第十話 魔獣の庭
試験の場となる島へ、咲弥は怒涛の速さで落下していた。
体中を目や手で探っているが、装着されたパラシュートと思われる品の使い方が、いまだにまったく判明していない。
ぼんやりとした記憶では、何かを引けばいいはずだった。
(ない! ない! ない! どこにもないぞ!)
自分の世界とこちらの世界では、使い方が異なるらしい。
紅羽であれば、紋章術で落下を回避できそうではあった。
以前にも、不意の落下を経験したことがある。
そのときは、紅羽の紋章術によって助けられたのだ。
しかし今は、彼女の姿がどこにも見当たらない。
吹き荒れる風のせいで、はぐれてしまったのだろう。
(どうする! どうする! どうする!)
時間はもう、あまり残されていない。
ほどなくして、島に激突する距離にまで迫りつつある。
咲弥はもう一度、体中をまさぐった。
「どうして何も見つからないんだぁあああ――!」
眼前の島には、地面すらも見えない。
ただただ、深い森が広がっている。
「くそぉおおおおお!」
一か八か、新たな紋章術を生み出すしかないと考えた。
紅羽のレーザーみたいな、放水する系の紋章術がいい。
咲弥は覚悟を決め、空色の紋様を浮かべる。
その瞬間――何かが爆ぜた音が、背後から聞こえた。
途端に白い紋様が、目の前に大きく浮かび上がる。
紋様は砕け散り、咲弥は大きな球体に包み込まれた。
シャボン玉が落ちるように、球体が地上へと向かう。
「はあ……はあ……はあ……」
四つん這いの姿勢で、咲弥は大きく肩で息をした。
この謎の球体は、紋章具による効果だと思われる。
咲弥が特別、何かをしたわけではない。おそらくは、ある一定まで落下した場合、自動的に発動する代物なのだろう。
(それぐらいの……説明……してくれよぉ……)
さすがの咲弥も、これには不満がこぼれる。
今回ばかりは、本気で死を覚悟した。
そのせいか、全身にピリピリとした感覚が残っている。
木々の先端に刺さって割れないか、ふと不安に思う。
咲弥はじっと見つめ、固唾を飲んで見守る。
球体は木々の先を、まるで押しのけるように落ち続けた。
(もしかして、これって……バリアの一種なのか?)
なににしても、心からありがたい紋章具に違いはない。
地面に到達した瞬間、球体はぱっと音もなく弾け飛ぶ。
咲弥はしばらく、四つん這いの姿勢から動けなかった。
(……だめだ……行動……しなくちゃ……)
なかば無理矢理、咲弥は気を取り戻して行動に移る。
降り立った場所は、ひどく薄暗い不気味な森の中だった。
周囲の木々は背が高く、太陽の光をあまり通してこない。そのせいで、ここはかなり陰鬱とした雰囲気が満ちている。
咲弥はまず、船員に取りつけられた装具を外した。
そこで、不意に気づかされる。
「あれ……? これ、ただの鞄だ……」
咲弥は自然と、心の声を口から出していた。
改めて鞄を調べてみると、何かが入れられていた。
(地図と……それに……)
一日分程度の、水と食料も入っている。
不思議なことに、紋章具の姿がどこにも見当たらない。
球体の紋章術を、どう発動したのか疑問が胸に残った。
(もう、訳がわからないな……)
悩むのをやめ、咲弥は地面に地図を大きく広げた。
すでに地図には、いろいろ書き込まれている。最初に目を引いたのは、あちこちにあるドクロと星のマークであった。
しかもドクロマークは、それぞれ色違いがある。
何を意味するのか、現時点ではよくわからない。
危険そうな場所なのだろうとだけ、咲弥は察しておいた。
あまりに必死だったのもあり、今現在どこにいるのか――この島には森が多く、それのどれか一つなのは間違いない。
現在地を探る過程で、別のマークが目に入る。
(ん……? この赤丸は……なんだ……?)
ドクロや星とは違い、ほかに同じ記号はない。
島の南東付近にのみ、唯一の赤い丸が記されていた。
(うぅーん。とにかく……紅羽と合流しなくちゃな)
咲弥は物資と鞄をまとめ、自分の鞄の中に移した。
紅羽を探すためにも、まずはひらけた場所に移動したい。
「よし。行くか」
そう意気込んだ瞬間、嫌な物音が後方から鳴る。
背の高い草むらから、いきなり四足歩行の魔物が現れた。
「うわっ……」
その犬っぽい魔物には、見覚えがあった。
「ガ、ガルム……!」
「キシュラララァアア!」
口先を花びらのごとく開き、ガルムは奇声を発した。
いろいろな場所から、似た奇声が飛んだ。
一体だけではなく、複数体が潜んでいる。
咲弥はとっさに、空色の紋様を浮かべた。
「黒白の籠手、装着」
紋様が砕け、咲弥の両手がまばゆい光に包み込まれた。
光が弾け飛び、白と黒の籠手が装着した状態で出現する。
試験が始まるまでの訓練で、唱えずとも解放できる手段を発見していた。実は解放と口にせずとも、オドをほんの少し込めただけで、獣の手を生み出せる。
獣の手を象ったモヤを両手に纏い、咲弥は力強く走った。
(よし)
ガルムが距離を一気に縮め、噛みつこうとしてきた。
咲弥はすれ違いざまに、黒い爪でガルムを引っかく。
鋭利な黒い爪は、ガルムをまるで水のごとく切り裂いた。
案の定、ガルムの群れが次々にやってくる。
「数が……多過ぎる!」
これはまるで――村が襲撃にあったときと似ている。
不穏な想像を抱いた矢先、それはすぐに現実となった。
「シュラララァアアアア!」
強烈な咆哮をしたのは、巨獣のレイガルムであった。
ガルム達を従え、やや遠くのほうを陣取っている。
咆哮は合図だったのか、ガルム達が一斉に動きだした。
解放した獣の手で応戦しながら、咲弥は撤退を目論む。
だがやはり、ここのガルム達もかなり賢い。
予定していた退路を、確実に断ってきた。
(それなら……)
覚悟を決め、レイガルムと一気に距離を縮める。
道中のガルムを退治しつつ、向かう足をさらに速めた。
痺れを切らしたのか、レイガルムも詰め寄ってくる。
咲弥は周囲に視線を巡らせ、空色の紋様を浮かべた。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾!」
紋様が砕け、咲弥の周囲に一つの渦が生まれる。
渦から放たれた水弾が、邪魔になるガルムを一体貫いた。
レイガルムの素早い噛みつきを、落ち着いて避ける。
回避と同時に、レイガルムに白い爪を振るう。
オドを失ったレイガルムの巨体が、大きくよろめいた。
咲弥は黒い手を大きく開き、頭上より高く持ち上げる。
「うぉああああああ!」
咲弥は叫び、黒い爪を力強く振り下ろした。
レイガルムの胴体に、五本の線が深く刻み込まれる。
臓物がこぼれ落ち、巨獣は重い音を立てて倒れた。
周囲にいたガルム達は驚き、そして戸惑っている。
「はあ……はあ……」
この世界を訪れ、まだ間もなかった頃とは違う。
しっかり成長していると、咲弥は強く実感する。
(よし。いける……!)
喜んでもいられない。まだガルムの群れが残っている。
ガルム達はレイガルムのほうを、ただじっと眺めていた。
ガルム達が退散の姿勢を見せたとき、別の異変が生じる。
激しい物音を響かせ、草むらからまた別の魔物が現れた。
「ん、なあっ……!」
まるで鬼を思わせる顔をした、巨大な熊の魔物であった。
紅羽の言葉が、咲弥の脳裏によみがえる。
おそらくだが、鬼熊と呼ばれる魔物に違いない。
ガルム二体を掴み、そのまま鬼の顔へと運んだ。
バリッ、ゴリッと、骨が折れる嫌な音が聞こえる。
(うっ……)
何体かのガルムは逃げたが、数体だけは鬼熊へ向かった。
花のごとく口を開き、鬼熊に噛みつく。
ただ、体格に差があり過ぎる。
鬼熊は平然としており、噛みついたガルム達を掴んだ。
そのまま、また嫌な音を立てて一気に喰っている。
獲物が消え、鬼熊が咲弥のほうを向いた。
(なんなんだ……この魔物は……)
一体しかいないとは限らない。
咲弥は周囲に気を配りながら、戦闘態勢を整えた。
なぜか鬼熊は襲ってこない。
こちらの様子を、じっとうかがっている。
何かを考えていたのか、唐突に赤い魔法陣を生みだした。
魔法陣から大きな火球が放たれる。
咲弥は前に飛び出し、白い爪で火球を切り裂いた。
「グォオオオオオオオオオ!」
鬼熊の雄叫びが、咲弥の肌に痺れを与えた。
気迫に呑まれないように、咲弥も叫ぶ。
「うぉおおおおお!」
迫る鬼熊が、鋭利そうな爪をむき出しにした。
襲い来る鬼熊の手を、咲弥も黒い爪で対抗する。
「か、硬っ……」
皮膚が硬いのか、黒い爪でも軽傷しか与えられない。
とっさに機転を利かせ、まずは白き爪を大きく薙いだ。
白い爪は鬼熊から、大量のオドを裂いて奪う。
目に見えて、動きがにぶくなった。
咲弥は浮かべた空色の紋様に、練り上げたオドを込める。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾!」
渦から飛び出した水弾が、鬼熊の胸部を大きく貫いた。
苦しまぎれの思いつきだったが、さほど悪くはない。白い爪でオドを裂けば、紋章術の耐性が大幅に下がるようだ。
今になって初めて、咲弥はその事実を知れた。
鬼熊はそのまま、盛大に後方へと倒れる。
「……はあ……無事に倒せて……よかったぁ……」
レイガルムとは異なる強敵を討ち、咲弥は安堵する。
本当は休憩でもしたかったが、そんなわけにもいかない。
いつまた、魔物に襲われるのかわからないのだ。
レイガルムと鬼熊の角は、指定物リストに載っていた。
咲弥は黒き爪を眺めてから、先にレイガルムを前にする。
(ごめんね。どうか、安らかに……)
冥福を祈ってから、黒い爪を使って作業を開始した。
ネイの見よう見真似だが、下手ながらもレイガルムの角を摘出する。それが終われば、鬼熊の角も手に入れておいた。
最後に、ガルムの角も得る。リストには載っていないが、ただ命を奪われただけでは、あまりにも哀しい。
(これで、全部かな……)
解放は解いたが、念のため籠手は出したままにしておく。
咲弥は気を取り直して、ひらけた場所を目指した。
なるべく早くに、紅羽と合流しておきたい。
さきほどの鬼熊みたいな、初見の魔物はまだ怖い。
もし、アラクネ女王クラスの魔物が出現した場合――命を失う危険性がある。
単独行動を続けるのは、ただの無謀でしかない。
しばらく歩き続けると、なにやら妙な物体が見えた。
森の中を進んだ先に、奇妙な形をした石がある。
ふと思いだして、咲弥は地図を手に小さく広げた。
(あれは……あった、ここだ……)
咲弥の背筋に悪寒が走った。
今現在、島の西側にいると判明する。
現在地がわかると同時に、この森の名称もわかった。
(魔獣の庭……?)
不気味な森が、一層不穏な雰囲気を漂わせた。
吹き抜けていく風が、どこか笑い声にも聞こえる。
周囲を見回してから、また地図に視線を戻す。
地図から、さらに最悪そうな情報も得られた。
魔獣の庭の付近には、幽鬼の古城と記された建物がある。そこには、赤黒い色をしたドクロマークが描かれていた。
「幽鬼……? なんなんだ……ここは……」
また草むらを掻きわける音が、不意に背後から鳴った。