第三十八話 魔物討伐の開始
渓谷には、激しい川の音が絶え間なく響き渡っていた。
陸地では草木が生い茂り、岩や石はひどく苔むしている。
ここは緑に覆われ、自然の驚異に満ち溢れていた。
そのため猩々が逃げ込んだ洞穴は、普通なら気がつかないくらい、発見が困難な場所となっている。
ネイの策略がなければ、間違いなく発見できなかった。
咲弥は周囲に、視線をゆっくり巡らせていく。
澄んだ香りが漂う場には、時折、獣臭さが混じっていた。
「洞穴は全部で五つ――さて、どうしたものかしらね」
器用に尖った岩の先端に立ち、ネイは小首を傾げる。
思案顔のネイに、珍しく紅羽が意見を述べた。
「下から二番目の洞穴が、あやしいかと思われます」
紅羽が指差した方角に、咲弥は視線をとどめた。
樹枝が複雑に重なり合い、洞穴はかなり見えづらい。
ネイが額に手を添え、遠くを見る姿勢を取った。
「んんっ……確かに、あそこから嫌な気配が漂ってんね」
「親玉か側近かまでは、判断できません」
「まっ。どちらにしても、上位種は駆除しなきゃだから」
「オメェら……よくそんな、微量の気配を察知できるな」
ゼイドの呟きに、咲弥は心の内側で同意を示した。
どれだけ頑張ろうとも、不気味な洞穴にしか感じない。
性別による差か、または単純に実力での差か。
女性陣の感性は男性陣と比べ、恐ろしいほど鋭いようだ。
ネイが腰にある鞄から、四つの品を手にする。
発煙筒を彷彿とさせる筒を、咲弥達に投げ渡してきた。
「効果時間は二時間。今回は全員で光球を灯して行くわよ」
「あいよ。了解」
ゼイドが応答してから、咲弥も首を縦に振った。
「はい。わかりました」
「よぉし。それじゃあ、襲撃開始といきましょうか」
ネイは一人、軽やかに進んでいった。
咲弥達も続き、ネイが待つ小さな洞穴を前にする。
漆黒の闇に包まれた洞穴から、かすかに風が流れ込んだ。
なんらかの方法で、空気が循環する構造があるらしい。
さきほどとは違い、ここは獣臭さがひどく鼻を突いた。
「さあ、誘光灯を使うわよ」
ネイの指示に従い、咲弥は誘光灯の蓋をぽんっと抜いた。
白い紋章が浮かんでは砕け、眩しい光球が生み出される。
咲弥は誘光灯を使ったあと、戦闘態勢を整えておく。
「黒白の籠手、解放」
少量のオドが吸われ、獣の手をしたモヤを両手に纏った。
ネイを先頭に、一人ずつ洞穴を潜り抜ける。
凹凸は緩やかで、岩肌はとても滑らかそうだった。自然のなせる業なのか、咲弥はそこに少しばかりの驚きをもつ。
最初は一人分程度だった道が、途端に広さを増した。
人為的ではない。だが、なんらかの手が加えられている。
猩々の体格は、大柄な獣人にも等しくでかい。
村で見た数を考慮すれば、住処には相応の広さ求められるはずであった。浮かんだ疑問の答えは、考えるまでもない。
広々とした空間の手前で、突然ネイが手で制してくる。
「――? 来るわよ!」
ネイが張った声が、洞窟の中を反響した。
心臓が跳ねるような感覚から、咲弥に嫌な緊張が走る。
さまざまな場所から、猩々が姿を現した。のっそりとした猩々の動きには、不意を打ち損ねたといった雰囲気がある。
だからなのか、すぐには襲ってこない。
じりじりと距離を保ち、退路を断とうとしているようだ。
ただの獣ではない。
知能の高い魔物と再認識し、咲弥は戦慄する。
「まっ。逃げる気はないけどさ……邪魔をするなら――」
腰に帯びた鞄から、ネイは投げナイフをさっと手にする。
背に携えていた大斧を構え、ゼイドが叫んだ。
「虱潰しにしてやるぜぇ!」
ゼイドが発した声をきっかけに、場が一斉に動き始める。
猩々は咆哮を放ち、猛獣さながら牙を剥き出しにした。
「風の紋章第一節、暴虐の風神」
ネイの詠唱から、若草色をした紋様が砕け散る。
荒々しい風が猩々を裂きつつ、大きく吹き飛ばした。
吹き飛ばされた猩々は、別の猩々へと追突する。
驚き慌てる猩々達の頭部を、紅羽の光の矢が射抜いた。
大斧を振るゼイドの背後で、咲弥は黒い拳を作る。
向かい来る猩々の腹部に、黒い拳を叩き込んだ。
衝撃を受けて怯んだところを、黒い爪を薙ぐように振る。
凄まじい切れ味で、容易に猩々の顔を横に引き裂いた。
一瞬だけ黒い血を噴き、猩々は重い音を立てて崩れる。
本音を語れば、なるべく生き物を殺したくはない。だが、猩々は人を攫い、人に危険を及ぼす魔物だと知っていた。
殺さなければ、より大きな被害が出る可能性は否めない。
しかも猩々達の目には、明らかに殺意が宿っている。
(ごめん……でも、人に危害を加えるなら……!)
確実に仕留められそうな猩々を選び、まずは数を減らす。
紅羽とネイが、途端に同じ方向を目指して駆けだした。
大岩の後ろへ、示し合わせたように左へ右へと回り込む。
「手下に小手調べとか、小賢しいことしてんじゃないわよ」
ネイは言葉を発すると同時に、若草色の紋様を浮かべた。
同時に、紅羽の付近にも純白の紋様が描かれる。
「風の紋章第三節、戦神の号令」
「光の紋章第四節、白熱の波動」
緑黄色の槍と純白の閃光が、大岩の裏へと放たれる。
大岩が盛大に砕け、黒煙が立ち込めた。その中に――
咲弥はなかば弾かれた形で、その足を向かわせる。
白い手を大きく開き、黒煙の中にある魔法陣を裂いた。
ほかの猩々よりも、二回りは大きな怪物がいる。
首を捻って睨むその眼差しは、激しい怒りに満ちていた。
「ガァアアア――ッ!」
凄まじい咆哮が、まるで衝撃となって襲ってくる。
威嚇の声に、思わず咲弥の身が怯んだ。
「雷の紋章第一節、天空の閃光」
ネイの詠唱が飛ぶなり、上空からカッと光が落ちる。
金色の稲妻に包まれ、巨体の猩々から悲鳴が漏れた。
そのさなか、紅羽の可憐な声が響き渡る。
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
光球が舞い踊り、巨体が光の刃によって斬られた。
集中攻撃を受けた猩々は崩れ落ち、地に膝をつく。
「咲弥君! 黒い爪で顔を裂いて!」
ネイの指示に背を押され、咲弥は黒き手を大きく広げる。
恐ろしいほど鋭利な爪が、猩々の顔面を縦に引き裂いた。
頭蓋骨までも切り裂き、黒い血がどばっと溢れかえる。
ほかの猩々達がびくりと震え、唖然となっていた。
一呼吸の間を置き、一目散に撤退を始める。
「猩々達が逃げてしまいます!」
「追わなくていいわよ。目的は上位種の猩々狩りだからね」
ネイの指示に、咲弥はくっと息を詰める。
ネイは乱れた赤髪を整え、すたすたと歩み寄ってきた。
「でも! もしかしたら、人に危害を――」
ネイに指先で額をつつかれ、咲弥は発言を止められた。
「だから、上位種の猩々を駆除するの。そうすれば奴らは、人を襲うどころの話しじゃなくなるからね。わかった?」
猩々の実態を知らない咲弥に、返す言葉はなかった。
ネイは大人びた顔をしかめ、巨体の猩々を観察し始める。
「こいつは、ただの側近……かなぁ? うぅん……?」
「これから、どうするんですか?」
咲弥が問いかけると、ネイは唸ってから顎に指を添えた。
「うぅん……そうねぇ……」
「ここから行けるか不明ですが、まだ奥に気配があります」
「そうなんだけれど……気配から外れて進みましょうか」
ネイは理由を告げないまま、軽快な足取りで進んだ。
紅羽にゼイドと顔を見合わせ、咲弥達は彼女の後を追う。
察知した気配から外れる――
きっとそこには、なんらかの理由があるに違いない。
思考を働かせていると、不意にネイが声をかけてきた。
「ところでさ、あんたの生命の宿る宝具……」
「え? あ、はい?」
不自然に沈黙したネイに、咲弥は戸惑いながら応答した。
ネイは肩越しに、半目で睨んでくる。
「わりと真面目に、ほんとかなり使い勝手がよさそうね」
「はい。もともと武器を扱った経験はありませんでしたが、黒白の籠手であれば、自分の一部のように扱えますから」
「そうじゃなくて……魔法陣を裂く、か。それ、紋様も?」
「試したことはありませんが……おそらく、できます」
ネイは唇を結び、じっと睨んできた。
どこか懐かしい記憶がよみがえる。
あの頃と同じで、また不謹慎にも可愛いと感じた。
「あんたさ、知らないでしょ?」
「何をですか?」
ネイが不意に立ち止まり、若草色の紋様を浮かべる。
それからすっと、咲弥へ紋様を近づけてきた。
「白いほうは使わずに、消してごらん?」
「あ、はい」
咲弥は解放を解いた右手で、ネイの紋様を振り払った。
空を切る感覚しかなく、まったく消せそうにない。
それどころか、揺らめきすらもしなかった。
「あ、あれ? 触れもしません……」
「人の紋様、魔物の魔法陣――気が散るとかそういう場合は除いて、本来は描いた本人の意思なしでは消せないのよ」
初めて知った事実に、咲弥は驚愕する。
確かに今の今まで、考えたことすらなかった。
それはこれまで、試す場がなかったという理由もある。
白い爪で魔法陣が裂けると理解したのは、ただ白い籠手のほうから、そんな意思が咲弥に流れ込んだからに過ぎない。
魔法の発動を、確実に止める――
そんな程度にしか、考えていなかったのだ。
「……わかった? あんたのそれ、ほんと便利だから」
「……は、はあ……」
返す言葉が思いつかず、咲弥はつい生返事をする。
ネイは後頭部に両手を添え、再び歩きだした。
「はぁあ! いいな、いいなぁ……私も欲しいなぁ……」
子供みたいにだだを言ったネイに、咲弥は苦笑を送る。
ゼイドが小さく笑った。
「冒険者の憧れを、まさか冒険者になる前に入手するとはな……人生何が起こるか、本当にわかったもんじゃねぇ」
「はい。入手したのも、本当にただの偶然でしたから」
緊張感のない会話も途切れ、一同はどんどんと進んだ。
光る鉱石がある場所を抜け、水の溜まった空洞を横切る。時折、柔らかな風を全身に浴びた。獣臭は相変わらずだが、流れる風のお陰で息苦しさは特にない。
しばらくして、前方のほうに差し込む陽の光を捉える。
もとの場所に戻ったのかと思ったが、どうも違うらしい。
川の流れる渓谷ではなく、谷あいの景色が広がっていた。
「あれ、ここは……?」
「おそらく、王都へ向かう際に通る道かな」
ネイは外に飛び出てから、こちらのほうを振り返った。
「おぉーい! ゼイドォー!」
ネイは大手を振って、ゼイドを呼んだ。
咲弥達は、ネイの傍に移動する。
「あそことこことそこと、あっちにそっちにこっち」
ネイが指を差して言い、そのまま言葉を続けた。
「あんたの紋章術で、塞いでおいてくんない?」
ゼイドのいかつい顔が、ほんの少し引きつった。
「えっ! あれを全部か!」
「あんたの紋章術を扱えば、簡単に塞げるでしょ?」
「いや、そうだが……オドを、かなり消耗するぜ?」
「平気、平気。親玉は私達が狩るから」
ゼイドは渋い顔をして、ネイが指示した箇所へと向かう。
言葉通りに、紋章術のみで塞ぐのではない。
その衝撃を用いり、崩落をさせて塞いでいた。
土属性のゼイドには、確かにぴったりの仕事ではある。
おそらくネイは、逃亡を危惧していたらしい。
謎に思えたネイの行動の意図を、ようやく呑み込めた。
あっという間に作業を終え、ゼイドが疲弊しきった表情で戻ってくる。
ネイは腰に手を置き、こくりこくりと頷いた。
「うんうん。ご苦労ご苦労」
「さすがに、連発は……ちっと、しんどいぜ……?」
肩で息をするゼイドに、ネイは呆れた声で言った。
「まったく、情けないわねぇ……」
「俺ら獣人は他種族と比べ、紋章術の連発はきついんだ」
種族にはそれぞれ、得手不得手があるといわれていた。
獣人はオドの総量が少ないため、紋章術にも相応の制限がかかってしまう。だがその代わり、身体能力がとても高く、種族の中では上位となっていた。
ネイ達みたいな人間は、腕力、走力、耐久力、オドの総量――そういったものすべてが、平均的に備わっている。
つまり、すべての種族の中間に位置する存在だ。そのため人間と呼ばれている。
もちろんそれは、個人差もあれば、一長一短でもあった。
咲弥が種族に関して思案していると、ネイが呆れを含んだため息を漏らす。
「なら、獣人界の殻を破った男になりなさい」
「無茶言ってくれるぜ。こちとら、ただの凡夫だぜ」
ゼイドは苦笑する。
ネイは満面の笑みで、ゼイドの肩をぽんぽんと叩いた。
「あともう少し、仕事してもらうからね」
「つか、この程度の塞ぎで済ましていいのか? ぶっちゃけこれじゃあ、ちょっとした時間稼ぎにしかならんぞ……?」
「ん? 別に問題ないわよ。あくまでただの保険だからね。そんじゃあ、さっさとさっきの場所まで戻っちゃいましょ」
猩々の巣穴へ戻るなり、洞穴が反対側から塞がれた。
それから死骸が転がる場所まで、咲弥達は戻ってくる。
ネイは周囲を眺めてから、透き通った声を紡いだ。
「よし。まあ、これでいいか。ねえ、紅羽」
「はい?」
「まだ内部に、それらしき気配は感じられるわよね?」
「特に動いた様子はありません」
「よしよし。間違いなさそうね」
ネイは腕を組み、小刻みに頷いた。
「それじゃあ、そろそろ本番開始と行きましょうか」
「つっても、ここから行けるかどうかわからねぇんだろ?」
ゼイドの質問を、ネイは不敵に笑い飛ばした。
「大丈夫だってば。ほら、行くわよ」
歩くネイに、今度は咲弥が質問する。
「最初に入ってきたほうは、塞がなくてもいいんですか?」
「だいじょぉおおおぶ!」
ネイは振り返りもせず、そのまま歩き続ける。
ネイの魂胆は見えないが、咲弥達も進んだ。