第二十七話 出発前夜
風呂から上がった咲弥は、自室のベッドに腰を下ろした。
(ふう……なんだか、ずっと久々な気がするなぁ)
つらい奴隷生活が、身に染み込んでいるからに違いない。
個室に一人でいると、心が奇妙な感覚で溢れ返った。
バサッとベッドに寝転がり、石造りの天井を見上げる。
昨日と今日――できることは試し、ずっと訓練を続けた。
それでも明日の今頃は、どうなっているのかわからない。
緊張と不安が同時に、咲弥の胸に募った。
(頑張るしかないんだ……頑張るしか……)
不意に、コンコンコンと扉が叩かれた。
咲弥はがばっと起き上がり、部屋の出入口へ向かう。
「はい」
扉を開けば、そこには紅羽が立っていた。
銀色の髪が、わずかにまだ湿っている。
どうやら紅羽も、風呂から上がったばかりの様子だった。
「咲弥様。少し、よろしいですか?」
「あ、うん……どうぞ」
手をひらりと漂わせ、紅羽を部屋へ招き入れた。
すれ違いざまに、とても華やかな香りが鼻腔をくすぐる。
それは洗剤の匂いというよりは、女性特有の香りだった。
咲弥は気恥ずかしさを覚えながら、そっと扉を閉じた。
壁際のほうにある長椅子の前で、紅羽は立ち止まる。
少し近くに寄ってから、紅羽に問かけた。
「弓ならしのほうは、もう終わったの?」
「はい。やっと馴染みました」
紅羽は数多くある武器から、弓を選択していた。
咲弥がオドの訓練をしているさなか――紅羽は木偶人形を相手に、何百という数の矢を射続けていたらしい。
弓を扱った経験はないが、指や腕がもつのか心配だった。だが思えば、咲弥よりも遥かにオドの扱いに慣れている。
さらに治癒術までも扱えるため、問題はないのだろう。
紅羽は小首を傾げ、抑揚のない口調で訊いてきた。
「咲弥様のほうは、どうですか?」
「うぅーん……わからない」
咲弥は正直に告げた。
「でも、少しだけ……わかってきた気がするんだ」
「数日前と比べれば、オドの流れがとても綺麗です」
褒められたものの、咲弥は苦笑する。
今はまだ、散らばるオドをまとめているだけに過ぎない。
紅羽の力強くも穏やかなオドとは、明らかに異なる。
「まだまだ……紅羽には、まったく及ばないけどね」
「それは、今後の訓練次第です。咲弥様はまだ、開始地点に立たれたばかりの、まるで雛鳥に等しい存在なのですから」
紅羽は可憐な声で、淡々とした口調でそう諭してきた。
咲弥は苦笑するしかない。
言われて当然ではあるが、なかなかに厳しい言葉だった。
「うん……そうだね」
咲弥は少し苦い気持ちを抱え、紅羽に応えておいた。
焦っても仕方ないが、時間は待ってくれない。
明日は足手まといにならないよう、努めるしかないのだ。
「咲弥様」
「ん?」
「座らないのですか?」
「あぁ、うん」
咲弥は長椅子に腰を下ろした。
座るよう勧めた紅羽が、ぼんやりと立ち続けている。
「えっ? 紅羽も座りなよ」
「はい。失礼します」
紅羽は微妙な間隔をあけ、隣に腰を下ろした。
それから沈黙が流れ、なにやら気まずい雰囲気が漂う。
どこを見ているのか、紅羽はまっすぐ前を向いている。
まつ毛が長く、顔もとても小さい。見れば見るほど端正な顔立ちをしていた。神々しい美しさに、つい目が奪われる。
不意に、紅羽が振り向いた。
ドキッとしてしまい、咲弥はとっさに視線を逸らす。
「咲弥様。一つ、お尋ねしてもよろしいですか?」
「え、あ、うん。何かな……?」
「咲弥様は、どのような人生を歩んでこられたのですか?」
「えっ……?」
一瞬、哲学的な何かを、問われているのかと勘繰った。
紅羽の疑問を、咲弥は冷静に考察する。
「えっと……僕の、昔の話ってことでいいのかな?」
「はい」
「僕は……でも、別に……そんな面白い話もないよ?」
「面白さを求めているわけではありません」
紅羽はきっぱりと否定した。
咲弥は苦笑する。
「うーん……僕の両親は、どっちも仕事で働いていたから、小さい頃は必然的に、母方のじいちゃんと一緒にいることが多かったんだ……あぁ、そうそう。ばあちゃんのほうはさ、もう亡くなっていたから、写真でしか知らないんだよね」
咲弥は過去を、一つ一つ振り返っていく。
「じいちゃんは、かなり変わり者でさ……破天荒というか、無茶苦茶っていうか……とにかく、凄い人だったんだよ」
相槌も何もないが、紅羽は真剣に聞いている様子だった。
咲弥は昔話を続けていく。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
まだ八歳の咲弥は、両足をがくがくと震わせていた。
高い場所にいる、母方の祖父――郷田啓司は、仁王立ちで腕を組んでおり、咲弥のほうをじっと見守り続けている。
まだ幼い咲弥は、涙ながらに叫んだ。
「じいちゃん! 今日こそは、本当に無理です!」
「無理ではない! 為せば成るのだ!」
「なりません! 見てください。めっちゃ怒ってますよ!」
獰猛なイノシシへ、咲弥は小さな指を差した。
イノシシの鼻息は荒く、何度も威嚇してきている。
今にも突っ込んできそうな気配があった。
「僕、大怪我しちゃいますよ!」
「これが自然の厳しさだ! 強く生きるんだ……くっ!」
「無理ですってば! あぁ……来る……来ちゃいます!」
その予感は、現実となる。
ついに、イノシシが突っ走ってきた。
「ひぃああああっ!」
咲弥は死に物狂いで逃げだした。
イノシシは想像以上に、機敏な動きを見せる。
足場の悪い山の道を、ものともしていない。
「速い速い速い!」
途中で枯れ木に挟まった枝が、咲弥の目に入る。
咲弥は逃げながら枝を手に取り、そして離した。
弾かれた枝が、イノシシの付近にバチンと音を立てる。
「全然、怯んでくれない! ひいぃいいいっ!」
追いつかれそうになり、咲弥はそのまま木に飛びついた。
立派な木を、必死によじのぼる。
イノシシを見ると、鼻息を荒くして地団駄を踏んでいた。
諦める様子は、まったく見受けられない。
少しでも高い場所――焦りのせいか、手がずるっと滑る。
「あっ……」
咲弥は、不意の死を連想した。
落下の感覚をその身に受けるや、祖父の匂いが近くなる。
どさっと、咲弥は祖父の両腕の中に落ちた。
「もう終わりじゃい! このクソ獣がぁああ!」
祖父がイノシシを大きく蹴り上げた。
思わぬ攻撃に驚いたのか、イノシシが慌てて逃げていく。
咲弥は泣きじゃくり、祖父の胸に顔をうずめた。
「やれやれ……情けない孫じゃのぉ……」
「だって……あんなの、絶対に無理ですって……」
「これが自然の厳しさだ。無理でもなんでも、どんなことが起こるかはわからん。多くを経験しておけ。いいな、咲弥」
まだ幼い咲弥には、その言葉の真意はわからなかった。
ただ、大事なことなのだろう――そうとだけ呑み込んだ。
「……はい。わかりました」
「ワシがガキの頃は、イノシシの二匹や三匹や十匹――鍋にしてやろうと、企んだもんなんだがなぁ。やれやれじゃ」
祖父の声には、落胆めいた響きがあった。
途端に枝が折れ、ぼとっと何かが落ちた音が鳴る。
音がした方向へと、涙で滲んだ視線を向けた。
無数の貝殻が重なったような――何かが、そこにはある。
謎の物体から、蜂の大群が激しい羽音を立てて現れた。
「いかん! スズメバチじゃっ! こりゃいかん!」
祖父は咲弥を抱えたまま、脱兎のごとく撤退していった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
「――とまあ……そのあと、母さんに尋常じゃないくらい、じいちゃんはこっぴどく怒られたんだけどね」
言い終えてから、咲弥は苦笑する。
当時を振り返ると、懐かしさと寂しさが胸に募った。
「そんなじいちゃんだったんだけど、変な魅力があるからか……本当にたくさんの人達から、凄く慕われてたんだよね」
咲弥は紅羽に微笑んだ。
「やることなすこと無茶苦茶だけど、じいちゃんの言葉は、心に響くというか、真に迫るものがあったというか……」
「あのとき、咲弥様が言ってくださった言葉も、ですか?」
初めて反応があり、咲弥はどこか安堵する。
鋭い彼女に顔を向け、咲弥はうんと頷いた。
「僕はじいちゃんから、本当にたくさんのものを教わった。それは覚悟だったり、言葉だったり、ほんといろいろだね」
咲弥は拳を作り、じっと見つめる。
「だから今の僕は、じいちゃんが形作ってるって言っても、過言じゃないのかな。今もずっと、記憶に残ってるからさ」
まっすぐ見つめてくる紅羽に、咲弥は微笑んだ。
「ごめんね。そんな、たいした話じゃなくって」
「いいえ。私がそのように求めましたから」
「これで……よかったのかな?」
「はい。咲弥様を、少しだけ知れた気がします」
「そっか。逆に、紅羽は……」
咲弥は言葉に詰まった。
彼女に何があったのか、当然、咲弥には何もわからない。
だが、自ら死を選ぶほど、つらい何かがあったのだろう。そう理解するからこそ、簡単に訊いてはいけない気がした。
咲弥は首を横に振る。
「いや……ごめん。なんでもない」
紅羽は綺麗に整った顔を伏せ、少しだけ視線を下げた。
しばらくしてから、また紅い瞳で見据えてくる。
「いつか……今度は私の話も、聞いてくださいますか?」
「……うん。もちろん」
咲弥は、心からの微笑みを作って応えた。
紅羽はさっと席を立つ。
つられて、咲弥も立ち上がった。
「今日は、ありがとうございました」
「ううん。こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
「はい。では、また明日」
「迷惑かけちゃうかもしれないけど、よろしくね」
「了解しました」
咲弥と紅羽は、出入口の扉へ向かう。
扉を開くなり、紅羽は少しだけ硬直した。
咲弥は小首を傾げる。
「あの、咲弥様……」
「ん?」
「一つ、誤解がないように言っておきます」
「誤解……? なんだろう?」
「私は別に、性的奴隷になった経験などありません」
咲弥は心の内側で、生返事をする。
ロイの発言を、どうやら気にしていたようだ。
「されかけたことはありますが、いずれお話しします」
「う、うん……わかった」
「あと……」
「んん?」
紅羽は押し黙ってから、抑揚のない声を紡いだ。
「おやすみなさい。咲弥様」
「あ、え? う、うん。おやすみ」
特に何かあったわけではないのか、紅羽は出ていった。
扉が閉じたあと、咲弥は少しその場で立ち尽くす。
静寂に満ちる中で、咲弥はふと自分の失態に気づいた。
『あなたが天使の使徒――または、別世界の住人であると、他言してはなりません。肝に銘じておいてください。もしもあなたの素性が知られる事態に直面した場合は――あなたと知った者達は全員、命の灯火が即座に消滅するのだと』
咲弥の背筋に悪寒が走る。
今の今まで、すっかりと記憶から抜け落ちていた。
その理由は、思い返せばたくさんある。
紅羽の湯上り姿に華やかな匂い、明日に迫る戦い、自身の戦力としての不安――どれもただの言い訳にしか過ぎない。
何も考えず、求められるままに昔話をしてしまったのだ。
一歩間違えば、自分と一緒に紅羽も死ぬところだった。
(僕は……)
咲弥は冷や汗をかき、自身を激しくたしなめる。
もう二度と、同じ過ちは犯せない。
咲弥はため息をついて歩き、ベッドに背から倒れ込んだ。
石の天井を眺め、徐々に気持ちを入れ替えていく。
明日はアラクネ女王の討伐に、向かわなければならない。
(為せば成る……か)
過去に言われた祖父の言葉を、心の内側で呟いた。
大きな不安が押し寄せ、緊張で眠気がやってこない。
咲弥は上半身を起こして、ベッドの上で胡坐をかいた。
目を閉じてから、静かにオドの流れを感じ取る。
「もう一度、基礎から始めよう」
最低限、寝なければならない時間が来るまで――
咲弥はひたすら、オドの訓練を続けた。