクロエにめがけ、氷の矢が飛来してくる。クロエが狙われたのかどうか、混乱していたためわかりようがない。
いずれにしろ、クロエはとっさに対応などできなかった。
「あ……」
クロエは死を覚悟した。その瞬間――
ライカムが身を挺し、クロエを氷の矢から護った。
氷の矢はクロエではなく、ライカムの腹を貫いたのだ。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
クロエを庇うように、見知らぬ男が攻撃を受けた。
ネイが血相を変え、短く声を張る。
「首領!」
咲弥は静かに驚いた。
目的の人物が、今しがた倒れた男だったらしい。
ネイが駆け寄るや、付近にいた女獣人と男が飛び退いた。纏う雰囲気から、どちらもただ者ではないと判断する。
二人の眼差しは、明らかに異常者特有のものだった。
以前に遭遇した死の狂姫と、どこか近い目をしている。
「クロエさん!」
裏組織の首領へは、ネイが駆けつけている。
だからまずクロエの傍に寄り、外傷がないか目で探った。
「どこも怪我はないですか……?」
クロエは気が動転しているのか、声が出ない様子だった。ただ怪我をしている箇所は、どこにも見受けられない。
そこに関しては、ほっと安堵できた。
その瞬間、痛々しい声音をした男の呟きが飛ぶ。
「まったく……仕事は、ちゃんと、してもらいたいものだ」
「返す言葉もないわ……致命傷は避けてるみたいね」
「賊だ。処理、しろ」
「そうね。名誉挽回といきますか」
ネイは立ち上がりながら言い、咲弥のほうを睨んできた。
「罰として、あんたも手伝いなさい」
「え? あ、はい」
咲弥はたどたどしく応えてから、クロエに声をかける。
「クロエさん。ここにいてください。絶対です」
念押ししておき、咲弥はネイの隣に立った。
男が眼鏡の位置を正し、やれやれとため息をつく。
「女のほうがヤバイな。お前は、男のほうを狩れ」
「大丈夫? あの女、さっきからまるで隙がないよ」
「そう思うなら、男のほうをさっさと殺して手伝ってくれ」
さきほどから、激しい吐き気を覚える。
眼前の二人から、おぞましいほどの殺意が感じ取れた。
咲弥は緊張のせいか、喉がひどく乾く。
ネイは姿勢を崩し、呆れた声を投げた。
「はぁ。男のほうは自信過剰っぽい。女のほうは頭悪そう」
「はぁ?」
ネイの煽りに乗ったのは、虎みたいな容姿の女だった。
「まあ、あの程度……あんたなら余裕でしょ?」
「え?」
咲弥はつい、間の抜けた声を漏らした。
ネイはいたずらな笑みを見せ、眼鏡の男のほうへ駆ける。
同時に、虎女が咲弥へ向かってきた。
「なに、あいつ。絶対、殺すから」
ネイの無駄な煽りのせいで、虎女が怒りに満ちていた。
咲弥は焦りつつ、黒白の籠手を解放する。
すると、虎女はとっさに距離を置いた。
訝しげな顔で、咲弥のほうを観察している。
「変な武器……獣の手……? それは、なぁに?」
おそらくは、本能的に危険を察知したと思われる。
見た目もそうだが、本物の獣に等しい。
咲弥は問いに答えず、どう無力化すればいいのか悩んだ。
人が相手では、戦える幅が極端に狭まる。
咲弥が戸惑っていると、虎女は諦めたように迫ってきた。
「なんでもいいか。とっとと殺して、あの女をぶっ殺す」
咲弥は考えがまとまらないまま、戦いに望むほかない。
見た感じでは、虎女の武器は自身の爪のようだ。
とはいえ、何かを隠し持っている可能性は捨てきれない。
咲弥は注意深く観察して、まずは回避に専念する。
初見の敵は、とにかく怖かった。
敵が人ともなれば、何をしてくるのか予想もつかない。
「防戦一方? 疲労狙いなら残念」
虎女の攻撃が、速度を増した。
咲弥はなかば反射的に、白い爪を振るう。
だが当然、そんな中途半端な攻撃は当たらない。
しかも反撃に転じたせいで、回避が間に合わなくなる。
「ぐっ……」
咲弥は胸の辺りを、わずかに虎女の爪で裂かれた。
距離を取ろうにも、上手くいかない。
咲弥が嫌なところを、虎女が的確に狙ってくる。
「あははっ! よっわ過ぎぃ!」
虎女が余裕そうな笑みを見せた。
瞬間、虎女の死角から迫った風玉が豪快に弾けた。
吹き荒れる暴風に飲まれ、虎女は壁に激突する。
「ギャッ――!」
「なにやってんの! 本気を出さんかい!」
眼鏡の男の猛攻撃を避けながら、ネイが怒号を飛ばした。
思わず、咲弥の肩が跳ねる。
ネイは怒り顔で、一瞥してきていた。完全に足手まといの状況となっており、咲弥の胸にひどい焦燥感が襲ってくる。
「炎の紋章第三節、燃え盛る劫火」
虎女の詠唱が飛んだ。
「あの女、マジウザ……あんた、とっとと死ね?」
激しい怒りに呼応するかのように、虎女が炎を身に纏う。
咲弥は気持ちを静め、素早く白い手を中心に構えを取る。魔物とは違い――たとえ悪党だったとしても人は殺せない。
ひっ迫する状況のさなか、いまだにそんな思考が、咲弥を縛りつけている。
何度も繰り返し、想像だけはしてきたはずだった。
こんな日が、いつか訪れる。頭の中では理解をしていた。
それでも、咲弥には――
白い爪を駆使し、オドを極限まで削り取るしかない。
咲弥はそう結論を導き、虎女との距離を縮めていった。