第二十一話 紅き瞳を持つ少女
奴隷となってから、すでに三週間の時が流れた。
「せぇ……のっ!」
咲弥は体に巻きつけた縄を、全力で引っ張り続ける。
縄の先にある重い石が、少しずつ引きずる音を立てた。
「ん、ぎぎっ、ぎぎぃ……ぎぎぎぃっ!」
「よーし、咲弥君! ここでいいぞ!」
咲弥が素人ながらに手当てした男、ボアルがそう叫んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
咲弥は呼吸を整え、体に巻いた縄をゆっくりとほどいた。
縄が食い込んでいた箇所が、じんわりと痛んでいる。
肉体労働は本来、紋章術を扱えない奴隷の仕事だった。
しかしオドが回復するまでの間は、自由な時間がある。
そのため、咲弥は二つの理由から手助けを始めたのだ。
最初はほかの奴隷達から、うんざりとした顔をされたが、次第に意識が変わり、今ではもう当然として扱われている。
劣悪な環境に身を置き続け、咲弥は考え方を改めた。
ここは紋章術のほか、肉体を鍛える修行の場――
そう思い込むことにしたのだ。
「いやぁ……毎日、本当に助かるよ」
「いえ。僕も少しずつですが、力がついてきた気がします」
「最初の頃に比べたら、見違えたぐらいだ」
「力の入れ方を教えてくれた、ボアルさんのお陰です」
「命の恩人の役に立てたなら、とても喜ばしいことだよ」
一つは修行だが、もう一つの理由はここにある。
奴隷施設を訪れてから、二日目の出来事――
ボアルは瀕死の状態から、かろうじて回復してくれた。
だが当然、すぐに万全となれるわけではない。
それなのに彼は、無理矢理に働かされ続けていた。
あまりの酷さに、見て見ぬふりなどできるはずもない。
この件をきっかけに、咲弥は肉体労働をも始めたのだ。
「咲弥君。そろそろ、あっちのほうに戻るのかい? 可愛いあの娘、君のことを待ってるみたいだぞ。ほら、あそこ」
ボアルが向いた先には、紅い瞳を持つ銀髪の少女がいる。
咲弥の行くところに、初日からずっと追ってきていた。
何かを喋るわけでもなく、何かをされるわけでもない。
さすがの咲弥も、これには少し恐怖を感じている。
せめて会話でもできればいいが、無言でついてくるのだ。
好意なのか、はたまた別の理由があるのか――
無表情からでは、何一つとして読み取れなかった。
「……いくら話しかけても、反応してくれないんですよね」
「咲弥君に何か、思うところがあるんじゃないか? まあ、びっくりするほど可愛い娘なんだから、羨ましい限りだ」
見た目は確かに、神々しいまでの美しい容姿をしている。
目の保養にはなるが、それでもやはり無言はきつい。
「うぅーん……」
「そのうち、心も開いてくれるよ」
「だと、いいんですけど……」
ボアルはにこやかに笑った。
「あっちはとても危険なんだろ。気をつけてな」
「ボアルさんも、水分補給はしっかりしてくださいね」
「うん。ありがとう」
付近の奴隷達に挨拶をしながら、咲弥はその場を去った。
本来の持ち場へと帰り、また死に物狂いの戦いが始まる。
「咲弥君。来るよ!」
「はい!」
コルスの合図で、咲弥は虚空に空色の紋様を描いた。
「水の紋章第一節、螺旋の水弾」
輝いた紋様が砕け散り、虚空に一つの水の渦を生んだ。
放たれた一つの水弾が、アラクネの猿顔に激突する。
タイミングとコントロールは、もうほぼ完璧だった。
とはいえ、まだ一発でアラクネを退治できない。
今の咲弥には、進行を止めるだけで精一杯であった。
しかも水弾以外の新たな力は、何も生み出せていない――第一節と口にしていたのは、ただ真似ているだけなのだ。
成長してない部分もある。だが、悪い話ばかりでもない。
オドの消耗軽減には、しっかりと成功している。
これまでは、最大四回までしか放てなかった。今は水弾を単発にすることで、最大八回まで発動回数が増加している。
成長速度は、おそらくほかの人よりも遅い。
それでも一歩ずつ、前に進めている実感はあった。
それが、咲弥の原動力の一つとなっている。
「それでは、僕。死骸処理の手伝いに行ってきますね」
「あ、ああ……」
コルスに断りを入れ、本日も魔物の死骸処理を開始した。
しばらくして、やや離れた場所にいる銀髪の少女を見る。
処理を手伝うわけでもなく、じっと見守ってきていた。
咲弥は軽い笑みを作り、少女に向けて手を振っておく。
こうして、また一日を終える。
食事を終えた咲弥は、シーツの上にぱたりと倒れ込んだ。
また疲労が溜まり始め、ぐったりとする。
ロイから貰った紋章具は、とうの昔に使いきっていた。
(そういえば、ロイさん……最近、姿を見せないなぁ)
不安ではあるが、無理なときもあると事前に聞いている。
また会いに来たときに、近況を尋ねてみようと思う。
重い瞼に逆らえず、咲弥はそっと目を閉じる。
視界に暗闇が訪れた。不意に、何か物音が聞こえてくる。
衣擦れような、妙に耳に刺さる音であった。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、部屋がかなり薄暗い。
格子窓の部分から、わずかな光が差し込んでいる。
いつの間にか、眠っていたのだと気づいた。
手の甲で目をこすり、咲弥は上半身を起す。
さきほどの物音は、現実で発生した音のようだ。
コルスが何かしているのか、暗くてよく見えない。
「もう我慢できねぇ……もう我慢できねぇ……」
それは、コルスの声だった。
咲弥は暗闇の中で目を細め、うごめく影を見つめる。
そこには――
「な、何をしてるんですかっ! コルスさん!」
「さ、咲弥君……」
コルスが慌てた様子で振り向いた。
あまりよく見えないが、銀髪の少女の上に跨っている。
咲弥はとても嫌な予感がした。
コルスがおどおどとした声を紡ぐ。
「一か月は我慢しろと言われたが、もう我慢できない」
次第に暗さにも慣れ、咲弥は素早くコルスに近づいた。
少女が着ている布服は、幸いまだ乱れていない。
咲弥はぞっと背筋に悪寒が走る。
あともう少し起きるのが遅ければ、確実に襲われていた。
「ふざけないでください! 彼女から離れてください!」
「う、うるせぇ!」
コルスは殴るように、咲弥を突き飛ばした。
咲弥の腹部に、じわりと痛みが広がる。
「その子、何もできないんですよっ? そんな子の寝込みを襲って……コルスさんは、それで満足するんですかっ?」
傷みを堪え、咲弥はコルスの情に訴えた。
コルスはさらに怒声で返してくる。
「ああ、そうさ、そうさ! こいつはまったく何もしない。なんの役にも立たない人形さ。だったら、これぐらいは役に立ってくれたって構わないだろ!」
「なっ……早く、どいてください!」
情に訴えても無駄だと知り、コルスに飛びかかった。
咲弥は必死に、少女から離させようと試みる。
普段頼りない感じのコルスは、意外な力をみせた。
「邪魔をすんな!」
振り払われた衝撃で、咲弥は後ろにあった壁に激突する。背に強烈な痛みを覚え、そのまま下へとずり落ちていった。
筋肉痛や疲労のせいか、思うように力が出せない。
「お前は……なんにもわかってない。どうして各班に、女が一人、あてがわれてると思う? それはな、こうしても別に構わないからさ。お咎めなんかないんだ」
その言い訳は、暴論以外の何物でもない。
咲弥は声を振り絞った。
「そ、そんなわけ……」
「お前が手伝ってる、紋章術すら扱えないゴミどもだって、みんなやってる! お前が何も知らないだけで、ここじゃあ何も問題ないんだ! ばかガキが!」
コルスの話が事実かどうか、現状では知るすべはない。
事実確認もしないまま、咲弥は強烈なショックを受けた。
ただでさえ、上からは物としてしか扱われていない。
それなのに、その者達の中ですら、生きる人を物だとしか見ていないのだ。
咲弥の目もとに、じわりと涙が溜まる。
「お前にその気がねぇなら、黙って見てろ!」
コルスは少女が着ている布服を、乱暴に掴んだ。
その瞬間――少女の紅い瞳が、カッと見開かれる。
普段の感情の宿らない目つきとは、明らかに違う。
異常なまでに、力が込められた眼差しだった。
少女のすらりとした脚が、コルスの胴に巻きつく。
そして大きく蹴り飛ばされ、悲痛なうめき声が聞こえた。
咲弥は少女のほうへ、すぐに視線を戻す。
ゆらりと立ち上がり、拘束された両腕を垂らしていた。
「標的を発見。これより、戦闘に移行する」
紅い瞳を持つ少女は、初めて言葉を発した。
やや幼い可憐な声には、奇妙なぐらいの圧迫感がある。
「紋章術は使用不可。拘束具の破壊は困難だと判断します」
その口調には抑揚がなく、まさに機械じみていた。
感情というものが、欠片もこもっていない。
「近接戦闘に切り替えます」
「……こ、この……クソ女がぁあああああああ!」
頭に血が上った様子のコルスが、少女へと突っ走る。
少女の細長い脚が弧を描く。コルスの肩へと降り注いだ。
そこから、少女による怒涛の猛攻撃が始まった。
おぞましいほど、連続の蹴りが繰り出されている。
回避する余地など、どこにもない。
コルスは再び、後ろに大きく弾き飛ばされた。
石壁に鈍い音を立てて、ずるずると地に崩れ落ちる。
それはまさに、あっという間の出来事だった。
少女の豹変振りに、強い衝撃を受けたせいもある。
咲弥はただ、ずっと傍観してしまっていた。
普段のぼんやりとした彼女とは、何もかもがまるで違う。
信じられないぐらい、戦闘に特化した少女であった。
このままでは、コルスが殺されるかもしれない。
咲弥は恐る恐る、機械的な少女に声をかける。
「あ、あの……もう……」
「敵意は不明。万一に備え処理します」
「へ……?」
驚きの声を発した直後、少女の紅い瞳が横に線を描いた。
咲弥は慌てて立ち上がり、防御の姿勢を取る。
「ちょ、ちょっと待って!」
少女はまったく聞く耳を持たない。
鋭い回し蹴りが飛んでくる。
咲弥は反射的に、体を仰け反らせた。
少女のつま先が、前髪をほんの少しかすめる。
音が後から聞こえるほど、彼女の蹴りは凄まじい。
咲弥はとっさに、部屋の隅へと移動する。
蹴りがしづらいと、そう判断したからだ。
「ちょ、ちょっと待って! 僕は、君に危害を加えない!」
薄暗い闇の中で、咲弥は必死に相手の姿を捉える。
制止の声もむなしく、彼女は止まらない。
少女は石壁に向かって跳躍した。
左足で石壁を踏み、そのまま右足を頭上より高く上げる。
「……それは、だめだっ!」
咲弥は即座に、前方へと大きく転がる。
重い衝撃音が轟いた。
後ろを振り返ると、硬い石床が砕けている。
細い体つきだが、ありえないぐらいの力をもっていた。
一発でも攻撃を食らえば、どうなるのかわからない。
しかし場所も悪ければ、ここは視界も非常に悪かった。
このまま避け続けるのは、さすがに不可能だと判断する。とはいえ、日々の疲労に加え、拘束具もされたままだった。
取り押さえることは、あまり現実的な方法ではない。
「お願いだから、待って! 落ち着いてくれ!」
現状できることは、こうして必死に叫ぶほかない。
ふと、少女の動きが止まった。
少女の手が、自身の頭へと向かう。
「うぅ……うぅっ……うぅ……」
唐突にうめき、少女の上半身が左右へ揺れる。
「あぁあああ――っ!」
まるで猛獣を連想させる咆哮だった。
そのとき、咲弥は信じられない事態を目撃する。
咆哮とともに、少女が自身の拘束具をねじり壊したのだ。
そんな簡単に壊れる代物ではない。
屈強な大男ですら、そんな真似はできないだろう。
我が目を疑う光景に、咲弥の意識が少しばかり奪われる。
まるで蝋燭の火のごとく、少女がふっと消えた。
咲弥は慌てて、視線を滑らせる。少女の姿を探した。
まったく別の場所で、少女の片足が石壁に着地している。
そう認識した瞬間――咲弥の腕に激痛が走った。
樹枝が折れるような、気味の悪い音が耳に届く。
腕が折れたのだと、瞬時にそう判断した。
同時に、今度は腹部に重い衝撃を覚える。
どこにそんな力があるのか、小さな拳が腹にめり込んだ。
「がはぁっ!」
悲痛な声が、咲弥の口から自然と漏れた。
呼吸がまったくできない。
思考が霧のごとく散らばり、まとまらなくなった。
体のあらゆる場所から、激痛が発生する。コルスに見せた猛攻撃を、今度は手を含めてしているのだと思われる。
次第に痛みが、なぜか遠ざかった。
おぼろげな意識の中で、ぼんやりと咲弥の視界に映る。
銀髪の少女は哀しいぐらい、冷徹な紅き瞳をしていた。
しかしそれはどこか、まるで――
咲弥はまた闇の中へと、思考が静かに落ちる。
そんな暗闇の世界で、妙に暖かい何かを感じていた。
(ああ……僕、死んじゃったのかな……)
死後の世界は、こういった感じなのだろうかと模索する。
さきほどまで襲ってきた痛みは、もうどこにもない。
ただただ、陽だまりみたいな温かさだけがあった。
ふと、咲弥は耳にする。
声なのか、あるいは物音なのかわからない。
よく耳を澄ませば、泣き声みたいなものが聞こえた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
まるで泣きながら、謝っているように聞こえるのだ。
しかしそれも、どんどんと遠退いてく。
遠く――無の世界へと消えた。