第十九話 悪食ジャガーノート
準備を終えた頃、島はもう夜の深い闇に包まれていた。
骨まで凍りそうな寒い草原を、アイーシャは駆け抜ける。
この付近の魔物は、もう喰い尽くされているようだ。
どこまで力を得ているのか、もはや想像すらもつかない。
(六年振りぐらいか……)
まだ上級冒険者に、昇級したばかりの頃の記憶――
数十名の冒険者が集められ、空白の領域へと攻め込んだ。
そこには、多種多様の奇怪な魔物達で溢れかえっており、ジャガーノートもまた、その内の一体として存在していた。
無事に生還できたのは、わずか数人しかいない。
多大な犠牲者が出た。だが、そのときの功績が認められ、アイーシャは冒険者ギルドから、月章を授与されたのだ。
(さて……まだ、間に合うのか?)
食べ物が多ければ多いほど、成長速度は加速する。
少年達を助けたときには、まだ完全体ではなかった。
完全体に成長すれば、現状では打破が不可能に近くなる。
攻撃特化のゴルダを失ったのが、かなりの痛手であった。
ないものを願っても仕方がないものの――攻撃特化の上級冒険者が、あと数人でもいれば安心感は増したに違いない。
「それでも、やるしかない……」
仮に完全体だったとしても、引くわけにはいかなかった。
ここは、空白の領域でもなんでもない。ただの島なのだ。
ジャガーノートを凌駕する魔物もいなければ、天敵となる存在もいない。自然による恩恵など、あるはずもなかった。
もし放置すれば、未曽有の災害が起こる。
だから可能な範囲内で、ジャガーノートを足止めせよ――これが冒険者ギルド本部からの、冷酷なまでの返答だった。
アイーシャはこの命令に、かなりの憤りを覚えている。
自分も含め、完全なる捨て駒扱いであった。
「必ず、ジャガーノートを仕留めてやる!」
正直、上からの命令など関係ない。アイーシャや受験者が生存するためには、ただ全力を尽くして戦うほかないのだ。
周囲の気配を探りつつ、アイーシャは決意を胸に秘める。
ふと不穏な音が、緩やかな風に乗って耳へと届く。
位置的には、ケイスの情報通りの場所だった。陰気くさい男ではあるが、仕事だけはしっかりとこなしてくれている。
視線を滑らせるや、一部の空間がひどく歪んで見えた。
(ドクソゴミムシが……)
姿を確認するまでもなく、すぐ理解に達する。
嫌な気配がしたほうへ、その足を向かわせた。
丘を少し越えたところで、ジャガーノートを発見する。
小さな民家を一つ、丸飲みできそうなぐらい巨大な魔物に成長していた。背に龍を思わせる首が、無数に蠢いている。
蜥蜴みたいな顔が消え去り、代わりに甲羅の前面に大きな一つ目がぎょろりと動いていた。そして、甲羅の中央付近に巨大な口が覗いている。
アイーシャは崖のふちに立ち、心の中で激しく嘆いた。
(……完全体か)
死を予感しながら、アイーシャは緑色の紋様を浮かべた。
崖を飛び降りてから、素早く詠唱する。
「風の紋章第四節、天空の大鷲」
紋様が弾け、アイーシャの全身に風が纏わりついた。
オドに反応したのか、ジャガーノートが動きを止める。
龍達の首が、一斉にアイーシャのほうを振り返った。
「オラオラ! クソカス! まだここに餌がいるぞ!」
挑発してから、ジャガーノートとの距離を詰める。
龍達の口から、まばゆい閃光が放たれた。
迫りくる無数の閃光を、風の力を借りて回避する。
後方で爆発音が轟き、崖が崩れて降ってきた。
アイーシャは再び、緑色の紋様を虚空に浮かべる。
「風の紋章第八節、粗暴な渡り鳥」
生み出した暴風で、大きな瓦礫をも軽々と運ぶ。
ジャガーノートをめがけ、一気に瓦礫を放り投げた。
重さもあれば、落下とは比にならないほどの速度がある。
だが龍達が閃光をまき散らし、瓦礫のすべてを粉砕した。
着地してから、アイーシャは舌を打つ。
「風の紋章第五節、風神の怒号」
差し出した手の周囲に、激しい風が流れ込む。
強烈な風が集い、玉へ形を変え、さらに小さく凝縮する。
アイーシャは風玉を、ジャガーノートの目へと放った。
龍達に破壊されないように、操作して目的の地に届ける。
「消え失せろ! クソゴミカス!」
凝縮した風玉が破裂し、けたたましい爆発音を響かせる。
激しい爆風が、アイーシャの肌をすり抜けた。
直撃すれば、大抵の魔物なら粉々に砕け散るだろう。
風使いなら会得に憧れる、最強紋章術の一つなのだ。
「まあ、お前はそうくるよな」
数匹の龍が犠牲となり、本体はまるで無傷だった――その考えは正しくないと、アイーシャは即座に心内で訂正する。
新たに龍の首が生え変わり、最初から無傷でしかない。
「まあ、想定の範囲内だ」
ジャガーノートの意識は、完全に自分へと向いていた。
作戦通り、アイーシャは撤退の姿勢を見せる。
案の定、ジャガーノートは追って来ていた。
巨体のわりには、結構素早い。
アイーシャを仕留めようと、龍達がまばゆい光線を放つ。
ジャガーノートとの間には、諦めない程度の距離がある。
アイーシャは難なく避け、肩越しに後ろを振り返った。
「うげっ……」
いつの間にか、多種類の魔法陣が宙に浮かんでいる。
光線で仕留めるのは、難しいと判断したからに違いない。
さまざまな属性の魔法が、アイーシャに襲いかかった。
火炎をすり抜け、水壁を砕き、飛来する岩石をかわす。
危うく闇の重力に、体が持っていかれそうになった。
そう思えば、今度は閃光と雷光が同時に迸る。
さすがに――すべてを回避などできない。
いくつか受けてしまい、奥歯を強く噛み締めた。
「上等だぁっ! オッラァアアアア――ッ!」
アイーシャは死に物狂いで、ジャガーノートを誘導する。
作戦の地まで――ひたすら逃げ続けるほかないのだ。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
複雑な地形をした岩石地帯には、不穏な静けさが広がる。
随所に浮かんだ光球が、周辺を仄かに照らしていた。
ここはあまり、植物が育たないらしい。鉄が錆びたような色合いをした石や岩ばかりが、そこかしこに転がっている。
丸い石を椅子代わりにして、咲弥は回復に専念していた。
ただ治癒の紋章具では、痛みしか和らげない。何もしないよりは、多少なりともましといった程度であった。
(少しでも、横腹の痛みをなくさなくちゃ……)
咲弥はふと、なにげなく周囲に視線を流した。
それぞれ属性ごとに、チーム編成をしている。そのため、ミラは別のチームへと編成されてしまい、ここにはいない。
咲弥の付近には、水と雷の属性を持つ者だけがいた。
誰もが不安な表情を浮かべ、重い空気で張り詰めている。
零級の魔物だと聞かされれば、萎縮しても仕方がない。
間近で見た咲弥には、その者達の気持ちがよくわかる。
ぼんやりしていると、忍んだ声がかすかに聞こえた。目を向けてみると、あまり年が変わらなさそうな男が二人いる。
一人は石の上で腰をかけ、もう一人は立っていた。
「しかしなあ……どうするよ?」
「どうするって?」
「絶対、勝てっこないって……零級だぞ?」
「……つってもさ、もうやるしかねえじゃん?」
「はあ……死にたくねぇよ……」
「それは、みんな一緒だって……」
「なあなあ、逃げねえ?」
男達の会話を盗み聞き、咲弥は静かに驚かされる。
ただでさえ、危険極まりない魔物なのだ。
人が減るのは、どう考えてもよろしくはない。
「ちょっと、あんた達……逃げたら承知しないよ!」
チームリーダーに任命された黒髪の女が、やや遠い場所で声を荒げた。不満げに、生真面目そうな顔をしかめている。
黒髪の女は男達のほうへ、ずかずかと歩み寄った。
「腕輪があるんだから、逃げたってすぐバレるでしょ。もし試験官の命令を無視したら、最悪――二度とギルドの試験を受けられなくなるわよ」
「試験なんかより、命のほうが大事なんだよなぁ」
「まあ、死ねば……何もできないもんな」
リーダーの女は、むっとした表情になる。
「そもそも、試験官だって言ってたじゃない。もしここから逃げたってさ、どうせジャガーノートは追って来るって」
「だから見つからないように、ずっと逃げ続けんだよ」
「まあまあ……どっちも落ち着いて」
冷静そうな男が、二人をそうなだめた。
そのとき遠くのほうから、何かが聞こえてくる。
まるでそれは、地響きにも似た奇妙な音であった。
一気に緊張感が高まり、咲弥は素早く視線を投げる。
無数の小さな明かりが、ぽつぽつと闇に浮かんでいた。
徐々に近づくにつれ、咲弥は息を呑んで戦慄する。
無数の明かりの正体は、魔法陣と魔法だったのだ。
姿を現したジャガーノートは、咲弥が遭遇したときよりも数倍でかくなっている。それは、ただの目の錯覚ではない。
「うわぁああ――っ! 来た来た来たぁ――っ!」
「各自! 持ち場について準備して!」
リーダーの指示が飛ぶ中、咲弥は急いで横腹を確認する。紋章具のお陰で、ある程度なら動いても問題はなさそうだ。
まだ少し遠い巨大な魔物を眺め、咲弥は持ち場につく。
背にいる蛇が、まるで龍らしき存在へと変貌していた。
そして恐竜みたいな顔が消え、代わりに巨大な目が甲羅の前面に張りついた状態である。口は捉えた獲物を即座に投げ込むためなのか、背の中央に移動していた。
どう考えても、明らかに歪な進化を遂げている。
そんなジャガーノートの前を、アイーシャが駆けていた。うっすらとしか見えないが、かなり血まみれになっている。
状況を確認している最中、周囲の者達の声が飛んだ。
「おいおいおいおい……冗談じゃないぞ」
「あの魔物、なんで……魔法をあんな連発できんだ?」
「ありえない……全属性が扱える? 訳わかんない……」
受験者達がそれぞれ、恐怖まじりの声で呟いていた。
数多の魔法陣が浮かべられ、アイーシャを攻撃している。
アイーシャはきわどいところで、必死に避け続けていた。
(まさか……誘導中、ずっと……?)
信じられない気持ちに、咲弥の胸も恐怖に染まる。
アイーシャの状態を見れば、疑う余地などどこにもない。
誘導だけですら、恐ろしいぐらい命がけだったのだ。
「各自、紋様を顕現して待機!」
作戦通り、咲弥のいる場所以外でも紋様が宙に描かれた。
(よし……ここなら……)
試験が始まるまでの間――ネイ達と訓練していたときに、偶然にも発見した新たな紋章術がある。詠唱する言葉を少し変えただけで、別の紋章術が生まれたのだ。
この場所は、かなり広々としている。
だから気兼ねなく、新たな紋章術が扱えると踏んだ。
咲弥は空色の紋様を浮かべ、じっと指示を待つ。
複雑な地形をした岩石地帯の一部に、まるで檻を思わせる窪みがある。その中へと、ついにジャガーノートが入った。
土の紋章を宿した者達が、岩の一部を破壊する。同時に、アイーシャが退路を突き抜けるや、そこも岩石で塞がれた。
岩壁に囲まれたジャガーノートが、その動きを止める。
「発動!」
遠くのほうで、合図が聞こえた。
最初に、火と木の紋章術が放たれる。
何度も繰り返し放たれる光景に、咲弥は少し気圧された。
オドが切れ始めたのか、次第に緩やかになる。
「発動!」
今度は、咲弥側にいるチームリーダーの女が叫んだ。
「水の紋章第二節、流水の渦巻き!」
「雷の紋章第一節、暗雲の落雷」
「水の紋章第三節、水玉の破裂!」
「雷の紋章第二節、雷帝の稲妻」
それぞれの詠唱が飛び交う。
咲弥も遅れまいと、練ったオドを紋様に込める。
オドの発生を堰き止め、右手を高く掲げた。
「清水の紋章第一節、降り頻る雨――限界突破!」
紋様がまばゆく輝き、粉々に砕け散った。
咲弥は右の手のひらから、一つの水玉を空へ放つ。
まるで水たまりのように、上空で水玉が大きく広がった。
そこから無数の雫が、マシンガンのごとく発射される。
あまりに広範囲のため、非常に扱いづらい紋章術だった。
だがここであれば、全力が出せる。
再び紋様を浮かべ、限界突破した清水の紋章術を放った。
ただ最大威力では、二回までしか使用できない。
「はあ……はあ……はあ……」
咲弥は肩で息をする。
ほかも次第に、紋章術が途切れていった。
次は別の班が、光と氷の紋章術を発動する。
それが終われば、最後に闇と風の紋章術が飛び交った。
おぞましいぐらい、集中攻撃を受け続けている。
もしこれで倒せていなければ、手の打ちようがない。
粉塵にまみれた場を、咲弥はじっと見据える。
次第に晴れ――咲弥は腰を抜かした。
ジャガーノートはまだ、平然と息をしている。
「あ、ありえない……」
尻もちをついた咲弥は、自然と驚きの声を漏らした。
あれほどの攻撃を受けていながら、無傷なはずがない。
そんな疑問は、すぐに絶望を宿して返ってきた。
攻撃を受けてちぎれた龍の首を、ずっと喰い続けている。
それはもはや、永久機関にすら思える事態だった。喰った端から、どんどんと龍の首は新しく生え変わり、抜け落ちた龍の死骸を魔物の口へと運んでいる。
「こんなの……どうしろってんだよ……」
悲壮感に満ちた男の呟きが聞こえた。
きっと誰もが、絶望しているに違いない。
倒し方が、まったく見当もつかなかった。
「怯むな! 死ぬ気でオドを絞り出せ!」
満身創痍であろうアイーシャが叫んだ。
アイーシャを含め、あちこちで紋様がまた浮かび上がる。
その瞬間――ジャガーノートの真上に魔法陣が描かれた。
とても巨大で、見たこともない虹色に輝いている。
「あ……」
一呼吸の間もなく、謎の魔法が発動する。
鼓膜が破れかねないほどの重低音が響く。同時にジャガーノートの真上にある虹色の円が、波紋のごとく広がった。
咲弥は爆風にも似た、凄まじい衝撃に全身が襲われる。
何が起こったのか、まったく理解できない。
硬い岩壁をも一気に砕き、全員が吹き飛ばされた。
そこかしこで上がる悲鳴が、やけに遠い。
完全に耳をやられていた。
地に伏した咲弥は、必死に顔を持ち上げた。
気がつけば、ジャガーノートの檻が崩壊している。
瓦礫に潰された人達の姿が、ちらほらと目に入った。
「あ、ああ……あ……」
助けるために、動こうとする。だが体が微動だにしない。
さきほどの凄まじい衝撃が、体の自由を奪っていた。
また悲鳴が聞こえた気がする。
まるで耳栓でもしたように、音がかなり遠い。
おそらくは、ジャガーノートに襲われている。
「くそ……こんな……こんな……」
咲弥は立ち上がろうと、気力を振り絞った。
ほんの少しずつ――一動作ごとに、力を込める。
「ぐっ、はあっ……」
腹部の痛みが、また一段と酷くなる。
見上げる視線の先に、ジャガーノートがいた。
受験者達を数人、喰っている姿を捉える。
咲弥は恐怖に慄き、同時に弱い自分を激しく呪った。
もっと自分が強ければ、紅羽を失わなかったに違いない。
自分以外の使徒であれば、誰も失わなかっただろう。
素質に恵まれた人ならば、全員を救えたはずだった。
しかし現実は、あまりにも残酷過ぎる。
弱い自分が憎くて、悔しくて、つらくて仕方がない。
(どうして……天使様は……僕なんかを、選んだんだよ……もっとふさわしい人なら、みんなを護れたはずなのに……)
涙がとめどなく、目もとから流れ落ちる。
ジャガーノートの巨大な目が、咲弥のほうへ向いた。
まるで品定めでもするように、ぎょろりと動いている。
(……母さん……父さん……紅羽……弱くてごめん……)
龍の口から光の筋が伸び、咲弥のほうへと迸った。
(……ここまでか……みんな、ごめん……)
突然――
黒白の籠手が、勝手に開放した。