第二十五話 与えられた猶予の一端
現在いる場所は、奴隷区域と比べれば別世界であった。
大きな浴場もあれば、食事は食べ放題となっている。
さらに個室までもが、きちんと用意されていた。ベッドのほか、椅子と机ぐらいしかない質素なものだが、これまでの待遇を考えれば、天と地ほどの差に思える。
アグニスに連れてこられた初日は、紅羽から治癒の施しを受けたあと、泥のように眠りこけてしまった。
魔獣ヌエとの戦いで、体力が底を尽きかけていたからだろう。
そして、二日目――
自室の床でじかに胡坐をかき、咲弥は目を閉じていた。
暗闇の中で、静かに自身のオドを感じ取る。
胸の内側で生まれたオドは体中を巡り、あらゆる場所から体外へと排出されていく。それから纏わりつくように全身を漂い、やがて霧のごとく消え去る。
咲弥は霧散するオドを、必死に抑え留める努力をした。
「そうではありません――まずは、人型の器を想像してみてください。胸の部分にオドという名の水が流し込まれ、その状態が続いています。それが、今の咲弥様」
可憐な声をした紅羽は、抑揚のない口調で説明を続ける。
「器が満たされたあともなお、一定量の水が絶え間なく流し込まれ、無駄遣いをしているのです。であれば、その無駄を省くしかありません」
紅羽の例え話から、咲弥は漠然と浴槽を連想する。
水の流しっぱなしは、確かによくない。
発生するオドを、今度は堰き止める努力をした。
だが、そんな簡単な話ではない。
少しの間だけ堰き止められても、またすぐにオドの発生が強制的に始まる。堰き止めた分だけ、どばっと溢れるのだ。
それはまるで、川の氾濫にも等しい。
「はあ、だめだ……どうして、上手くできないんだろ」
咲弥は自然と、重いため息が漏れる。
目を開けば、対面で正座をしている紅羽が視界に入った。
灰色のワンピースを着た銀髪の少女は、太ももの上に重ね合わせた手を乗せ、じっと紅い瞳で見据えてきていた。
恐ろしいほど無表情のため、何一つ感情は読み取れない。
ヌエ戦を経て以来――少し意識をすれば、人のオドが目で見えるようになっていた。彼女が纏っているオドは、容姿と同じぐらいとても綺麗で美しい。
まるで清流のごとく、静かにオドが巡り巡っているのだ。
それに対して咲弥は、雑に散らかったオドとも言える。
彼女の真似をしようにも、これがなかなかに難しい。
「なんていうか、その……難しくないですか?」
「咲弥様は、どのように紋章を会得なされたのですか?」
咲弥は言葉に詰まった。
紅羽は淡々とした口調で続ける。
「訓練開始時の話ですが、オドを練り上げるといった言葉の意味も、最初はまるで理解をされていないご様子でした」
「ああ……いや……」
「オドの操作は初歩技術です。よくこれまで紋章術を扱ってこられましたね。おそらくは、天性のもの――いいえ、歪な才能かもしれません」
天使に無理矢理、力を植えつけられたからとは言えない。
本来これらは、天使が説明してしかるべきだと思える。
ほかの使徒達の天使はどうだったのか、少し気になった。
「本日を含め、あと二日しか猶予がありません。基礎程度は会得をしていただかなければ、咲弥様はただの足手まとい。お荷物になってしまいます」
見惚れるくらい可愛い顔をして、その言葉は結構きつい。
しかし事実なだけに、咲弥は何も言い返せなかった。
苦々しい気持ちを抱えつつ、オドの訓練を再開する。
(うぅーうん……?)
何度試みても、同じ場所でつまずいた。
オドへの理解力が足りないのか、そもそも単純に技術力が足りないのか、失敗するたびに少しずつ自信を失っていく。
「咲弥様。目を開いてください」
「ん……? はい」
紅き瞳が、まっすぐ咲弥の目へと向けられている
紅羽はそっと、右手を前に差し出した。
「私の右手に、指で触れてみてください」
「えっ? あ、はい」
咲弥は指示通り、紅羽の右手を人差し指で触れた。
驚くぐらい滑らかな感触が、指先から伝わる。
表情一つ変えずに、紅羽は問いかけてきた。
「どのようにして、指で私の手に触れましたか?」
「え……? どのように、って……普通にですが……」
「では、どのように指を操作し、私の手に触れましたか?」
「……へ?」
咲弥は小首を傾げる。
人差し指以外を折り曲げ、腕を伸ばしただけに過ぎない。
ふと、咲弥の胸に何かがつかえる。
「あ、そうか……そういうことですか……」
「水を堰き止めるのではありません。必要な分を取り入れ、常に練り上げた状態のオドに混ぜ合わせ、維持するのです。それが、オドを留めるということです」
つまりは、新陳代謝みたいな理論だと呑み込んだ。
なんとなくではあるが、咲弥は掴めてきた気がする。
再び、そっと目を閉じた。
胸の内側で生じるオドを、静かにゆっくりと感じ取る。
(このオドを……まずは、練り上げていく……)
発生したままのオドは、いうなれば薄霧にも等しい。
その薄霧をより深く、より濃く――
洗練していく作業を、練り上げるというらしいのだ。
(よし。ここまではできた……ここから、さらに……)
静まりかえる空間の中で、咲弥はついにオドを留める。
「で、できましたぁっ!」
喜ぶのも、つかの間だった。
目を開いた途端、オドが爆散したようにもとへと戻る。
気まずい空気が流れた。
「あ……」
「――ですが、理解はされましたね」
「あ、はい!」
冒険者のネイが、ゴブリンボスのときに言っていた。
投げナイフは自身の一部――何かに触れようとするとき、手はどこかへは行かない。オドもまた、自分の一部なのだ。
ただそれを理解しても、すぐに扱えるわけではない。
突然、耳を動かせと言われても、大半の人は無理だろう。
「オドの操作が完璧になれば、回復は飛躍的に向上します。また、消耗も軽減し、紋章術の効果も上昇が見込めます」
「はい。わかりました。頑張ります!」
少し沈黙してから、紅羽は小首を傾げた。
「ところで、咲弥様。なぜ、私にも敬語なのですか?」
「……え?」
「ヌエのときとは、言葉遣いが変わっています」
「あ、ああ……あのときは……」
咲弥は虚空を見上げる。
理由は、たくさんあった。
「えっと、気が高ぶって……いや、切羽詰まってというか」
「あのときのような感じで、接してみてくれませんか?」
ずいぶん難しい問題だと感じる。
一度定着した言葉遣いは、なかなか取れにくい。
じっと揺れ動かない紅い瞳に、咲弥は少し気圧される。
「う……す、少しずつ、頑張ってみます」
「……」
「えっ……?」
「……」
紅羽は、また無言を貫いている。
喋るときもあれば、そうでないときの差が激しい。
少なくとも、ロイが近くにいると絶対に話さなかった。
困り果てた咲弥に、ある閃きが起こる。
「が、頑張るよ」
「はい」
見た目に似合わず、わりと頑固な子なのかもしれない。
ほんの少しだけ、紅羽のことがわかった気がした。
「そうだ。一つ、教えてもらってもいいですか?」
「……」
「……一つ、聞いてもいい?」
「なんでしょうか?」
咲弥は、冷や汗が滴り落ちていく気分であった。
心の中でため息をつき、気持ちをリセットする。
「オドって、防御の役割もあるのかな?」
「魔物相手に、紋章術が通じづらかった話でしょうか?」
「うん。そう」
「防御面だけではなく、さまざまな分野が向上します」
「さまざまな……分野?」
「オドを鍛えれば鍛えるほど、その恩恵は計り知れません。咲弥様が日々感じていた疲労――あれもかなり軽減します」
日々の疲労感は、呆れるぐらい取れない。
紅羽が重ねて補足した。
「体力を鍛えれば、疲れを軽減します。精神力を鍛えれば、行動力が増します。腕力を鍛えれば、重い物も扱えます――これらはあくまでも一例に過ぎませんが、原理は同じです。オドを鍛えれば、体に関するあらゆる面が強化されます」
とてもわかりやすい説明に、咲弥は内心で感心する。
もっと社交的であれば、教師に向いているかもしれない。
「でも……どうやれば、オドは鍛えられるんだろ?」
「肉体労働のとき、力がついたとおっしゃっていましたね」
「あ、そうか。酷使すればするほどってことか」
「ですから、まずは基礎を学んでください」
結局は、基礎の話に帰結する。
肉体労働では力の入れ方、使い方を学んできた。
オドも同じく、いろいろと学んでいくしかない。
「紅羽さん。オドの訓練の指導、よろしくお願いします」
「……」
我知らず、また敬語に戻っていた。
苦い心境を抱きつつ、咲弥は言い直す。
「もしよかったら、オドの訓練に付き合ってほしいな?」
「了解しました」
何が目的なのか、何が紅羽をそうさせるのか――
敬語のほうが無難であり、失礼はないと感じられる。
「思ったんだけど、紅羽さんだって敬語じゃないか?」
「……」
重い沈黙が、お互いの間を行き来する。
咲弥は困惑した。
今度は敬語を使っていない。
しばらく考え、まさかとは思いながら問い直した。
「く、紅羽だって敬語じゃないか?」
「私は関係ありません。ですが、咲弥様はだめです」
予想が現実となり、苦笑しか漏れない。
(オドの指導をしてくれる、お礼だと思えばいいのかな)
ずいぶんと奇妙なお礼に違いない。
ただそうでもしなければ、ろくに会話すらしてくれない。
諦めの境地で、咲弥は静かにため息をついた。
不意に、コンコンコンッと扉をノックする音が飛ぶ。
「あ、はい。どうぞ」
部屋に入ってきたのは、栗毛のロイであった。
いかつい顔をほころばせ、ロイは片手を軽く振る。
「よお。お疲れさん。オドの訓練のほうはどうだ?」
「なかなか、厳しいですね」
「そうか。ちょい訓練は切り上げて、ついてきてくれ」
「えっ? もう届いたんですか?」
咲弥は信じられない気持ちだった。
呆れ顔で、ロイは首を縦に振る。
「もとからこの町では、多くの品々が揃ってるからな。あの連中にとっちゃあ、ささっと集めるぐらいわけないことだ」
咲弥が立つと、紅羽も立ち上がった。
ロイに連れられ、別の部屋へと移動する。
そこは、とても大きな広間であった。
見渡す限り、多種多様の品々が用意されている。
武器、防具、道具と、種別ごとに振り分けられていた。
「ここにあるものは、全部好きに使っていいそうだ」
「わあぁ……凄いですね」
「それだけ、連中も本気だって証でもあるな」
咲弥はふと、不可解に思った。
「あの、気になったんですが……僕らに任せるぐらいなら、自分達で精鋭を集め、討伐したほうが早くないですか?」
咲弥の問いに、ロイは苦い顔をして答えた。
「ん……? なあに、簡単な話さ」
「え?」
「ねぐらを突き止めるために、奴隷じゃない人員が割かれるわけがねぇ。本当のところは、ただ単純に失敗したのさ」
「討伐するつもりが、返り討ちにされたってことですか?」
「ああ。間違いねぇ。そこで死者を多数出したもんだから、どうしようと悩んでいたときに――お前さんが現れたんだ」
咲弥はぎょっとして、肩が大きく跳ねる。
「ぼ、僕ですか? どうして……」
「あの魔獣ヌエは裏取引で入手した魔物なんだが、あいつと一騎打ちで勝てる奴なんか、ぶっちゃけそうそういねぇよ」
咲弥は戸惑いながら、ヌエを討った感想を告げる。
「でも、奇跡的にって……いいえ。もっとはっきり言えば、あの魔物おそらくですが、かなり疲れてた状態だったんだと思うんです。勝てたのもそのお陰かと……」
見世物の状態を、ずっとしいられ続けていたに違いない。
おそらくヌエは、ある種の弱体化に近い状態だったのだ。
「だとしても、賭ける価値は充分にあったのさ」
失敗したらしたで、仕方がない。
ロイの声からは、そういった響きがこもっていた。
もしかすると、ヌエよりも強い魔物なのかもしれない。
咲弥は少し、どんよりとした何かに胸が圧迫される。
「アラクネ女王って、どんな魔物なんですか?」
「アラクネの連中には母であり、また神みたいな存在だな。まあ、俺も実際に遭遇したことはねぇから、あれだが……」
言葉を止め、ロイは唸ってから続ける。
「冒険者や王都の騎士からしたら、どうかは知らねぇが……一般人からすりゃあ、やばいぐらいに危険な魔物だろうな」
「そうなんですか……」
「属性も個々によって違うらしいから、あんま前知識なんかあてにならんかもな」
そう言って、ロイは先へと進んだ。
「……それじゃあ、僕達も――」
紅羽がいたと思われる場所に、咲弥は目を向ける。
だがそこには、紅羽の姿がどこにも見当たらなかった。
咲弥は不思議に思いつつ、周囲を視線で探る。
銀髪の少女は、すでに一人で物色を始めていた。
なぜか男物の衣服を選んでいる。
不意に、咲弥は紅羽と視線が重なった。