第三十四話 アニキだから
視界の端で銀色の影が揺らぎ、咲弥の目が引き込まれる。
紅羽が小首を傾げ、なにやらじっと覗き込んできていた。それはどこか、呆れ気味に睨んでいるようにもうかがえる。
思った以上に、訪れた女を凝視していたのかもしれない。
「へっ……? あ、いやいや……」
咲弥が戸惑っている間に、黒髪の女がプリムの前に立つ。
咲弥達へと美貌を向け、女は軽い会釈をした。
「お取込み中に、ごめんなさいね。少しいいかしら?」
「あ、い、いえ……はい」
艶っぽい声で問われ、咲弥はぎこちなく応えた。
紅羽の視線を背に感じ、少しばかり嫌な汗をかく。
女は柔らかく微笑み、すっと前を向いた。
「久しぶり、プリム」
「珍しいこともあるものね。クロエ」
「さすがのあなたでも、予想外は存在するのね」
「私はただの情報屋。神ではないわ」
「ふふっ」
親しい間柄なのか、二人は他愛もない雑談を始めた。
そのさなか、咲弥は過去の記憶を掘り返す。
クロエとは、今が初対面のはずであった――それなのに、なぜかさきほどから、どこかで会った気がしてならない。
しかし、クロエから咲弥への反応は特になかった。だから気のせいか、他人の空似というだけの話なのかもしれない。
(うぅん……でも、どこかで……)
咲弥が考え込んでいると、プリムのため息が飛んだ。
「それで、本題は?」
「欲しい情報があるの」
途端に空気が変わり、咲弥はただ静観する。
クロエは真面目な顔つきで、プリムに問いかけた。
「つい最近開かれた、第三回目の裏オークション――そこに参加していた人物について、ちょっと聞かせてほしいの」
「誰? 特徴は?」
「紅真珠のついたネックレスを身につけた男……顔に大きな傷があって、年はたぶん四十代半ば。私よりもかなり身長が高かったから、百八十ほどかしら」
プリムは腕を組み、長考の姿勢を見せた。
しばらくして、プリムは力強い声を紡いだ。
「六〇万を現金で一括――支払ってくれるならいいわよ」
(うぉお……)
恐ろしいほどの高額に、咲弥は心の中でうめいた。
これにはクロエも驚いたのか、険しい顔で閉口している。
プリムは片目を細め、クロエを覗き込むように見上げた。
「今のあなたなら、支払えない額じゃないでしょ? そう。すべてを投げ打てば」
咲弥からすれば、初めて見る情報屋としての姿勢だった。
クロエを不憫に思い、つい口を挟もうと――
「それほどの相手……ってこと?」
クロエの発言を聞き、咲弥は慌てて口を噤んだ。
高額の情報には、それ相応の理由があるのだと理解する。
クロエは少し肩を落として、深いため息を漏らした。
「わかった。六〇万で手を打つわ」
「王都でも屈指の富豪、マーウェルズ家当主の側近。名前はライカム・ハーン」
「え……」
クロエの顔は青ざめ、絶句している。
咲弥からすれば、聞き覚えのない首を傾げる人物名だ。
「マーウェルズ家の当主カザックは、表向きは慈善活動とかいい顔をしているけれど、その裏はかなりあくどいわ。裏の組織とも通じていて、手段を択ばないから。わかる? その裏組織の首領が、ライカムという名の男なの」
場が重い空気で満ちる。
プリムは肩を竦め、クロエに問いかけた。
「ところで、なぜその男の情報を?」
「……あの紅真珠のネックレスは……母の形見だから」
「形見……?」
プリムの問いに、クロエはゆっくりと頷いた。
「裏のオークションを利用していた同僚に、無理矢理連れていかれたんだけど……そこで、母が唯一無二だと言っていた物を、身に着けていた男を見かけたの」
クロエは憂い顔をして、胸の前で両手を握り締めた。
「私の両親は、盗賊に殺された……そのときに、母がいつも身につけていたネックレスも、ほかの金品と同様……一緒になくなっていたのよ……」
なんとも言えない気持ちを、咲弥は胸に抱え込んだ。
この世界では、魔物だけではない。こうして人での被害も普通に存在している。
その事実は心苦しくもあり、また哀しくもあった。
プリムがいつも通りの口調で問いかける。
「いつの話しで、場所はどこで?」
「十五年前の八月六日。王都からアリティーク町へ向かう、カラーリア草原で」
プリムはこめかみに指を当て、そっと目を閉じた。
しばらくの沈黙が流れる。
「真偽は知れないけれど、ライカムが絡んでいる可能性は、充分に考えられるわね。事件から約二か月後に、ライカムがなぜかその首飾りを毎日身に着け始めた――という情報が、私の頭の中に入っているから」
プリムの舌は滑らかに回り続ける。
「とはいえ、真偽を探るすべは難しいわよ。十五年も前……私は生まれてすらいないし、当時の盗賊の行方なんか、誰も知るはずもない。意味、わかる?」
「……じゃあ……」
「そう。本人に直接、質すしか方法はない。でも――」
「……近づけない?」
クロエの重い声に、プリムはこくりと頷いた。
「あなたがすれ違った。それが、唯一にして最大の奇跡ね」
クロエは泣き出しそうな顔で、艶のある唇を噛み締めた。
少ししてから、涙声でプリムに話しかける。
「今日の最終裏オークション……そこしかないのね?」
「ええ。もし逃せば、一般人にはもう雲を掴む話になるわ。ただそれもまた、かなり困難を極めた話でもあるかしら」
「そう簡単には質せない?」
「出品物の盗難を危惧して、警戒態勢が敷かれているから」
「そうね。すれ違ったときも、付近にそれらしい人がいた」
「声をかければ――即座に、逆に、あなたが捕らわれるわ」
「……それでも、私は……」
クロエは険しい表情をして、そっと胸に拳を添えた。
心を絞めつけるような静寂が、再びこの場を支配する。
覚悟を秘めたような目つきで、クロエは首を縦に振った。
「わかった。いきなり来たのに、ありがとう」
「別に。クロエは同じスラム出身の仲だからね」
咲弥は少しばかり驚かされる。
クロエがスラム出身とは、思いもしなかった。
とてもではないが、見た目からでは想像もつかない。
クロエの表情は、どこかすっきりと晴れ渡っていた。だがそれは、よくない決心を固めたからなのだろう。
話を聞けば、かなり凶悪そうな相手だと感じられた。
クロエは一見して、戦闘タイプではないとわかる。オドの流れが、明らかに紋章者ではないと示していたからだ。
もしもの事態が起こった場合、結末は想像に難くない。
ただ咲弥は、関係のない部外者であった。
別に冒険者として、依頼を請けたわけでもない。
それでも――
「あの――」
「だめです。咲弥様」
紅羽が咲弥の言葉を遮った。
彼女は無表情だが、咲弥の思惑を見抜いた目をしている。
「ただでさえ、つい先日も違反を犯しています。お気持ちは察していますが、立て続けに違反を犯せば、咲弥様の目的は遠退きかねません」
至極まっとうな意見に、咲弥はたじろいだ。
返す言葉を選んでいると、プリムがくすりと笑う。
「ほらね? 冒険者の恩恵は、はかり知れない。けれども、足枷になる場合もある。私が言った通りでしょ? アニキ」
「うっ……」
咲弥がうめく傍らで、クロエが驚きの声を上げた。
「えっ? 今のアニキは、この子だったの?」
「ええ。レンが決めた形上のアニキだけどね」
「へぇ。そうなのね」
プリムが小さな手を、クロエのほうへと差し出した。
「いまさらだけど、クロエはここの出身よ。今現在は雑誌のモデルをやってて、たまにお金だけ置いていってくれるの」
「たまにってなによ。たまにって」
咲弥は頭の中が、すっと晴れ渡る。
クロエをどこで見かけたのか、ようやくはっきりとした。
「ああ、思いだした! あの雑誌の表紙にいた人!」
プリムが半目になって、咲弥のほうを見据えてきた。
「アニキ……そんな雑誌読んでんの? きも……」
「い、いや! 違うよ! 全然だよ? そうじゃなくてさ、この前ロイさんに、差し入れだって言って貰っただけだよ」
明らかに軽蔑した眼差しで、プリムは黙って睨んでくる。
「いや、本当だってば。それに表紙までは見たけど、中身は見る前に、ネイさんに粉々に切り裂かれちゃったんだよ――ねえ、紅羽?」
咲弥は助けを求めたが、どうやら無駄らしい。
紅羽はどこか呆れた様子で、無言を貫いている。
紅羽とプリムに睨まれる中、さらにきつい言葉が飛ぶ。
「えぇえ……私も撮影、頑張ってるのに……ひどい……」
クロエは心から悲しそうに、綺麗な顔を曇らせていた。
どう考えても、咲弥が悪いわけではない。そのはずだが、なぜか今この場では、悪者扱いをされてしまっている。
これには少しばかり、ロイを恨みたい気持ちが湧いた。
「いや……その……なんか……すみません……」
とりあえず、咲弥はクロエに謝罪しておいた。
場に静寂が満ちる。
プリムの短い吐息が、重い空気を吹き飛ばした。
「それにしてもアニキって、ほんっとお人よしね。でも……アニキがもし動くっていうのなら、私も動くけれど?」
プリムの申し出に、咲弥は素直に笑みがこぼれる。
なんだかんだ言って、やはり昔の仲間は大事なのだろう。
頭の中で言葉を整理してから、咲弥は紅羽を振り返った。
「たとえ形上でも……僕は、アニキだから。ここの出身だと聞いたら、やっぱりどうしてもほうっておけないよ。それに身内なら、違反にはならないでしょ?」
紅羽は表情を変えないまま、可憐な声を紡いだ。
「理由はどうであれ、咲弥様はそうしたと思います」
そこまで言ってから、紅羽は途端にそっと微笑んだ。
「全部。わかっていますから」
不意打ちの微笑みに、咲弥はどきりとする。
神々しくも柔らかな表情に、つい視線が右へ左へと泳ぐ。
またプリムが、くすりと笑ったのが聞こえた。
「よかったわね。クロエ――最強の護衛ができたわよ」
プリムに言われ、クロエは戸惑った様子がうかがえた。
「冒険者……と、言ってたかしら?」
「ええ。冒険者資格取得試験を首席で合格し、飛び級で中級冒険者となったアネキの紅羽。その試験で起こったジャガーノート事件。それを討伐したアニキの咲弥」
「まさか、この子達が……?」
クロエが目を丸くして、咲弥達へと視線が向く。
プリムは鷹揚に頷き、紹介を続けた。
「あとあの黒十字騎士団に、一泡吹かせたのもアニキ達よ」
「まあ……噂で聞いたことがあるわ」
驚いた様子のクロエは、しかし途端に顔を曇らせた。
「でも、ごめんなさい。あなた達に支払うお金がないわ」
クロエはすでに、六〇万もの大金を失う予定だった。
かなり裕福でない限り、一般の人では大変に違いない。
咲弥は心の中で苦笑し、クロエに告げる。
「別に、お金なんかいりません」
「え?」
「これは、依頼でもなんでもありません。ただ単純に、僕がそうしたいだけの話なんです。だから、ご迷惑じゃなければ手伝わせてください」
クロエを安心させるため、咲弥は笑みを作った。
「お母さんの形見、返ってくるといいですね」
クロエは唇を噛み締め、精一杯とわかる笑みを見せた。
「ありがとう。アニキ」
「はいはい!」
プリムがパンッと、手を叩き鳴らした音が響き渡る。
黒板のほうを向き、プリムは空白の領域の図を消した。
そして喋りながら、チョークを走らせていく。
「それじゃ、まとめましょう。目的はクロエの母親の形見、紅真珠のネックレスの奪取及び、入手経路の追及――標的はただ一人、ライカム・ハーン」
見る見るうちに、新たな図が書き込まれる。
書き終えた様子のプリムが、咲弥達のほうを振り返った。
「では、これからの作戦を伝えるわ」
プリムは流暢に、作戦内容の説明を続けた。
瞬時に組み立てたにしては、まったく言い淀みがない。
ふと、レンの言っていた言葉を思いだした。
『この国ではおそらく、随一の頭脳を持ってる』
(なるほど……これは頼もしいや……)
プリムは膨大な知識を、ただ蓄えているだけではない。
プリムの賢さに、咲弥はただただ驚かされた。