第十七話 さらなる絶望を
咲弥は樹木に背を預け、先を歩くミラに声を投げた。
「ミラさん。すみません。ここで少し、休憩しませんか?」
「やっぱり、まだ痛む……?」
「はい……結構、きついみたいです」
「わかった。それじゃあ、休憩にしよっか」
ミラと一緒に、荷物を地面へと下ろす。
咲弥はぐったりとして、その場に座り込んだ。
全身から湧く冷や汗が止まらない。
右の脇腹が徐々に、謎の痛みを増しつつある。
(またちょっとの間、動けそうにないな……)
やや朦朧とする意識を抱え、咲弥は痛みの回復にはかる。
起床してから、もう半日ほどの時間が経っていた。
しかし依然として、紅羽の消息は掴めていない。
まず立ち寄ったのは、言伝を頼んだトリッキーだった。
何人か訪れたみたいだが、それは銀髪の少女ではない。
落胆を覚えた矢先、トリッキーからある提案が出された。
トリッキーとギルドは繋がっているが、トリッキー同士は繋がっていない。だから別の商店を巡れば、何かしら掴める可能性が高いとの話であった。
咲弥は提案を受け、別の商店も訪ねる方針に定めたのだ。
それから――一つ、二つ、三つと移動型商店を巡ったが、どこからも紅羽の情報は、何一つとして得られていない。
その道中、別の受験者達と何度か鉢合っている。それぞれチームを結成して、魔物狩りに精を出している様子だった。
もちろん、紅羽に関して話を聞き回っている。だが彼女の行方を知っている者は、誰一人としてそこにはいなかった。
時間が経つにつれ、不安がきつく胸を圧迫する。
(紅羽に限って、そんなことはない……と、思うけど……)
増大する不安と同時に、焦燥感も増した。
一刻も早く、紅羽と合流して相談がしたい。
紅羽であれば、誰よりも理解してくれるはずだった。
咲弥が初めて、精神世界へと飛んだ相手だからだ。
ふと、暇そうなミラが視界に入る。
咲弥は間をもたせるため、ミラに話しかけた。
「それにしても、指定物はいくつ集めればいいんですかね」
「うぅーん……」
ミラは鞄から取り出した地図を広げた。
「それじゃあ……一度、ここに行ってみない?」
地図に記された赤丸を、ミラが指差した。
ほかのマークと違い、赤丸は一つしかない。
「たぶんだけどね、ここが集合地点のはず。だから試験官が待機してると思うから、怪我のことも合わせて訊いてみよ」
「……ああ、なるほど」
ミラが言った通り、集合場所がないと確かにおかしい。
そこまで考えが至らなかった自分に、咲弥は呆れ果てる。
ミラは難しい顔をして、言葉を続けた。
「正直さ、その怪我? ちょっと普通じゃないよ。見た目はどうもないのに、精神的に傷を負っちゃってるだなんてさ」
「ははは……ですよね」
「でもね、試験官になら何かわかるかもよ。試験官の一人は月章を授与されてる、他国の上級冒険者だろうからね」
咲弥は首を捻った。
「月章? 他国?」
「あにゃ? 咲弥、知らない? こんな大規模な試験では、ギルドの本部が認定した他国の冒険者が、公平を期すために雇われてるんだよ」
「へえ、そうなんですか」
咲弥が生返事すると、ミラは説明を続けた。
「月章ってのは冒険者として、多大な功績を残した人にのみ与えられる、とっても凄い証のこと。ギルドの紋章に、月を模した図形があったっしょ?」
「ああ……」
咲弥は曖昧に応じたが、正直そこまで記憶してなかった。
ミラがやれやれと肩を竦める。
「まっ。試験官の誰か一人は、絶対にその与えられた月章を持ってるから、そんだけ実力は言わずもがなだよってこと」
確かにそれであれば、不可解な謎も解ける可能性は充分に考えられる。いずれにしても、今の状態では、紅羽を満足に探すことすらも難しい。
どうするのが最善なのか、咲弥は深く悩む。
笑顔のミラが後頭部に両手を回し、陽気な声を飛ばした。
「それに、紅羽ちゃんだっけ? そこにいるかもよ?」
「え? どうしてですか?」
「だって……この島、広いんだもん。咲弥がここに来るかもしれないって考えたら、むやみに探すよりはいいでしょ?」
ミラの予想に、咲弥は衝撃を受けた気分だった。
むしろ、至極当然の思考だとも感じられる。
自分の思慮の足りなさに、ほとほと呆れ果てた。
「わかりました。では、赤丸へ向かいましょう」
「うんうん! 行けそうになったら言ってね」
咲弥は、ゆっくりと立ち上がった。
それはきっと、ただの気休め的なものに過ぎない。しかし希望が少し湧いた事実から、痛みはかすかに和らいだのだ。
咲弥は自分の鞄を拾い上げ、ミラに伝える。
「もう、大丈夫です。行きましょう」
「ほんとに大丈夫?」
「はい」
ミラも立ち上がり、地に置いた鞄を拾い上げる。
大きく指を差しながら、ミラが肩越しに目を向けてきた。
「じゃあ、目標地点はここから……南東の方角になるね」
「わかりました」
深い森を突き抜けると、朽ち果てた町へと出た。
石造りの建物が多かったのか、その残骸が残っている。
それとは別に、咲弥の目を奪うものがもう一つあった。
「ここにも、魔物の死骸がずいぶんと多いですね」
「たぶん受験者の仕業だろうね。素材を取った跡があるし」
地に伏した死骸を見ていると、複雑な気分になる。
遥か昔に人々を殲滅し、この島を占領した。
そして今もなお、人を見れば見境なく襲ってくる。
その事実は、決して許されない。
これはあくまで人側の視点であり、彼ら魔物からすれば、ここでただ普通に生きていただけ――そんなふうに考える。
だからといって、黙って殺されるわけにもいかない。
さまざまな理由から、咲弥も多くの命を奪っている。
護るため――
生きるため――
使命を果たすため――
願いを叶えるため――
いまだにこんな感情を抱くのは、ただの偽善に過ぎない。
それは咲弥自身も、重々承知している。たとえそれが自己満足だったとしても、死した魔物達の冥福を心の中で静かに祈っておいた。
正しい人でありたいと願うからこそ――忘れてはいけない気持ちなのだと、咲弥なりにそう答えを導きだしたのだ。
誰にとなく呟くミラの声が、ふと耳に届いた。
「速いもの勝ちだけどさ、ミラ達の分がなくなりそう」
「……すみません。ミラさんまで付き合わせてしまって」
「それは、いいよ。ミラが組むって、選んだんだからさ」
ミラは明るい声で続けた。
「まあでも、今は逆にありがたいかもね」
「どういう意味ですか?」
「だって咲弥、できれば戦闘を避けたいっしょ?」
「そ、そうですね。また悪化しそうですし」
「でしょ? でもさ、ほかの受験者が狩ってくれてるから、魔物もあまり姿を見せなくなってんじゃん。それだけ赤丸に辿り着きやすいってこと」
ミラに頷きで応じてから、咲弥は前を向いた。
本日中には、目的地には着いておきたい。
試験終了まで、あと一日半ほど――
横腹が治るかどうかに関わらず、時間は残されていない。
考えることだけは、まるで山のようにたくさんある。
しかし現状、その大半がどうにもできない。
咲弥はとても歯がゆい気持ちになる。
(今はただ、かすかな希望でも縋りつくしかない……)
町を抜け、草原を進み、丘を越え、森を横断する。
受験者達が狩り尽くしているのか、信じられないぐらい、生きた魔物と遭遇しない。ただ、死骸だけはよく目にした。
争った形跡も、そこかしこにある。
(紋章術か魔法の跡……かな?)
痛みをまぎらわすため、咲弥は観察を続ける。
ミラの言葉通り、自分達の指定品すらなくなりそうだ。
まさか二日目でこれほどとは、予想もできなかった。
休憩を何度も挟みつつ、咲弥達は目的地を急ぐ。
日も暮れかけ――島は茜色に染まりつつあった。
「うわぁ……滅茶苦茶になってんじゃん」
額に手を近づけ、ミラは遠くのほうを眺めている。
咲弥は眉間に力を込め、じっと遠くを凝視した。
「あれ、これって……」
これまでとは、明らかに様子が違った。
争った形跡はあるが、魔物の死骸が一つも見当たらない。
(いや、違う……!)
近づくほどに、はっきりと惨状を目撃する。
部分的ではあるものの、魔物の死骸は確かにあった。
食い散らかされた様子の死骸に、少し吐き気を覚える。
「これは、人の仕業ではありませんね」
「だね。なんだかちょっと、気味が悪いかも」
魔物といえども、生物には違いない。
鬼熊がガルムを喰ったように、食物連鎖は存在する。
(それにしても……なんだろう……なんか、変だ)
魔物の残骸が、あまりにも多過ぎる。
この調子で喰い散らかす魔物が、多数存在していた場合、島中の魔物がすでに、ほとんど消えていそうな気がした。
魔物の残骸に交じり――ふと、咲弥の目に留まる。
「あ……う、うわあっ……!」
あまりの驚きに、咲弥は地面に尻もちをついた。
その衝撃で脇腹がズキンと痛むが、気にしていられない。
魔物の残骸の中に、人のものと思われる部位を発見する。
指、目、手首、足と、一部分しか残っていなかった。
靴の違いや部位の細さから、一人や二人ではないらしい。
「受験者……だよね?」
ミラの呟くような問いに、咲弥は何も応えられなかった。
いつか、そんな場面に出くわす――頭で理解していても、残酷な現実にいざ直面すれば、悲しい気持ちだけが溢れる。
きっと、大型のチームだったのだろう。あまりにも遺体がバラバラに散っているため、正確な数までは把握できない。
目に涙が溜まり、咲弥はふと思った。
今の自分の状態では、おそらく何ができたわけでもない。それでも、もう少し早く来ていれば、もしかしたら一人でも多く救えた可能性は充分にある。
青ざめた顔をするミラが目に入り、咲弥は悲しみに満ちた感情を押し殺した。
「ミラさん……急いで、ここから離れましょう……いったいどんな魔物なのかはわかりませんが、見境がなさ過ぎます」
「そ、そうだね」
咲弥が立ち上がろうとした瞬間、怪鳥の奇声が飛び交う。
そのとき、視界の端で不穏な影を捉えた。
「ミラさん!」
「へっ?」
咲弥はとっさに、ミラの足首を薙ぐように蹴りを入れた。
力を変に込めたせいで、右の脇腹に激痛が走る。
「きゃっ!」
「ぐぁっ……」
ミラが大きく地に伏した。同時に、彼女の上半身があった場所を、まるで放水でもされたような何かが通り過ぎる。
一瞬、魔法を疑った。だが、即座に違うと断定する。
咲弥達の後方で落下しても、まだ消えていない。
「ミラさん、大丈夫ですか!」
「し、し、死んだと思ったよぉ!」
「なんなんだ……こいつは……」
ゲル状の物体が、地面をうねうねと動いている。
草に触れるや、瞬間的に溶かされていた。
「最悪……あいつ、スライムだ!」
「ス、スライム?」
久々に聞き覚えのある単語が飛び出た。
自分の知っているスライムとは、かなり違いがある。
不純物がたくさん入り混じった、透明の肌を持つ魔物だ。
籠手にオドを込め、獣の手で戦闘態勢を取る。
ただ脇腹の傷のせいで、直接攻撃は難しい。
冷や汗をかきながら、咲弥は空色の紋様を浮かべた。
散乱する死骸を呑み込みながら、スライムが進んでくる。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾!」
紋様が砕け、咲弥の周囲に一つの青い渦が生まれる。
渦から放たれた水弾が、スライムへと向かった。
「んなっ……」
水たまりに水滴を落としたに等しい。
効いている気配がまるでなかった。
バネのごとく跳ね、スライムが素早く距離を縮めてくる。
(くそっ……)
咲弥は横に回避しながら、黒い爪を宙に留めておく。
振ると脇腹から激痛が生じる。
これが現状、最大限の努力だった。
大きく裂かれたスライムが、いくつかに分離して散った。
しかし、手応えをまったく感じられない。
風の流れに、指を当てているような感覚であった。
(さ、再生?)
スライムがうねうねと動き、元通りになりつつある。
「咲弥! 逃げよ!」
ミラの指示に、咲弥は素早く応じる。
見た感じでは、魔法による再生ではない。明らかに特殊な構造を持つ、スライムならではの身体能力だと考えられた。
物理攻撃が効かないとなれば、方法を考える必要がある。
そのためにも、一時的であれ撤退するほかない。
「はあ……はあ……はあ……」
また脇腹が悪化し始め、痛みがどんどん増した。
治りようのない怪我が、恐ろしいほど重荷になっている。
情けなく思いつつ、悔しさで胸がいっぱいになった。
「さ、最悪だぁ……」
青ざめた顔をするミラが、不意に立ち止まった。
傷みをも忘れ、咲弥は絶望に打ちひしがれる。
スライムがあちこちから、うねうねと現れてきたのだ。
(どこに……逃げれば……)
現実逃避したい気持ちを忘れ、必死に思考を働かせた。
素早く視線を滑らせ、逃走ルートを模索する。
だが、どこにもそんなものはない。
スライムの数が、あまりにも多過ぎた。
(どう、すれば……!)
そのとき、スライム達に異変が起こった。
地響きが聞こえ始めた途端、気味が悪い圧迫感を覚える。まるで周囲の空気が、一気に冷え込んだような寒気もした。殺意か何か――全身から嫌な汗が湧く。
スライム達が、途端に慌てた様子で離散する。
訳がわからない事態は、すぐにさらなる絶望を生んだ。
「なん、なん、だ……あれ……」
恐れを多分に含んだ声を、咲弥は我知らず呟いていた。
どこか恐竜に似た顔をもつ、亀らしき魔物がやってくる。大きな象ですら、一口で丸のみできそうなほど、その体格は巨大であった。
本体の一部か、または寄生なのかはわからない。ただ亀の背には、蛇を彷彿とさせる生き物が無数に生えていた。
まるでイソギンチャクみたいに、うようよと動いている。
数体の蛇が口から閃光を放ち、スライムの進行を阻んだ。
また別の数体が、素早くスライムを咥えて捕らえる。
捕まったスライム達は、まるでバケツリレーかのように、蛇達によって巨大な魔物の口へと放り込まれていた。
これまで遭遇してきた魔物が、すべて小さいと感じられるぐらいの魔物――咲弥の思考は完全に現実逃避してしまい、ひたすら呆然と眺め続ける。
ただただ、その場に立ち尽くすしかできなかった。