第三十一話 手負いの獣
咲弥の視界はかすれ、黒ずみ、そして大きく歪んでいた。
「……ヒュー……ヒィ……」
精一杯の呼吸は、まるで隙間風にも等しい。
体中から悲鳴が上がり、呼吸をするたびに激痛が生じた。おそらく折れた肋骨が、肺に突き刺さっているに違いない。
顎先や指先から、何度も血が滴り落ちる感覚が伝わる。
全身ズタボロになりながら、それでも咲弥は立ち続けた。自分が倒れれば、紅羽がどんな目に遭うのかがわからない。
「おいおい……マジかよ……」
「団長の記録、超えたぞ……化け物か……」
どこかの誰かの声が聞こえた。
誰が喋ったかなど、もう確認する余裕はない。
温顔を硬くしたレオルの姿が、歪み切った視界に入る。
彼は腰に帯びた剣を抜き、その切っ先を向けてきた。
「得物を出せ。また一騎打ちだ」
「おいおい。もうよせって」
「これ以上は、本当に死んじまうぞ」
「るせぇっ!」
周りの制止を、レオルは怒声で振り払った。
「俺らはな、舐められるわけにはいかねぇんだ。だが、その根性だけは認めてやる。さあ、紋様から得物を出しやがれ」
咲弥は気力を振り絞り、空色の紋様を浮かべた。
「……こ……びゃ……」
砕けた紋様の欠片が両腕に集い、激しい光を発した。
光が弾けるや、黒白の籠手が装着された状態で出現する。
必死に紡いだ声に、黒白の籠手は応えてくれたのだ。
通常でなら気にならない重さも、今は少しばかりきつい。
そのうえ左手がどう頑張っても、動かせそうになかった。左肩に矢を受けたからか、あるいは肋骨が折れているせいに違いない。
「こいつ、マジか……こんな状態で戦うつもりなのか……」
「……シィ……ヒュー……」
「行くぞ!」
剣を手に、レオルは走り向かってきた。
咲弥は微動だにできない。
そもそも、気力のみで立っているだけなのだ。
「……がっ……」
斬撃を胸に浴びせられ、咲弥はばたりと仰向けに倒れる。
すでにある痛みに、電撃にも似た熱が混じり合う。
必死に体を起こしている最中、腹部に衝撃が走った。
「ぐぁっ……」
「そんなにあの娘が大事か? えぇ? 冒険者様ってのは、ずいぶんとおめでたい奴らの集まりなんだな! おい!」
言葉の端々で、蹴りが飛んでくる。
威力自体は軽めだが、今の咲弥にはかなりの苦痛だった。
「がぁっ……ぐっ……」
「そんな奴が、この俺に上等な口きいてんじゃねぇぞ!」
言葉が終わるなり、強烈に蹴っ飛ばされた。
咲弥の体は吹き飛び、何度も地面を転がる。
意識が飛びそうだが、絶妙な激痛がそれを許さない。
しかしそれは、今においてはありがたくもあった。
「うぐっ……ぐぐっ……」
停止した直後、再び咲弥はゆっくり体を起した。
この動作が何度目なのか、もうわかるすべはない。
立ち上がれたところで、一撃を繰り出すのも無理だろう。
だが、咲弥にも意地はあった。
人質を取るような卑怯者達に、負けたくはない。
立ち上がった咲弥は、レオルを睨みつける。
「その目が……いらつくんだ!」
レオルは吐き捨て、剣を上段に構えたまま向かってくる。
咲弥は一歩たりとも動けそうにない。
睨み続けることが、咲弥の精一杯の抵抗だった。おそらくレオルも、それはしっかりとわかっているはずに違いない。
だからこそ――紅羽を想い、咲弥は渾身の力を振り絞る。それは手負いの獣が、命を捨てる覚悟にも等しい気がした。
咲弥の想いに籠手が応え、勝手に黒い獣の手を作った。
レオルの斬撃を浴びる寸前、流れるように黒い拳を放つ。
「んなっ……」
一息分、咲弥の攻撃のほうが早い。
斬られる覚悟をした捨て身の行動が、功を奏したようだ。とはいえ、まるで力のこもっていない最弱の一撃ではある。
しかしレオルの剣は空を斬り、咲弥には命中していない。
咲弥は膝を落とした。その状態で姿勢を保つ。
もう二度と立ち上がれない。体中からそう察した。
朦朧とした意識の中、見上げるようにレオルを睨んだ。
レオルは怒りの形相で、再びその剣を振り上げる。
「このクソがぁああ!」
命を絶つ斬撃が迫る。
咲弥は、その視線を逸らさない。
ただひたすら、レオルを睨み続けた。
咲弥の体が裂かれる寸前、金属が打ち合った音が飛ぶ。
レオルの剣が、宙を舞っていた。
「あ……あぁ……」
レオルは驚愕の面持ちで、よろめきながら後ろへ下がる。
地に落ちた剣が跳ね、いやに鮮やかな音を立てた。
咲弥の視界の端から、ぬっと黒い影が横切る。
大剣を背に携える、黒い鎧を着た巨躯の男であった。
「お前達は、何をやってんだ?」
男らしい渋い声が飛び、周囲は激しく動揺した。
「だ、団長……」
「どうして……」
周囲の誰かの声を聞き、咲弥は理解する。
眼前にいる鎧を着た大男が、黒十字騎士団団長のようだ。
「なぜ……遠方に発ったはずじゃ……」
レオルの声には、恐怖がふんだんにこもっていた。
今もなお後退を続けるレオルへ、団長は鷹揚に詰め寄る。
「事情があって急遽、戻ってきた。で、何をしてんだ?」
「あ、いや……」
「言葉が理解できねぇか? 何をしてると訊いているぞ」
紅羽が写った写真を、団長がぐしゃっと踏みつけた。
いつの間にか、落としてしまっていたらしい。
団長はしゃがみ込み、足元から写真を拾い上げる。
写真のほうを、団長は目を細めて見つめていた。
「おい。これは、アーシェスか?」
周囲にいた男の一人が、まるで飛ぶように前へ踏み出た。
ぴんと背筋を伸ばし、男は声を張って返事をする。
「は、はっ! そうであります!」
「こんな小賢しい手を使ったのか? ああっ?」
「……はっ! レオルさんに頼まれ、能力を使いました!」
「そのあとは?」
「はっ! 標的に、入団時の百発儀をおこないました!」
アーシェスと呼ばれた男は、恐怖まじりの声で説明した。
団長の強面が、咲弥のほうへ向く。
「どう見ても、百発以上はやってるみたいだが?」
「はっ! 百発を超えても立ち上がり、その数は百四十二発――団長の記録を超えております! その後、レオルさんが一騎打ちを提案し、今現在へと至ります!」
咲弥はその数に、内心で驚かされた。
団長は再び、レオルを振り返る。
レオルの顔は蒼白に転じていた。
「俺らは……舐められるわけにはいきません。それは――」
レオルが言い終える前に、爆発じみた風圧が発生する。
「ぐあぁあああ……っ!」
レオルの左腕が宙を舞い、肩から鮮血が大きく噴き飛ぶ。噴いたのは最初だけで、あとはだらだらと流れ落ちている。
膝を落とすレオルの前に立ち、団長が大剣を地に刺した。
「俺らは、掃き溜めのクズの集まりだ……だから舐められるわけにはいかねぇ。だが筋を通せねぇカスは、それ以下だ」
団長は渋い声を低くして続けた。
「百発儀ってのはな――そんなどうしようもねぇクズでも、国の剣となり、命を張れるばかを掴むための試験だ。決して私怨でやっていいことじゃねぇ!」
斬られた腕を押さえ、レオルは苦渋に顔を染めている。
そんなレオルの顎を、団長は大剣の先で持ち上げさせた。
「お前は、下っ端からやり直せ」
団長は背に大剣を納め、咲弥の前までやってくる。
そしてしゃがみ込み、目線を合わせてきた。
「……それにしても、俺の記録を超えてなお立ち上がるか。やっぱり強引にでも、俺の団に入って欲しい人材だったな」
力強い眼光に、咲弥の視線はつい引き込まれる。
団長は片膝をつき、胸に手を添えながら頭を下げた。
「俺のところのばかが、申し訳ねぇ……虫のいい話だが……今回の一件、首謀者の左腕一本で収めちゃくれねぇか?」
団長は真摯に言葉を紡ぎ続けた。
「クズでも――俺らは、国を護る剣の一本なんだ。もし気が済まねぇなら、団長の俺が全責任を取ろう。冒険者ギルドの懲罰に、処してくれても構わねぇ」
「だ、団長っ!」
悲鳴じみた男の声を境に、周囲が騒然と沸き立った。
ギルドの懲罰が、いったいどんなものなのかわからない。ただ咲弥は場の手打ちなんかよりも、大事なことがあった。
「そ……より……も……」
「あ、すまねぇ。喋れねぇか……」
団長はそう言い、懐から何かを取り出そうとしている。
「ぐぉっ――!」
突然、眩しい光の帯が、団長の頭部に襲いかかった。
団長は大きく後退し、かろうじて光を防いだらしい。
咲弥の眼前に、煌びやかな衣装を着た銀髪の少女が天から舞い降りた。咲弥は我が目を疑い、なかば放心状態となる。
「へっ……? く……は……?」
「もしまだこちらに危害を加えるようであれば、あなた方の息の根を止めると、私はそう警告したはずなのですが?」
紅羽の声には、寒気がするほどの怒りがこもっていた。
そして咲弥のほうへ、紅羽の紅い瞳がゆらりと流れる。
紅羽はまるで今にも泣きだしそうな顔へと変わり、下唇を噛んだ。珍しく表情を作った彼女は、そっと前を向き直る。
咲弥は訳がわからない心境に、ただ戸惑う。
紅羽は今現在、捕らわれているはずだったからだ。
「この場にいる全員、抹殺します」
紅羽は物騒な言葉を吐いた。
紅羽の声音から、本気さが伝わってくる。
「い……くれ……は……」
咲弥が言い切る前に、紅羽は団長のほうへと突っ走る。
団長は面食らったのか、たどたどしく大剣の柄を掴んだ。
紅羽は蹴りを繰り出し、素早く宙に純白の紋様を描く。
「光の紋章第二節、煌めく息吹」
星々にも似た光粒を纏い、紅羽はまた紋章術を放つ。
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
舞い踊る光の斬撃を、団長は大剣の腹で防いだ。しかし、身体強化された紅羽は、すでに団長の背後を陣取っている。
団長は凄まじい蹴りを背に浴び、必死の形相で離れた。
だが、紅羽はそれを許さない。
即座に迫る紅羽の猛攻撃に、団長はひどく狼狽している。
「く、は……待っ……」
「あの娘、団長を圧倒しているな」
「ありゃあ、特上だな。動きにキレがあらぁ」
団長の部下達は、のほほんと観戦に入っていた。
咲弥はぞっとする。咲弥以外の誰もが、知らないのだ。
魔女の悪戯――全開の限界突破と似て非なる、特殊な力を紅羽は秘めている。二十四時間に一回という制限はあるが、対人では脅威以外の何物でもないだろう。
紅羽はおそらく、まだ完全には場を把握しきれていない。
騎士団の数のほか、どんな能力を所持した者がいるか――完全に場を把握した瞬間、固有能力を使う可能性は高い。
もし紅羽が後先を考えずに固有能力を発動した場合、この場にいる大半が、気づいた頃には死んでいる。魔女の悪戯は文字通り、本当の必殺技なのだ。
紅羽に人を殺させたくはない。だから一刻も早く、止めにかからなければならなかった。だが、咲弥の声はあまりにもか細過ぎる。
体中が悲鳴を上げ、口も体も上手く動かせそうにない。
「ちょ……っと……」
「噂に違わぬ実力だ」
団長の呟きのほうが大きい。咲弥の声は届かなかった。
咲弥はぐっと息を詰め、もどかしい気持ちに心が痛む。
不意に、地面に何かが転がっているのを捉える。
(あれは……)
咲弥は倒れ込み、必死に落ちている物に手を伸ばした。
予想が正しければ、団長が使おうとしてくれていた物――治癒の紋章具だ。
咲弥は空色の紋様を浮かべ、声を振り絞って唱える。
「治……癒……具……限……界……突……破……」
それはなかば、無意識に近い行為ではある。
急いで止めたい――そんな想いが、咲弥にそうさせた。
成功するのかどうかは、咲弥自身にもわからない。
空色の紋様が、無事に砕け散った。それは成功したという証明でもある。気力を振り絞り、治癒の紋章具を使用した。
すると咲弥の体が、もの凄い勢いで治癒されていく。
ふと視界の端で、団長が黒い紋様を浮かべたのが見えた。
「闇黒の紋章第九節、暗がりの影人」
団長の紋様が砕けるや、途端に周囲の影が揺らめいた。
影の中から人型のモヤが作られ、紅羽に襲いかかる。
即座に身を捻り、紅羽は影人の頭部に蹴りを放った。
まるで掴まれたように、紅羽の足が頭部の中心で止まる。
紅羽は紋様を浮かべ、口早に唱える。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
純白の光芒が、影人を吹き飛ばす。
どうやら、紅羽の機転は成功を果たしたようだ。まばゆい光線に呑み込まれ、ぱらぱらと影人が塵となって消滅する。
しかし今度は、団長に背後を取られていた。それは紅羽も承知の上らしく、宙返りをしながら凄まじい蹴りを放つ。
その瞬間――
赤髪のネイが風のごとく現れ、短剣を閃かせた。
「うぉっと……!」
前と横から攻撃が飛び、団長は逃げるように後退した。
不意に、ネイと視線が重なり合う。
小首を傾げ、呆れたと言わんばかりのため息を漏らした。
その直後、彼女の凛とした顔に怒りが宿る。
「私の荷物持ち君に、なんてことすんのよ!」
「こりゃあ、さすがに厄介だ」
嘆息まじりに呟いた団長へ、ネイが続けて声を紡いだ。
「冒険者に手を出して、無事で済むと思わないでよ?」
ネイの綺麗な青い瞳に、物騒な光が宿る。
ネイは宙を舞い、若草色の紋様を右手付近に携えた。
「風の紋章第六節、暴君の宝玉」
ネイの右手に集った翡翠色の風玉が、団長へと放たれた。
団長が大剣で防ごうとしたが、紅羽がそれを許さない。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
迸る閃光が、大剣の剣先を呑み込んだ。
光芒の衝撃により、団長の防御が崩される。
その瞬間――ネイの風玉が爆発じみた破裂を見せる。
「がぁはぁ――っ!」
団長は額から血を流しつつ、すんでのところで回避した。
咲弥は震撼する。団長は助けてくれた側の人物なのだ。
「やっぱ厳しい! やられちまいそうだ」
そんなことを言っているが、団長は少し楽しげであった。
はらはらしていた咲弥は、ようやく最低限まで回復する。
全身全霊で声を紡いだ。
「ま、待って、ください……!」
「ん?」
咲弥の言葉が、やっと届いた。
反応を示したネイに、力の限り声を張って伝える。
「その方、団長さん……助けてくれた、人、です!」
「へっ……?」
ネイの間の抜けた声を最後に、沈黙が場を支配する。
紅羽が、わずかに唖然とした顔を向けてきた。
どこか残念そうに、団長は肩を竦める。
「なんだ。もうちょい、楽しめると思ったんだがな……」
「事情、説明してちょうだい」
ネイの問いに、団長がすらすらと語る。
その間――なかば強引に、紅羽が咲弥の頭を膝に乗せた。
彼女は紅い瞳で、無言のままに見据えてくる。
それはどこか、少し怒ったような雰囲気にも感じられた。
咲弥は申し訳ない思いで、視線を右へ左へと泳がせる。
短くも長い一日が、やっと終わりを迎えられそうだった。