第三話 死の狂姫
王都に到着してから、二日後――
冒険者資格取得試験のエントリーは、いまだ進展がない。
上級冒険者は基本、世界中を巡っており、王都でも滅多に出会えないようだ。正直なところ、そこから五名もの推薦を得るのは、あまり現実的な方法ではない。
身分が高い者の推薦は、上級冒険者以上の難題であった。
かなり特殊な状況でもない限り、ただの一般人――身分が最下層に位置する無国籍者は、対面すらも不可能に等しい。
いずれにしても、正体不明の者に手を貸す変わり者など、そう多くはないのだ。
咲弥は今現在、紅羽と東レイストリアの北側にいる。
大きな噴水のふちに二人して腰をかけ、休憩をしていた。
昨日から荷物は宿屋に預けており、どちらも身軽な格好で王都を散策している。持ってきているのは、所持金を入れた布袋くらいだ。
咲弥はぼんやりと、雲が流れる大空をじっと見つめる。
「はぁあ……今日も、進展がなかったなぁ……」
噴水の音を聞きながら、咲弥はため息を大空へと投げた。
かなり追い込まれた状況に、現実逃避でもしたくなる。
「もっと時間があれば、別の方法もあったのになぁ……」
「もう明日までしか、時間は残されておりません」
隣にいる紅羽の言葉を聞き、再びため息が漏れる。
あと数時間後には、酒場の仕事に出なければならない。
酒場は一昨日に比べ、昨日は倍ほど忙しかった。
冒険者達の間で、ある噂が密かに流されているらしい。
神々しいぐらい美貌の少女がいる――そんな噂を聞けば、見てみたいと思う気持ちは、男としてちゃんと理解できる。
紅羽を初めて見たとき、咲弥も目を奪われた一人なのだ。
過去の記憶を、ぼんやりと掘り起こす。
(って、違う。そうじゃない。今は、試験のことだ)
自身を戒めたあと、ふとある女の子の姿が視界に入った。
金髪の女の子は、まだ十歳にも満たない年頃だと思える。
なにやら必死に、周囲を慌ただしく見回していた。
咲弥はそっと立ち上がり、女の子へと歩み寄る。
咲弥はしゃがみ込み、目線の高さを合わせて声をかけた。
「どうしたの? お母さんと、はぐれちゃったかな?」
「だ、誰っ? あんたの相手なんか、している暇ないわ!」
女の子の予想外な発言に、咲弥は一瞬だけ硬直した。
ばつが悪い思いから、傍に来た紅羽に苦笑を送る。
気を取り直して、咲弥は声を優しくして伝えた。
「いや……なんだか、困ってる雰囲気だったからさ」
女の子は、しきりに周囲を見渡している。
咲弥の言葉には、何も反応を示さない。
その状態から、少しただならない事情を察する。
「おかしい……いったい、どこにいるの……?」
「誰か、探してるのかな?」
「……あんた。金髪の眼鏡をかけた女を見なかった?」
「金髪の、眼鏡……?」
姉妹なのか友達なのか、さすがに情報があまりに乏しい。
もう少し詳しく、咲弥は訊いてみた。
「ほかに何か、特徴はあるかな?」
「歳は二十五、身長は百七十。体重は五十三、白いスーツを着た人間の女」
その詳細にというよりは、言葉遣いに驚かされる。
容姿が女の子なだけで、実は年上ではないのかと疑った。
この世界であれば、それもまた不思議とは感じられない。
そんなことを考えながら、咲弥は記憶の糸をたぐった。
どこかで見たような気もするし、見なかった気もする――さすがに通り過ぎた人を、全員覚えているような力はない。
女の子は、ひどく呆れた様子のため息を漏らした。
「もういいわ! 邪魔をしないで!」
女の子がもの凄い剣幕で声を荒げ、さっと走りだした。
「あ、ちょっと……」
咲弥の制止の声を振り切り、女の子は走り去った。
女の子が向かった先へ行けば、北レイストリアに入る。
咲弥はまだ、足を踏み入れたことのないエリアだった。
少々変わった女の子だが、いまさらほうってもおけない。
「あの子の探している人を、一緒に探しちゃだめかな?」
「問題ありません」
「ありがとう。終わったら、北レイストリアでも見ようか」
「了解しました」
紅羽と一緒に、咲弥は走り去った女の子を追った。
もしかしたら、相手も女の子を探しているかもしれない。もし周囲を見回している人がいれば、すぐにわかるだろう。
咲弥は追う道中、情報にあった探し人を目で探った。
そうこうしている間に、北レイストリアへと入る。
北レイストリアでは、工場関連の建物が数多い。行き交う人々も、その関係者だと思われる者達ばかりであった。
大通りへとやってきて、少しした頃――
唐突な爆発音が、やや遠くのほうから鳴った。
「な、なんだ?」
「咲弥様」
紅羽が指差した場所に、追っていた女の子を発見する。
騒然としている人々の間を縫うように、女の子は駆けた。
咲弥はやや慌てながら、追いかける足を速める。
路地裏に入り、迷路みたいに入り組んだ道を進んだ。
人の気配がどんどんなくなり、寂れた場所に辿り着いた。
ややひらけた場所に、とても大きな建物がある。
少し開いた鉄扉の隙間を、女の子はすり抜けていく。
咲弥も進もうとした、そのときであった。
「きゃあああああっ!」
女の子の甲高い悲鳴が、鉄扉の先から漏れた。
咲弥は急いで、建物の中へと飛び込む。
途端に血臭を嗅ぎ取り、緊張感が一気に高まる。
咲弥の視界に、不穏な光景が広がった。
水色の短い髪をした不気味な女が、ぽつんと佇んでいる。
咲弥の眉間に、わずかな力がこもった。女はどこか花魁を彷彿とさせる、丈の短い着物を着ている。意匠は和服だが、別に東洋人といった容姿ではない。
そんな女の奥には、男達が血まみれの状態で倒れていた。
「なっ……」
「リリス……なんで……どうして……」
小さな体を震わせ、女の子が誰かの名を口にした。
倒れた男達の中に、情報にあった金髪の女を発見する。
佇む女がぬっと振り向き、水色の髪がふわりと揺れた。
その淀んだ瞳は、明らかに常人の者とはかけ離れている。
女はゆったりとした口調で言った。
「おやおや……? 迷子達かな?」
背筋が凍るような凄惨な笑みを、女は頬に乗せた。
「な、何をして……」
咲弥が動こうとした瞬間、紅羽が細い腕を伸ばした。
「咲弥様。お気をつけください」
「紅羽……?」
「相手は――死の狂姫と呼ばれる、異常者だと思われます」
「死の、狂姫……?」
咲弥の問いに答える前に、紅羽は行動を開始した。
純白の紋様を右手付近に描き、紅羽は走りながら唱える。
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
紋様がガラスのごとく砕け散り、小さな光球が舞い踊る。
光球が閃く斬撃となり、死の狂姫に襲いかかった。
死の狂姫は、腰に帯びていた短剣を鞘から滑らせる。
咲弥は我が目を疑った。
紅羽の紋章術を、死の狂姫は短剣一つでいなしている。
「あら、まあ? 可憐なお嬢さん。私をご存じで?」
死の狂姫の口調は変わらない。
紅羽は何も答えない代わりに、また唱えた。
「光の紋章第二節、煌めく息吹」
純白の紋様が、再びバチンッと砕け散る。
ちかちかとした光粒が、紅羽の周囲に漂う。
それは身体能力が向上する、補助系統の紋章術であった。
紅羽はさらに速度を上げ、死の狂姫へと突っ込んだ。
死の狂姫が繰り出した斬撃は、紅羽ではなく空を裂く。
死の狂姫の背後へと、紅羽は瞬時に回り込んでいた。
そのとき、死の狂姫が灰色の紋様を浮かべる。
「霧の紋章第八節、散開の陽炎」
死の狂姫の姿が、まるで煙みたいに消え去る。
するとあちこちに、色濃い煙が発生した。
分身だろうか――死の狂姫の数が、十数人に増える。
死の狂姫達が、一斉に短剣を振った。
紅羽は回避しながら蹴りを入れ、大きく離れる。
複数いた死の狂姫が、吸い込まれるように一人に戻った。
「へぇ……お嬢さん、いったい何者なのかしらね?」
死の狂姫はうっとりとした眼差しで、頬に右手を添えた。
「この私が、二撃しか入れられないだなんて……驚きだわ」
一瞬だけ遅れてから、咲弥は紅羽を見る。
すべて上手く、回避しているはずだった。
「紅羽っ……?」
「問題ありません。ただのかすり傷です」
紅羽の頬と右腕に、死の狂姫の短剣がかすったらしい。
咲弥は恐怖と同時に、焦りも覚える。
まさか王都で戦闘になるとは、夢にも思っていなかった。紅羽の弓は昨日と同様、宿屋に預けたままとなっている。
しかも戦う相手は、獰猛な魔物ではなく人なのだ。
心臓が気味の悪い鼓動を繰り返し、少し吐き気を覚える。
人と戦う――殺し合うなど、考えられない事態であった。
「リリス……リリス!」
金髪の女の子は、いつの間にか倒れた女の傍にいた。
遠目からではあるが、まだかろうじて息はある。
心に湧く恐れを噛み殺し、咲弥は空色の紋様を描いた。
「あらぁ……あらららぁ? わぁあああ……」
紋様を見てか、死の狂姫は子供みたいに目を輝かせた。
気味が悪い死の狂姫の視線を、咲弥は無視して呼び出す。
「力を貸してくれ……黒白の籠手!」
紋様が砕け、無数の輝きが咲弥の両手に集まった。
まばゆい光が、散るように破裂する。
生命の宿る宝具が、両腕に装着された形で出現した。
「わぁおっ! 坊やは、宝具所持者なのね」
死の狂姫の顔に、妖しい笑みが張りついた。
「つまらない国と思ったけれど、面白い二人に出逢えたわ」
「あなたの目的は……なんなんですか?」
「目的? ああ、ここにはなかったみたい。とても残念」
咲弥は眉間に力を込めた。
「目的もないのに、どうして人を傷つけるんですか?」
「うぅん……そうね。ある日――一人の少女が、森で魔物に襲われていた。それを見た男の一人が、魔物を討ち果たして少女を見事に救ったの」
死の狂姫は突然、何かを語り始めた。
「その男が見知らぬ少女を助けたのは、なぜ?」
「そんなの、当然じゃないですか」
「そう? まあ、自己満足、正義感、いろいろあるのかな」
死の狂姫が何を言いたいのか、まったく理解できない。
死の狂姫は冷たい笑みで、自身の頬に指を這わせる。
「そんな二人を無残に虐殺したら、楽しいと思わない?」
「……は?」
「救われた。救った。その直後に、真っ赤な血で染めるの」
「何を、言ってんだ……」
「少女を救った者と、さして変わらないでしょう? ただ、そうしたかったから、そうした。そこに違いはないでしょ」
異常者――紅羽の言葉が、身に染みて理解できた。
咲弥は人に冷徹な者を、ほかに知っている。だがその者は少なからず、主のためという揺るがない目的を持っていた。
目的も、何もない。
ただいたずらに、暴虐の限りを尽くす。
そんな人間が、今まさに目の前にいる。
咲弥は恐怖とはまた別物の、異質な恐れを抱いた。
「救いたいと願う、坊や達が勝つのか――」
死の狂姫の姿が、ふっと消えた。
咲弥は一瞬、驚きで体が硬直する。
「私の愉悦が勝つのかという。お、は、な、し」
いきなり真後ろから、死の狂姫の声が飛んできた。
咲弥は籠手で身を護りつつ、声のほうを振り返る。
死の狂姫の刃が、籠手に直撃した。
同時に紅羽の強烈な蹴りが、死の狂姫へと放たれる。
蹴りが命中する瞬間、また死の狂姫は煙のように消えた。
「なんなんだ、これは……! これも、紋章術なのか?」
死の狂姫の第八節は、補助系統の紋章術だと予測する。
攻撃系統とは違い、補助系統なら効果時間は長いのだ。
「ふふっ。これは、ただの体術」
(ありえない)
声を振り返りながら、咲弥は心の中で否定する。
ただこの世界では、正直よくわからなかった。
そんな訳のわからない体術があっても、おかしくはない。
「私の紋章術が見たいなら、見せてあげようか?」
死の狂姫が灰色の紋様を宙に描いた。
「霧の紋章第四節、惑わしの渓谷」
途端に周囲が、濃霧に満たされた。
深く色濃い霧のせいで、一歩先すらも見えない。
「霧の紋章第七節、夢現の虜」
再度、なんらかの紋章術が放たれた。
しかし、特に異変は見られない。
「黒白の籠手、解放!」
籠手が咲弥のオドを少し吸い、両腕がまばゆく光った。
右は悪魔的な黒い獣の手に――
左は神秘的な白い獣の手に――
獣を象ったモヤが、咲弥の手に纏わりついた。
「はぁん……それが、坊やの本当の力?」
声とは逆の方向から、咲弥は嫌な気配を感じ取った。
とっさに振り返り、黒い手で身を護る。
予感を信じて、正解であった。
閃く短剣が途端に襲ってくる。
貴金属を削るような、甲高い音が響き渡った。
「へぇ。なかなかやるじゃない。坊や」
死の狂姫は後ろに飛び退き、深い霧の中へと沈んだ。
視界がないに等しい空間の中では、そう何度も防げない。
だがこんな視界の中でも、攻防の音が聞こえてきた。
紅羽と死の狂姫が、戦っているのだと予想する。
(どうやれば、そんな……)
ふと、咲弥は白い手に違和感を覚える。
見える範囲まで近づけ――
その際、違和感の正体が判明した。
この霧は、紋章術で生み出されている。
白い爪はまるで、布を切るように濃霧を裂いたのだ。
(そうか……)
四方八方を、咲弥は白い爪で引っかいた。
ほんのわずかではあるものの、視界がひらける。
「おや? その左手には、無効化の力でもあるのかな?」
反応すれば、集中力が途切れる。
だから、咲弥は何も答えない。
黒い手で身を守りつつ、白い爪で濃霧を裂き続ける。
「咲弥様。目で見るのではありません」
紅羽の声が飛んだ。
「相手のオドを探り、位置を感じ取ってください」
咲弥は言われた通り、相手のオドを探った。
確かに視界が悪くとも、何かがいる気配はある。
「そこか……!」
オドを感じ取った付近に、咲弥は白き爪で引っかいた。
すると、少し晴れた視界に人影を捉える。
黒い手のほうだと、相手を殺してしまいかねない。だから白い爪で相手のオドを削り、無力化を狙う方針に定める。
白き手を開き、大きく振りかざした。
そこで咲弥は、予想外の人物の姿が目に飛び込む。
「く、紅羽っ……?」
咲弥はとっさに、白い手を宙に留めた。
紅羽の容姿がまたたくまに崩れ、死の狂姫へと変化する。
「んなっ……」
「どれが真実で、どれが虚実か。坊やにはわかるかしら?」
咲弥の腹部をめがけ、死の狂姫が短剣を振るった。
(か、かわせない……!)
短剣の先が、咲弥の腹部に到達した。