第十四話 千年の悲しみ
「お嬢様。失礼します」
武装をした巨躯の男が、部屋の中に入ってきた。
雄々しい声をしており、いかめしい顔つきをしている。
(お、終わった……)
眠る美女の奥に、咲弥達はいる。
これほどの不審者、そうはいない。
なかば諦めの境地で、咲弥は固唾を飲んで見守った。
しかし、不思議な事態が起こる。
咲弥達が見えていないのか、気にした様子がまるでない。
部屋の出入口からは、確実に見える場所のはずなのだ。
(あ、あれれ……?)
大男は、ベッドで眠る女の傍まで進んだ。
腰をゆっくりと下ろし、片膝を床につける。
人の存在に気づいたのか、女は静かに目を開いた。
大男のほうへ顔を向け、女は清らかな声を紡ぐ。
「まあ、ラシャス」
「ネフトリア様。魔物の軍勢が、第三陣を突破しました」
咲弥は呆然と、会話に耳を傾ける。
「そう……どうか、あなた達だけでも逃げてください」
「何をおっしゃります!」
「私はもう……長くはありません。病に殺されるか、魔物に殺されるか……ただ、それだけの違いでしかないのです」
病弱そうに見えて当然だった。
なんらかの病を、彼女は患っているらしい。
ネフトリアは、優しい顔をにっこりと緩めた。
ラシャスは泣きそうな表情で、声を絞り出すように言う。
「我々は、最後まで戦います。旦那様と奥様に拾われ、そのご恩を今こそ返すとき――必ずや、お嬢様をお護りします」
「そう思う、なればこそ、あなた達だけでも生き延びて」
「たとえその命短くとも、魔物の手にはかけさせません」
ネフトリアはくすりと笑う。
「昔から、変わらないね。互いに幼い頃から……ずっと傍にいてくれて、ありがとう。私の人生は、とても幸せでした」
ラシャスは目に涙を溜め、ネフトリアをじっと見つめる。
「ねえ、ラシャス。最後に……子供の頃のように呼んで」
ラシャスは、ぐっと堪えた顔を見せる。
おもむろに立ち上がり、出入口の扉まで進んだ。
「必ず……必ず俺が護ってやる。安心しろ。ネフェリー」
そう言い残して、ラシャスは部屋から出ていった。
ネフトリアは上を向き、穢れのない涙がこぼれ落ちる。
「ありがとう。ラシャス……愛しています。ずっと……」
ネフトリアは呟いたあと、また静かになった。
なんとも言えない感情が、咲弥の胸を埋め尽くす。
これが本当の過去だとすれば、結末は残酷であった。
「なんだか、ちょっと悲しいね」
いつも明るいミラも、さすがに表情を曇らせていた。
頭の上にある耳も、へなへなと萎れている。
そんなミラに、咲弥は何も言葉を返せなかった。
少しして――鏡が突然、眩しい光を放つ。
「うわっ!」
「きゃっ!」
視界は一歩先すらも見えない、まばゆい光に包まれる。
「ミラさん!」
「咲弥!」
咲弥は手探りで、ミラを必死に探す。
ミラも同じく探していたのか、彼女の手と触れ合った。
すると途端に、古びた室内の光景が視界に広がる。
何が起こったのか、何も理解できない。
わかるのは、紋章具が照らす空間に戻ってきたことだ。
「ああ。なんとか戻ってこられたね」
ミラは両手を後頭部に回し、柔和な笑みを浮かべた。
咲弥は無言のまま、頷いて応える。
しんみりとしていると、どこかで爆発音が轟いた。
古城全体が揺れたような、激しい地響きが鳴る。
「な、なんだ!」
耳を澄ませば、何か物騒な物音が聞こえてきた。
さきほど出会った男が、魔物と戦っている可能性が浮く。
しかしここの魔物は、どれだけ倒しても死なない。
もし一人で大勢に囲まれていたら、男の命はないだろう。
咲弥はミラを振り返った。
「ミラさん。助けに行きましょう」
「りょ、了解」
物置部屋から出て、音がするほうへと向かった。
そしてだだっ広い、大きな空間までやってくる。
そこには、戦斧を握り締めた巨躯の怪物――
咲弥は我が目を疑った。
肌は赤黒く、額には二本の黒い角を生やしている。まるで大鬼を思わせる姿なのだが、その格好には見覚えがあった。
(鏡の先で見た……ラシャスさんと、同じ格好……?)
大鬼と対峙しているのは、やはり民族的な衣装の男だ。
黄金色の紋様を浮かべ、男は唱える。
「雷の紋章第二節、雷神の鉾」
男の手から激しい雷撃が放たれ、大鬼に直撃した。
咲弥の眉間に力がこもる。効いている気配がまるでない。
大鬼が咆哮し、電撃を容易にかき消した。
「滅殺する! 殲滅する! 殺す! 殺す! 殺す!」
「くそっ……こいつ、何も効きやしねぇな」
男の呟きが聞こえた。咲弥は大鬼をじっと見つめる。
大鬼の姿が、記憶にあるラシャスと重なり合う。
だが、それはありえない。
どう見ても、外見が鬼の魔物にしか見えないのだ。
(幽鬼……?)
男は再び紋様を浮かべ、大きく飛び上がる。
華麗に舞い、大鬼の真上を陣取った。
「雷の紋章第三節、轟雷の鉄槌」
轟音とともに、紫紺色をした雷が大鬼に落ちた。
しかしやはり、まったく効いていない。
大鬼は戦斧を大きく振った。
上空では、回避するすべなどない。
まるでハエ叩きみたいに、男は戦斧の腹で殴られた。
凄まじい速さで壁に激突する。
「だ、大丈夫ですか!」
咲弥は急いで、駆け寄ろうと進んだ。
「来るな! こいつは、俺の獲物だ!」
声を張った男は、よく見ればぼろぼろになっていた。
ずいぶん長い間、大鬼と戦闘していたと判断する。
「ちっ……こんなところで、負けてられるか!」
両袖の中から剣身が伸び、男は大鬼へと立ち向かう。
男は踊るように、剣技を繰り出した。
大鬼は手強い。そのうえ、かなり硬いのだと思われる。
まともに斬撃を食らっても、かすり傷しか与えられない。
「殺す! 殺す! 殺す! 通さない! 絶対だ!」
何度も繰り返される言葉から、またラシャスと重なる。
「ねえねえ、咲弥……あれって、やっぱり……」
隣に来たミラが、ぽつりと声を紡いだ。
咲弥はミラを向かないまま、疑問を口にする。
「人が魔物になることって……あるんですか?」
「わからない。でも……そうだとしか……」
ミラは言葉を止めたが、咲弥には言われずともわかる。
おそらく死してなお、ラシャスはいまだ戦い続けていた。
たとえその魂が、幽鬼となり果てようとも、ずっと――
千年という途方もない間、ひたすら戦い続けているのだ。
古城への道中に覚えた違和感の正体が、漠然と判明する。
噴水付近まではあった魔物の気配が、古城に近づくにつれ薄くなっていた。それはきっと、ラシャスや骸骨達が魔物を排除していたからだと思われる。
魔物もばかではない。
命の危機を感じ取れば、ガルムみたいに鬼熊から逃げる。だからこの古城へは、近づかないようにしていたのだろう。
(ここが、原型を留めているのも……もしかしたら……)
咲弥は、そんな予感がした。
その直後、男はまた大鬼の攻撃で大きく吹き飛ばされる。
咲弥は自然と体が動き、巨躯の怪物を前にした。
「ラシャスさん! 正気に戻ってください!」
咲弥は大きく声を張って伝えた。
背後から、男の激昂が飛ぶ。
「おい、テメェ! 邪魔をするな!」
男の言葉を聞き流し、咲弥は心から伝える。
「ここにはもう、誰もいません! あなたが護ろうとした、ネフトリアさんも、もうどこにもいないんです!」
「護る! 殺す! 護る! 殺す!」
「ラシャスさん!」
巨躯の鬼となり果てたラシャスは、大きく咆哮する。
肌に突き刺さるような気迫に、咲弥は自然と身構えた。
「イカレてんのか、テメェ! 邪魔だ!」
咲弥を突き飛ばして、男はラシャスと距離を縮めた。
咲弥は素早く籠手を解放し、足先に力を込める。
男の繰り出した斬撃を、ラシャスに当たる寸前で防いだ。
「なっ!」
「待ってください! この人は、魔物じゃありません!」
「ふ、ふざけ――」
ラシャスが戦斧を薙いだ。
男が剣を交差させて受ける。ラシャスの力は凄まじい。
男の体が咲弥にぶつかり、二人まとめて吹き飛ばされた。
「がはっ――!」
咲弥の体が、壁か何かに激突した。
傷みを堪えていると、男が胸倉を掴んでくる。
「テ、テメェぶち殺すぞ! なに邪魔してくれてやがる!」
「すみません。ですが、傷つけさせるわけにはいきません」
「マジで頭おかしいだろ! あいつは、魔物なんだぞ!」
激怒する男から視線を外し、咲弥はゆっくり向かってくるラシャスを見る。
「そうかもしれません。ですが、あの人は人なんです」
「訳わかんねぇ……なに言ってんだ!」
見ている限りでは、紋章術や物理攻撃は効きそうにない。
だがもし、人の心がまだ残っているのなら――咲弥には、たった一つ試せるすべがあった。成功するのかどうかまではわからない。
あれから試したことが、ただの一度もなかったからだ。
それでも咲弥は、ラシャスを想って決心する。
胸を掴む男の手を、咲弥はそっと離させた。
「すみません。少しの間だけでも構いません」
「はあっん?」
咲弥は憤怒の形相をする男に、少し頭を下げた。
「この戦い、僕に譲ってください」
「ふ、ふざけんな!」
「お願いします」
答えを聞きもせず、咲弥はラシャスへと向かう。
体中に残る痛みを堪え、白い手を胸の辺りに置いた。
(頼む。紅羽のときみたいに……どうか、力を貸してくれ)
咲弥は白い手に懇願して、ラシャスへ一気に駆ける。
巨躯のわりに、ラシャスの動きは俊敏であった。
(は、速っ……)
戦斧が空を裂き、咲弥の前髪が少しはらはらと散った。
後から訪れた風圧に、殴られたような気さえする。
「殺す! 殺す! すべて、殺す!」
ラシャスの前に、赤い魔法陣が顕現する。
生み出された激しい炎が、戦斧に纏わりついた。
「爆ぜろ!」
薙いだ戦斧から、炎が破裂して飛散する。
咲弥はかわせそうにない炎だけ、白い爪で引き裂いた。
そこで咲弥は、自分の判断の誤りに気づく。
ラシャスは素早く、咲弥の背後へと回り込んでいた。
(避けられな――!)
なかば本能的に、咲弥は黒い手で身を護った。
戦斧の刃を防ぎはしたが、その勢いは凄まじい。
衝撃が籠手をもすり抜け、右手首に激痛が走る。
まともに受けていては、勝ち目などいっさいない。
(ぐっ……!)
ラシャスの猛攻撃を、黒い手で受け流す。
防御に徹しても、ダメージは着実に蓄積していた。
そんな極限状態のさなか――
咲弥の心に、強い哀しみが溢れた。
攻撃の一つ一つから、ラシャスの感情が伝わってくる。
じんじんする右腕を抱え、咲弥はいったん距離を取った。
「護る。殺す。護る。殺す。殺す。殺す。殺す」
ラシャスはまた呟き、激しい咆哮を放つ。
ラシャスとの戦いを経て、ほんの少しわかった気がする。
なぜ怪物となり果てたのか――おそらくだが、ラシャスは自分自身を呪ったのだろう。そんな気配が強く感じられた。
それで魔物化するのか、実際のところ不明ではある。
いずれにしても、このままにはしておけない。
(だけど……強過ぎる……)
なかなか白い爪を、ラシャスの胸に刺すことができない。
戦斧をいなすとしても、限界があった。
一瞬の隙でもあればいい。
たった一撃が当たれば、それでよかった。
それすらも叶わないぐらい、ラシャスは強い。
(中の四級……やっぱり、僕が敵う相手なんかじゃない)
「木の紋章第三節、妖精の束縛」
突然、ミラの詠唱が飛ぶ。
ラシャスの体が、苔から飛び出たツタに絡め取られる。
ここが最大にして、最後のチャンス――咲弥は考える間もなく、自然と体がラシャスのほうへと詰め寄っていた。
「な、なんだかわかんないけど、今のうちにやっちゃえ!」
「助かります!」
咲弥は言いながらに、白い爪をラシャスの胸に刺した。
瞬間、視界が暗い闇に包まれる。
一枚の写真のように、咲弥の頭の中に光景が浮かんだ。
どこかの豪華な部屋にいる、幼い少女――
華やかな庭園にいる、十代ぐらいの少女――
魔物の大群と血を流して戦う、大勢の兵士――
本人が記憶していると思しき情報が、流れ込んできた。
そして気がつけば、真っ白な空間に咲弥は立つ。
少し先には、戦斧を持ったラシャスがいた。
ラシャスは肩を落とした姿勢で、ぶつぶつと呟いている。
「絶対に護るから。魔物は皆殺しだ。絶対に護るんだ」
咲弥はそっと近づき、ラシャスを前にする。
ラシャスは泣いていた。
止まることのない涙は、頬を通って下に滴り落ちていく。