第三十九話 冷徹な青い瞳
洞穴内部を進み、咲弥はふと思った。
すでに結構な距離を歩いたはずなのだが、いまだ攫われた人達や、救助に向かった人達の影がどこにも見当たらない。
ただ気持ち悪い臭いだけは、ずっと仄かに漂っている。
村長は、もう生きてはいないと言っていた。だが、実際に目で確認するまでは、まだ諦めるのは早いような気もする。
しかしそんな咲弥の理想や希望は、即座に打ち砕かれる。
ネイが立ち止まり、無言のままにすっと手を上げた。
(……こん、な……こと……)
咲弥は胸が絞めつけられ、深い悲しみに満ちる。
誰一人として、声を発する者はいない。
抱いた幻想が、どれほど甘いものだったのかを自覚した。
吐き気を誘う臭いが、いやに鼻の奥に溜まる。
食事場だと思われるところには、さまざまな生き物の血と肉片が、乱雑に散らばっていた。奴隷施設で見てきた遺体も結構なものだったが、ここは比にならない。
咲弥はぐっと息を詰め、涙を必死に堪える。
「いずれ埋葬してもらうから、もう少しだけ待ってなさい」
ネイは祈るように言い、また歩き始めた。
誰も口にはしないが、しっかりと伝わっている。
咲弥は拳を握り締め、全員でネイについていった。
またしばらく歩いた通路の途中――
ネイが人差し指を、自身の唇の前に添える。
「ここら辺かなぁ……」
「はい。間違いないと思われます」
ネイの言葉に、紅羽が同意を示した。
何が間違いないのか、特に異変的なものは見られない。
岩壁の一部に、ネイはそっと手を置いた。
「ゼイドと紅羽。ここに紋章術を、一緒にぶっ放して」
「おう。任せろ」
「了解しました」
ネイ達は距離を取り、同時に紋様を浮かべた。
咲弥も意図を呑み込み、少し離れておく。
「一気に行くわよ。せぇーの!」
ネイの合図が飛び、同時に詠唱が始まった。
「風の紋章第三節、戦神の号令」
「土の紋章第二節、土竜の行進」
「光の紋章第四節、白熱の波動」
「黒白の籠手、解放」
風の槍、手の形をした岩、純白の閃光が一斉に放たれた。
その最中に、咲弥は獣の手をしたモヤを両手に纏う。
荒々しい爆発音が轟き、岩壁が豪快に破壊された。
崩れ落ちていく壁の向こう側に、新たな空洞が現れる。
「行くわよ!」
ネイが颯爽と、壁の向こう側へと進んだ。
次いで紅羽が飛び込み、ゼイドの後に咲弥も続いた。
「グォアアアアアア――ッ!」
強烈な咆哮は衝撃となり、空気を激しく震わせた。
これまでの猩々とは、明らかに異なる巨大な猿がいる。
三メートはゆうに超える猩々の周囲には、数多くの猩々が集まっていた。その中に、ネイが傷を負わせた猩々もいる。
意表を突かれ、驚き戸惑い、猩々は威嚇を繰り返した。
「雑魚は任せた! 紅羽、あんたは私と親玉を狩るわよ!」
「了解しました」
ネイと紅羽が、親玉の猩々へと向かう。
ゼイドと一緒に、咲弥は周囲にいる猩々の討伐を始める。
不意打ちされたとはいえ、猩々は平静を取り戻していた。一部は仲間同士で固まり、強固な守りの姿勢を取っている。
その守りを崩すのは、かなり困難だと判断した。比較的、対処がしやすそうな猩々から、切り崩していくことにする。
咲弥は黒い爪で裂いては、即座にゼイドの傍まで戻った。
あまりに数が多いため、すべてを把握しきれない。
ゼイドの傍であれば、死角はそれだけ減らせるのだ。
「うぉおおおお――っ!」
ゼイドが雄叫びを上げた途端、次第に熊のごとき容姿へと変貌していく。昇華と呼ばれる獣人ならではの特殊な力だ。
ゼイドはすでに、オドをかなり消耗しているはずだった。
だからしばらくは、紋章術が扱えないと思われる。
ただ昇華したゼイドは、まさに圧巻の一言であった。
力任せの猩々以上に、破壊力が桁違いに上がっている。
しかし安堵したのも、一瞬の出来事に過ぎない。
「んな……っ!」
咲弥は目を剥いて見上げ、思わず声が漏れる。
真っ白な毛と、灰色の毛をした――二体の大きな猩々が、ほかの猩々を殴るように押し退け、歩き向かってきていた。
どちらも原始的な、でかい木の棍棒を持っている。
「咲弥君。片方は任せてもいいか? さすがに……ちぃっとばかりきついぜ……」
「……はい。頑張ります」
咲弥は唖然となっていたが、かろうじてゼイドに応じた。
周囲の猩々は危険を感じているのか、一斉に離れる。
白毛と灰毛の猩々二体が、肉食獣らしく牙を剥き出した。
ネイが側近と判断した猩々とは、明らかに容姿が異なる。
おそらく目の前にいる猩々こそが、真の側近に違いない。
黒い手を大きく開き、咲弥は構えた。
絶望的な状況だが、奴隷時代の頃よりはまだ救いがある。
冒険者二名に加え、銀髪の少女もぴんぴんしているのだ。とはいえ、どうやらネイ達のほうでは、親玉の猩々に苦戦をしいられている様子だった。
一瞥程度にしかうかがえないが、攻めあぐねている。
(加勢するにしても、まずは……)
二色に異なる猩々二体を、どうにかしなければならない。
少しの睨み合いを経て、先に動いたのはゼイドであった。
白毛の猩々が、ゼイドに向け棍棒を振り下ろす。
大きな棍棒を、ゼイドは大斧で力任せに受け流していた。
灰毛の猩々が、のそりと棍棒を背後へと回す。
二体の猩々は、集中的にゼイドを狙う姿勢を見せた。
(一体は、僕のほうへ引きつけなきゃ……!)
任された以上、静観しているわけにもいかない。
咲弥は横に払われた棍棒を、滑り込むように避けた。
そして、灰色猩々の足元を黒い爪で狙う。
機動力さえ奪えば、それだけ今後の戦いは有利になる。
だが獣特有の察知か、機敏に後退してかわされた。
苦い思いを胸に抱き、咲弥の頬が引きつる。ただ、当初の目的である、ゼイドから注意を逸らせることには成功した。
今はそれで充分だと、認識を改める。
(でも……こんな怪物……どうすれば……)
灰毛をした猩々と睨み合い、咲弥は思考を巡らせた。
みんなそれぞれの戦いに、全力を尽くしている。
助けは期待できないし、助けられる展開も望ましくない。その綻びは、確実にほかの人の戦いによくない影響が出る。
反対に一体でも討てば、こちら側に好機が流れるだろう。
咲弥は空色の紋様を浮かべ、目を大きく見開いた。
灰色の毛をなびかせ、猩々が威嚇しながら攻撃してくる。
全神経を集中し、咲弥はチャンスを探った。
迫りくる棍棒を回避した直後、咲弥は驚き戸惑う。
攻撃をしながら、灰毛の猩々が魔法陣を宙に描いたのだ。
魔法が発動する寸前、咲弥は白い爪で魔法陣をかき消す。
「ギャッギギャッ!」
ほんの一瞬の綻び――灰毛の猩々は、驚愕にうろたえた。
胸内から発生するオドを、咲弥は一時的に堰き止める。
「黒い爪に、限界突破」
咲弥が唱えると、空色の紋様は砕け散った。
眼前の魔物の腹部をめがけ、限界突破した黒い爪を薙ぐ。
爪の斬撃は空を裂きながら、灰色の毛を持つ猩々の胴体に強烈な爪痕を残した。爪の長さ以上の深手を負わせている。
空を裂いた衝撃が、鎌鼬的な現象を起こしたに違いない。
灰色の毛が素早く、黒色に染め上げられていく。
まるで糸が切れた人形のごとく、猩々は崩れ落ちる。
臓物が漏れ、胴がかろうじて繋がっている状態であった。
固有能力に並ぶほど、生命の宿る宝具はかなり凄まじい。それよりなにより、これ以上ないぐらい相性が合っていた。
生命の宿る宝具は、その宿主に合った形に創り変わる――
まさに、ロイの発言通りの代物だった。
たとえ限界突破を使っても、黒白の籠手ならば壊れない。
戦闘中にたとえ傷ついたとしても、またしばらくすると、まるで新品同様に初期の状態へと戻っているのだ。
人と同様に成長する――つまりついた傷も癒えるらしい。
(よし……!)
ぼさっとしている暇もない。
咲弥はすぐさま、周囲へ視線を流した。
「風の紋章第三節、戦神の号令!」
緑黄色をした風の槍が、親玉の猩々へと飛翔した。
だが親玉は、裏拳で風の槍を吹き飛ばしている。
直後、紅羽の詠唱が響いた。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
巨大がゆえに、真下からの攻撃にはなすすべがない。
純白の閃光が、猩々の顎下に直撃した。
上位種だけあってか、猩々は意外なほどの強度がある。
紅羽を踏み潰そうと、何度も地を踏み抜いた。その振動はどこか、地震でも起きたかのような錯覚を抱かせる。
ただ紅羽の動きには、さすがについてはいけないらしい。
そうしている間に、今度はネイが短剣を閃かせる。
素早い女性陣に、猩々の親玉は完全に翻弄されていた。
ネイ達が奮闘している傍ら、ゼイドは白い毛をした猩々と打ち合いをしていた。凄まじく重い音が、響き続けている。
互いに、一歩たりとも後退していない。
打ち合いに夢中らしく、猩々の背後ががら空きであった。
咲弥は一通り状況を把握して、空色の紋様を虚空に描く。
内側から湧くオドを、再び一時的に堰き止めた。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾――限界突破!」
紋様が砕け、色濃い渦が咲弥の付近に発生する。
けたたましい音を轟かせ、渦から水弾が放たれた。
瞬間的な速さで、白い毛をした猩々の後頭部に命中する。
消し飛ばせはしないが、歪に頭部が変形していた。
ぐらりと猩々の巨体が揺れた瞬間、ゼイドが咆哮する。
「うぉおおおおお! 剛力の開花!」
黄土色の紋様が砕け、ゼイドの腕が大きく膨れ上がった。
大斧を高く振り上げ、白い猩々へと振り下ろされる。
全身全霊ともいえる一刀両断を受け、巨体の猩々が後ろへ豪快に倒れた。
白い猩々が首から股にかけ、大きく切り裂かれている。
流れは、完全にこちらに向いていた。
その中を、ネイの声が空洞内を反響する。
「紅羽! 一瞬、動きを止めて!」
「了解しました」
視線を向けた直後、純白の紋様を浮かべた紅羽を捉えた。
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
純白の紋様が弾け、眩しい光球が生み出される。
本来は斬撃を繰り出す光球は、相手を斬ることなく舞う。
どうやら、めくらましだけを狙った攻撃のようだ。
すっと目を細めた巨大な猩々が、その場に留められる。
そんな親玉猩々の顔面へと、ネイは華麗に跳び向かった。
「私の最大最高最強を見せてあげる」
若草色の紋様を描き、ネイは唱えた。
「風の紋章第六節、暴君の宝玉」
翡翠色をした風が轟音を立てて、ネイの右手に集まった。
宝石みたいな色濃い風の玉が、またたく間に作られる。
「消し飛べ!」
至近距離から放たれた風玉が、猩々の顔に放たれた。
瞬間――爆発じみた破裂音が轟き、親玉猩々の顔が粉々に吹き飛んだ。
それはまるで、手榴弾を連想させるものであった。
あまりに物騒なネイの紋章術に、咲弥はつい唖然となる。
返り血を少し浴びたネイが、石の地面へ華麗に着地した。
「やれやれ。汚いわね……」
雑に返り血を拭い捨て、ネイはため息を漏らした。
まだ楽観できない。周りには、ほかの猩々がいるのだ。
咲弥はすぐ我を取り戻し、周囲に視線を滑らせる。
親玉と側近がやられ、猩々達はひどく驚き戸惑っていた。
「どうする? もう少し駆除しておくか?」
ゼイドの問いに、ネイは悩ましげな顔に変化する。
「まだ余力はあるけれど……そうね。そうしましょうか」
「オメェはな! 俺はもうへとへとだぞ!」
苦笑まじりに言ったゼイドに、ネイは小さく肩を竦めた。
「情けないわね」
「いやいや! オメェが酷使させたんだろうがよ」
「はいはい。ちゃっちゃと片付けるわよ」
ぱんぱんと両手を叩き、ネイが動き始めた。
その瞬間、周囲にいた猩々がびくりと震える。
凛とした顔に凄惨な笑みを湛え、ネイは声を紡いだ。
「人を襲っておいて、無事で済むはずないでしょうが」
普段のおどけた感じとは違い、冷ややかな声だった。
どこか憎しみの宿った彼女の青い眼差しに、咲弥の背筋がゾクッと凍りつく。
ネイは風のごとく進んだ。
投げナイフと短剣を駆使し、猩々達を次々に狩っていく。
そこに、雄叫びを上げたゼイドが参戦する。
咲弥も動こうとした直後、銀髪の少女が袖を引っ張った。
「咲弥様。これから、どうなされますか?」
「えっ? あ、えっ?」
予想外の質問に、咲弥はつい戸惑った。
どうするも何も、答えは一つしかない。
紅羽は無表情ながら、どこかきょとんとしていた。
彼女の中では、もうすでに終わった出来事らしい。
「えぇっと……ほうっておいたら、どこかでまた被害が出るかもしれない。だから僕達も、ネイさん達を手伝おう」
「了解しました」
すたすたと歩きつつ、紅羽は弓に光の矢を番えた。
結構な激戦だったと思うが、彼女は息一つ乱れていない。
そしてネイ達に続き、咲弥も紅羽と一緒に参戦する。
「ほら、ちゃんとそっちも処理して!」
「お、おう! 任せろ!」
「咲弥様。もっと背後を警戒してください」
「あ、ありがとう。紅羽!」
「ほら! 殲滅じゃ殲滅!」
親玉を失った猩々達は、もうそれほど脅威ではなかった。
撤退の姿勢を見せた猩々は、ゼイドが崩しておいた場所へまんまと追い詰められ、そこでネイと紅羽に討たれた。
そんな猩々を仕留めるのに、咲弥は少しだけ心を痛める。
しかし惨劇の現場を見た以上、見逃すことなどできない。
あらかた狩り終えると、ネイが清々しい声を放った。
「よし。それじゃあ、最初に入ってきた場所に帰ろうか」
「ですが、ネイ――」
「いいの。行くわよ」
紅羽の言葉を遮り、ネイは凛とした顔をほころばせた。
咲弥は首を捻ったが、その理由はすぐに判明する。
最初の出入口の付近に、まだ猩々達が溜まっていた。
ネイいわく、外を巡回していた猩々が帰還したらしい。
わざと穴を塞がなかったのは、すべてはそのためだった。
ネイは最初、渋々残党を狩るという雰囲気を醸していた。だが策略の点を考慮すれば、そもそもはなから、一体すらも逃す気などなかったように思える。
その日、猩々の住処となっていた洞穴から――
魔物の声が、完全に途絶えた。