第十八話 心に生じた亀裂の音
巨大な魔物が、ひたすら攻撃と捕食を繰り返している。
大量にいたスライムは、またたく間にその数を減らした。
無数の蛇を背負う魔物の喰い方は、とにかく汚い。ほかの魔物や人を喰い散らかしていたのは、おそらく目の前にいる亀みたいな魔物の仕業なのだろう。
咲弥達のほうへ、巨大な魔物の瞳がゆらりと動いた。
自分は餌なのだと直感した瞬間、勇ましい女の声が飛ぶ。
「風の紋章第八節、粗暴な渡り鳥」
咲弥達の周囲で、突如として激しい風が巻き起こった。
「う、うわぁっ!」
「きゃあ!」
咲弥達は風の力で、やや上空へと巻き上げられる。
その最中、見覚えのある女の後ろ姿が視界に入った。
(試験官の……アイーシャさん……?)
アイーシャは虚空に、緑色の紋様を描いた。
「風の紋章第七節、暴虐な戯れ」
紋様が砕け、目視できるほど色濃い風が生み出される。
風は周囲を薙ぎ払いながら、巨大な魔物に巻きついた。
まるで貴金属を切るような音が、けたたましく鳴り響く。
アイーシャは颯爽と、その場から大きく離れていった。
咲弥達も風に連れられ、駆けるアイーシャを追っている。
あまりにも凄まじい速度に、目が耐えられない。
しばらくして、途端にアイーシャの発動した風がやんだ。
「ぐへっ……」
「きゃ……」
咲弥達は地面に落下し、短くうめいた。
唐突な衝撃に、右の脇腹に激痛が走る。
痛みを堪えていると、アイーシャが詰め寄ってきた。
「クソドカスども、アタシについてこい」
「あ、えっと……いつつ……」
気力を振り絞って、咲弥はお礼を告げようとした。しかしアイーシャは、聞く姿勢をまったく見せないまま、深そうな森の中へと入っていった。
咲弥はミラと顔を見合わせ、お互いに小首を傾げる。
助けてくれた理由までは、よくわからない。だがあそこでアイーシャが救ってくれなければ、おそらくは巨大な魔物の餌食となっていたと思える。
無事に逃げきれた様子で、咲弥はまず安堵しておいた。
「ついていこっか」
軽快に立ったミラに続き、咲弥はゆっくりと立ち上がる。
ここは、平原と森の境目にあるような場所だった。
アイーシャを追うと、前方に大勢の人の姿が見えてくる。
見覚えのある人物を中心に、各々が自由に寛いでいた。
ただ、ずいぶんと雰囲気は重い。どこか重圧感があった。
中央にいるのは、頭にバンダナを巻いた男――まだ名前は知らない。
(確か最初に喋ろうとした試験官……の、人だったかな)
大きな地図を開き、男は地べたに胡坐をかいている。
いったい何事なのか、状況をまだ把握できそうにない。
「おい、ケイス。この辺にいる受験者は、これで全員か?」
集められていたのが、受験者なのだと判明する。
ケイスは無言のまま、地図のほうへ視線を落としていた。
アイーシャの勝気そうな顔に、不意の怒りが宿る。
「クソドカス! 耳ついてんのか、オラァ!」
「これで、全員だ。ほかは別の場所に散らばっている」
「よし! テメェら、よく聞けよ」
ケイスの傍へと、アイーシャは力強い足取りで進んだ。
アイーシャは周囲を見回しつつ、勇ましい声を紡ぐ。
「すでに知ってる奴もいるとは思うが、緊急事態が起きた。今現在、島にいるはずのない魔物が、人、魔物と関係なく、無差別に襲いかかってる」
無数の蛇を背負った巨大な魔物が、咲弥の脳裏に浮かぶ。
「その魔物の名は、ジャガーノート。最初はちょっと大きな亀みたいな魔物だが、食えば食うほどに成長速度が加速し、すでにかなり危険な魔物へと変貌してんだ」
咲弥は間違いないと断定した。その片鱗は確かにある。
受験者の一人が、ぼそりと声を漏らした。
「どうして、そんな魔物が……?」
「さあな。どこかから流れてきたんだろ」
アイーシャは淡々と応え、話を進めた。
「ジャガーノートは本来、空白の領域にしかいない魔物だ。等級は文句なしの零級――たった一匹なだけ、まだましだ」
咲弥は静かに戦慄する。
あんな絶望的な怪物が、空白の領域には複数いるらしい。
冒険者を目指しているのは、もともとは空白の領域に踏み込むためでもある。ひどい現実を思い知らされ、咲弥は自信喪失の状態となった。
(最低でも、中級以上の冒険者……)
冒険者ギルドが設けた規定の意味を、いまさら理解する。
たとえ中級といえども、きっと無事では済まないだろう。
周囲の受験者達も、これには驚きを隠せていない。
「これ以上、奴が成長する前に――アタシらで始末する」
アイーシャの発言に、誰もが言葉を失った。
しんと静まりかえる場に、アイーシャの声だけが響く。
「言い訳も戯言も何も聞かない。全員で討伐する」
そんな危険な生物は、確かにほうってはおけない。だが、咲弥は抱えた傷のせいで、満足に動けすらもしないのだ。
まずは目的の一つを達成するため、一歩を前へと進める。
「すみません。その前に、一ついいですか?」
「なんだ?」
「僕、実は今……精神的に傷を負ってるみたいなんです……アイーシャさんは、治すすべをご存じではありませんか?」
「へ……?」
呆気に取られたような声を漏らし、アイーシャは訝しげな顔つきになる。
咲弥は掻い摘んで、事情の説明をした。
話し終えるや、アイーシャが唸りながら顎を撫でる。
「ほう? かなり興味深い話だ。なるほど……そんなことができる能力を持ってるのか。幽鬼を倒せたのも頷けるな」
どこかで監視していたのか、咲弥は素直に驚かされた。
咲弥は眉間に力をこめ、アイーシャに問いかける。
「どうして、それを知ってるんですか……?」
「ケイスの紋章術だ。限定的なものだが、腕輪をつけている者の動向を探れる。まあ、それ以外にもいろいろあるが」
信じられない情報に、咲弥は目を大きく見開いた。
ケイスに視線を投げ込み、咲弥は即座に近寄る。
「ケイスさん、すみません。今現在、別の受験者の居場所もわかるんですか?」
ケイスは応えない。
ただじっと、地図のほうを眺めている。
「僕の仲間……紅羽って受験者の居場所を教えてください」
「もういない」
「……え?」
咲弥は耳を疑った。
ケイスが何を発したのか、理解にまで及べない。
「もういないって……なんですか?」
「死んだ」
「腕輪から反応が消えた。つまり、死んだってことだ」
アイーシャの補足が、ちゃんと聞こえてはいた。
しかし、咲弥の脳にまで届かない。
あの強い紅羽が、死ぬわけがなかった。
おそらくは、腕輪が壊れたからだと予想する。
まるで心の中を読まれたかのように、ケイスが告げた。
「腕輪は特注だから壊れるはずがない。残念だが……」
「期待はしてたんだがな……昼夜問わずに動き過ぎたんだ。本当はその娘を、今回の討伐隊に組み込みたかったが、ある地点でぷつりと途切れてしまった」
アイーシャは嘆息まじりに言い切った。
自分を探している紅羽の姿が、漠然と頭に思い浮かぶ。
咲弥は力を失い、どさっと地に崩れ落ちた。
視界がどんどん涙で歪み、次第に呼吸が激しく乱れる。
まさかとは――何度も、そう思っていた。
やはり暗い中でも、紅羽はずっと探してくれていたのだ。
紅羽と過ごした思い出が、頭の中を駆け巡る。胸がきつく締めつけられ、そのたびに心が強烈な悲鳴を上げ続けた。
凄まじい消失感に、咲弥の全身が呑み込まれていく。
「紅羽……そんな……嘘だ……」
「受験者達が大量に消滅した地点で途絶えている。だから、間違いなく死んでいる。残念だが、諦めたほうが賢明だ」
「つまり、ジャガーノートに殺られたってことさ」
試験官二人の言葉が、一層激しい苦しみを生んだ。
確かにあの怪物は、一人でどうこうできる魔物ではない。
いかに紅羽といえども、それは例外ではないだろう。
そのとき、咲弥は確かに聞いた。
自分の心に、亀裂が生じた音――その音を最後に、まるで世界中からすべての音が消えたような、ひどく重圧感に満ち溢れた感覚を覚える。
無音の中、アイーシャの声だけがやけに耳に刺さった。
「これ以上、死者を増やさないために、これより奴を狩る」
「う、うわぁああああっ……紅羽、そんなぁあ……いやだぁ……いや、だ……うゎあぁああああ……あぁああああっ!」
これほどまで苦しんだのは、人生で初めての経験だった。
理解すればするほど、胸が壊れそうなぐらいに痛む。
咲弥は涙が止まらず、ただただ泣きじゃくった。
「……紅羽ぁ……紅羽っ……うあぁああああ……ごめん……うゎああああ……あぁああああ、あぁああああ……っ!」
咲弥は地面に、強く額をこすりつけた。
自分も必死に探していれば、死なずに済んだかもしれない――そんな後悔が、ひたすら咲弥の心に深い傷を負わせる。
紅羽と出会ってから、まだ二か月にも満たない。
だが彼女の存在が自分にとって、いったいどれほど大きな存在となっていたのか、咲弥は失ってからやっとわかった。
その分だけ、心の中にある消失感もまた苛烈になる。
この世界を訪れた頃は、たった一人きりだった。
それから多くの人と出会い、初めてチームを組んだのは、ネイとゼイドとなる。そして――仲間だと胸を張って呼べる存在と出会えたのは、紅羽が初めてなのだ。
「……紅羽……なんで……なんでだよ……うわぁああっ!」
もう二度と、淡々と紡がれる可憐な声は聞けない。
時折、柔らかに微笑んでくれた顔も見られない。
想えば想うほど、心が決壊したかのように感情が溢れる。
声を荒げて泣かなければ、何もかも壊れそうな気がした。
「ぐぁっ――!」
不意に髪を掴まれ、咲弥は無理矢理顔を上げさせられる。
アイーシャの冷たい顔が、涙で滲んだ視界に映った。
「悲しいか? 苦しいか? しかし――耐えろ。己の目標を見失うな。失った仲間を思うなら、前を向いて戦い続けろ」
「……そんな……だって……僕は……」
「お前が立ち止まれば、失った仲間はただの無駄死にだ――お前が前を向いている限り、仲間の意思は絶対途絶えない」
掴んだ髪から手を放し、アイーシャは立ち上がった。
「怪我を負っていても、容赦はしない。共に敵を討つぞ」
アイーシャの言葉を、心が全力で否定する。
立ち上がる気力を、咲弥はもう完全に失っていた。
「我々も……これまで、たくさんの仲間を失っている。もう一人いた試験官も、今朝……ジャガーノートに殺された」
ケイスは、なだめるような声を出した。
飛行船で見た中年男性の話だと思われる。
道中で見た大勢の死体も、同じ魔物の仕業に違いない。
あの中に、紅羽の遺体が交じっていた可能性がある。
「くそっ! くそっ! くそぉおおおおおっ!」
咲弥は地面に向かって、何度も拳を振り下ろした。
拳から伝わる痛みが、心の痛みへと溶けていく。
「さ、咲弥!」
ミラが咲弥の腕を抱き締め、地面を殴るのをやめさせた。
咲弥は乱れる感情を、必死に抑え込んだ。
(僕が……紅羽にしてやれることは……)
紅羽の遺体を、必ず見つけ出さなければならない。
たとえ一部でも、綺麗に埋葬してあげたかった。
そのためには、まず凶悪な魔物を討つ必要がある。
紅羽のためを想い、咲弥は必死に立ち上がった。
(紅羽……もう少しだけ……待っててくれ)
心の中にいる紅羽に誓いを立て、咲弥は涙を拭い捨てた。
「どこまでできるか、わかりませんが……やってみます」
「ああ。わかった――さあ、お前らも立ち上がれ!」
受験者達が、次々に立ち上がる。
しかし中には、座ったままの受験者も多い。
どうするのが最善か、きっと悩んでいるのだろう。
「とっとと立ち上がれ、クソドカスども! 言っておくが、ここで立ち上がらずとも、お前らは死ぬほかないからな!」
アイーシャはそのまま、怒号を飛ばす。
「アタシらが失敗すれば、いずれここにもくる。アタシらのときよりも、遥かに強くなってだ。手に負えなくなる前に、討つしかねぇんだよ!」
今も魔物を襲い、強くなっている可能性は充分にある。
急がなければ、もっと被害は拡大するに違いない。
咲弥は右の脇腹に手を添えた。
「……咲弥、大丈夫?」
消え入りそうな声で、ミラが心配してきた。
咲弥はゆっくりと頷く。
何かを言いたそうにして、ミラは口を噤んだ。
「大丈夫……今は、ジャガーノートに専念します」
泣いたせいか、声がかなりかすれていた。
ミラは不安げに、一歩を前に踏み出る。
「無理……してるよね?」
そうは言っても、無理をするほかなかった。
また心が折れてしまえば、もう二度と立ち上がれない。
そんな予感を、咲弥はひしひしと感じていた。
今はただ、前を向くことしかしてはいけない。
すべては、紅羽のために――
「よし。全員、立ったな」
アイーシャの発言から、咲弥は周囲を観察した。
重い空気が場を支配している。
アイーシャは気にした様子もなく、勇ましい声を放つ。
「向かいながら、作戦の説明をする――ケイス」
ケイスは座り込んだまま、こくりと頷いた。
「ああ。わかっている」
「頼んだぞ」
ケイスは討伐に参加しないのか、動く気配はない。
アイーシャは後ろを振り返り、また力強く歩きだした。
立ち上がった全員が、アイーシャの後ろを進む。
立ち上がれはしたが、咲弥の視界は色を失っている。
紅羽を喪った悲しみが、ただただ胸を痛め続けていた。