第四話 不出来な使徒
咲弥の視界を、凄まじい蹴りが横切った。
腹の傍にある短剣が、衝突音を鳴らして弾け飛ぶ。
「咲弥様! ご無事ですか!」
紅羽の悲鳴じみた声が届き、悪寒が背を駆け抜ける。
あと少しでも紅羽が遅ければ、腹を裂かれていた。
咲弥は大きく後退して、刺された箇所の確認をする。
短剣の切っ先が、幸い極わずかに刺さっただけらしい。
「だ、大丈夫!」
咲弥は声を張って伝えた。実際、大丈夫ではない。
痺れにも似た感覚だけが、体中に発生していた。
とても嫌な汗が、全身から噴き出している。
「あと、もうちょっとだったのに……」
死の狂姫の声が、どこからか届いた。
やはり、霧を払わなければ勝機はない。
そのとき、紅羽の声が聞こえた。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
爆発音が轟いたあと、すぐにまた似た音が響いた。
次第に霧が晴れ、空間の上部に二つの大穴が見える。
一方の穴が風を吸い、もう一方が霧を吐き出した。
(そうか……確かに、それが一番いい)
緊迫した空気のせいか、思考がかなり鈍っていた。ただ、たとえ思いついたとしても、咲弥には難しい芸当ではある。
死の狂姫の姿が、徐々にはっきりとした。
紅羽が、咲弥の隣に並ぶ。
女の子達のほうを見ると、まだ無事の様子だった。
ひとまず、そこには安堵する。
「ところで……咲弥様だったかな? 坊やの描いた紋様も、とても美しいわね」
(……も……?)
死の狂姫は頬に右手をあてて、腰をくねらせた。
「まるで、天使が舞い降りたような紋様……色違いではあるけれど、彼と同じね」
「彼……?」
「別の大陸でね、坊やと似た紋様を持つ彼と出逢ったの」
別の意味から、咲弥の背筋がゾクッとなる。
咲弥とはまた別の、ほかの使徒の話に間違いない。
(僕以外の使徒……どんな人なんだ……?)
死の狂姫は、うっとりとした表情を見せる。
蠱惑的な体に手を這わせ、そっと自身をまさぐった。
「とても、強く、芯のある、赤黒い瞳、だったわ――私ね、ぞくぞくしちゃった」
(なっ……んだ、この人……)
気持ちが悪い――咲弥はつい、心からそう感じた。
死の狂姫は、なおも続ける。
「もう一度……彼に会いたい。だから、自分の予感を信じて……こんなつまらない国に、来たけれど……とっても残念。この国では、なかったみたい」
死の狂姫は艶めかしい吐息を吐き、頬を赤く染めていた。
そして妖艶な笑みを浮かべ、自分の手に舌を滑らせる。
「坊や達もいいけれど、だめね。彼ほど欲情しないから……ああ、ジオ……どこにいるの……こんなに求めているのに」
この世界を訪れ、初めて別の使徒の名が判明した。
ジオ――どんな人かはわからないが、少しだけ同情する。
こんな気味の悪い女に、大陸を越えて追われているのだ。
「でも……そうね……」
途端に、空気が凍りついた。
「……この疼きぐらいは、止めてくれるかしら?」
死の狂姫が、まっすぐに突っ込んできた。
ほぼ同時に、紅羽も動く。
使徒の話も気になるが、今は死の狂姫の撃退が先だった。
まるで霧を相手にしている――そんな気さえする。
(ジオって人は、どうやって撃退したんだ……?)
ジオという男が追われている。その事実からも、必ず死の狂姫を撃退する方法が、何かあるはずであった。
紅羽との戦いを見ながら、咲弥は必死に思考を巡らせる。
体術だと口にしていた。だが、そんなはずがない。
ただ、紋章術でもなさそうなのだ。
だから紋章具を使用している可能性が高い。
あともう一つ――本来、紋章術は使い捨てのはずだった。一度効果を発したあとは消滅するか、跡が残るかしかない。
しかし彼女の紋章術は、回収されている気配があるのだ。
そんなことができるのか、咲弥にはわからない。
考察が間違えている。そんな可能性は充分にあった。
だが――
(さっきの紋章術なら……試してみる価値はあるか……?)
咲弥は白い手に、ぐっと力を込めた。
問題点としては、また同様の術を放つとは限らない。
もし放たれても、一発当てられるのか自信もなかった。
紅羽の攻撃ですら、当たったと思えば煙のごとく消える。
心から、訳がわからない心境だった。
「ああん……紅羽だったかな? 君も本当にいいわ」
死の狂姫は、灰色の紋様を生み出した。
「霧の紋章第八節、散開の陽炎」
死の狂姫が、また十数人に分身した。
咲弥はなかば、弾かれたように行動を開始する。
(ここだ……ここしかない!)
たとえ幻影だったとしても、そこに実はあると予想した。
考えが正しければ、幻影が受けたダメージは本体へ還る。
今はもう、そう信じるしか道はなかった。
いずれにしろ、紅羽の負担は減らしておいたほうがいい。
紅羽を狙う一体の背後に迫り、咲弥は空色の紋様を描く。同時に、胸の内側から発生するオドを一時的に遮断した。
「白い爪に限界突破!」
死の狂姫の背後から、白い爪で大きく斜めに引き裂いた。
幻影のはずなのに、そこにあるといった手応えがする。
途端に幻影が霧に変わり、死の狂姫へと吸い込まれた。
遠くのほうにいた死の狂姫が、ふらりとよろめく。
「何、それ……オドが大量に、削り取られた……?」
「追撃します!」
紅羽が追い打ちをかけようと、恐ろしい速度で進んだ。
そのとき、死の狂姫が懐から何かを取り出した。
小さな紋様が飛び出て、周囲が素早く濃霧に包まれる。
「くそっ……! やっぱり、紋章具を持ってたんだ……!」
咲弥は必死に、死の狂姫のか細くなったオドを探る。
「残念……今回は身を引くわ」
死の狂姫の声が響いた。
場所の特定はまだできない。
「ジオには遥かに劣るけれど……坊や達もあと数年後には、いい感じになってそうね。でも先に……私はジオを追うわ。それまでに、成長しておいてね」
ようやく捉えた死の狂姫のオドが、どんどんと遠退いた。
次第に霧も晴れ、咲弥はその場にへたり込んだ。
いまさらながらに、恐怖に心の中が蝕まれる。
想像を超えた奇怪な人間――正直、二度と会いたくない。
「咲弥様……!」
「紅羽……大丈夫? 怪我はない?」
「はい。問題ありません」
「よかった……」
安堵もつかの間、咲弥は金髪の女の子のほうを見た。
死の狂姫が手を出さなかったのが、救いだったと思える。そこまでの余裕はなかったのか、または、紅羽を心の底から警戒していたからなのだろう。
「紅羽、オドはまだ大丈夫?」
「はい。了解しました」
紅羽は咲弥の意図を、言わずとも呑み込んでくれた。
咲弥は微笑みを作り、紅羽にお礼を告げる。
「ありがとう」
倒れたリリスのほうへ、紅羽と歩み寄る。
紅羽は右手を前に伸ばして、純白の紋様を宙に描いた。
「光の紋章第三節、光粒の陽だまり」
キラキラとした光が舞い、リリスの全身に淡い光が灯る。
「これは……治癒の紋章術?」
女の子は目に涙を溜め、呟くように問いかけた。
紅羽の代わりに、咲弥が頷いて応える。
「このお姉ちゃんに、任せておいて大丈夫だよ。きっと……元気にしてくれるから。だからもう、安心していいからね」
「……心より……感謝する」
女の子は少し顔を伏せ、涙ながらにお礼を口にした。
紅羽が治癒をしている間、咲弥は周囲に目を向ける。
死の狂姫が手に――男達には、まだしっかり息があった。
(……でも、紅羽一人じゃ……この人数は無理だ……)
紅羽を見ると、リリスの治癒に勤しんでいる。
紅羽を見つめていると、ふとある一つの想像が浮かぶ。
いつの日か、ある選択を迫られるかもしれない。
(護るためなら、僕は……殺せるのか?)
魔物ではない。この世界にいる、自分とよく似た住人だ。
今回は当然のように、撃退ばかりを考えていた。
結果だけを見れば、死の狂姫を逃がしたに過ぎない。
そのことで、ほかに被害が出るのは目に見えている。
自分の知らないところで、こうして被害が出るのだ。
(それなら、僕は……あの人を、殺せたのか……?)
もし殺さなければ、自分か大切な人を失う可能性は充分に考えられる。そこは魔物であれなにであれ、変わりはない。
紅羽をたとえに、咲弥は漠然と想像する。
(紅羽が殺されかけたら……僕は、迷わない?)
二つの考えが、咲弥の脳裏で交差する。
天使の遣い――使徒ではあるが、咲弥は英雄ではない。
また、救世主でもない。
世界のすべてを、救える力なんか持っていないのだ。
それでも、身近な人――大切な人ぐらいは救いたい。
手の届く範囲でなら、護りたいとそう願っている。
だから、その日がきたときは――
「咲弥様。気がつきました」
紅羽の声に、咲弥ははっと我を取り戻した。
急いで、紅羽の傍まで戻る。
どうやら、リリスはまだ完全には癒えていない。
完治するまで、もうしばらくの時間がかかりそうだ。
そんなリリスが、絞り出したような声で呟く。
「あれ……私……」
「安心してください。死の狂姫は、もう逃げましたから」
「リリス! どうして、あなたがやられているの!」
女の子がリリスに、ぎゅっと抱き着いた。
「シア様、申し訳ありません……ご心配をおかけしました。事実確認をしてから、報告する、つもりだったのですが……その前に……」
「ばか! とても心配したんだから!」
二人の上下関係が、咲弥にはよくわからなかった。
小さなシアのほうが年上のリリスより、上の立場らしい。
リリスがゆっくりと、咲弥達のほうに目を向けてきた。
「すみません。冒険者ギルドか、衛兵所に、連絡を……」
「冒険者ギルドか衛兵所に、ですか……?」
咲弥が問うと、リリスは小さく頷いた。
「死の狂姫は全国指名手配犯。まだ付近に、潜伏していると考えられます。ですから、通報を、どうか、お願いします」
「リリス。あなたの通信機は、どうしたのよ?」
「死の狂姫に、壊されて、しまいました……」
「……もう、ばか!」
事情はよくわからないが、咲弥はとにかく応じる。
「わかりました。僕、急いで伝えてきます」
「よろしく、お願いします」
安心したのか、リリスは体の力を抜いたようだ。
咲弥は紅羽に視線を移した。
「紅羽。ここを、任せてもいいかな?」
「了解しました。咲弥様、お気をつけください」
「うん……」
顔見知りのミリアであれば、簡潔に話が進むと予想する。
咲弥は全速力で、冒険者ギルドに向かった。
その後――
今回の事件は、冒険者ギルドから王国側へと通達された。
咲弥はそのまま、冒険者ギルドに待機を命じられる。
帰還した紅羽の話によれば、リリスや男達は全員、王都にある治療施設に運ばれた。幸い、死者は一人も出ていない。
そして咲弥達は、調査班の者達に事情聴取される。
終わった頃にはもう、かなりいい時間になっていた。
さすがに酒場での仕事は、休むようにと紅羽に提案する。
宝具使いの自分とは違い、紋章術を連発していたからだ。だが紅羽は頑として了承せず、そのまま働くこととなった。
「紅羽ちゃん! こっちの席に酒を頼んだ!」
「こっちが先だ! 紅羽ちゃん、持ってきてくれぇい!」
「んだと、テメェ! こっちが先だ! クォラァッ!」
「いいおっさんが色気づいてんじゃねぇぞ、オラァ!」
「噂で聞いてたけど、本当に可愛いわ。あの娘……」
相変わらず、紅羽の人気が凄まじい。
ミリアが新たに見立てた、ゴスロリのような――黒と赤を基調とした衣装を着させられ、本日も淡々と働いていた。
疲れた様子は見受けられないが、心配は拭いきれない。
少しでも紅羽の負担を減らすべく、咲弥も精一杯働いた。
そんなさなか、咲弥はふとほかの使徒のことを考える。
(ジオって人は、死の狂姫を一人で撃退したのかな……)
一か月ほど前、冒険者達の間で噂になった人物がいる。
また別の使徒なのかどうか、咲弥にわかるすべはない。
噂のほうの使徒は、上級冒険者に無傷で完勝したようだ。
今回の使徒は、死の狂姫を撃退している。
その事実から、咲弥は苦い思いを抱かずにはいられない。
自分は使徒として不出来――そう思わざるを得なかった。
(きっと……本当に凄い人達が、選ばれてるんだ……)
自分が選ばれた理由が、いまだによくわからない。
このままでは、ほかの使徒が先に邪悪な神を討つだろう。
そうなれば、もとの世界にはもう二度と戻れない。
迫る激しい焦燥感に、咲弥の胸が圧迫された。
「おぉい! 咲弥! これも運んでくれぇ!」
「あ、はい! すみません!」
仕事を少しさぼってしまい、咲弥は自分をたしなめる。
(今は……自分にできることだけを、考えよう……)
たとえほかの使徒に、大きく後れを取っていたとしても、諦めるにはまだ早い。
最終的に邪悪な神を討った者だけが、願いを叶えられる。
そのときが来るまでは、前へ前へと進んでいくしかない。
冒険者資格取得試験の、エントリー期限が刻々と迫る。
あともう、一日分もない――