第二十八話 その音色はただ優しく
咲弥はただただ、愕然としていた。
信じられない反面、目の前にある事実は無視できない。
思い返せば、確かに危害を加えられたわけではなかった。ただ幻惑をかけられ、傍まで寄せられていたに過ぎない。
咲弥達が一方的に攻撃をしたから、ローレライのアンリは身を護るため、反撃せざるを得なかったのだと思われる。
アンリは今も、チェリッシュを護る姿勢を崩していない。咲弥達が危害を加えないか、不安になっているのだろう。
(魔物……なのに……?)
これまでの魔物との遭遇から、感覚が麻痺していた。
どの魔物も人を見れば、見境なく襲ってきたのだ。
それは疑いようのない、事実ではある。だから、アンリの件もまた疑いすらなく、討伐に打って出たのは間違いない。
そんな愛情溢れる魔物を、これまで見たことがなかった。
(いや……)
思ってから、咲弥は自分の思考を否定する。
そもそも、この世界での魔物という存在は、魔神の放った魔神兵と云われていた。だが同時に、ただの生物でもある。
現に馬車で使われている迅馬も、魔物の一種らしいのだ。
ただ人に危害を加えない、おとなしい生物だから愛され、大事に受け入れられているだけであった。
当然、すべての魔物がそうだとは言えない。
少なくともローレライは、迅馬寄りの心が優しい魔物ではないはずだった。調べた限りでは、音で惑わし、人肉を貪る残忍な性格だと記されている。
それならば、アンリの存在がよくわからない。
「なんで……?」
咲弥は自然と、そんな呟きを漏らした。
当然、アンリの存在への疑問も多少はある。だがそれは、おそらくといった程度の推測が、頭にはもう浮かんでいた。
人でも、いい人がいれば、悪い人もいる。
きっと魔物もまた、それと似た感じに違いない。
だからそれよりも、もっと大きな問題がある。
「……どうして、討伐なんて依頼したんですか!」
咲弥は我知らず、その声を張り上げた。
チェリッシュは友人だと口にしていたが、聞けばもはや、命の恩人にも等しい存在だと思える。それほど大事な存在を討伐させるなど、正気の沙汰ではない。
「……私が……私が、ばかだった……」
チェリッシュは涙を流し、訥々と語り始める。
体から病が去ったチェリッシュは、それまでできなかったすべてを取り戻すように、多くの物事を経験していった。
外を歩き、人の友人も増え、周囲の目も変わり――
文字通り、世界が変わったらしい。
そうして訪れたのは、魔物の活発化であった。
多くの村や町が、魔物によって多大な被害を受けている。つまり――アンリもまた、そんな魔物に同一視されたのだ。
「でも、私は……アンリだけは違うって! ずっと……!」
しかしそんな叫びは、村の者達へは届かなかった。
そもそも、アンリと仲良くしていたのは、病から救われたチェリッシュだけというのも大きい。ほかの者からすれば、異常な光景に思えたのだろう。
だから村の者達の目の色が、また別の意味で代わった。
チェリッシュは、これまで築いたすべてを失いかける――それが彼女にとっては、なによりの恐怖となったのだろう。
結果、親に言い包められ、討伐という道を選んだのだ。
咲弥は奥歯をギリリッと噛み締める。
(評価うんぬんの話は、そういうことだったのか……!)
チェリッシュを依頼者に据えることで、村人全員の溜飲を下げさせるのが目的だと呑み込んだ。今さらになって、村長ハレックの言葉を本当の意味で理解する。
さらに、もう一つ――
人を襲う魔物であり、娘も襲われかけたと聞かされた。
これらは、明らかに嘘の依頼となる。
(そうか。だからギルドには、査定する調査班があるんだ)
それを蹴ってまで強行したのは、咲弥自身の失態だった。
今回の依頼から、見えなかったものが見えてくる。
同時に、自分の浅はかさに加え、子供っぽさを痛感した。
想いだけで立ち回れるほど、世界はまったく甘くない。
「咲弥様。どうされますか?」
苦い思いを抱く中で、背後にいる紅羽が問いかけてくる。
咲弥は悩み、迷い――立ち上がりながら、解放を解いた。
「僕の責任だ。討伐は……中止する」
それもまた、冒険者ギルドの違反になりかねない。
討伐可能な対象を見逃すなど、ありえない失態だからだ。だがそれは、自分の思慮の足りなさが招いた結果でもある。
今回ばかりは、そのだめな部分を受け入れるほかない。
「それは困るねぇ」
不意に背後から、男の声が飛んだ。
振り返ると、ハレックと若い男達が向かって来ている。
若い男達の手には、物々しい得物が握られていた。
ハレックは険しい顔で、言葉を紡いだ。
「依頼の放棄など、絶対に認められない」
「嘘の依頼も、立派な違反です!」
咲弥は声を荒げ、ハレックに反論した。
ハレックは怪訝そうな顔で、問い質してくる。
「いったい、何が嘘の依頼なのだ?」
「誰も、この魔物には襲われていません!」
「襲われているさ」
眉間にしわを作り、咲弥は首を捻る。
ハレック達は、咲弥の前で立ち止まった。
「こいつが存在するというだけで、娘は打ち首になるんだ」
「なっ……?」
「村長の娘が、醜い魔物と仲良くしている。それが今のこの時代で、どんな重大なことか、君には何もわからないのか」
「醜いって……このアンリのお陰で、あなたの娘さんは今もこうして、自由に歩き回れているんじゃないんですかっ?」
「そんな証拠が、どこにある!」
ハレックは怒声を放ち、重々しい声で続けた。
「ローレライが病を治すなど、聞いたことがあるのかっ?」
それは確かに、その通りではあった。
そんな情報は、調べた限りでは見た記憶がない。
「どこも魔物が活発化している。被害が出てからでは遅い。それは冒険者の君なら、理解していることじゃないのか!」
「……くっ……」
「それともなにか。魔物は見逃して、娘が打ち首になるのは許されると? 君は……人と魔物、どちらの味方なんだ!」
打ち首――衝撃的な発言を聞き、咲弥は言葉に詰まった。これはチェリッシュ自身も、知らなかった事実に違いない。
当然、人の味方でありたい。それは普通の感情であった。
しかし話を聞いてしまった以上、アンリもまた、見捨てるわけにはいかない。きっとアンリを殺せば、チェリッシュの心も同様に死ぬ気がした。
選べるはずのない二択に、咲弥は唇を噛み締める。
「君が依頼を放棄すれば、もう娘は打ち首を免れないんだ。プロなら……受けた依頼は、最後まで、まっとうしてくれ」
ハレックは涙を流し、力強い声で訴えてきた。
咲弥は、喉の奥から絞り出すように問う。
「そもそも、どうして打ち首なんかになるんですか……?」
「それが村長の娘であり、村の掟だ。魔物が活発化しているご時世――魔物と仲良くしているなど、逆賊か不穏分子だと捉われても仕方がないのだ」
いまだかつてない苦痛に、咲弥は強く奥歯を噛み締める。
ハレックはチェリッシュを、ただ護りたいだけなのだ。
村人達はそれぞれの生活を護り、安心感を求めている。
そしてチェリッシュはアンリを、アンリはチェリッシュをただ護りたい。
この場にいる誰もが、何かを護りたい一心で動いている。
それなのに、どうしてこんな食い違いが出るのだろうか。
「それでも……僕は……」
「アァアアア――ッ!」
そのとき、アンリが奇声を発した。
チェリッシュを左腕に抱え、尾を曲げて立ち上がる。
「アンリ……?」
まるで人質のごとく、チェリッシュを盾にする。
青い魔法陣が浮かび、水弾が発射された。
唐突な攻撃に、咲弥は驚きながらも回避する。
村人達は驚き戸惑い、悲鳴を上げながら逃げだしていた。
「それ見たことか! これが魔物だ!」
ハレックは後退しつつ、咲弥に指示を飛ばした。
「君が責任を持って討伐したまえ!」
咲弥は籠手にオドを少量流し込み、素早く解放する。
撃たれた水弾を、白い爪で裂いて破壊した。
「やめて! アンリ! どうして!」
チェリッシュの声でも、アンリには届かない様子だった。
アンリは攻撃の手を緩めない。
ハープはすでに、咲弥と紅羽によって破壊されている。
だからなのか、魔法での攻撃ばかりをしてきていた。
(くそっ……なんで……)
活発化の影響は、やはりアンリにも表れているらしい。
魔神兵としての性からは、抜け出せないのだろうか――
深く考え込んでいる場合ではない。
とにかく今は、人命の救助が最優先であった。しかし攻め込もうにも、人質を取られていては迂闊に動けそうにない。
迫る魔法を避け、壊し――咲弥はふと、異変に気づいた。
漠然と感じ取った異変は、なかなか像を結ばない。
だが、何かがおかしいのだ。
咲弥の疑問をよそに、アンリは大きく動いた。
「キシャアアア――ッ!」
魔法では無駄だと悟ったのか、直接攻撃を仕掛けてくる。
咲弥からすれば、これは願ってもないチャンスであった。
下手にこちらから近づけば、チェリッシュの身が危ない。だが自らが迫ってくれるのであれば、黒い爪も届くのだ。
紅羽もしっかり、その好機を逃さない。
咲弥へと迫るアンリの真上を舞い、紅羽は光る矢を射る。背や尾ビレを撃たれたアンリは、それでも止まらない。
咲弥は黒き手を、大きく広げ――
心の中にあるすべての感情を、全力で噛み殺した。
(ごめん……どうか、安らかに……)
咲弥は心の中で冥福を祈った。
アンリの直接攻撃を回避し、鋭利な黒い爪を振るう。
アンリを裂いた瞬間、咲弥は何もかもすべて察する。像を結ばなかった異変が、いまさらに形をなしたのだ。
地に伏したアンリは、黒い爪でもう大きく裂かれている。
「いやぁああああ! アンリィー!」
チェリッシュの悲鳴が、とても痛々しい。
咲弥の胸を、苦しいほどぎゅっと絞めつける。
裂かれたアンリの傍で、チェリッシュは涙を流していた。
「アンリは活発化の影響は受けない! なのに、なんで!」
チェリッシュの叫びを浴びて、アンリは――残酷なまでの優しい事実が、咲弥の目からも涙をこぼれ落とさせた。
(やっぱり……そうだったんだ……)
もしチェリッシュを殺す気なら、すぐにでも殺せていた。
仮に逃げるなら、人質を連れたまま逃亡すればいい。
それだけの知能を、アンリは確実に持っている。
放たれた魔法は、誰も傷つかないように計算されていた。
わざと暴れ回ったのも、わざと迫ってきたのも――それらすべては、チェリッシュを護るためにほかならない。
きっと、アンリは――
このまま自分が生きていたら、チェリッシュが殺されると思ったのだろう。
だからアンリは、自分が殺される道を選んだ。
咲弥は、そう確信している。
なぜならアンリは今、チェリッシュの頬に触れ、穏やかに笑っていた。
次第に力のない笑みが消え、アンリは静かに沈黙する。
もう二度と動くことも、笑うことも、護ることもない。
「いやぁああ! アンリ! いやぁあああああ!」
美しい湖に、チェリッシュの悲痛な声が響く。
命を奪った咲弥は、そんなチェリッシュから目を離せない――目を逸らすことなど、きっと許されないのだと思えた。
「咲弥様」
不意に、紅羽が咲弥の手を取った。
咲弥は涙で濡れた瞳で、紅羽の紅い瞳を見据える。
「咲弥様のつらさ、悲しさ――私も、一緒に背負います」
紅羽の慰めに、咲弥は何も応えられなかった。
そんな資格があるのか、咲弥は自責の念に駆られる。
今はただ――
チェリッシュの悲しみを、受け取り続けるしかない。
それが咲弥にできる、最大限の責任の取り方であった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
その魔物、ローレライには特殊な力が宿っていた。
傷や異常を肩代わりする、とても不可思議な力――
だがそれは、長に向いた力ではない。むしろそのせいで、異質なローレライは、同族達の中でいつも虐められていた。
強制的に肩代わりをさせられ、身も心もズタボロとなる。
そしていつしか、体が動かないほどまでに至っていた。
ふと目を覚ますと、周囲に同族達の姿がない。
同族のために働き、同族のために戦ってきた。
そんな自分は、どうやらもういらない存在らしい。
それでも、ほかの生き方など知らなかった。
だから、同族をずっと探し求める。
ただそれは、困難を極める旅でもあった。
多種族の生物から、幾度となく命を狙われたのだ。
海、川、陸――あらゆる場所へ逃げ、同族を探し続ける。
そうして辿り着いたのは、森の中にある綺麗な湖だった。
なぜかその景色は、ローレライの目と心を奪った。
水面に天空の明かりが、ぼんやりと映っている。
こっそり覗き込むと、水面の中から何かが覗いていた。
それが自分の姿だと認識するのに、少しの時間を要する。
しばらくして、ローレライは湖の中に飛び込んだ。
これまで味わった経験のない、心地のいい感触だった。
水中を漂っていると、不意になんらかの気配を察知する。
それは、同族の気配ではない。
他種族の何かであった。
恐る恐る、ローレライは水面から覗き見る。
湖の付近にいたそれは、危険な生物の一種だ。
だがまだ幼い生物は、唐突にぱたりと倒れた。
徐々に近づき、生物の様子をうかがう。
険しい表情で、胸の辺りを押さえている。
危険なはずの生物の目に、ローレライは視線を奪われた。
まるで――水面に映った自分と、同じ目をしていたのだ。
この生物もまた、自分と同じ孤独なのだろうか。
その生物は苦痛に顔を歪め、こちらを見据えてきている。
そして怯えることなく、静かな微笑みを湛えた。
迫りくる死を、どうやら受け入れているらしい。
ローレライは無意識に、肩代わりの音色を響かせていく。
苦痛に歪められた顔が、徐々に薄らいでいる。
なにやら体内に異常を抱えていたらしいが、耐えられないほどではない。あまりに脆い生物を、ただじっと見つめる。
チェリッシュと出会い、アンリは知った。
危険な別種族のはずだが、同族以上の愛おしさがある。
きっとこれまでの同族は、本当の同族ではなかったのだ。
チェリッシュこそが、真の同族に違いない。
だからアンリは、心にとある想いを宿した。
たとえ何があろうとも、チェリッシュだけは護ろう――
仮にそれで、己の命が潰えるとしても――
これは強制されたわけではない。自ら願った意思だ。
命が尽き果てる寸前、アンリは過去を振り返っていた。
悲しんでくれている、チェリッシュの顔に――
ただただ愛おしさを抱きながら、意識は不意に途切れる。
もう二度と――
覚醒することはない。
22/03/09 改稿
ローレライが二体になったような表記がありました。
その間違った文章を、ちょぴっと正しくしました。