第十五話 第二の諸刃の剣
悲しみに沈んだ巨漢に、咲弥はそっと声をかけた。
「ラシャスさん。どうか、自分を取り戻してください」
涙に濡れた黒い瞳で、ラシャスが見つめてくる。
その瞳の奥に、困惑の色が宿った。
「何者だ、貴様」
「もう千年も……遥か昔の出来事なんです」
「黙れ黙れ黙れ黙れ!」
咲弥は目を大きく見開いた。
無数の小さな文字が連なり、ラシャスの周囲を流れる。
護ると殺す――それらに類似した文字も繋ぎ合い、まるで鎖のごとく、ラシャスの全身をきつく絞めつけていた。
文字の鎖に操られるかのように、ラシャスは戦斧を振る。
「ラシャスさん!」
「うぉおおおおおお!」
咲弥は黒い手で防御に徹するが、弾き飛ばされた。
この不思議な場所でも、どうやら痛みは当然ある。
ラシャスの猛攻を回避しながら、咲弥は困り果てた。
下手に迎え撃つわけにもいかない。そんな予感がした。
目の前のラシャスは、心そのものだと思える。
下手に傷つけてしまえば、どうなるのかわからない。
最悪、魂そのものが消滅する可能性があるからだ。
(どうすれば……)
ラシャスは戦斧を、大きく振り上げた。
大振りな攻撃は、とても避けやすい。
咲弥はタイミングを――それは、ラシャスの罠であった。
フェイントを入れられ、ラシャスの素早い蹴りが飛ぶ。
強烈な一撃が、咲弥の腹部を貫いた。
「がはっ……」
宙に浮き上がった咲弥へ、再び戦斧が振り下ろされた。
地面に足がついた頃には、おそらくもう両断されている。だが滞空中の咲弥に、選べる選択肢などほぼないに等しい。
明確な死を予感し、咲弥はただがむしゃらに抗う。
迫るラシャスの戦斧を、黒い拳で殴りつける。そのときに生じた反動を使い、斬撃の軌道から逃れようと試みたのだ。
無我夢中での行為は、完璧だったとは言い難い。
戦斧の刃が横腹をかすめ、電流に似た激痛が駆け抜けた。
「ぐぁあああああっ!」
咲弥は受け身も取れないまま、地面へと落下する。
激痛のせいで、思考が途切れ途切れになる。
そんな咲弥の首を、ラシャスは大きな片手で掴んだ。
あまりの息苦しさに、咲弥は足をじたばたとさせる。
「まだ、終わってなどいない! 護るんだ! 絶対だ!」
ラシャスの黒い瞳は、激しい憎しみに満ち溢れていた。
戦斧が高く天を突く。
朧げになる意識の中で、咲弥は気力を振り絞った。
ラシャスを縛る文字を、白い人差し指の爪で引っかく。
必死の行動ではあったが、予期せぬ幸運を生んだ。
ラシャスの動きが、完全に停止している。
掴んでいた手が緩まり、咲弥はまた地面に落ちた。
「げほっ……げほっ……」
嘔吐しそうなくらい、咲弥はむせかえる。
あともう少し遅ければ、おそらく意識が飛んでいた。
危うい状況だが、ぼうっともしていられない。
咲弥は傷を負った右の横腹に腕を添え、ラシャスを向く。
ラシャスの体を縛っていた文字が、はらはらと消え去る。
それはどこか、水に溶ける墨のようにも見えた。
「私は……いったい……」
呆然とした顔で、ラシャスは立ち尽くしていた。
咲弥は痛みを堪え、必死に言葉を紡ぐ。
「ラシャス、さん……げほっ……」
「君は、いったい……?」
「正気に、戻ってください。ラシャスさん。あなたはもう、千年も前に……亡くなって、しまっているんです……」
信じられないといった顔で、ラシャスは自身の手を見た。
そして震えながらに、ぎゅっと拳を作る。
「そうか……私は、護れなかったのか……何も、何も……」
溢れるように涙を流し、ラシャスは天を仰ぐ。
がくんとラシャスの両膝が落ち、戦斧が地に伏した。
そこで咲弥は、信じられないものを見た。
「いいえ。護ってくださいましたとも」
聞きほれるほど、清らかな女の声だった。
ラシャスを後ろから、ネフトリアがそっと抱きしめる。
「私は魔物にではなく、生まれながらの病に殺されました」
「……ネフトリア、お嬢、様……」
「長い間ずっと……あなたに声をかけ続けていましたのに」
ネフトリアはいたずらな笑みを浮かべる。
「ラシャスったら……まったく聞いてくれなかったわ」
「す、すみません……ネフトリアお嬢様……私は……」
「彼のお陰ね……本当に、ありがとう」
咲弥のほうを見て、ネフトリアはにっこりと微笑んだ。
病に伏していた頃とは違い、活発な表情にうかがえる。
気品溢れる笑みから、少し面はゆい気持ちになった。
「い、いいえ。よかったです……」
ラシャスの前に、ネフトリアは小さく回り込んだ。
「ねえ、ラシャス。一緒に行きましょう」
「しかし……私は……」
「もう休みましょう。私も……あなたも」
ネフトリアは手を取り、ラシャスを立たせた。
「本当にありがとう。ラシャス……そして、あなたも」
「いいえ……どうか、安らかに」
「ええ」
ラシャスはどこか諦めたように、ネフトリアを見つめる。
手を繋いだまま、ネフトリアも見つめ返していた。
「ねえ、ラシャス。小さな頃のように、呼んでください」
「……その、待たせて……すまない……ネフェリー」
「ふふっ」
ふとラシャスが、申し訳なさそうな眼差しを向けてきた。
「勇敢なる小さき戦士よ……救ってくれて、感謝する。もしよければ、これを――どうか、受け取ってはくれないか」
差し出される拳に、咲弥は手を伸ばした。
大きな手に包まれていたため、何かはわからない。
そっと手に置かれたのは、綺麗な深紅の紋章石だった。
「さらばだ、誇り高き戦士よ」
「さようなら」
二人の姿は、ゆっくりと空気に溶け込んで消え去った。
途端に視界がもとに戻り、咲弥に激しい息切れが起こる。
目の前にいる大鬼となり果てたラシャスの全身が、まるで灰のように白くなり――そして、ぱらぱらと崩れ落ちた。
咲弥もまた解放が自然と解かれ、その場に倒れ込んだ。
「咲弥!」
駆け足で傍に来たミラが、咲弥の上半身を抱き起こした。
「いったい、何がどうなってんの? いきなりぴたぁーって止まったと思ったら、いきなりどさって倒れちゃって!」
咲弥は自分でも知らない情報を得る。
白い空間――精神世界とも呼べる場所だろうか。
結構な時間が経っていると、咲弥自身は思っていた。
現実のほうでは、ほんの一瞬の出来事だったらしい。
「いや、まあ……いろいろ……いつつっ……」
「どこか怪我したの? 見せて!」
「右の脇腹のところを……ちょっと斬られまして……」
ミラが慌てた様子で、咲弥の服をめくった。
ただ服をめくられただけですら、痛みが生じている。
ミラは訝しげな表情で、小首を傾げる。
「怪我なんか、どこにもないよ?」
「え……」
そんなはずはない。
ラシャスに斬られた痛みが、ずっと残り続けている。
咲弥は力を振り絞り、痛みがあるほうを見てみた。
確かに、どこにも斬られた跡がない。
(まさか……精神的なものに、傷を負ってるんじゃ……)
二度目の経験を経て、咲弥はぼんやりと理解に達した。
あちらで受けた傷は、こちらでは目に見えない傷となって残る――もしあちら側で死ねば、きっと心が死ぬのだろう。
使いどころを誤れば、咲弥自身の心が壊れるに違いない。
全力の限界突破とはまた違う、まるで第二の諸刃の剣とも呼べそうな力だった。
ほかにも判明していない何かが、きっとあると思われる。
咲弥は今回の件を、肝に銘じておいた。
ふと手に違和感を覚え、そっと目を向ける。
手には、ラシャスから貰った深紅の紋章石があった。
(本当……この世界では、不思議なことだら……けっ?)
途端に、ミラが膝枕をしてきた。
動けない咲弥は、恥じ入ることしかできない。
そんな咲弥の前に、民族的な衣装を着た男が立つ。
「おい。本当は、俺が倒すはずだったんだ」
「ははは……す、すみませんでした」
「貸しだからな? いつか何かで、絶対に返せ」
「……はい。わかりました」
「ふん」
男は後ろを振り返り、立ち去ろうとした。
「あっ……そういえば、あなたの名前……」
男はぴたりと止まり、肩越しに目を向けてくる。
「ハオだ。あんまイチャついてっと、試験落ちるぜ?」
「ち、ちが……いててっ……」
「今は無理しちゃだめだって!」
「時音の鏡は、お前達にくれてやるよ。じゃあな」
ハオはそのまま、素早くどこかに消えた。
恥を抱えつつ、咲弥は必死に回復をはかる。
一刻も早く、ミラの膝枕から抜け出さなければならない。
「ミラさん……治癒の紋章具とか……持ってませんか?」
「えぇっと……確かあったはず」
「使ってもらっても……いいですか?」
「やれやれ。仕方ないなあ」
言葉は不満そうだったが、ミラの表情はにこやかだった。
咲弥はしばらくの間、回復に専念する。
(紅羽は……無事なのかな……今、どこにいるんだろ)
紅羽ほどの実力者であれば、問題ないとは思えた。
しかし――いい知れない不安が、咲弥の胸に募る。
目をそっと閉じ、紅羽の無事を静かに祈っておいた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
日が沈み、島には闇が満ちていた。
今宵は褐色の鉱月に、空色の凍月が並んで浮かんでいる。
鉱月の夜は、あまり明るくはならない。
島の中央にある漆黒に満ちた森の中を、銀色の線が閃く。
「ギャギャガ!」
奇妙な鳴き声が、あちこちから飛び交う。
宙に描かれた赤い魔法陣から、火球が一つ放たれた。
火球とは別の場所から、黄金色に輝いた雷鳴が轟く。
さらに別の場所からは、無数の鋭利な石が飛来する。
樹木を駆け上ってから、光の矢でお返ししておいた。
このマドカレ島には、奇怪な魔物で溢れ返っている。
今現在、ハエに酷似――虫の顔を持ち、人と似た両手足を計八本生やした魔物が、多彩な手段で攻撃してきていた。
属性も個体次第で異なるのだ。
また夜行性らしく、確実に姿を捉えられてしまっている。
(けれどそれは、私とて同じ)
紅羽もまた、夜行での戦闘には慣れている――いや、島で単独行動をしいられ、当時の勘を完全に取り戻しつつあるといったほうが正しい。
思い返せば、父親と呼べる男に拾われて以来、殺伐とした世界とは、まったく縁遠い世界に身を置き続けていたのだ。
だから今の状態に至るまで、ずっと本調子ではなかった。
アラクネ女王から死の狂姫までの間、紅羽は信じられないミスを連発していたと、そうしっかりと自覚をしている。
それだけ、体がなまりきっていたという証拠でもあった。
だが今はもう、感覚が当時と同等に研ぎ澄まされている。
たとえ魔物が、暗い闇にまぎれようとも、オドの気配から場所を特定できた。
樹上に六体、地上に八体、やや遠くに中型が三体に大型が一体――この大型が、交戦中の魔物の親玉だと睨んでいる。
群れをなす魔物は、親玉を消せば混乱する可能性が高い。
(先に親玉を処理してから、ほかの個体もすべて駆除する)
とはいえ、あまり無駄に疲労感を抱えたくはない。
それでなくとも、本日はオドをかなり消耗し過ぎていた。
あれからずっと、咲弥の姿を探し続けている。
しかし、彼の姿がどこにも見当たらない。
とても歯がゆく思い、紅羽の胸をぎゅっと絞めつけた。
(……今は……敵の始末に専念)
紅羽は気を引き締め、親玉の気配がある場所を急いだ。
多種類の攻撃を回避しつつ、邪魔な魔物の駆除もする。
ほどなくして、紅羽の視界に目標地点が映った。
死骸となった魔物の首を掴んだまま、状況の整理をする。
あちらもまた、こちら側の行動は承知の上だったらしい。
中型のハエに酷似した魔物が、三手に分かれて飛んだ。
あまりの飛行速度に、目で追いかけるのは難しい。
一方から雷撃が放たれ、また別のところからは、氷の矢が向かってくる。
最後の一体は、近接戦が得意なようだ。
紅羽は死骸を放り投げ、まずは雷撃を防ぐ。氷の矢と木の棍棒を難なくかわしたあと、作戦通り親玉の駆除を試みる。
純白の紋様を瞬時に、右手の付近に描いた。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
紅羽の右手から、白い光の筋が親玉をめがけて伸びる。
しかし、親玉は微動だにしなかった。
死を覚悟した雰囲気はない。むしろ余裕げに感じられた。
中型の三体が、閃光を追い抜く速さで親玉の場所へ戻る。
三角形に陣を取り、三体それぞれが手を大きく掲げた。
紅羽の閃光は、魔法で生み出された障壁に阻まれる。
(防御系統の魔法を、三体同時に……?)
紅羽の胸に、静かな焦りが生まれた。
今回も異常なほど、厄介な魔物に狙われたと呑み込む。
本音では撤退したかったが、そういうわけにもいかない。
もし咲弥が単独で、こんな魔物と遭遇してしまった場合、非常に危険な目に遭う。そんな可能性を捨てきれなかった。
今の彼ではまだ、対峙するのは早過ぎる魔物だと思える。だからといって、紅羽も無駄に体力を消耗し続けられない。
(今なら……いけるかな。久々に……)
それは体力とオドを、多分に消耗する結果を招く。さらに一度発動すれば、必ず二十四時間は再使用が不可ともなる。
ただ戦いが長引くよりは、まだましだと結論を導いた。
無駄を省くなら、なるべく早いほうがいい。
紅羽は静かに息を整え、純白の紋様をそっと浮かべる。
咲弥すらも知らない、紅羽の固有能力――
「魔女の悪戯」
紋様が砕けた瞬間――
紅羽の目に映るすべてが、動きを止めたように見えた。