第三十話 心の中の幻影
それは明らかに、異質な物体であった。
巨大な岩石にも等しい楕円形の石には、一つの印が中央に刻まれている。
全体的に淡い輝きを放ち、咲弥の視線を釘づけにした。
(読めない……?)
石に刻まれているのは、文字ではなく模様なのだろう。
もし文字であれば、咲弥の目には翻訳されるはずだった。
周囲の残骸から、祀られていた雰囲気が漂っている。
(なんだ……?)
寝転がった姿勢のまま、吸い込まれるように指が祀られた石へと向かう。
瞬間――石の一部が、どろりと液状化した。
それは勢いよく噴き出し、咲弥の手を駆けのぼってくる。
唐突過ぎる奇怪な出来事に、咲弥は震撼した。
「う、うわ! うぁわわわわあっ!」
体中の痛みをも忘れ、立ち上がりながらに振り払う。
だが、まったく払えない。
体中を蛇のごとく素早く這い、途端に二つに分裂した。
両肩を通り、二つに分かれた液体は両手の先へ走った――まばゆい光が両手の先のほか、眼前の大石からも発生する。
あまりの眩しさに目を背けるや、両腕から重みが生じた。
「いったい……なんなんだ? 何が起こったんだ……?」
理解不能の現象に、咲弥は激しく混乱した。
いつの間にか、楕円形の石が綺麗さっぱりと消えている。その代わりに、咲弥は両腕に貴金属の籠手を装着していた。
右は漆黒に染まり、左は純白に彩られる。
がっちりと手首に固定されており、外し方もわからない。
しかし思考する間はない。咲弥の耳に不穏な音が届く。
はっと我を取り戻し、力の限り走り戻った。
アラクネ女王が、倒れた紅羽を狙っている。
「や、やめろぉおおおお!」
咲弥の声に呼応したのか、籠手が淡い輝きを放つ。
籠手の意思だろうか――咲弥の中へと流れ込んできた。
初めて紋章石を宿したときと、とてもよく似ている。
咲弥は訳もわからないまま、駆けながら呟いた。
「解、放……?」
オドが少しばかり、籠手に吸われた感覚がした。
まるで悪魔じみた黒い獣の手――
どこか神秘的な白い獣の手――
幻影にも思えるモヤが、その二つを象った形となった。
(これは……)
「まだ死なぬか。我が愛しき天上の餌よ」
アラクネ女王が、大きな魔法陣を宙に描いた。
咲弥はがむしゃらに駆け、高く跳び上がる。
黒い魔法陣に向け、白い爪で大きく引っかいた。
すると魔法陣は裂かれ、煙のごとく消滅する。
「……なんぞ……?」
「これが、白い左手の力……?」
咲弥はそのまま、アラクネ女王に漆黒の拳を振るう。
クモ型の胴体のほうを、黒い拳で殴りつけた。
アラクネ女王が激しい悲鳴を発する。
「キシャアアアァ――ッ!」
アラクネ女王の胴体が、べっこりとへこんでいた。
「これが、黒い右手の力……?」
理由も原理も、まったく何も理解できない。
ただ、白い手は精神的なものに――
黒い手は物理的なものに――
役割の違う攻撃が可能だと、意識が流れ込んできたのだ。
咲弥は得た情報をもとに、アラクネ女王を追撃する。
だが、アラクネ女王も黙ってはいない。
「哀れな人の子よ――我の礎となれ」
魔法陣を裂かれたことを、おそらくは学習したのだろう。
絶対に届かない天井に、黒い魔法陣が描かれた。
「ぐっ――」
咲弥は奥歯を噛み締め、警戒するほかない。
黒い魔法陣から、巨大な漆黒の槍が降り注いだ。
白い獣の手を大きくひらき、槍の先端に爪を這わせる。
それはまるで、紙のごとく引き裂いていった。
「……なにゆえ……?」
アラクネ女王は驚き、戸惑っている。
二度とないかもしれないチャンスを、咲弥は逃せない。
漆黒の拳で打ちつつ、純白の爪で引っかいた。
純白の爪では、相手の体は傷つけられない。その代わり、相手の体内にある精神的なもの――オドを切り裂いていた。
アラクネ女王が大きく揺らめく。
(ごめんね――でも、お前は危険過ぎるんだ)
今度は黒い獣の手を大きくひらき、爪をむき出した。
同時にオドの発生を堰き止め、空色の紋様を浮かべる。
「黒い爪に限界突破!」
咲弥は黒一色の爪を、斜めに振り下ろした。
少しして、粘着音まじりの気味の悪い音が鳴る。
人型をした胴体とクモ型の胴体が、二つに分かれていく。
べちゃりと音を立てて、アラクネ女王は地に伏した。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
肩で息をして、咲弥はアラクネ女王をじっと見据えた。
アラクネ女王は動かない。完全に事切れていた。
二つに裂かれては、魔物といえども生きてはいられない。
クールダウン――咲弥は一気に肩の力が抜け落ちる。
籠手の変化も解かれ、また通常の状態へと戻った。
まるで事情は呑み込めないが、考え込む暇もない。
「はやく……紅羽とロイさんを……」
咲弥はまず、近くにいた紅羽に向かう。
おびただしい量の血が、背から流れ続けている。
かすかに息をする紅羽の頬に、そっと指先で触れた。
恐ろしいぐらい冷たい。一刻を争う状況に思える。
治癒の紋章具は、いくつか鞄に入れて持ってきたのだが、咲弥の荷物はアラクネ女王の初撃で、切り裂かれていた。
荷物はそれぞれ、数個ずつ分担して持ってきている。
ロイの荷物は不明だが、紅羽の荷物にはあるはずだった。
「紅羽……もう少し、頑張ってくれ」
咲弥は声に想いを込め、気絶している紅羽を励ます。
治癒の紋章具を求め、腰を上げ――そのときだった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
蒼月に照らされる闇の中で、いくつもの影が蠢いている。
気配を絶たれようとも、仄かに漂うオドは見えていた。
俊敏な猫みたいな魔物――即座に動きを予測する。
純白の紋様を浮かべ、先手を打つ。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
純白の紋様が砕け、右手から光芒を放った。
熱を帯びた光の筋は、複数体の魔物を飲み込む。
闇に乗じ、死角から狙われている気配を察知する。
自然と体と口が動いた。
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
小さな光球が舞い、背後の魔物達を切り裂いた。
右手付近に紋様を携え、ゆっくり前へ歩む。
「光の紋章第二節、煌めく息吹」
夜空の星々に似た欠片が、体の付近にちかちかと漂った。
補助術を発動させたのち、素早く残りの魔物を狩る。
首筋に蹴りを打ち込み、そして内臓を砕いた。
魔物達の数が減ったころ、ついに本命が姿を見せる。
「グゥオオオオオオッ!」
魔物の雄叫びが、肌をひりつかせた。
宙に魔法陣を生み、無数の氷塊が放たれる。
上手く回避したつもりだったが、いくつか肌にかすった。
かすり傷を無視して、素早く攻撃へと転じる。
オドを深く練り上げ、浮かべた純白の紋様に込めた。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
右手から光芒を放つ――だが、判断の誤りに後悔した。
本命の魔物が、魔法で氷の壁を瞬時に創造する。
それは鏡のごとく、放たれた光芒を反射した。
とっさに身を捻ったものの、背に強烈な閃光がかする。
自らの紋章術で、自身の肌を焼く結果となったのだ。
一時的に退却を余儀なくされ、木陰に身を潜める。
《どうした。七號――まさかとは思うが、あの程度の魔物も討伐できないぐらい、君には難易度の高い任務だったか?》
耳に装着した通信具から、威圧感のある男の声が届いた。
《そんな雑魚も打破できないようでは、未来はないな》
「迅速に回復をはかり、任務を続行します」
《君より位の高い者達なら、すでに終わっているのだがな》
治癒の隙は与えない――声の響きから、そう感じ取った。
《七號。もう君は……破棄対象かな》
血が凍りつくような感覚に襲われる。
電撃にも似た緊張が、体中を駆け巡った。
呼吸をも忘れ、そして目を大きく見開く。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
紅羽の目がカッと見開かれ、紅い瞳が左右に震えた。
咲弥は嫌な記憶が、瞬時によみがえる。
その眼差しはまさに、紅羽が暴走した夜と同じだった。
紅羽は素早く立ち上がると、大きく離れていく。
「討伐対象を再度捕捉。抹殺を開始します」
「紅羽……今は動いちゃだめだ」
不穏な言葉よりも、紅羽の身を案じるほうが先立つ。
暴走状態といえども、かなり足元がおぼつかない様子だ。
紅羽が純白の紋様を浮かべた。
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
純白の紋様が砕け散り、小さな光球が生まれた。
光球は不規則に舞い、斬撃となって咲弥に襲いかかる。
「ま、待って!」
咲弥はとっさに、籠手で防御に徹した。
貴金属を切るような、不快な音が耳を傷める。
「光の紋章第二節、煌めく息吹」
今度はキラキラとした光の粒が、紅羽の周囲に漂った。
補助系統の紋章術――通常でも、紅羽の身体能力は高い。そこからさらに向上するのだから、手がつけられなくなる。
ただそれよりも、今は大きな問題があった。
紅羽は現状、背に大怪我を負っている。
万全の状態ならまだしも、今は逆に危うい気がした。
「もう動いちゃだめだ! 紅羽!」
何度呼びかけても、やはり反応を示さなかった。
紅羽の紅い瞳は、まったく生気を宿していない。
その眼差しからは、ひたすら冷たさと暗さだけがある。
彼女がなぜ暴走するのか、咲弥には理由がわからない。
素早く首を横に振り、思考を打ち消した。
理由はどうであれ、早く落ち着かさなければならない。
激しい運動が原因で、命を失う危険性があるからだ。
(どうする……どうすれば、落ち着かせられる……?)
閃光のごとき速さで、紅羽が向かってくる。
強烈な足技を食らうわけにはいかない。それでなくとも、アラクネ女王に受けたダメージが、まだ体に残っている。
咲弥は全神経を集中させ、紅羽の脚蹴りをかわした。
そう何度も、回避できるわけがない。
だから咲弥は、紅羽から大きく離れた。
しかし、身体能力が向上した紅羽のほうが速い。
後ろに回り込まれ、背に強烈な衝撃を受けた。
「ぐはぁあっ……!」
前方に吹き飛ばされ、石の地面をこすっていく。
涙で少し視界が滲み、ぼやけている。
遠目に紅羽を見て、咲弥はふと気づいた。
彼女のオドが、かなり歪に乱れ続けている。
仮に戦闘中でも、正常時は力強く緩やかだった。
それが今は、まるで音飛びみたいにオドが跳ねている。
「がぁ……はっ……」
突然、紅羽が吐血する。
やはり体の酷使は、予想通りの結果を招きつつあった。
「紅羽……」
咲弥はふと、左手から妙な意識が流れ込んだ。
漠然とした予感の中で、咲弥の鼓動が速まる。
失敗――それは、紅羽の死に直結するかもしれない。
咲弥は気力を振り絞り、立ち上がった。
(頼む。僕に力を貸してくれ。あの子を助けたいんだ……)
これ以上無理を続ければ、彼女は最悪の結末を迎える。
一か八かの賭けにはなるが、流れ込んだ意識を信じた。
「白い籠手、解放」
微量のオドが吸われ、白い獣の手が作られる。
紅羽は咲弥を翻弄しつつ、激しく移動を繰り返していた。
凄まじい速さに、紅羽の動きを目では捉えられない。
咲弥は目で追うのは諦め、紋章術だけを警戒する。
直接攻撃に打って出る――その一点に狙いを定めた。
これまでの紅羽の行動を、脳裏で何度も思い返す。
紅羽の攻撃は、まるで機械のように精密だった。
だからこそ、機械的な行動を逆手に取れると読む。
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
光球が不規則に舞い、咲弥に襲いかかってくる。
閃く斬撃を白い爪で裂き、咲弥は気配を察知した。
(頼む……頼むから、どうか、僕に力を貸してくれ!)
背後から迫る紅羽の気配を感じ取った。
咲弥は全神経を集中して、タイミングをはかる。
紅羽のオドを、白い爪で裂くのではない。
もとに正す――ただ、それだけに思いを込めた。
「ここだぁあああっ!」
咲弥は白い爪を、オドが発生する紅羽の胸へ向かわせた。
カウンター攻撃を食らう瞬間、紅羽の目が驚きに染まる。
咲弥の白い爪が、ついに紅羽の胸に届いた。
(なん、だ……これは……)
突然、咲弥の視界が黒一色に覆われていた。
また理解不能な事態に陥る。咲弥は激しく戸惑った。
解放が解かれている。籠手は装着したままの状態だった。
(これは……いったい……?)
紅羽の記憶なのか、断片的に咲弥の視界を駆け抜けた。
紅羽ととてもよく似た、無数の銀髪の少女達――
優しそうな三十代半ば頃の男女のほか、小さな幼女――
のどかそうな村らしき風景――
物々しい格好をした男達の死体――
それはまるで、写真を眺めている気分になる。
気づけば、今度は真っ白な空間に立っていた。
そこはどこか、天使と対話した場所と似ている。
少し前のほうに、三角座りでうずくまる紅羽を見つけた。
「私は、失敗作……私は、欠陥品……感情は……いらない」
紅羽はずっと呟いている。
その言葉や声は、咲弥の胸に悲しい気持ちを溢れさせた。
紅羽のすべてを把握できたわけではない。
むしろ逆に、謎が増えたといっても過言ではなかった。
だが、さきほど垣間見た記憶の断片――平穏な世界でただ生きてきた自分には、きっと想像もつかないほどの、つらい人生を歩んできたのだろう。
それぐらいのことであれば、わかってあげられた。
紅羽の傍に寄り、咲弥はしゃがみ込んだ。
「私は、欠陥品……私は、失敗作……私は、いらない存在」
「違うよ。紅羽は欠陥品でも、失敗作でもない」
咲弥は優しい声で続ける。
「いらない存在なわけ、ないじゃないか」
「……私は期待に応えられない。破壊されるしかない」
「助けてくれたじゃないか。だから僕も、紅羽を助けたい」
「失敗作……だから、暴走する……私は死んだほうがいい」
涙が頬を伝い、次第に咲弥の感情が高ぶる。
紅羽は誰よりも、強い人だと思った。
ほかの誰よりも、凄い人だと思った。
しかし今の彼女は――どんな人よりも、か弱いと感じる。
アラクネとの鮮烈な光景から、咲弥は失念していた。
彼女はまだ、自分とさほど年が変わらない女の子なのだ。そんな子が自ら死を選び、この世を旅立とうとしていた。
咲弥は我知らず、紅羽の頭をそっと胸に抱き寄せる。
「大丈夫。何度暴走したって、必ず僕が救ってみせるから。それに、紅羽がなんと言おうと、僕は何度でも否定するよ。君は失敗作でも、欠陥品でもないって」
「……咲弥様? ごめんなさい……ごめんなさい……」
紅羽が涙声で謝罪してくる。
そして幼い子供のように、紅羽は激しく泣きじゃくった。
《やはり、お前は失敗作だ。破棄する》
重く響く男の声がした。
紅羽は泣き叫びながら、ずっと小刻みに震えている。
声のほうへ視線を向けると、五十代ぐらいの男がいた。
幻影なのか、黒衣の男の姿は薄く透けている。
《お前は期待には応えられない。お前はほかの者達と違い、無駄な感情を持ってしまった。あまりに不安定極まりない。お前はただの欠陥品だ。この失敗作め!》
「なんで……そんなことが言えるんだ……?」
咲弥の言葉に、黒衣の男は反応を示さない。
紅羽の記憶の中の存在だと、咲弥は推察した。
ふと、この幻影こそが暴走の原因だとも考える。
《お前には失望した。期待していただけに残念だ。お前は。ただの壊れた人形に過ぎない。なんの価値もない、失敗作だ――そのまま、死ね。七號!》
「――は?」
咲弥の中で、ぷつんと何かが切れた。
心臓が冷えるような、激しい怒りが込み上がってくる。
咲弥は生まれて初めて、怒りに打ち震えた。
「紅羽……ちょっと、待ってて」
号泣する紅羽の頭を撫でてから、咲弥はそっと離れた。
黒衣の男へ、ゆっくり歩み寄る。
「白い籠手、解放……」
こんな不思議な場所でも、白い籠手は応えてくれた。
左手が白い獣の手を形作る。
《優しさなど、意味のない感情を抱いたお前はもう不要だ。この欠陥品め!》
「言っていいことと、悪いことの区別すらもつないのか……あんたの言葉が、紅羽をどれだけ傷つけてると思ってんだ」
通じないとわかっていながらも、咲弥は言葉を返した。
「大人にもなって、そんな簡単なこともわからないのか!」
咲弥は腹の底から怒号を飛ばした。
奥歯を噛み締め、白い手を高く振り上げる。
「いらないのは、こっちのほうだ! ばか野郎がぁああ!」
咲弥は黒衣の男を、白い爪で大きく切り裂いた。
霧が晴れ渡るように、幻影は消え去っていく。
そして、気がつけば――
アラクネ女王がいた場所へ、咲弥の視界は戻っている。
どさっと、紅羽が地に倒れた。
咲弥は、はっと我に返った感覚を覚える。
慌ててしゃがみ込んだ。
「紅羽……紅羽……」
ゆっくりと目が開かれ、紅き瞳が揺れた。
「咲弥様……申し訳ありません……私……」
「いいんだ。早く、治癒しよう」
再び目を閉じ、紅羽は沈黙する。
咲弥は急いで、紅羽が放り投げた荷物へと向かった。