第十六話 消えない痛み
マドカレ島の一隅に、遥か昔に造られた洞窟がある。
赤黒い岩肌をした洞窟の中を、アイーシャは歩いていた。大きく背伸びをしたあと、後頭部にある髪留めを抜き取る。
勢いよく首を振ると、長い紫髪がふわりと広がった。
隣を歩く同じ試験官であるゴルダに、髪が何度か触れる。避けるわけでもなく、強面の彼はただ黙々と前を進む。
アイーシャもまた、特に気にすることもなく声を紡いだ。
「っしゃあ。やぁっと、ゆっくりできるな」
洞窟の奥にある広い空間には、頭に布を巻いた男がいる。
地べたで胡坐をかき、地図のほうを覗き込んでいた。
「ケイス。こっちは終わったぞ。そっちのほうはどうだ」
ケイスは応えない。表情一つ変えず、無言を貫いている。
アイーシャは、つい軽く頬が引きつった。
本当に冴えない男だと、心の底から呆れ果てる。
試験官という立場でなければ、関わり合いたくなどない。
「おい、クソドカス! どうなんだって訊いてんだ!」
「……ドクロ地点の魔物が、すでに四体討伐されている」
ケイスは囁くような声で言った。
アイーシャの溜飲が下がり、代わりに驚きが湧いた。
「ほぉう……?」
「その内の三体は、紅羽という受験者が討伐したみたいだ」
「はっ? マジかよ……やるじゃねぇか、そいつ」
ドクロ地点の魔物は、どれも苦戦をしいられるだろう。
難易度的には、中級クラス以上の実力が必須になる。
紅羽という受験者は、そんな魔物を三体も討ったらしい。
かなりの逸材だと、アイーシャは記憶に留めておいた。
「で? 紅羽ってのは、どの魔物を処理したんだ?」
「一体目はアルモネア。二体目がヒリポフ。そして少し前に三体目のベセルブと、その配下すべてを駆除したっぽいな」
「おいおい待て待て! 一体目があのアルモネアだと?」
「あの透明植物を……? 何人で固まって倒したんだ?」
ゴルダが驚きに満ちた声で、会話に割り込んできた。
ケイスは表情一つ変えずに答える。
「単独だ。島に到着後、ほどなくして倒している」
「ありえねぇ。あいつだけは、全員逃げるしかできねぇって踏んでたんだが……もう中の上級クラスの実力があんのか」
「戦闘時間は五分もなかった。簡単に処理している」
今現在の自分でも、五分以内で倒せるかはあやしい。
オドすらも見えず、ほぼ感覚に頼るしかない魔物なのだ。
攻略方法としては、幹に当たる場所に怪我を負わせるか、または煙幕か何かで、透明化の強みを消すしかないだろう。
ただそれがわかっても、簡単に倒せる魔物ではなかった。無数に張り巡らしている根で、目で捉えられない無色透明の遠隔攻撃を仕掛けてくるのだ。
アイーシャはふと、別の疑問が生まれる。
「まさかとは思うが、ヒリポフやベセルブも単独か?」
「近くに受験者の反応はなかった。単独で間違いない」
どちらの魔物も、群れをなして行動する。
特にベセルブは、まるで人と同じく多用の手段を用いる。それこそ、連携の強みを理解し、重んじているほどだった。
多数で協力しなければ、主敵にまでは届かない。
そんな魔物達を相手に、単独で殲滅している者がいる。
驚きを通り越して、下手な冗談という可能性を模索した。
ゴルダが豪快に笑う。
「はっはっはっ。こりゃ驚いた。零級の受験者じゃないか」
最大級の賞賛を、ゴルダは口にした。
横目にゴルダを見てから、アイーシャは疑問を述べる。
「そいつは、いったい何者なんだ?」
「見た目は、まだ十代半ばの銀髪の娘だ」
アイーシャの脳裏に、漠然と記憶がよみがえる。
飛行船で唯一、異質なほど静かなオドを纏う少女がいた。
ゴルダが、あっと短い声を上げる。
「……つい最近、レイストリアの国籍を取得した娘か。確か、ミルドレット公爵のお墨付きだとかで、今回の冒険者試験に滑り込み登録したって聞いたぞ」
ミルドレット公爵――王家の血を引く変わり者だった。
真偽は知れないものの、王都のほうにある冒険者ギルドの支部長と、ずいぶん仲のいい間柄だと記憶している。
「自分のところの私兵を……って感じか?」
アイーシャは誰にとなく、そう呟いた。
反応を示したゴルダが、否定の声で唱える。
「いや、それはねぇだろ。王家の血筋つっても、あの公爵はかなり毛並みが違う……まあ、俺もそこまで詳しくねぇから、なんとも言えねぇが」
「反応しといて、んだよ。使えねえドクソジジイだな」
「ははは……弁解の余地はねぇ」
会話の隙間を見計らったかのように、ケイスが口を挟む。
「そのミルドレット公爵、もう一人の御墨付きが、着地早々レイガルムと鬼熊を討ち、少し前に幽鬼を撃破している」
「ほぉう……?」
「アイーシャに噛みついた、あの子だ」
アイーシャは、ぴくりと肩が跳ねる。
飛行船で唯一、失格者を護ろうとした少年であった。
「あいつかぁ……」
「ただ不死の魔物は、別の受験者と協力した様子だな」
不死の魔物には、通常の攻撃がほぼ効かない。
特殊な方法を用いるしか、すべはないはずだった。
「どうやって撃破したんだ?」
「さすがに、そこまではわからない。俺の紋章術はあくまで動向の把握ぐらいで、もっと詳しく調べるなら腕輪がいる」
「ったく、つっかえねぇ紋章術だな、おい」
アイーシャの罵倒に、ケイスは深い落ち込みを見せる。
「こんな広範囲……俺以上の人材は、いないと思うが……」
「もっと精度を上げろっつぅ話だ。クソドカス」
ゴルダが短い咳払いをした。
「それで……現状、死亡者のほうはどうだ?」
「いや、今のところはいない」
「そりゃ、そうだろうよ! 明らかにやばいと思ったのは、アタシが片っ端から、飛行船から落としてやったからな」
アイーシャはからからと笑った。
少しの間を置いてから、ケイスが低い声で喋る。
「……それに関しては、本当に英断だったと思うよ」
「まったくだ。上の連中も何を考えてんだか……こんなの、冒険者になろうって奴が、挑める試験じゃねぇだろうに」
ゴルダの言葉はもっともだが、アイーシャは否定する。
「アタシは賛成だね。クソゴミクズなんかいらねぇよ」
ゴルダは唸ってから黙った。
ぼそりとケイスが言葉を発する。
「魔神の復活……おそらくは、それを危惧している」
「はんっ。そんな御伽噺を信じてんのか? 乙女だな」
「そうじゃなく……危惧するに越したことはないって話だ」
「まあまあ……」
なだめるような声を出したあと、ゴルダは続ける。
「いずれにしても、今年度は各国どこも……かなり質の高い冒険者が生まれるだろう。それは、いいことだ」
その発言を最後に、一同沈黙する。
アイーシャは大きく欠伸をした。
「さてと……どうせ今日は、もうたいした動きはないだろ。アタシは少し寝てくるとするか。あんたらは頑張ってろ」
「ああ、何かあれば起こそう」
「じゃあ、俺は見張りにでも行ってくるとするか」
「はいはーい。二人とも、あとは頼んだ」
アイーシャは立ち上がり、軽く手を振った。
もうまもなくして、二日目を迎える。
忍び寄る戦慄の足音に――
誰も気づくことはできなかった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
天真爛漫なミラが、じっと咲弥のほうを睨んでいた。
これにはさすがに、咲弥も苦い笑みでしか返せない。
「ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるぅーいっ!」
「いや……僕自身も、あまり理解してませんから」
「その火の紋章石、咲弥の持ち物だとばかり思ってたもん」
生命の宿る宝具の力から、精神世界の出来事まで――火の紋章石を手に入れる経緯を、咲弥は簡潔に説明していた。
最初は半信半疑に思われたが、実際に現物が手元にある。
信じてくれたのはいいが、ミラは不満げな様子であった。
咲弥は困り果てた末に、ミラに一つ提案する。
「じゃ、じゃあ……ジャンケンで決めませんか?」
「ふん! いいもーん! ミラはあの鏡を貰うんだから」
「鏡って……時音の鏡ですか?」
「文句言わないでよ。咲弥はもう紋章石を貰ったんだから」
一瞬、火事場泥棒みたいに思ったが、千年も前の話だ。
試験の指定物でもあるため、止めるわけにもいかない。
「わ、わかりました。じゃあ、そうしましょう」
「ふふーん! そんじゃあ、取ってくるから待っててね」
「ラシャスさんと一緒に、ほかの骸骨達も消えましたが……まだ魔物がいるかもしれません。気をつけてくださいね」
「りょぉーかぁーい」
軽快な足取りで、ミラが小走りに進んでいった。
ミラの姿を見送ったあと、咲弥は右の横腹に手を当てる。
いろいろな姿勢を試してから、激しく動いて確認した。
「あぎゃっ……!」
ズキッとした痛みが、右の横腹から脳へと直撃した。
(体力やオドは回復したのに……まだ、かなり痛いや……)
当初に比べれば、だいぶましにはなっている。
激しく動いたりしなければ、我慢できないほどではない。
それが、結構な問題だった。
試験開始から、まだ一日目なのだ。
これからもっと、魔物との戦闘が続くと思われる。
治癒の紋章具でも治らない怪我を負い、苦い思いを抱く。
(我慢するしか……ないよなぁ……)
咲弥は座り込み、どっとため息をついた。
なににしても、夜が明けるまで休息を取るしかない。
ぼんやりとした意識の中で、空色の紋様を浮かべた。
(まだ紋章穴は、一つしか空いてないんだよなぁ……)
火の紋章石を入手したが、自分にはまだ扱えそうにない。
たとえ自分の属性と違おうとも、もう水の紋章石のほうが扱いに慣れている。試せる時間があれば話は別だが、今すぐ入れ替えるのは、さすがに無理がある。
「咲弥の紋様ってさ、変わってるよねぇ」
「うわっ!」
唐突にミラの声が背後から飛び、肩が大きく跳ねる。
鏡を小脇に抱え、前屈みに紋様を眺めていた。
つい小さな胸の谷間が目に入り、すぐに視線を逸らす。
「なんか天使様が宿ってるみたい」
「ははは……よく言われますね。それ」
「生命の宿る宝具にしてもだけど、咲弥はなんだか凄いね」
それに関しては、本当にただの偶然に過ぎない。
誤って奴隷とならなければ、手にすることはなかった。
(でもそうしたら、紅羽と出会うこともなかったのか……)
銀髪の少女の姿を、咲弥は脳裏に描いた。
今どこで何をしているのか、不安ばかりが胸に募る。
まさかとは思いつつも、否定のできない予感があった。
(こんな暗い中……僕を探してたりしないかな……?)
冷静な紅羽に限って、あまり無茶はしないと信じたい。
試験も大事だが、やはりまずは紅羽と合流すべきだろう。
明日の方向性を、咲弥は胸の内側で定めておいた。
「どうしたの? ぼうっとして」
「あ、いいえ……」
咲弥は我を取り戻してから、ミラに尋ねる。
「ミラさんは、明日からどうするんですか?」
「んぅ……? 咲弥はどうするの?」
反対に質問を返され、咲弥は苦笑する。
「僕は、はぐれてしまった仲間を探そうと思います」
「そっか。じゃあ、ミラもそれ手伝うよ」
「え? いいんですか?」
「だってミラ一人じゃ、魔物の群れに殺されちゃうよ」
戦闘タイプではない。そう言っていたのを思いだした。
確かに、ミラの発言は正しい。
単独行動は、なるべく控えたほうが賢明であった。
「わかりました。それじゃあ、よろしくお願いします」
「こちらこそ!」
途端にミラは、何か思いついたような表情をした。
「そういえばさ、咲弥の言ってる仲間ってどんな人なの?」
ミラに説明していなかったと、咲弥はいまさらに気づく。
トリッキーに言伝を頼んだときも、近くにはいなかった。
「銀色の髪をした女の子です。かなり強いですよ」
「ああ、飛行船で咲弥の隣にいた凄く綺麗な子?」
「ははは……そうです」
ミラは虚空を見上げ、人差し指で口に触れる。
「ふーん……あの子かあ」
「可愛いだけじゃなくて、おそらく僕が出会ってきた人達の中でも、本当に一番強い、バリバリの戦闘タイプですね」
ミラは横目に、いやらしい笑みになる。
「えらく買ってんじゃん? 好きなの?」
「えっ……す……」
まさかの問いに、咲弥は面はゆい気持ちになる。
(好き……か……)
きっと、同じ世界に生まれていたのならば――咲弥は首を小さく横に振って、頭の中にあった思考を打ち消した。
特別な感情を抱いてはいけないと、自身を強く戒める。
仮に紅羽が、特別な感情を受け入れてくれたとしても――彼女からすれば、単純に迷惑にしかならないと思われる。
使命を果たせば、咲弥は自分のいた世界へと戻るからだ。
だからきっと、自分にそんな感情を抱く資格などない。
咲弥は息を整え、まっすぐミラに伝える。
「僕のために力を貸してくれる、大切な仲間なだけです」
「それだけ?」
「……はい」
咲弥は笑みを作って頷いた。
ミラは複雑そうな顔をして、小さく唸った。
「ふーん。それじゃあ、今日は寝て明日に備えよう!」
「そうですね」
咲弥は掛布団もないまま、そっと床に寝そべった。
奴隷での経験がなければ、野宿は少しばかりつらかったに違いない。あのときの経験が、こうして活かされている。
(紅羽……どうか、無事でいてくれ……)
戒めたはずなのに、心のどこかがざわざわとした。
理由はどうであれ、いつしか別れが必ず訪れる。
少しばかり寂しいと思う反面、家族を思えば仕方がない。
こうしている今も、きっと行方不明者扱いのはずなのだ。
右の横腹と同様、複雑な思いがズキズキと胸を痛める。
(それでも……僕は……)
消えない二つの痛みを抱えながら――
咲弥の意識は、ゆっくりと眠りに落ちていった。