第三十三話 馬車に揺られながら
一台の馬車が激しい音を響かせ、草原を疾駆していた。
馬車にはいくつか、目的別に種類がある。
咲弥が初めて乗ったのは、ただの運搬用の荷馬車だった。次は勘違いから護送馬車に運ばれ、今現在は移動専門の乗用馬車の中で、その身を揺らしている。
最初の頃は、変な生物が引く馬車――そういった感想しかもてなかったが、この世界を訪れてから多くを学んできた。
だからこそ、きっちりと理解できることがある。
まず車体の部品には特殊な素材が使われており、それぞれ紋章効果が宿されていた。そのため車体を引く生物には軽く感じられ、荒い道も難なく走っていける。
次にエンジンの役割を担うのは、迅馬と呼ばれる生物だ。
迅馬は馬っぽい体形だが、馬かと問われれば少し首を捻る存在であった。龍を連想する顔を持ち、その体には黒鉄色の鱗が張りついている。
鹿のごとき角も生え、火を彷彿とさせる鬣も立派だった。
まるで伝説上の、麒麟と呼ばれる存在に近い気がする。
そのいかめしい姿からは想像もつかないが、かなり温厚な性格をしている。また同時に、憶病な生物でもあった。
しかし驚くべきは、性格や性質とかではない。
迅馬の特殊過ぎる食事方法にある。
迅馬は走行中に、漂うマナから栄養を摂取するのだ。
食費がかからないうえ、トラック以上の力を持つ迅馬は、さらにもう一つ――憶病ゆえの、特別な力を保有している。
それは――
「クォオオオ――ッ!」
迅馬は突然、警報じみた声を放つ。
奴隷施設までは、遭遇しなかった事態が発生する。
赤髪の真上に両腕を伸ばし、ネイが大きく背伸びした。
「やれやれ、魔物さんのご登場みたいね」
「どうする? 迂回するか?」
ネイの隣に座る熊型の男獣人、ゼイドがそう問いかけた。
ネイは後ろを振り返り、座席に両膝を乗せる。
ふっくらとした彼女のお尻に、つい咲弥の視線が向かう。
「ねぇ。おじさん。そのまま進んでくれていいからね」
「進行方向に魔物がいるみたいだが……大丈夫かい?」
「大丈夫、大丈夫。冒険者の私達が撃退するから」
陽気な口調で言い、ネイはきちんと座席に座り直した。
ネイは足を組み、ゼイドの片腕をぽんぽんと叩く。
「そんじゃ、まあ。いっちょやったりますか」
「おう」
ゼイドが応じたあと、ネイが馬車体にある扉を開いた。
流れていく地面を見つめると、窓から眺めるよりも遥かに速度が出ているように感じられる。そんな高速の中、赤髪の彼女は半身を外へと放り出した。
ネイは額に手を添え、周囲を大きく見渡している。
「んぅー。あれは、タイガの群れかなぁ」
咲弥は馬車の窓から外を覗いた。
ネイが発見したらしき、魔物の姿を探してみる。
前方のやや遠くに、複数の小さな影をいくつか捉えた。
細長い髭をもつ、狼に酷似した魔物が走っている。
馬車は徐々に減速し、やがてその動きを止めた。
「あんた達は乗ってていいわよ。さくっと退治してくるわ」
ネイは言ってから、ゼイドと一緒に馬車から飛び降りた。
ついでに、こっそりと銀髪の少女も下車する。
「え、ちょっ……」
咲弥が呼び止める間もなく、ネイ達と走っていった。
タイガの群れが、馬車を大きく取り囲んでいく。
肉食獣さながら牙を剥き、重く唸って威嚇してきていた。腹を空かしているのか、よだれがぼとぼとと滴っている。
ネイとゼイドに加え、紅羽が即座に攻撃を仕掛けた。
ネイは投げナイフを閃かせ、ゼイドが豪快に大斧を振り、紅羽は光の矢を射る。その光景はもはや、襲ってきたはずのタイガが、逆に不憫に思えるほどであった。
数多くいたタイガが、瞬く間に数を減らす。
「紅羽!」
紅羽の背後にいるタイガに気づき、咲弥は叫んだ。
紅羽は片足を、頭上よりも高く上げる。襲いくるタイガに気づいていたらしく、強烈な踵落としを繰り出したのだ。
地をも砕く蹴りを受け、タイガの顔がひしゃげている。
襲う相手を間違えたと言わんばかりに、タイガ達は脱兎のごとく撤退した。
ネイとゼイドの二人に、終戦の雰囲気が漂う。
だが――紅羽だけは、タイガの撤退を許さなかった。
限界まで弓を引き絞り、逃走するタイガに光る矢を放つ。
一本の矢は、途中で無数に枝分かれして飛翔する。
逃げ惑う複数体のタイガを、背後から光の線が射抜いた。
あまりにも容赦のない紅羽に、咲弥はなかば唖然となる。
「あんれ、まぁ……」
御者台にいる壮年の男が、そんな呟きを漏らした。
きっと、咲弥と同様の気持ちを抱いたに違いない。
「ただいまぁ」
「お、おかえりなさい……」
颯爽と馬車に乗り込むネイに、咲弥はかろうじて応じた。
ゼイドと紅羽も帰還し、座っていた席へと戻る。
ネイは振り返らないまま、御者に合図を飛ばした。
「それじゃあ、出発してちょうだい」
「あ、あいよ」
ネイの指示に従い、御者が迅馬を走らせる。
ゼイドが腕を組み、感嘆の声で言った。
「しかし、聞いていた通り……紅羽ちゃんは本当に強いな。頼もしい限りだ」
やはり紅羽の戦闘能力の高さは、冒険者も舌を巻くほどのものらしい。実際、明らかに異質な強さを保持している。
紅羽の事情は、まだ何も聞かされていなかった。
ただ、アラクネ女王のねぐらで垣間見た光景から、壮絶な人生を歩んできたことは間違いない。きっと紅羽の強さは、そんな悲しい過去の出来事が起因している。
だから彼女の過去については、簡単に訊くべきではない。
いつか自分から話してくれる、その日が来るまで――
咲弥は自分の胸に、そってしまっておいた。
話しても構わなさそうな範囲で、咲弥は言葉を紡ぐ。
「はい。奴隷施設のときも、びっくりの連続でしたから」
ゼイドがごつい手で、自身の顎を撫でた。
「さらに治癒術も扱えるんだから……まったく恐れ入るぜ」
あまり下手に負担をかけるわけにもいかないが、選択肢の一つとして治癒が入るのは、確かにかなりの強みだった。
特に魔物が蔓延るこの世界では、貴重な能力に違いない。
「あんま、妙な詮索はなしよ。治癒術が扱えるってだけで、わかるでしょ?」
「ああ、いや……そんなつもりはないさ」
ネイの言葉に、ゼイドは苦笑まじりに否定した。
咲弥は漠然と、ロイの言葉を振りかえる。
紋章術の効力を高めるためには物事の本質、または知識を得なければならない。
高性能な治癒術が扱える。それは、つまり――
咲弥は静かに、思考を打ち消した。
たとえ胸の内側だとしても、ネイの言葉通りではある。
ばつの悪そうなゼイドに、紅羽が珍しく口を開いた。
「ロイの性的奴隷発言に比べたら、特に問題はありません」
「いや、おまっ! えぇ……? それ、言っちゃうのかよ」
紅羽の苦情まじりの発言に、ロイが激しく取り乱した。
咲弥も内心、これには少し驚かされる。
紅羽は咲弥以外とも、わりと喋れるようになっていた。
だがそれでもまだ無表情に加え、無言が基本ではある。
紅羽は案外、根に持つタイプなのかもしれない。
失言の過去を持つロイへ、ネイが険しい表情を向けた。
「はぁ……? あんた、そんなこと言ったわけ?」
「それは、お前……さすがに、ちょっと……」
ネイとゼイドが、まるで汚物でも見るような目をした。
ロイは視線を泳がせながら、片手を大きく振る。
「いやいや! だから、それは謝ったじゃねぇかよ!」
「うわっ、本当なんだ……」
「いやいや、こんな可愛い子が奴隷って聞きゃあ、誰だってそうなんじゃねぇかなぁって、普通は思うだろ……なあ?」
助けを求めているのか、ロイはゼイドへと少し詰め寄る。
ゼイドは引き気味に、その身をすっとずらした。
「思ったとしても、普通は口には出さんな……」
「いや……まあ……つい、口が滑っちまったんだよ」
「マジ、サイテー……」
ネイとゼイドに責められ、ロイはしゅんと肩を落とした。
「咲弥様にはもう誤解を解きましたが、そんな経験は一度もありません」
「ほんと、謝るから……もう勘弁してくれや」
ロイは紅羽へは向かず、げっそりとした顔で謝罪した。
重い空気が滲む馬車内で、咲弥は不意の思いを巡らせる。
同室だった男のコルスは、同室の女を犯しても咎はないと口にしていた。真偽は知れないままなのだが、きっとそんな奴隷が実在するにはするのだろう。
奴隷制度に関しては、どうしようもないことではある。
咲弥にはとやかく言う権利も、奴隷制度を壊す力もない。だから大多数は諦めるしかないと、ちゃんと理解している。
それでも、やるせない気持ちは募るが――
(全員は無理でも、紅羽だけは救えたんだ……)
それでよしとはならないが、心の救いにはなれていた。
咲弥の視線に気づいたのか、紅羽が紅い瞳を向けてくる。
すると紅羽は、そっと柔らかく微笑んだ。
眩しいほど綺麗な顔に、痛いぐらい咲弥の心臓が跳ねる。
どぎまぎとしてしまい、咲弥はなぜか愛想笑いで返した。
「お客さん達。そろそろ、町のほうへ着きますよ」
御者が肩越しに咲弥達へ向き、そう声をかけてきた。
次の町は中継地点――としか、咲弥は聞かされていない。
「あの、もうすぐ着く町は、どんな町なんですか?」
「んっふっふぅん」
ネイが奇妙に笑い、咲弥の額を指でつんと押した。
「次は、果実酒が名産の町よ」
「えっ……」
咲弥はつい頬が引きつった。
果実酒が名産の町など、嫌な予感しかない。事前の注意もむなしく、結局ネイは先日も限界まで酔っぱらっていた。
そうしてまた、咲弥が寝室まで運ぶはめとなったのだ。
二度目だとはいえ、女性の体に触れるのは抵抗を感じる。
妙な気恥ずかしさもあれば、変に意識してしまうからだ。
「林檎酒から葡萄酒に、檸檬酒に桃酒……はぁ~ん。どれもこれも、一通りぜぇんぶ飲んでいきたかったのよねぇ……」
ネイは目を輝かせ、凛とした顔をうっとりとさせた。
ゼイドが微笑しながら、虚空を見上げる。
「フルーティーな味や香りもいいが、酒は酸味や辛味の強いほうが俺は好みだ」
「わかる。がつんと来るやつのほうが、俺もいいな」
ロイが同意を示した直後、ネイが呆れ顔で呟いた。
「そんなのはどこの酒場でだって、いつでも飲めるでしょ。折角だし、酒場ではあまり出回らない品々のほうがいいわ」
「それは、確かに……まあそうだな」
「奴隷施設のある町にゃあ、国外酒も結構あったんだよな」
しみじみとした雰囲気を放ち、ロイはため息をついた。
奴隷時代に同室だった男も、酒の話をしていた気がする。
興味のあるなしに関係なく、見聞を広めるために足を踏み入れたかったが、大人の世界が広がっていた様子の町へは、結果的に行かずじまいとなってしまった。
それは仕方のないことだが、少し残念な気持ちになる。
ネイが右手を持ち上げ、否定的な声を投げた。
「そんな無法地帯の町にあるお酒なんか、何が入ってんのかわかったもんじゃない。後が怖くて、ちょっと飲めないわ」
「いや、これが案外いけんだ。特に辛口好きのゼイドなら、絶対気に入るぜ?」
「ほう……?」
「マジあまりの旨さに、腰抜かすこと間違いなしだ」
大人の舌を持つ三人の会話を、咲弥はぼんやりと聞いた。
お酒に関しては、よくわからない。むしろネイのせいで、より一層お酒の存在から遠ざかっている気もする。
酔いという感覚を知らないが、酔いたいとは思えない。
ふと紅羽に視線を移すと、彼女は外のほうを眺めていた。
「紅羽は、お酒を飲んだりしないの?」
問いかけると、彼女の紅い瞳が咲弥へ向けられた。
「はい。口にした経験はありません」
「そっか……」
「咲弥様は飲まれるのですか?」
咲弥は苦笑まじりに、首を横に振った。
「お酒は苦手だから、飲める年になっても飲まないかな」
「そうですか。私も今後を含め、飲まないと思われます」
同じ仲間を見つけ、咲弥は少しだけ嬉しく感じる。
ネイがわざとらしく、大仰なため息をついた。
「あんた達はお子様ね。もったいない、もったいない」
「とはいえまあ、楽しめるものは何も酒だけじゃないさ」
ゼイドのフォローに、ロイが乗っかった。
「酒以外の楽しみっつぅーと……ギャンブルか!」
「ははは……」
咲弥は苦笑した。
ネイが言ったように、自分の思考はまだ子供に違いない。どちらにせよ、自分には向かないとしか感じられなかった。
(まあ、僕には遊んでる暇なんか……ないんだよな……)
そう思ったものの、さすがに息抜き程度のものは欲しい。
現状、やはり生きるうえでも大事な食事が思い浮かぶ。
(あとは、そうだなぁ……)
咲弥は思案している最中、ネイの透き通った声が飛んだ。
「あ、見えた見えた。やぁっと一息つけるわね」
前方に視線を移すと、巨大な壁が咲弥の視界に入った。