第二十一話 一人じゃない!
紅羽は死んだ――
試験官の二人からは、そう聞かされていた。
だが目の前にいるのは、幻覚でも幽霊でもなんでもない。ジャガーノートの魔法を、彼女の紋章術が防いだからだ。
驚きと喜びのほか、疑問に安心と、さまざまな感情が胸の中で複雑に混ざり合い、もはや混乱に近い状態へと陥る。
とめどなく涙が溢れ、咲弥は精一杯の声で伝えた。
「よかった……生きてて……本当に、よかった……」
「満身創痍みたいですが、咲弥様もご無事で何よりです」
咲弥の事情など、紅羽が知るよしもない。
淡々とした紅羽の声が、逆に安心感をもたらした。
咲弥は涙を拭い捨て、紅羽に視線を据える。
服はぼろぼろになっているが、怪我は特に見当たらない。きっと幾度となく、魔物と戦い続けてきたのだと思われる。
紅羽は前を向き直り、そのままの姿勢で疑問を呈した。
「あれは、なんですか? 禍々しそうな魔物ですね」
グレイスに手酷くやられたジャガーノートは――少しずつ再生していっていた。しかし再生に集中しているのか、今は動き出しそうな気配が感じられない。
とはいえ、じきに動き出すのは目に見えていた。
観察と同時に、咲弥はふと疑問を抱く。
試験官の話では、受験者が大量に消失した地点で、紅羽の反応が消えたと言っていた。だが彼女は、ジャガーノートの存在を知らないらしい。
よくわからないが、とにかくまずは簡潔に説明する。
「空白の領域にいるはずの魔物だよ。再生力がやばいぐらい高くて、多種類の魔法を背の龍で撃ってくる。かなり強い」
「そうですか」
そう短く応えてから、紅羽が再び視線を向けてきた。
「移動型商店のトリッキーに、お話をうかがっております。なんでも……腹部を、かなり損傷されたのだとか……?」
「いや、うん……それはもう、大丈夫なんだけど……」
紅羽は静かに咲弥を振り返り、治癒の紋章具を置いた。
「引きつけている間、少しでも回復しておいてください」
「あ、ありがとう……いや、違う! 一人じゃだめだ!」
「問題ありません」
ジャガーノートのほうへと、紅羽は素早く突っ走った。
さすがの紅羽といえども、一人では無謀過ぎる。
しかし咲弥の体力とオドは、もう底を尽きかけていた。
急いで治癒の紋章具を拾い上げ、回復に専念する。
(早く……早く……)
火、風、雷、光、闇、氷、土、水――ジャガーノートから生えている龍達が、一斉に多種類の魔法を紅羽へと放った。
紅羽はそのすべてを、必要最小限の動作で回避していく。
銀髪の少女が見せた華麗な姿に、咲弥は言葉を失った。
軽やかにかわしながら、紅羽は純白の紋様を浮かべる。
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
小さな光球が舞い踊り、付近にいた龍に襲いかかる。
鉄がこすれ合うような、不快な音が響き渡った。
精霊の攻撃力と、黒い爪の攻撃力が尋常ではない。
そのため、咲弥はついうっかりとしていた。手短い説明のせいで、きちんと伝えきれていない情報があまりにも多い。
紅羽は紋様を描きつつ、まばゆい光の矢を射る。
硬い皮膚を持つ龍は、光の矢すらも難なく弾いていた。
「光の紋章第二節、煌めく息吹」
ちかちかとした欠片が、紅羽の周囲に漂った。
身体強化の紋章術を浴び、再びジャガーノートへ向かう。
龍達の魔法を掻い潜り――
「へっ……!」
咲弥は驚愕のあまり、つい間の抜けた声を漏らした。
紅羽はジャガーノートの背に、無謀にも侵入したのだ。
当然、これにはジャガーノートも黙っていない。
背の龍達が魔法での攻撃をやめ、直接攻撃に打って出る。
咲弥は、なかば放心状態となっていた。
どの龍がどう攻撃してくるのか――紅羽はそのすべてを、予知しているとしか思えない。さらには、同士討ちを狙って回避している様子であった。
紅羽は光の矢を射って、龍達の目を潰し回っている。硬い皮膚に攻撃が通らずとも、目だけはさすがに柔いようだ。
そんなことを、咲弥は考えすらもしなかった。
紅羽の状況分析と戦闘技術は、知らない間に爆発的なほど向上している。
(……凄いや……本当に、紅羽は……)
絶望的な魔物でさえ、紅羽は対等に渡り合っていた。
弱い自分とは対極にあり、少しばかり悔しさが湧き出る。
しかしそれ以上に、心の底から尊敬の念を抱いた。
ジャガーノートは、いまだ紅羽を捕らえられない。
業を煮やしている気配はあるが、魔法は使わなかった。
不思議に思っていると、紅羽が空高く舞い上がる。
(え……あれじゃあ……)
咲弥の懸念は、すぐ現実のものとなった。
ここぞとばかりに、龍達が一斉に魔法陣を描く。魔法陣が完成する寸前――紅羽も瞬時に純白の紋様を顕現する。
「光の紋章第七節、明滅の流星」
まるで道標のごとく、小さな球体がぽんぽんと発生する。初めて見る紅羽の紋章術は、どうやら移動型の術のようだ。
紅羽は光の線となって、小さな光の玉を繋ぎ合い、瞬時にジャガーノートの背へ戻っていた。まばたきをしていたら、瞬間移動にも見えていたかもしれない。
発動寸前だった魔法は、中断できない様子だった。
そのまま紅羽のほうをめがけ、多種類の魔法が放たれる。
咲弥は我が目を疑うと同時に、ふとある推測が立つ。
目を潰された龍が、紅羽を護る壁の役割を果たしている。はなからこのために、彼女は目を潰し回っていたらしい。
もし本当に狙ってやったのなら、恐ろしさすら感じた。
紅羽の紋章術は通じずとも、本人の魔法は通じるのだ。
巻き添えを食らった龍達が、次々に吹き飛ぶ。
「ガァアアア――ッ!」
自らの攻撃を食らい、ジャガーノートは悲鳴を上げた。
精霊の攻撃と同じぐらい、ジャガーノートは傷を負う。
紅羽がまた、純白の紋様を浮かべた。
「光の紋章第七節、明滅の流星」
光の玉を線で繋ぎ、咲弥の傍まで瞬時に戻ってきた。
咲弥はただ、茫然と紅羽を見上げる。
「おそらくですが、弱点が判明しました」
「ふぇ……?」
紅羽が飛び出してから、まだ五分にすら満たない。
それなのに、彼女はもう弱点を見抜いたと言っている。
もはや、理解不能としか言いようがなかった。
「確かに凄まじい再生力に加え、攻撃力と防御力も桁違いに高いですね。もっと力を込めた紋章術と矢であれば、背の龍程度は討てそうですが、本体までは難しいかもしれません。ですから、もはや即死を狙うしかありません」
紅羽は淡々とした口調で、簡単に言ってのけた。
そのさなか、失った龍達がまた徐々に再生している。
紅羽の印象的な紅い瞳に、咲弥は見据えられた。
「咲弥様。少しは回復できましたか?」
「えぇえ……まあ、動けるほどには……かな」
「私一人では、力が足りません。ですが――咲弥様の黒白の籠手と固有能力であれば、そのまま弱点を貫けませんか?」
咲弥は素早く思考を巡らせ、紅羽に問いかけた。
「弱点って、どこなの?」
「大きな目の裏側にあると思われます。あの場所だけ唯一、護りに徹しておりました。おそらくは間違いないでしょう」
確かに、思いあたる節がある。
咲弥が目を裂こうと向かうや、龍達から猛反撃された。
(そうか……あれは、護ろうと必死だったからか……)
反撃されたときの記憶がよみがえり、つい弱気になる。
「でも、僕は紅羽みたいに強くないから……あそこまで辿り着くのが、ちょっと難しい気がするかな……」
紅羽が紅い瞳で、じっと見つめてくる。
怒りか、はたまた嘆きか――無表情からはわからない。
「前にも言いましたが、咲弥様はお強いです。あの魔物も、咲弥様のお力を借りなければ、処理するのが不可能だと――私は、そう判断しています」
まっすぐな言葉に、咲弥はほんの少し嬉しく思った。
きっと紅羽は、本当に心からそう信じてくれている。
だからこそ――禁断の選択が、咲弥の頭の中に浮かんだ。
「限界突破を自分に全開で使えば……世界がゆっくり流れるぐらいの力を得られるんだ。でもその代わり、全身に激痛がきて気絶しちゃうから、一発勝負になる」
「そう、なんですか……初めてお聞きしました」
咲弥は短い苦笑を漏らす。
「何度も死ぬ思いをして、使う気にはならなかったからね」
「死ぬ……というわけでは、ないのですか?」
「うん。死ぬほど痛いけど、死にはしないかな。たぶん」
「……了解しました」
ついに再生を終え、ジャガーノートが活動を再開する。
咲弥は立ち上がり、ジャガーノートをじっと見つめた。
「もし失敗したときは、咲弥様を抱えて逃げます。それでもよろしいですか?」
「うん……限界突破の時間は短いから、もっと近づいてからじゃないと使えない。というか、オドもほぼもうないから」
「私が活路を開きます。能力使用の際は、合図をください」
「わかった」
咲弥は紅羽と並び立った。
正真正銘――これが本当に、最後の戦いになる。
失敗は決して許されない。
咲弥は深呼吸して、気合を入れた。
「よし――行こう!」
掛け声とともに、紅羽と一緒に駆ける。
素早い紅羽が、最初にジャガーノートとの距離を縮めた。
ジャガーノートは、彼女を集中的に攻撃している。
さきほどの件で、紅羽を強敵と認識したからなのだろう。
きっと本能的に、恐れを抱いているのだ。
咲弥は全力で隙を探り、走りながらチャンスをうかがう。
龍の一体が狙いを定め、咲弥にも火球が降り注いだ。
落ち着いて白い爪で切り裂き、咲弥は身を護る。
(もう少し……もっと防御が手薄になってから)
紅羽が純白の紋様を浮かべた。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
紅羽の右手から、まばゆい光が放たれた。
白い帯は龍を擦り抜け、ジャガーノート本体に向かう。
しかし寸前のところで、龍が犠牲になって護った。
続けざまに、無数の光の線がジャガーノートを襲う。
光の矢を防ぐため、龍達が一斉に防御に徹した。
ほんのわずか――そこに隙が生まれる。
「紅羽!」
咲弥は合図を飛ばしつつ、空色の紋様を虚空に顕現する。
咲弥はただひたすら、ジャガーノートを見据え続けた。
「限界突破ぁっ!」
紋様がカッと輝き、豪快に砕け散った。
時間停止にも等しい空間へ、咲弥は突入する。
黒い爪を構え、ジャガーノートの目に辿り着いた。
だがここで、異常事態が発生する。
たった一体だけ――普通に動いている龍がいた。
(な、んで……)
想定外の事態に、咲弥は心の底から驚愕する。
今の今まで、動ける魔物など存在しなかった。しかし仮に反撃を食らおうとも、もう止められはしない。
ここで仕留めるほかないのだ。
動ける龍の一体が、白い魔法陣を瞬時に虚空へ描き出す。咲弥は捨て身の覚悟を決め、下段で黒い手を大きく広げた。
オドを吸い込み、黒い手は通常時の三倍ほど巨大化する。
その瞬間、銀色の影が視界の端に入った。
「光の紋章第五節、極光の障壁」
唐突に飛び出してきた紅羽が、光の幕を張り巡らした。
一体の龍が放った光の魔法を、紅羽の光の盾が防いだ。
理解不能といった気持ちで、咲弥の胸はいっぱいになる。
なぜ紅羽も動けているのか、何一つ状況を呑み込めない。
訳がわからないものの、咲弥は感謝の言葉を述べた。
「助かった!」
黒い爪を下のほうから、咲弥は激しく振り上げる。
(お前は、絶対に野放しにはできない! ごめん)
黒い爪はまず地を裂き、次いで空を裂く。そして、咲弥は力強く跳び上がりながら、ジャガーノートの一つ目を強烈なほどまでに引き裂いていった。
ぽつぽつと雨粒が落ちたみたいに、赤黒い血をゆっくりと湧かせていく目の奥に、なにやら気味の悪い物体が見えた。
(あれは……これが、こいつの心臓……脳か?)
きっと核に間違いないと、咲弥は瞬時にそう判断する。
ただ、爪の斬撃が届いていない。
爪の斬撃と斬撃の隙間に、潜む形で核はあったからだ。
このままでは、たとえ限界突破が終わったあとに起こる、爆発じみた現象があったとしても、討てないに違いない。
そういった衝撃だけでは、おそらく不十分な予感がする。追撃するため、そのまま黒い爪を――咲弥は愕然となった。
腕を振り上げた姿勢から、全身が硬直したまま動かない。
疲労困憊に加えて、オドもほぼほぼない状態だった。
そのせいで肉体に限界が来たのだと、とっさに呑み込む。
「動けぇええええっ!」
咲弥は腹の底から叫び、己を全身全霊で鼓舞する。
だがしかし、気合だけではどうにもならない。
咲弥の思いとは裏腹に、体が言うことをきかなかった。
(くそっ! くそっ! くそぉおおお――っ!)
あと一歩――
もう少しで、ジャガーノートを倒せるかもしれないのだ。
そのたった一歩が、まったく踏み出せないでいる。
胸に悔しさを抱え、ギリリッと奥歯を噛み締めた。
「咲弥様!」
紅羽の声が耳に届いた。咲弥は、はっと我を取り戻す。
(そう……僕は……一人じゃないんだ!)
黒い爪だけであれば、まだかろうじて動かせる。
「紅羽! 押してくれぇえっ!」
「了解しました」
紅羽が黒き腕を掴み、押しながらに爪の角度を変えた。
黒い爪の先端が、ジャガーノートの核へと突き進む。
しかし、刺さったのかどうか――そんな微妙なところで、限界突破の時間が、突如として終わりを迎えてしまった。
オドが枯渇したからか、黒白の籠手も光の泡となる。
無事に間に合ったのか、微妙過ぎて咲弥にもわからない。
(頼む! 間に合っていてくれ!)
吐き気を堪え、天にも祈る気持ちで前を見据え続ける。
そしてそれは、どこか荒波にも等しい現象だった。
激しい地割れが発生し、空気が凄まじい衝撃を放つ。
その荒々しい衝撃に、咲弥と紅羽は吹き飛ばされる。ただ紅羽が上手く姿勢を保たせ、咲弥の身を護ってくれた。
その際中に――ジャガーノートは赤黒い血を噴き、全体の半分以上を四つに切り裂かれる。そして、隙間にあった核が粉々に破裂していた。
背の龍達が一斉に力を失い、だらんと垂れ下がっていく。
「……や、やった……」
喜びもつかの間に過ぎない。
咲弥の全身に、尋常ではないくらいの激痛が襲ってきた。
吹き飛ばされたあとの落下から、紅羽が優しく咲弥を地に着地させてくれた――それでも、そのときに生じた振動が、訪れていた激痛に拍車をかける。
咲弥は地に伏して、必死に呼吸を繰り返す。全身を裂かれ続けているような激痛に加え、警鐘にも近い頭痛が始まる。
そういった痛みのすべてが、どんどん力強さを増すのだ。
(が……ががぁ……痛い痛い痛い痛い痛い……)
やはり、禁断の方法に違いない。
だがそうでもしなければ、間違いなく勝てなかった。
もっと強くならなければならない。
咲弥は心に、そう誓いを立てる。
視界が涙で滲み、そして――
咲弥の意識は闇の中へと落ちた。