第二十九話 人語を解する魔物
礼拝堂らしき場所から、咲弥は紅羽と上を目指していた。
ロイの安否が気にかかり、おのずと進む足も速くなる。
ぱっと見ただけでも、アラクネの数は四十を超えていた。
どう考えても、たった一人で対処が可能な数ではない。
ただでさえ、ロイへの不安で胸がひどく圧迫されている。そんな咲弥をよそに、地形はとても複雑に入り組んでいた。
次第に方向感覚が狂い、現在地すらもわからない。
(ロイさん……どうか……)
「咲弥様」
紅羽に呼ばれた意図を、咲弥は瞬時に理解する。
少し先の通路――石壁には、無数の糸が張りついていた。
白い糸もあれば、赤黒い糸もある。それはまるで、何かの体内を彷彿とさせるような、気味の悪いものに感じられた。
卵らしき物体もあり、心臓の鼓動みたいに動いている。
「ここは、アラクネ女王の産卵場かな?」
「おそらくは」
それが意味するのは、至極単純であった。
アラクネ女王が付近にいる――途端に空気が張り詰める。
ロイの安否が不明のまま、目的地に辿り着いてしまった。
「ロイさんが、まだ見つかっていない。ここは一度……」
ある一つの物体が目に入り、咲弥は言葉に詰まった。
繭っぽい形に、背筋が凍える不気味さがある。
嫌な想像が巡ったせいで、本音を言えば触れたくはない。
ただ、もし生きていたら――まだ間に合う可能性はある。
咲弥は意を決し、繭の一部に指をかけた。
「う、うわぁあああっ……」
恐怖と驚愕が交じり合い、咲弥は尻もちをつく。
中には、ドロドロに溶けた人が入れられていた。
すでに死亡していると、即座に判断できる状態だった。
周囲をよく見回せば、似た感じの繭がいくつもある。
アグネスから聞いた、先発隊の者達に違いない。
込み上げる吐き気を堪え、咲弥は溢れ出る涙を拭う。
「咲弥様。あちらに」
紅羽が差した指の方角に、咲弥は目を向ける。
礼拝堂以上に、広々とした空間――なんのための場所かは不明だが、そこにある舞台らしき部分に、両手足を糸に搦め捕られたロイがいた。
「ロ、ロイさん!」
ロイが生きているのか、遠目からではわからない。
咲弥は我知らず、全力で走りだした。
「待ってください。咲弥様!」
制止の声も届かないほど、咲弥の視界は狭まっていた。
不意に、咲弥は体に衝撃を覚える。
紅羽が飛びついてきたのだと、遅れて理解した。
瞬間――
咲弥がいた場所に、地を砕く衝撃が駆け抜けた。
紐の切れた咲弥の鞄が宙を舞い、いきなり細切れとなる。
「なっ……」
紅羽が助けてくれなければ、確実に自分が裂かれていた。
重量感のある振動と音が響く。
人を軽々と踏みつぶせそうなほど、巨大なクモの胴体――本来ならクモの顔にあたる部分には、青白い肌をした女性の上半身が生えていた。
両手の指には、恐ろしいぐらい長く伸びた爪がある。
(あれが、アラクネ女王……?)
妖艶な女性に見えなくもないが、明らかに人ではない。
「餌……餌、餌……また来た。餌……」
強い衝撃を受け、咲弥はひどく混乱した。
人語を操るさまから、本来は人だったのかと想像する。
「言葉が……わかるのか……?」
「さあ、我が子達の礎となれ」
アラクネ女王は両手を下に広げ、勢いよく振り上げた。
なんの意味があるのか、咲弥は訝しげに観察する。
紅羽が荷物を放り投げ、咲弥の前に飛び出した。
「光の紋章第五節、極光の障壁」
純白の紋様が砕け、前方に光の幕が発生する。
さきほどの見えない斬撃が、光の幕によって阻まれた。
ようやく、咲弥は攻撃の正体が掴める。
アラクネの長い爪から、極細の糸が流れているらしい。
「咲弥様。冷静に、なってください」
時折か弱くなった紅羽の声に、違和感を覚える。
紅羽の全体を眺め、咲弥は目を大きく見開いた。
紅羽の脚から、血が滴り落ちている。
「まさか、あのとき……」
自身の愚かな行動を、咲弥は心の中で激しく責め立てる。
無鉄砲に進んだ結果、紅羽に怪我を負わせていた。
咲弥が、自責の念に駆られている最中――アラクネ女王は指先を器用に動かし、流れる糸を器用に手繰り寄せていく。
アラクネ女王は糸の一部分に、異様に長い舌を這わせる。
「生きのよい餌……極上の餌……アァーハッハッハッ!」
紅羽の血を舐めたのだと、咲弥はそう断定する。
アラクネ女王の甲高い笑い声が、咲弥の耳を傷めた。
これまで出会ってきた、どの大型の魔物とも違う。
異質で危険な雰囲気が、色濃く漂っていた。
思考を切り替え、咲弥は短剣を構える。
空色の紋様を浮かべ、練り込んだオドを込めた。
「ごめん。紅羽……安全な場所で、怪我の治癒を優先して。僕一人じゃ、あいつには敵わない。だから、助けてほしい」
「了解しました」
咲弥は力一杯に駆け、まずは紅羽から遠ざかった。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾!」
空色の紋様が砕け、咲弥の周囲に一つの渦が生まれた。
渦から放たれた水弾が、アラクネ女王をめがけて飛ぶ。
アラクネ女王は長い爪で、水弾をたやすく破壊する。
攻撃は失敗したが、それは別に構わない。
アラクネ女王の意識を、しっかり自分へ向けさせていた。
「こっちだ! アラクネ女王!」
「汝も極上の香り……極上の餌」
アラクネ女王は、にたりと笑った。
手のひらを広げ、アラクネ女王は唱える。
「来たれ。闇の眷属」
手の周囲に、黒く小さめの魔法陣が無数に描かれた。
(な、なんだ! 複数の魔法を同時に……っ?)
虫に似た気味の悪い生物が、魔法陣から飛び出してきた。
咲弥は斜め後ろに飛び、大きく距離を取る。
左腕の一部がかすったらしく、痛みが脳に伝わった。
「ぐっ……」
アラクネ女王が、また舌なめずりした。
「この世のものとは思えぬほどの極上……なんぞ、これ……美味なり、まこと美味なり……アァアアアアアア――ッ!」
鼓膜を破りかねないぐらい、激しく狂った咆哮であった。
奇妙な虫も警戒するが、徐々に姿が薄れて消えてしまう。
おそらくは、魔法で生み出された生物だと考えられた。
その生物が得た血は、アラクネ女王へと届くのだろう。
(魔法……こんなにも、気持ち悪いものもあるのか)
いまだ狂うアラクネ女王――咲弥はチャンスだと踏んだ。
咲弥はオドの発生を、一時的に堰き止める。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾――限界突破!」
強く輝いた空色の紋様が砕け、色濃い渦を生み出した。
凄まじい速度で放たれた水弾が、アラクネ女王へ向かう。
その時点で、咲弥は即座にオドの停止を解除する。
準備期間内で得た大収穫の一つ――この方法を用いれば、たとえ限界突破といえども、オドの消耗を最小限にまで抑え込むことができる。
ただその分、これまでのような威力は出せない。加えて、練り上げていたオドが、綺麗さっぱりと消えてしまうのだ。
(よし……いけるぞ!)
「アァ……もっと……もっと……欲、し、い……」
アラクネの視線が、ゆらりと咲弥へと流れる。
恐怖で全身が凍てつくほど、殺意に満ちた眼差しだった。
アラクネ女王は、爪の一つ持ち上げる。
突然、限界突破した水弾が破壊された。
糸ではない。破壊方法が、まったく見えなかった。
「な、んで……?」
「天にも昇る極上の血を……すべて、我に捧げよ」
アラクネ女王は、指先から絡み合う無数の糸を生んだ。
クモの巣――広範囲に紡がれた糸が、咲弥に襲いかかる。
それは漁師の使う投網を連想させた。
(こんなの! よ、避けられない――)
「光の紋章第一節、閃く剣戟」
小さな光球が舞い、クモの巣を切り裂いた。
「紅羽!」
「咲弥様。お待たせしました」
危機は去っていないが、紅羽の復帰に安心感が芽生える。
もう一人――紅羽が救出したのか、ロイが声を張った。
「よくもやってくれたな! 火の紋章符、発動!」
火の紋章符が灰になるや、辺りに火炎が駆け抜ける。
ロイがまだ生きていて、咲弥は心の中で喜んだ。
「ロイさん!」
「わりぃ! 捕まっちまった! つか、死んだと思った」
ようやく、全員が揃った。
「愚かなり……それもまた、一興なり……」
アラクネ女王は萎縮するどころか、楽しんでさえいる。
アラクネ女王は、ロイを振り返った。
「汝は、不味い餌」
「はんっ! 美味かったとしても、喰わせてやらねぇよ」
ロイは二枚の紋章符を取りだした。
「水の紋章符、発動!」
大きな水の塊が、アラクネ女王をめがけて放たれた。
咲弥の紋章術に比べれば、明らかに速度がたりない。
当然、水の塊は糸で細切れにされた。
再び、ロイの声が飛ぶ。
「雷の紋章符、発動!」
切られた水しぶきを、電撃が繋ぎ走った。
「アァアアアアア――ッ!」
雷鳴が轟き、アラクネ女王に電撃が届いた。
咲弥は感心しつつも、チャンスは逃さない。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾――限界突破」
「光の紋章第四節、白熱の波動」
咲弥は、紅羽と同時に詠唱した。
水弾が凄まじい速度で、アラクネ女王に激突する。
そして、紅羽が放った白い光の筋にも飲み込まれた。
「まだまだ、くらえ! 雷火の紋章符、発動!」
二枚の紋章符が、一緒になって散った。
火と雷が交じり合い、アラクネ女王に襲いかかる。
紅羽の光の矢での追撃を見ながら、咲弥は衝撃を受けた。
(二枚の紋章符を合体……? そんなこともできるのか)
ロイの戦い方は、今まで見てきた者達とはまるで異なる。
紋章符の扱いにたけた――確かに、納得の戦い方だった。
「さすがに、これなら……」
全員の攻撃が、アラクネ女王にすべて命中している。
手応えは確かにあった。
「ぐあぁああああ――っ!」
突然、ロイが絶叫した。
「ロ、ロイさん……!」
後方へと吹き飛び、ロイは石壁に激突する。
脆かった様子の石壁が、ガラガラと音を立てて崩壊した。
倒れているロイは、ぴくりとも動かない。
ロイの安否が気になるが、アラクネ女王が動き始める。
アラクネ女王の口もとに、静かな笑みが張りついた。
「なんで……どうして、効かないんだ……?」
咲弥は怪訝に思い、アラクネ女王を観察する。
火傷どころか、傷一つすら負っていない様子だった。
紋章術の無効化――咲弥は、そんな可能性を模索する。
仮に紋章術が通じていないのなら、さきほど上げた悲鳴の意味がわからない。水と雷の紋章符を連携したとき、確実にダメージは入っているはずなのだ。
(何かを、見落としてるのか……?)
アラクネ女王の視線が、また咲弥へと流れてくる。
まるですべてを、呑み込むような、暗く黒い、瞳だ。
ただ、ただ――
暗い、瞳――
吸い――
こ――
――
「咲弥様ぁっ!」
咲弥の視界に、紅羽は悲鳴じみた声を出して割り込んだ。
虚ろだった咲弥の意識が、途端にはっきりとする。
「はっ……僕は……」
奇妙な感覚に、危うく取り込まれかけていた。
それを理解した瞬間――紅羽が大きく仰け反る。
なんらかの攻撃を、背に受けたのだとわかった。
「闇魔法に……気を……つけて……くだ……」
紅羽がどさっと、地面に崩れ落ちた。
咲弥は目を大きく見開き、素早く紅羽の上半身を抱える。
彼女の背からは、生温かい血が溢れるように流れていた。
「く、紅羽! 紅羽! しっかり!」
息はしているが、完全に意識を失っている。
さきほどから、紅羽に助けられてばかりだった。
つまり紅羽だけは、アラクネ女王に対応できているのだ。
咲弥がいなければ、傷を負うこともなかったに違いない。
紅羽に言われた通り、完全にお荷物となっている。
しかし、今は落ち込んでいる場合でもない。
紅羽をそっと寝かせ、咲弥はアラクネ女王を向いた。
「迷惑かけて、本当にごめん――」
下手に相手の動向を探る余裕などない。
アラクネ女王との距離を、咲弥は一気に縮めた。
後手に回れば、最悪の事態を招きかねない。
倒れた紅羽達に、追い打ちをかけるかもしれないからだ。
「お前の相手は、この僕だ!」
「邪魔は消えた。さあ、汝の極上なる血を……もっと……」
咲弥は短剣を握り締め、勢いよく振った。
アラクネ女王は大きく跳躍して、後方へ飛び退く。
アラクネ女王はなぜか、物理的な攻撃をしてこない。
咲弥の脳裏に、何かが引っかかった。
無効化と思えるほどの防御力があるのならば、その硬さを生かした物理攻撃をしてきても、なんら不思議ではない。
短剣を回避するのも、不思議に感じられた。
紋章術は無効化できても、物理攻撃には弱いのか――
(なんだ……なんなんだ、いったい……)
ふと、咲弥は足元にぬめりを感じた。
水の紋章術での残骸か、ひどく濡れている。
(まさか……っ? 闇って……)
咲弥に閃きが起こる。
地面の濡れ、闇魔法――確かめてみる価値は充分にある。
咲弥はまた、アラクネ女王に詰め寄った。
アラクネ女王が糸を操り、咲弥の肌を傷つける。
全神経を集中し、咲弥は糸をすり抜けた。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾!」
ただの水弾を、アラクネ女王にめがけて放つ。
当然、謎の不気味な破壊が起きる。
その間に、咲弥はオドの発生を堰き止めた。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾――限界突破!」
まばゆく砕けた空色の紋様は、色濃い渦を生み出した。
凄まじい速さで、水弾がアラクネ女王の足元に飛ぶ。
水弾が地面を豪快に砕いた。
「アァアアアアア――ッ!」
アラクネ女王がゆらりと揺れ、重なったように見えた。
睨んだ通りの結果が得られる。
自身の影の中に、アラクネ女王はずっと潜んでいたのだ。
つまり地上にいた物体は、ただのダミーに過ぎない。
「ようやく、姿を現したな!」
アラクネ女王へ、紋様を描きながら勢いよく突っ込んだ。
「斬撃に、限界突破!」
短剣が空を裂いていく。
アラクネの胴体に、当たる寸前での出来事だった。
短剣がいきなり粉々に砕け散ってしまう。
これまでも、別のアラクネを相手に短剣を使っていた。
そのせいで、武器の疲労が溜まっていたのかもしれない。おそらく空を裂いている段階で、限界突破の威力に耐えきれなかったのだと察した。
斬撃にではなく、短剣そのものを限界突破すべきだった。
「そ、んなっ……!」
咲弥の意識が、砕けた短剣に奪われる。
アラクネ女王から、凄まじい足蹴りを食らった。
「ぐぁ――っ!」
咲弥は後方へ吹き飛ぶ。
石の扉をも貫き、背からも激しい痛みが広がる。
紋章効果のある服――または、長い年月を経て脆くなった扉でなければ、その衝撃だけで死んでいた可能性が浮く。
(いっ、つつ……もう、アレを……やるしかないのか……)
相手が死ぬか、自分が死ぬか、またはその両方が死ぬか。
それは天から与えられた、正真正銘――諸刃の剣。
全開の限界突破を自身に使うといった、禁断の選択だ。
非常に危険な賭けになるだろう。
ただ本体が現れた今であれば、分が悪い賭けでもない。
咲弥はゆっくり、上半身を起こしていく。
「ここが、勝負どころだろ……やれ! やるしかない!」
咲弥は自身を鼓舞した。
ふと、傍にある異物が視界に入る。
それは淡く輝いており、妖しく咲弥の目を引きつけた。