第三十五話 ある娯楽の危うさ
咲弥は紅羽と歩み寄りながら、前方の様子を観察する。
ロイとゼイドがいる場所は、どうやら酒場の様子だった。支柱だけの壁がない建物に、テーブル席が多数並んでいる。
頭を抱えたロイの隣で、ゼイドが白く燃え尽きていた。
テーブルにはコインのほか、カードが散らばっている。
「ロイさん。ゼイドさん。何してるんですか?」
背後から声をかけたが、まるで反応を示さない。
対面の席にいる強面の男が、ニタニタと笑っている。
小首を傾げ、咲弥は状況を見守った。
ゼイドが不意に、震えた声を漏らす。
「有り金、全部、すっ飛んだ……」
「へっ……?」
あまりに衝撃的な事実に、咲弥は耳を疑った。
咲弥は呆然と、ゼイド達を見つめる。
「へへへっ。運が悪かったなぁ。まっ、ギャンブルなんだ。こういう日もあるさ」
男は豪快に笑い飛ばした。
咲弥は我を取り戻し、ゼイドに問いかける。
「い、いくら失ったんですか?」
「……二〇万、スフィア……」
「えぇえええ……」
やや引き気味に、咲弥は自然と苦い顔になる。
自由行動を始めてから、まださほど時間は経っていない。それなのに、すでにかなりの高額なお金を失っていた。
「なんで、途中でやめなかったんですか……ゼイドさん」
「いや、俺も……つい、熱くなっちまった……」
「すまねぇ……全部、俺のせいだ……」
ロイの謝罪を聞き、咲弥はぼんやりと全容が見えてくる。
ゼイドであれば、最悪ロイを止めてくれると考えていた。
だが彼の面倒見のよさが、逆に仇となったようだ。
やはりギャンブルなど、するものではない。二〇万という大金があれば、できることはほかにたくさんあっただろう。
咲弥が唖然としていると、ロイががばっと立ち上がった。
「咲弥君……わりぃが、持ってる金を貸してくれ!」
「……え?」
「次は絶対に勝てる! 間違いないんだ!」
なんら確証のない妄言に、咲弥は半目でロイを見据える。
ロイの目は血走り、引くに引けない雰囲気が漂っていた。
仮に貸したとしても、失ってしまうのは目に見えている。
咲弥はきっぱりと否定する。
「だめです」
「いや、マジで! 次は勝てるんだって!」
「二〇万も使って負けてるのに、四〇〇〇程度あったって、勝てるわけないじゃないですか。絶対に失いますよ……」
「ところがどっこい! 十倍……いや、二十倍にもなる!」
「なりませんって……」
「取り返さなきゃ……ゼイドに申し訳ねぇんだ!」
それは確かに、その通りではあった。しかしギャンブルで取り返すとなれば、信用は地の底にあると言ってもいい。
どんなギャンブルかは不明だが、望みはほぼないだろう。
ロイ達からお金を巻き上げた強面の男が、せせら笑った。
「いや、もうだめだめ。今回は、もうお開きだ」
ロイはテーブルに手をつき、前のめりに男へ詰め寄った。
「なっ! そこをなんとか頼むぜ、旦那! もう一勝負!」
「だめだって。だいたい見合う金額、用意できねぇだろ?」
「四〇〇〇から増やさせてくれ!」
ロイの発言に、咲弥はぎょっとする。
すでに貸す前提で、話が進められているらしい。
「たかだか四〇〇〇ぽっち。もう諦めな?」
ロイはがっくりとうな垂れた。
少し可哀そうに思う反面、どこかほっとした気分になる。
咲弥が安堵した瞬間、男はにたりと笑う。
「だがまあ、どうしてもってんなら……そうだな。そっちの可愛らしい嬢ちゃんの一晩も賭けるっていうんなら、乗ってやってもいいぜ」
男の視線が、紅羽のほうを舐め回すように動いた。
咲弥は眉間に力を込め、ただただ震撼する。
理不尽極まりない条件を、呑めるはずなどない。
「奇跡に近い上玉だ。二〇万なんか、お釣りがくるぜ。ただ相手は、嬢ちゃん自身がやることが条件だ。そっちのほうが後腐れもねぇからな」
「何を言ってるんですか? だめに決まってます!」
咲弥は声音を強く、男の発言をきっぱりと否定した。
男は肩を竦め、やれやれとため息をつく。
「なら、諦めんだな」
「紅羽ちゃん……」
ロイが涙ながらに、紅羽の肩に手を置こうとした。
紅羽は無表情のまま俊敏に動き、ロイの手から逃れる。
ロイの手は空を切ったが、代わに自身の口を覆い隠した。
「すまねぇ……俺らのために、その涙を飲んでくれ」
言葉の意図を飲み込み、咲弥は声を張った。
「ロイさん! 何を言ってるんですか!」
「だってよぅ……二〇万だぞ……二〇万……」
咲弥は呆れ果て、ため息まじりに首を横に振った。
紅羽を売るような真似は、決してできない。そんなことをするぐらいであれば、大金を失ったほうがマシまであった。
少し不憫だと思えるものの、お互いの了承を得たうえでの出来事であれば、それはそれで仕方のないことではある。
これ以上、泥沼にはまる必要性はまるで感じられない。
「私が賭けに勝てば、全額が戻ってくるのですか?」
紅羽は小首を傾げ、誰にとなく訊いた。
咲弥は驚愕して、紅羽に詰め寄る。
「紅羽! だめだよ。そんな――」
「いいね。全額どころか、倍にして返してやってもいいぜ。どうだい、やるか?」
咲弥の言葉を、男が力強い口調で遮った。
その余裕のある笑みから、底知れない自信が感じられる。真っ先に咲弥が疑ったのは、イカサマの可能性であった。
そうでなければ、倍にするなど口にできるわけがない。
「だめだよ、紅羽。きっと、勝てるような勝負じゃない」
「ですが、咲弥様。私達の旅費を工面してくれているのは、大半がゼイドですから、今後は厳しい旅となりませんか?」
紅羽の至極まっとうな意見に、咲弥はつい閉口した。
珍しく、紅羽の舌は滑らかに回る。
「失ったものは、もう仕方ありません。ですから、現状取り得る最善の手段で、行動をするのがよろしいかと――私は、そう考えております」
「いや、だからって……ギャンブルはないよ……」
咲弥が否定を述べた直後、背後から男の笑い声が飛んだ。
「いいね。綺麗な顔して肝が据わってやがる。気に入った」
男は立ち上がり、近くにある場所から何かを持ってきた。
「そっちの兄ちゃんは、どうやらイカサマを疑ってんな? だからそんなものが、入る余地のない勝負にしてやるよ」
テーブルに置かれた盤を見て、咲弥は目を見開いた。
チェス――あるいは、将棋を連想させる造形をしている。
そもそも、テーブルに散らばっているカードやコインも、よく見れば、もとの世界にもありそうな代物だと思えた。
異なる世界でも拝めるとは思わず、咲弥は驚かされる。
「世界中で有名な、戦棋で勝負をしようじゃないか」
「戦棋……どんなルールなんですか?」
「えっ……?」
咲弥の問いに、男は強面に驚愕の色を宿した。
嘘だろと言わんばかりの顔で、硬直してしまっている。
「ああ、戦棋は――」
ゼイドが男に代わりに、ルールの説明をしてくれた。
その間に男は準備を始め、紅羽が対面の席につく。
「――で、皇帝か国王を討てば、そこで勝敗が決まるんだ。まあ簡単に言えば、帝国と王国の戦争を模したゲームだな」
見た目はチェスっぽいが、聞けば将棋のようでもあった。
大まかな部分は同じだが、どちらとも異なる点がある。
倒した相手の手駒を使えるようにするためには、交渉人と呼ばれる駒で取った場合に限られる。このように、ほかにも違う部分が存在していた。
ただ一度聞いただけでは、さすがに記憶しきれない。
とても不安げな面持ちで、男が恐る恐る尋ねた。
「嬢ちゃんは、ルールを知らないなんてことないよな?」
「はい。問題ありません」
「ふう……よかった。それじゃあ……早速、始めようかい」
男はサイコロを三つ、小さく掲げる。
「先手と後手を決める。嬢ちゃんが振りな」
男からサイコロを手渡され、紅羽は即座に落とした。
見ようによっては、男がサイコロを振ったにも等しい。
からからと小気味よい音を立て、サイコロが止まった。
「残念。嬢ちゃんが先手。皇帝側だ」
男は言いながら、盤上をぐるりと回転させた。
咲弥は極わずかに首を捻る。
この手のゲームでは、先手が有利だと思ったからだ。だが男の口ぶりからは、あまり先手なのはよろしくないらしい。
隣に立つゼイドに、咲弥は顔を向けた。
「このゲーム。先手は不利なんですか?」
「人によるな。実力が互角なら、先手はちと不利だ」
「一騎打ちみたいなもんさ。相手の出方をうかがってから、動く奴がいるだろ。そのほうが展開を予想しやすいのさ」
ロイの補足を聞き、咲弥は盤上を眺めた。
紅羽は迷いなく、即座に一手を打つ。
「ほう。悪くない。ちゃんと、わかっている奴の動きだ」
男は言い終えた直後、自分の手駒を動かした。
一呼吸の間もなく、紅羽は手駒を進める。
咲弥ははらはらしながら、盤上を見守った。紅羽が本当にしっかり考えて動かしているのか、大きな不安を胸に抱く。
そう思わせるほど、紅羽の打つ手があまりに早過ぎた。
男もまたやりなれているのか、軽快に駒を動かしていく。
正直、この手のゲームは苦手であった。だから咲弥には、今どちらが優勢なのか、漠然とでしか判断できずにいる。
しばらくして、不意に男がその手を止めた。
男は盤上をじっと凝視し、口もとを手のひらで覆い隠す。
「待てよ待てよ……そこで、術者を動かすか……そうか……あのとき近衛を動かしたのは、全部このときのためか……」
男が不安げな様子で、自分の駒をゆっくり動かした。
相手の駒を、紅羽はすかさず交渉人の駒でかすめ取る。
男の額から汗が大量に流れ落ち、石像のごとく固まった。
しばしの沈黙を経て、男は絞り出したような声で言う。
「ま……参った……」
「はい。私の勝ちです」
咲弥は目と耳を疑った。
まだどちらも、半分程度しか進んでいないと思える。
それなのに、もう勝敗がついたようだ。
「戦棋は得意だったんだがな……まさか負けちまうとはね。しかし、それにしても強過ぎだ。チャンピオンか何かか?」
「いいえ。ただ、幼い頃に叩き込まれました」
自身の過去を、紅羽は淡々とした口調でほのめかした。
戦棋を叩きこまれた理由は、正直よくわからない。だが、紅羽が見せた意外な一面に、咲弥は静かに驚いた。
男は曖昧に頷き、生返事をする。
「ほう……そうかい」
それ以上深くは問わず、男は札束を盤の上に投げ置いた。
「わりぃな。実は、倍は無理だ。取った分で勘弁してくれ」
「おうおうおうおうっ?」
ロイが前のめりに、男へと歩み寄りながら睨みつけた。
「払う金がねぇだと? そりゃあいけねぇな兄ちゃん」
「得た分は返したんだ。それで勘弁しろ」
「いぃや。だめだね。きっちり四〇万、払ってもらおうか。じゃなきゃあ冒険者の旦那と紅羽ちゃんに、こちとら顔向けできねぇんだわ。わかんだろ? おらっ」
チンピラみたいなロイに、咲弥はつい苦笑が漏れる。
紅羽がロイ達を見つめ、そっけない声で告げた。
「私は戻ってさえくれば、それで構いません」
「まあ、俺もそうだな」
二人の発言に、ロイがぐっとうめいた。
しかしロイは、その首を横に振る。
「だめだ。俺らのときは絞られ、こいつのときは絞られねぇなんて不公平だろ。ギャンブルなんて、そんなもんだ」
「やれやれ。とはいえ、ないものは絞り出せねぇぜ?」
男は肩を竦め、ため息をついた。
そんな男の顔の前に、ロイの顔が詰め寄った。
「あんだろ? 家の家具やなんやを金に換えてよ?」
「無茶言うなよ。こちとら庶民の出だぞ」
「だったらよぉ――」
紅羽の勝利から、ロイはやけに威勢がいい。渋い顔をする男に対して、裏の人間さながらの詰め方を続けている。
ただ、ロイの言い分も決して間違いではない。
咲弥はぼんやりと眺め、ふと思いつく。
両手で壁を作り、苦笑で誤魔化している男に問いかける。
「あの……あなたは、この村の方なんですか?」
「んぁ? ああ、そうだよ」
「それなら、果実酒を何本か手に入りませんか?」
「まさか、果実酒ごときで手打ちにするつもりか?」
ロイの質問に、咲弥はこくりと頷いた。
「魔物の被害のせいで、果実酒がかなり高騰してるんです」
「……マ、マジ……?」
「はい。一本一万超えです」
短くうめくロイの顔は、驚きに満ち溢れている。
男が悩ましげな顔をして呟いた。
「あぁ……あんたらよそ者には、今かなりの高額だからな。酒場でも果実酒は拝めねぇほどだ。まあ別に何本と言わず、十本でもニ十本でも構わんぞ?」
「ほ、本当ですか?」
嬉しく思い、咲弥はつい笑みを浮かべた。
「それで帳消しにしてくれんなら、すぐにでも仕入れるぜ。ツケでも譲ってくれる酒屋には、ちょっとしたあてがある」
「はい……あっ……いろいろ種類を用意してくださったら、かなり助かります」
「わかった。すぐに用意する。あんたも、それでいいな?」
「まあ、それなら悪くねぇな」
ロイは落ち着きを取り戻したのか、首を縦に振った。
男はどこか安堵した顔で述べた。
「じゃあ、知り合いにかけ合うから、少し待っててくれ」
「逃げないように、俺と冒険者の旦那もついて行くぜ?」
ロイの言葉に、男は苦笑する。
「ははは……お好きにどうぞ」
丸く収まった様子で、咲弥はほっと胸を撫で下ろした。
それもこれも、紅羽のお陰ではある。
銀髪の少女に目を向けるや、不意に視線が重なった。
「咲弥様は、お優しいですね」
そう言った彼女の微笑みに、咲弥は胸をドキッとさせた。
不意打ちの微笑みに、つい視線が奪われる。
ぎこちない頷きで、咲弥は紅羽に応えておいた。