第三十六話 小さな祈り
ロイ達とは再び別行動になり、咲弥も紅羽と散歩をする。
妙な展開の連続だったが、町の雰囲気は何も変わらない。
甘い香りが漂う中で、人々は活発に行動していた。
石畳で造られた道の脇には、レンガ造りの建物がずらりと並んでいる。そこを歩くのは、故郷ではまったく見慣れない独特な装いをした人々だ。
今でもほんの少し、不思議な気分に浸る瞬間がある。
もとの世界でも別の国に行けば、きっと今と同様の感想を抱いたのだろう。
どちらの世界でも、人の在り方には違いなどないのだ。
だから人間とは異なる別種族や、人々の命を脅かす魔物の存在がなければ、地球と言われれば納得していたと思える。
ここがもし、本当に地球なら――
咲弥は小さく首を振り、そっと思考を打ち消した。
いくら考えたところで、その事実が変わることはない。
この世界は地球とかではなく、別の惑星なのだ。
心の中でため息をつくや、ある建物が咲弥の目に入る。
「ん……あれは……?」
我知らず、咲弥は呟いた。
どこか厳かな気配を醸した教会らしき建物が、少し遠くのほうに見える。
鉄柵門は開かれ、誰でも自由に出入りができるようだ。
咲弥の脳裏に、やや古くなった記憶がよみがえる。
隣を歩く、紅羽の綺麗な横顔に視線を移した。
「紅羽。ちょっと、あそこに行ってみない?」
「……? 了解しました」
紅羽の了承を得て、咲弥は教会と思われる建物を目指す。
道中にある庭園では、色とりどりの花が咲き乱れていた。
どうやらかなり清掃が行き届いており、大事にされているといった様子が、目に映る景色からしっかり伝わってくる。
庭園前にある鉄柵門と同じく、建物の扉も開かれていた。
外装に劣らず、玄関ホールは豪華絢爛な造りをしている。
その先にあった大聖堂は、まさに圧巻の一言であった。
模様を刻まれた石壁、多彩に輝いたステンドグラス、照明器具から座席と、すべてにおいて意匠が凝らされている。
感嘆の息が漏れ出る空間には、一つの大きな石像が立つ。
(あれが……噂の、リフィア様……を、模した像かな)
事実は定かではないが、咲弥はそう直感した。
清らかな女神らしさに加え、戦神のごとき力強さもある。
悠然と構えた女性像の前に、咲弥は紅羽と並び立った。
魔神が人々に絶望をもたらしたときに、神の御使いであるリフィアが天から舞い降りた――そんな話を、最初に訪れた村で聞かされたことがある。
あの日から、リフィアを祀る場所とは巡り合えずにいた。
来るまでは、ちょっとした好奇心が大半を占めていたが、女性像を前にした途端、別の感情が湧いたのを自覚する。
自分と同様の使命を、与えられた可能性の持つ存在――
同種と巡り会えたという気分のほうが、遥かに強まった。
(あなたも……僕と同じ、使徒だったんですか……?)
咲弥は心の内側で、石像にそんな問いを投げた。
無言の石像に代わり、紅羽の可憐な声が教会内に響く。
「咲弥様は、リフィア教徒なのですか?」
やはり目の前の石像は、リフィアで間違いないらしい。
そしてふと、ネイにも同じ質問をされたのを思い出した。
咲弥は紅羽へ向き、首を横に振る。
「うんん。存在を知ったのすら、一か月ぐらい前の話だよ」
「……そうですか」
「紅羽は、この人について何か知ってるの?」
「遥か昔に地へと舞い降り、人類に三つの神器を与えた神の御使い――彼女の先導により、魔神は暗き闇に封じられた。そんな基本的な神話程度です」
やはり誰もが、リフィアについての情報は同じだった。
遠い過去の出来事など、誰も知るはずがない。
咲弥はまた、リフィア像に視線を移した。
「リフィア様は、なんで神様に選ばれちゃったんだろうね」
「選ばれた……? 真実がどうなのか定かではありませんが……リフィアは、神に創られた存在ではないのですか?」
「……え?」
「彼女は天使ではありません。私達人間に近い容姿の存在と云われており、地上や天上にいた存在とかではなく――神に創られた救世主というのが定説です」
紅羽の紅い瞳を見据え、咲弥は言葉を失った。
初めて耳にした話に、ある種の衝撃を受ける。
神の御使いだと聞いてから、自分と同じ使徒を連想した。
その事実は、実際は何もわからない。
だがもし同じ使徒なら、自分と同様の存在だと勝手にそう決めつけていた。
それ以外の可能性など、考えすらもしなかったのだ。
リフィアの生まれについては、聞いたことがなかったし、その話を出された記憶もまたなかった。
当然の話――別世界の者だと、考えられるはずがない。
無知ゆえの呟きに、咲弥は背筋がひやりと冷える。
紅羽は表情を変えないまま、淡々とした口調で述べた。
「ですが、遺された記述に、そんな情報はありませんが――この世界のどこかで生まれ落ち、育ったのかもしれません。今となっては、知るすべはありませんが」
(あぁあ……そういう、解釈に至るのか……)
咲弥はどこか、ほっと胸を撫でおろした。
「咲弥様……?」
「え、あ、ん?」
唐突に呼ばれ、咲弥は戸惑った。
魅力的な紅い瞳に、咲弥はじっと見据えられる。
紅羽は沈黙したまま、リフィア像へ顔を向けた。
「ここを訪れ、何を祈りたかったのですか?」
「え? 別に、何も? ただ、見てみたかっただけだから」
咲弥の答えに、紅羽は無表情ながらに困惑が見て取れる。
冷静さを取り戻したのか、紅羽は静かに呟いた。
「……咲弥様は、とても不思議なお方ですね」
「そ、そう? 別に、普通だよ?」
「一か月ぐらい前と、おっしゃっていましたね。リフィアの存在を知らなかったお方に、私は初めて出会いましたから」
「ははは……そうだねぇ。僕、本当に無知過ぎたね」
咲弥は苦笑してから、からくも誤魔化しておいた。
思えば最初の村でも、似た経験を何度もしてきている。
あの頃に比べれば、ずいぶんと知識を得たつもりだった。それでもまだ、知らなければならない情報はたくさんある。
王都へ行けば、きっと山のように知れるかもしれない。
(あと、もう少しで、王都に辿り着けるんだ……)
咲弥が物思いに耽っている最中に、紅羽が訊いてきた。
「咲弥様。せっかくですから、何か祈られますか?」
咲弥は少し考えてから、首を横に振る。
「うんん。祈りたいことは、特に何もないかな……それに、祈るよりも前に、僕には足りないものがいっぱいあるから」
「足りないもの、ですか?」
咲弥は苦い笑みを頬に乗せ、紅羽の疑問に答えた。
「うん。たとえば、リフィア様についてもそうだけど、僕は本当に何も知らないんだ。オドの訓練とかもそうだったし」
「はい。咲弥様はかなり無知で、オドもとても拙いですね」
綺麗な顔を崩さないまま、結構きつい言葉を言い放った。
事実その通りではあるため、言い返せる余地などない。
「ははは……逆に紅羽は、何か祈りたいことはないの?」
「いいえ」
短く否定されたあと、咲弥は紅羽と視線が重なり合った。
「しいていえば、咲弥様の身の安全でしょうか」
「ああ……いや、紅羽が傍にいてくれるだけで、その願いはきっと叶ってるかな」
「そうですか?」
「うん」
咲弥は紅羽から、リフィア像を見上げた。
「そうだね。じゃあ……」
紅羽はきっと、つらい人生を歩んできたはずだった。
だからこそ、幸せな人生を歩んでほしいと願っている。
信心深くない咲弥に、祈る行為は柄ではないが――
(紅羽にたくさんの幸せが、訪れますように……)
咲弥は心の中で、そう祈っておいた。
「何を祈られたのですか?」
紅い瞳で見据えてくる紅羽に、咲弥は微笑んだ。
「んぅー。内緒」
紅羽は少し固まってから、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
珍しい紅羽の不満顔に、咲弥はどきりとする。
「私はしっかり告げました。なのに、咲弥様はずるいです」
「いや……はははっ……別に、たいしたことじゃないよ」
「では、なんですか?」
「うっ……」
圧迫感のある彼女の雰囲気に、咲弥はつい気圧される。
咲弥は戸惑うが、紅羽の姿勢はまったく崩れない。
頑固な紅羽の視線に刺され、咲弥は諦めて観念する。
「えっと、紅羽がたくさん、幸せになれるように祈っただけ」
素直に答えると、急に恥ずかしさが込み上がる。
咲弥は振り払うように、何度もため息をついた。
「ああ、もう。なんか恥ずかしいや! そろそろ、行こ!」
紅羽の返事を待たず、咲弥はそそくさと踵を返した。
「あなたと出逢え、もう叶っています」
「ん? なんか……言った?」
気恥ずかしさに加え、早くこの場を立ち去りたかった。
そのせいか、紅羽が何かを言ったように聞こえただけなのかもしれない。彼女は無表情のまま、じっと固まっていた。
咲弥が首を捻ると、紅羽も小首を傾げた。
「別に何も言っていません。集合場所へ戻りましょう」
「そっか……うん」
妙なしこりは残ったが、もう結構いい時間のはずだった。
ネイ達と決めた集合場所へ、咲弥達は足を向かわせる。
教会から外に出ると、もう陽が沈みかけていた。
宿屋の付近にある酒場で、ネイは紅羽に抱き着いていた。
少し涙ながらに、ずっと紅羽に頬ずりしている。
「ほんと、あんた最高……最初、変な空気作ってごめんね」
「果実酒の案は私ではなく、咲弥様です」
淡々とした口調で、紅羽はそう告げた。
ネイが紅羽から離れ、今度は咲弥に抱き着こうとする。
とっさに咲弥は身構え、両手で小さな壁を作った。
「大丈夫です、ネイさん! 気持ちはよくわかりました!」
「あんたも最高だわ。あのとき、殴ってごめんね」
ネイは抱き着く代わりに、頭を優しく撫でてきた。
しおらしいネイに、咲弥は苦笑を送る。
果実酒の製造所に行っても、結局門前払いされたらしい。集合場所には、絶望感をたっぷり宿したネイが待っていた。
そこへ果実酒を大量に抱えた、ロイとゼイドが合流する。
魂の抜けていたネイは、ただただ狂喜乱舞していた。
そんなネイに事情の説明をし――今現在へと至ったのだ。
「それに比べ……」
ロイ達を、ネイはじろりと睨みつけた。
料理が並ぶテーブルの脇で、ロイ達は床に正座している。
「紅羽がいなかったら、いくら失ってたって? ん?」
「……二〇万スフィア、です……」
「はぁ? ばか? あんた舐めてんの?」
ドスの利いた声で、ネイがゼイドを威嚇した。
ロイが慌て気味に、弁解の論を唱える。
「いやまあ、でもしかしな……そのお陰で、果実酒が大量に手に入ったわけだ。結果としちゃあ、俺らのお陰でもある」
「はぁ? 他人の金でギャンブルは、さぞ楽しかったか? 無職さんよ」
「うっ……」
ネイの棘がある叱咤に、ロイは苦い顔でうめいた。
ネイは、呆れをふんだんに含んだ声を投げる。
「王都までまだ距離があるのに、こんなとこで二〇万も失うばかがいるとか冗談よね? 馬車の後ろで首に縄を繋いで、ダッシュでもするか?」
「おいおい……殺す気かよ」
ゼイドの呟きに、ネイの冷たい眼差しが向けられた。
「それほどの大金、失ってんじゃないわよ」
「弁解の余地はねぇ」
「あんたら、今晩の飯は抜きだからね」
ネイの容赦ない仕打ちに、ロイが抗議した。
「えぇっ? 無職だって、腹は減っちまうぜ!」
ネイにきつく睨まれ、ロイは縮こまる。
ネイがコインを一枚取り出し、にっこりと笑った。
「ほな、あんたらの大好きなギャンブルでもしようか。裏と表を、被らないように選びな? 外れたほうは飯抜きね?」
ロイとゼイドは、お互いに緊張感のある顔を見合わせた。
指で弾かれたコインは、宙を舞ってから落下する。ネイの左手と右手の甲に、コインはパシッと覆い隠された。
しばらくの沈黙を経て、二人はごくりと喉を鳴らす。
「じゃあ、俺は裏だ」
「表にするぜ」
ゼイドが裏を選び、ロイは表を選んだ。
関係のない咲弥まで、少し緊張してくる。
ネイは少し恐怖を煽る笑みを浮かべ、その左手を離した。
「はぁあああああっ? ずっけぇええええ!」
「ざけんな! テメェ! イカサマじゃねぇか!」
ゼイドとロイが、ほぼ同時に声を荒げた。
コインは裏でも表でもない。
器用に、ネイの右手の甲に立たされ続けている。
これには咲弥も、つい苦笑いがこぼれ落ちた。
(確かに……左手が少し、山の形してたもんなぁ)
はなから飯を食わす気など、まったくなかった。
喚き続けるロイ達に、ネイが冷たい笑みを送る。
「これが、ギャンブルよ。わかったか?」
凄みのある声で諭され、ロイ達は体を縮こまらせた。
あまりにも可哀そうだと思い、咲弥は助け船を出す。
「ネイさん。もう許してあげてください。二人ともちゃんと反省してますよ。お酒を飲むなら、皆さんで飲まれたほうが美味しいんじゃないんですか?」
ネイが半目で睨んできたあと、やれやれと肩を竦めた。
「しょうがないわね。咲弥君に感謝しなさい」
「ありがてぇ! ありがてぇ!」
「ふぅ……助かったぜ……」
ロイとゼイドは、ほっと胸を撫で下ろしたようだ。
ようやく、全員で食事を始める。
たわいもない雑談を交えつつ、腹の中を満たしていく。
明日にはまた、王都に向けて走る馬車の中にいる。
英気を養うために、咲弥は――ふと、不穏な影を捉えた。
「ネイさん! あんま下手に酔わないでくださいよ!」
「れーじょぶ! かじちゅしゅうんめぇー!」
その日の夜――
咲弥はまた、べろんべろんのネイを担ぐはめとなった。