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神殺しの獣  作者: Key-No.92
第四章 無数にある分岐点(下)
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第三十六話 この世界にいらない




 これから迎えるであろう死を、咲弥は待ち続けていた。

 もうどうにもできない。何かする気力も湧かなかった。

 眼前に詰め込まれた絶望に、(あらが)う力など残っていない。


(はぁ……疲れた……)

(なさ)けない。自ら歩みを止めるなど、実に(おろ)かですね》


 辛辣(しんらつ)な念が、不意に咲弥の脳へと伝わってきた。

 相手はわかっている。

 かなり久々の感覚ではあるが、別に驚きはしない。

 それほどまでに、咲弥の心は弱りきっていた。


(無茶を言わないでください。もともと僕は、普通の平和な世界で生まれ育った人間なんですよ。こんな(わけ)のわからない怪物や神様がいる世界とは、違うんです)

(なんじ)の努力は、決して無駄ではありません。唱えなさい》


 咲弥は(めい)じられ、右手を前へ差し出した。

 空色の紋様を浮かべ、かすれ気味の声で唱える。


「水の精霊、グレイス様――召喚」


 咲弥の紋様は(あお)く輝き、粉々になって砕け散った。

 宙に漂った小さな(きら)めきは一か所に(つど)い、蒼い円と模様を瞬時に描いていく。やがて渦を巻き、色濃く塗り潰され――そこから青みがかった肌を持つ、清楚感に満ちたグレイスがすっと歩いて現れた。


 ほぼ同時に、咲弥の落下がなだらかに減速する。

 咲弥は頭から倒れ込み、即座に顔を持ち上げた。安定感の高い水の幕と(おぼ)しき足場が、いつの間にか形成されている。

 グレイスの力によるものだと、すぐ理解に達した。


 咲弥達の付近に、一体の女神ユグドラシールが迫る。

 女神は一定の距離を(たも)ち、(ゆる)やかな声を(つむ)いだ。


「ほぅ……水の精――霊?」


 その声音には、どこか疑念が宿っていた。

 グレイスが肩越しに、冷ややかな眼差しを向けてくる。


(なんじ)が一歩、また一歩と重い足で進んできた道を、汝自身が信じなくてどうするのですか? たとえ、どれほどの絶望が立ち(ふさ)がろうとも、視野を広くなさい」


 グレイスから説教を受け、咲弥の胸がきつく(うず)いた。

 確かに、諦めるのにはまだ早い。咲弥はまだ生きている。

 本当に諦めるのは、死んでからでも構わないのだ。


 咲弥は涙しながら、グレイスを見据える。

 本当に久しぶりに接してきたグレイスの眼差しは、とても冷ややかであった。

 グレイスは前を向き直り、手のひらをはらりと()いだ。


「初めは、我を召喚するのでさえ精一杯でした――それが、どうでしょうか……? (なんじ)の努力と寄り添う獣の力により、我の力をここまで解放できるのです」


 グレイスが指を弾き鳴らした。涼しい音色が広がる。

 咲弥は目を見開き、はっと息を呑んだ。光が射し込む海の中とでも言えばいいのか――見惚れるくらいの幻想的な(あお)い光景に、視界が一気に支配されている。

 ゆったりとした口調で、グレイスが声を(つむ)いだ。


()()()()()よ。我が一撃、耐えられるでしょうか」


 付近にいる女神が、ひどく不穏な威圧感を放つ。

 大勢の女神ユグドラシールが、あちこちで虚空から植物を誕生させていった。もし一人でこの場面を目にしていたら、絶望感はより強まっていたと思われる。

 グレイスが(そば)にいるお陰か、咲弥の心は乱れていない。


 今はグレイスの行動にしか、注目できそうになかった。

 グレイスが展開した空間には、クラゲを彷彿(ほうふつ)とさせる蒼く透き通った物体が、ところどころに浮かんでいる。それらが途端に、心地のよい音色を響かせていく。


 グレイスが音に合わせ、ひらりとたおやかに舞い始めた。少し前の自分であれば、儀式めいた踊りをしているとしか、そう考えられなかったに違いない。

 咲弥は呼吸するのも忘れ、ひたすら茫然と見入った。


(空気……違う。漂うマナが、操られてる?)


 その表現も正しくはない。厳密には、導かれている。

 女神達が陣形を組み、攻めと守りの二種類に分かれた。


 恐ろしい連携ではあるが、あまり意味をなしていない。

 蛇龍を連想させる無数の水により、女神ユグドラシールが扱う植物はすべていなされ、あるいは()し潰され、最後には力を失って枯れていた。


 また同時に、大小とある泡沫(ほうまつ)があちこちで破裂している。泡沫の爆発に巻き込まれた女神は、木質化するや(ちり)となってどんどん崩れ去っていく。

 無数にいた女神が、たちまちのうちに数を減らした。


(なんだ、これは……なんか、凄すぎるぞ……)


 グレイスの理解不能な強さに、咲弥は瞠目(どうもく)する。

 絶望に満ちた場を、完全にグレイスが掌握していた。


「――其方(そなた)、やはり精霊などではあるまい?」


 何一つとして、グレイスは応えなかった。

 自分の世界へ、完全に入り込んでしまっているらしい。


 疑問を投じた女神の(そば)に、ほかの女神達が集まっていく。

 女神達は協力し合い、一つの深緑色の円を植物で作る。

 魔法陣じみた造形はあまりに大きく、力強く――そして、ひどく禍々(まがまが)しかった。


()ち果てろ……他所(よそ)からの異物め」


 深緑の魔法陣が、(にぶ)くも強烈な輝きを放つ。

 瞬間――空間のあちこちで気味の悪いひび割れが起こり、そこから噴き出すかたちで大量の植物らしき何かが、次から次へと際限なく飛び出してきた。

 どうやら、一般的な植物などではない。


 明らかに生命を宿した何かだと、目で判断が可能だった。

 花や草木に、さらには菌類か――いずれにしても、植物に属するものだと見受けられる。女神の召喚にしては、どれもかなり醜悪(しゅうあく)な容姿をしていた。

 化けの皮が剥がれたのかと、咲弥はそんな感想を持つ。


(ちり)一つ残すな」


 召喚された植物性の生物が、四方八方から迫ってくる。

 咲弥は死の予感を覚え、本能から身構えた。

 グレイスは動じない。ひたすら舞い踊り続けていた。


(まずい……)


 咲弥はごくりと固唾(かた)を呑んだ。

 無限に出現する植物の生命体が、少しずつグレイスの力を押し返している。

 このままでは、あと数秒と持たず突撃されかねない。


 咲弥は今の自分にできることを、必死に考えた。

 黒手をやや持ち上げ、黒爪にエーテルを込める。

 焼け石に水かもしれないが、何もしないよりはいい。


(どこを狙えば、一番効果的に……)


 咲弥が思案した直後、グレイスが(ゆる)やかに動きを止めた。

 グレイスはおもむろに両手を開き、そして――


(かい)


 グレイスが手を叩き鳴らすや、空気が凄絶(せいぜつ)()ぜた。

 それはまるで、波紋のように広がる津波にも等しい。


 無限に湧き出てくる植物性の生物どころか、空間の亀裂や女神の軍勢までもが、荒れ狂った津波に飲み込まれ、一瞬で綺麗さっぱり消え去ったのだ。

 咲弥はようやく、グレイスの所作を理解する。


 これは確かに、ある種の儀式と言えるのかもしれない。

 グレイスの動き一つ一つが、周囲にあるマナを導く役割を(にな)っており、それはまた同時に、最後の一手へと(いた)るための準備でもあったのだろう。

 解――導いたマナの解放だと、咲弥はそう解釈した。


 つまりグレイスは、最初から踊ってなどいない。

 マナを導く動作が、華麗な舞いに見えただけなのだ。

 静まりかえるなか、咲弥は茫然とグレイスを見据える。


「グレイス様って……精霊じゃあ、ないんですか?」


 非常に()の抜けた声で、咲弥は疑問を吐いた。

 グレイスが優美な顔を向けてくる。


「いいえ。広義的には、水の精霊ですね――ですが、ほんの少し考えれば、わかるはずです。(なんじ)をここへ導いた存在は、自らが干渉(かんしょう)できないのですから」

「……あっ……」


 咲弥は呆気に取られた。

 もし天使が降臨できるのであれば、そもそも使徒達を送り込む必要はない。天使は『あなたに多少の力を付与し、送り出す――私が〝介入〟できる〝唯一(ゆいいつ)〟の道でした』と、そう言っていたのだ。


 つまりグレイスは、別世界の精霊か、あるいは天使により(つく)られた存在なのかもしれない。今まで想像すらしなかった事実に、咲弥は自分に呆れ果てる。

 グレイスの返答通り、少し考えれば済む話だった。


「それよりも……」

 グレイスが前を向くや、その姿が少しずつ透けていく。

「まだ終わってなどいません」


 咲弥ははっと我を取り戻した。

 グレイスの一撃で、超巨大樹もひどく傷ついてはいる。

 だが生命力に溢れた気配が、ひしひしと伝わってきた。


「道は切り拓きました。あとは、(なんじ)で対処してください」

「……グレイス様」

「一つ、伝えておきます――我は汝の敵ではありませんが、完全なる味方というわけでもありません。もしも、心がまた折れるならば、二度はありません」


 グレイスの唐突(とうとつ)な忠告に、咲弥の胸がちくりと痛んだ。

 グレイスが肩越しに蒼い目を見せ、なおも続ける。


(なんじ)がどこかで討たれれば、それはもう仕方がありません。もっと精進なさい」


 グレイスは言い放ち、虚空を歩いて遠ざかっていく。

 咲弥はぐっと押し黙った。


 当然、何かを言い返そうとしたわけではない。与えられた厳しい叱責(しっせき)の数々を、グレイスが去ってしまう前に、自分の中でしっかりと消化したかったのだ。

 グレイスの後ろ姿を見つめ、咲弥は真摯(しんし)にお礼を告げる。


「……はい。本当に、ありがとうございました」


 背後からでは、グレイスの表情はわからない。

 それでも、グレイスは微笑んだような気がする。

 とても優しい精霊だと、咲弥は心からそう思った。


 もし本当に見捨てる気なら、はなから手助けなどしない。

 おそらく、咲弥の成長を(うなが)すための叱咤(しった)だった。

 現にグレイスが消えたあとも、咲弥は落下しない。

 この置き土産こそ、優しい精霊といった証拠でもある。


(でも……グレイス様に、甘えてるだけじゃだめだ)


 咲弥は目に力を込め、超巨大樹へ視線を据える。

 これが女神の本体なのは、間違いないはずであった。ただあまりにも巨大過ぎるため、いったいどこをどう攻撃すればいいのか、さっぱりとわからない。


(まさか、根元から……いいや、さすがに無理だ。じゃあ、ほかの何か……?)


 熟考している暇など、きっとありはしない。

 女神の分身が、再び増殖しないとは限らないのだ。

 咲弥は焦燥感(しょうそうかん)を抑え、思案しつつ視線も巡らせる。


「くっ……」


 咲弥は息を詰めた。(あせ)りばかりが、膨れあがっていく。

 仮に弱点があるとしても、探しだせるはずがない。根元に近づけば暗さは増すし、下から順に上へと登って探すというわけにもいかない。

 発見する前に、確実に女神の妨害が再開する。


(どうする……どうすればいい……どう、す――)

『どれほどの絶望が立ち(ふさ)がろうとも、視野を広くなさい』


 グレイスの言葉が、ふと咲弥の脳裏(のうり)によみがえる。

 視野が狭い――咲弥は呼吸するのも忘れて考え込んだ。


(待てよ、待てよ……何かを、見落としてる? なんだ……僕は何を……)


 咲弥は気を静め、(あわ)てず本日を振り返った。

 神域から始め、第四皇妃スイの豹変(ひょうへん)、宿り木という存在、皇帝陛下ベルガモットとスイの死、超巨大樹の唐突(とうとつ)な出現、女神と守護神獣の襲撃、そして――

 咲弥は全身に、痺れ(しびれ)にも似た感覚が走り抜けていく。


「そうか――!」


 咲弥は声を張り、空高く見上げる。

 黒い斬撃だけが、女神の分身に傷痕(きずあと)を反映させていた。

 弱点ではないかもしれないが、何かがある可能性は高い。

 しかしどう上へ行くか、咲弥はまた悩んだ。


 巨大なツタを、いちいち走っている暇などない。

 今は急を(よう)している。時間がもったいない。

 行動が先決だと思い、足を一歩前へ――ふと、気づいた。


(グレイス様の作った足場……硬い。それなら……)


 咲弥は空色の紋様を浮かべ、口早に唱えた。


「ジャンプ力、限界突破」


 紋様が砕け散り、咲弥は腰を低くした。

 上空に狙いを定め、足に最大限の力を込めてから飛ぶ。

 想像以上に速く、樹冠(じゅかん)のほうへと迫っていく。

 咲弥は近づくにつれ、視界いっぱいに異変を探った。


(絶対、どこかに……あれは!)


 樹冠(じゅかん)の始まりとなる部分のやや下に、妙な突起がある。

 咲弥はさらに目を()らした。それは――


(女神、ユグドラシール……!)


 超巨大樹に()まっているのか、上半身しか見えない。

 なにやら、もがき苦しんでいるようだ。


「なんぞ……あやつめ……なんぞ……この斬撃痕(ざんげきこん)……」


 女神は呪詛(じゅそ)のごとく、何かぼやいていた。

 咲弥は白手を背後に回しながら、空色の紋様を描いた。


「水の紋章第二節、天空の砲撃!」


 咲弥は後方に紋章術を放ち、女神側へと軌道修正する。

 咲弥の接近が、紋章術により女神に気づかれた。

 こればかりは、どうしようもない。

 咲弥は諦めの境地で、さらに女神を観察する。


(下半身を作ってる最中か? それとも、抜け出せない? いやいや、少なくとも……空間の亀裂から現れたり、小さな光が形作ったりしてるわけじゃない……まさか、あれこそが本体……? もし間違えていたら、終わりだ。でも……)


 ここを(のが)せば、どちらにしても打つ手がなくなる。

 神殺しの獣から得たエーテルも、無限ではないのだ。

 しかも精霊の召喚により、かなり消耗している。


(本当、僕は……いっつも、こうなるんだな……)


 もう一か八かの賭けに出るほかない。

 悩む余地などなかった。ここが、最後の正念場となる。

 咲弥は覚悟を決め、超巨大樹の出っ張りに着地した。

 女神へ全速力で駆け、空色の紋様を宙に顕現(けんげん)する。


「全力だぁあああ――女神ユグドラシール!」


 咲弥は叫び、紋様にありったけのエーテルを込めた。

 青空のように輝いた紋様を(たずさ)え、声を張って唱える。


「全開限界突破ぁあああ――っ!」


 それは、禁断の力――だが咲弥は、ある予感がしていた。

 真偽(しんぎ)はともかく、今は女神を討つことだけに集中する。


 世界の停止を思わせる視界のなか、咲弥は顔をしかめた。

 やはり神の一種に違いない。女神は平然と動いている。

 咲弥は迷わない。黒手を大きく振りかぶった。


「ここで! 絶対! 終わらせてやる!」


 咲弥は意気込み、女神の上半身へ黒爪を送った。

 女神が両手を前に伸ばして、防御態勢に入る。

 黒爪は――届かない。見えない障壁に(はば)まれていた。


(おろ)かな……異界の者よ。あと少しで、我の力は復活する」

「させるかぁああああああ――っ!」


 咲弥は黒爪を押し込みつつ、白爪を振りかぶった。

 見えない防壁を白爪で裂き、軽々と打ち砕いて見せる。

 女神の堅そうな顔が、ひどく(ゆが)んでいく。

 妨害を失った黒爪が、一気に女神へと迫った。


「ぐっ……」


 女神が両手で黒爪を(つか)み、なおも(あらが)った。

 女神は(あせ)り気味の声音で告げる。


「我を滅しても、平穏は戻らぬ! この灼熱の地が(おだ)やかに済んでおるのは、我の力があってこそ――失えば、草すらも生えぬ砂漠と化すぞ!」


 咲弥ははっと息を呑んだ。

 女神を見逃しても地獄、反対に殺しても地獄――

 どちらにしても、帝国の崩壊は(まぬが)れない。


 その迷いが、黒爪に表れた。

 女神がここぞとばかりに、押し返してくる。


(なんじ)は、我を滅し、この地の者も滅するか? ああ、まるで(いにしえ)の獣と同じぞ! 神々を殺すため、世界のすべてまでをも敵に回した――あの獣となぁ!」

「ぐぅ……ぐぐっ……ふざけるなぁあああっ!」


 咲弥は()けじと、黒爪を押し込んだ。

 女神もまた、(けわ)しい形相で抵抗してきている。

 咲弥は最悪を知る。さきほどよりも、押し返しが強い。

 女神の言葉通り、本当に力を取り戻し始めていた。


(おご)るなよ、異界の者。よいか? 我ではない。いたずらに人々の運命を崩壊させていく(なんじ)と、神々を(ほうむ)るために恐怖を振り()いた(いにしえ)の獣――(しん)にいらぬは我などではなく、世界を狂わせる汝らのほうなのだ。この(おぞ)ましき異物めらが」


 咲弥の迷いが、女神の言葉で深みを増した。

 咲弥は歯を食いしばり、現状を力の限り維持する。

 女神の憤怒(ふんぬ)の形相を眺め、咲弥は思案した。


(僕は……)

『人を――世界を救う必要はありません。あなたの使命は、邪悪な神を討つ。ただ、それだけです』

(僕は……)

『どんな困難な状況にあろうとも、決して諦めない――もし過程で諦めても、あなたは最後には立ち向かう選択をする』


 過去の出来事が、走馬灯のごとく脳裏(のうり)を駆けていく。

 暗闇の中に立つ黒白の姿が、ふと浮かんだ。

 悲しそうな顔をして、こちら側を見据えてきている。

 なぜそんな顔を――そのとき、女神が微笑んだ。


「時間切れだ。(おろ)かな異界の者よ」


 女神の体から、荒々(あらあら)しいエネルギーが(ほとばし)った。

 理不尽なまでの力により、黒爪が大きく弾かれる。

 咲弥は愕然となり、女神をじっと見つめた。

 ()まって見える女神の下半身が、超巨大樹からずるずると離れつつある。


(いにしえ)の獣よ。もう二度とよみがえるな」


 それはきっと、刹那(せつな)にも等しい時間であった。

 あの日、垣間(かいま)()た光景が咲弥の脳裏(のうり)をよぎる。


 神殺しの獣は――

 少女の優しい笑みを、温もりのある人々とのひとときを、()やしたくなかっただけであった。だが冷徹な一柱(いっちゅう)の神が、無情にも多くの命を奪ってしまう。

 (おだや)やかで優しかった獣は、その日を境に憎悪に満ちた。


 そこから、女神ユグドラシールの行為へと連想が働く。

 嘲笑(あざわら)いながら、人の命を奪う災厄の光を放ったのだ。


「ざ、けんなぁああああ!」


 咲弥は再び、黒爪を繰り出した。

 女神もまた、防御へと転じる。

 咲弥は腹の底から声を荒げた。


「お前らが奪わなきゃ、誰も悲しまなかったんだろうが!」

「わからぬ奴だ。我を滅すれば、この地はやがて滅びる」

「人を……人類をなめるな。お前なんかいなくても……」


 言い切る前に、咲弥の黒爪はあさっての方角へ弾かれた。

 女神が不敵に微笑む。攻撃態勢に入っていた。

 咲弥は絶対的な死を予感する。もう、力が――


『でも、忘れないで』

『私達は、あなたの味方』

『僕達は、君の力』

『だから、忘れないで』

(ああ……うん。そうだね。一緒に、戦おう!)


 咲弥は奥歯を()み締め、姿勢を無理矢理に整える。

 残ったエーテルで、空色の紋様を虚空に描いた。


「黒白、限界突破」


 いまだかつて試した経験のない、二重の限界突破だった。

 成功するのかどうか、咲弥本人にさえわからない。

 空色の紋様は輝きを強め――爆発じみた砕け方をした。


(成功……した……)


 女神の付近から、気味の悪い植物が無数に飛び出した。

 咲弥は白爪を右側に置き、左側へと全力で振るう。

 想像を絶する衝撃波が、すべての植物を突き抜けていく。


 これまでの女神であれば、おそらくは回避していた。

 幸い女神はまだ、超巨大樹から完全に離れられていない。

 植物を枯らす衝撃波は、やがて女神へと到達する。


「んなっ……」


 女神の硬そうな顔が、ひどく(ゆが)んでいく。

 あらゆる力が、女神から消し飛んだからだ。

 咲弥は止まらない。黒爪を高く(かか)げ――


「いらないのは、お前みたいな邪悪な神だぁあああ!」


 咲弥は腹の底から叫び、女神の頭部へ黒爪を走らせる。

 力が消し飛んだ女神は、どこか茫然としていた。

 女神の頭から胴体へ、黒爪がぬるりと駆け抜けていく。

 いやな感触が、黒爪から咲弥へと伝わってくる。


 確かな手応えを感じたとき、限界突破が終わりを迎えた。

 静まりかえる空間のなか、女神が静かな声音で言った。


(なんじ)はもう、(のが)れられぬ……じきに()の神々が動くぞ」


 女神の言葉に、ぞっとした寒気を覚える。

 女神はくすりと笑った。


永久(とわ)の呪いだ……(おろ)かな異界の者と、(いにしえ)の獣よ」


 女神の発言中に、どんどん爪痕が広がっていた。

 そして、爪痕は超巨大樹までに達する。

 瞬間――爆発じみた破裂が起こり、空気が震え上がった。


「うぐっ……」


 咲弥の体が、大きく吹き飛ぶ。

 しかし視線は、女神ユグドラシールへ向け続けた。

 まるで思いだしたかのように、爪痕が走り抜けていく。

 二重の限界突破のせいか、これまで以上に(すさ)まじい。

 女神の姿が、一瞬で消し飛んだのだ。


(五つに裂かれた超巨大樹が、倒れていく……)


 咲弥は落下しながら、見たままの状況を胸裏(きょうり)(つぶや)いた。

 裂かれた超巨大樹が激しい音を響かせ、両側へゆっくりと折れ曲がっていく。その光景はどこか、一輪の花が花びらを広げていくさまを彷彿(ほうふつ)とさせた。

 そんな感想を持ちつつ、咲弥はほっと安堵(あんど)している。


(ここが……人のいない場所で、よかった)


 そう安心してもいられない。

 今は自分の身を、どうにか守らねばならないからだ。

 もうエーテルはない。オドも枯渇(こかつ)に近い状態だった。

 絶望的な状況ではあるが、決して最悪な状況でもない。

 咲弥の抱いていた予感は、見事に的中したからだ。


 神殺しの獣から借り受けたエーテルのお(かげ)ではある。

 禁断の限界突破を使っても、後遺症じみた激痛にまったく襲われていない。

 そこが問題にならないのであれば、あとは――


(いけるのか……? この、なけなしのオドで……)


 後遺症じみた激痛がない代わりに、落下死が待っている。

 咲弥は心の底から、深いため息をつく。

 どんな場合であれ、うまくは収まってくれないらしい。


 咲弥は首を横に振る。愚痴(ぐち)をこぼしても仕方がない。

 生き残るためには、どうにかするほかないのだ。

 咲弥は空色の紋様を浮かべ、じっと待機する。

 どんどん地上が近づいてくる。正確に間を見計らい――


「清水の紋章第二節、澄み切る盾!」


 なけなしのオドでは、やはり足りない。

 咲弥は水の幕を突き抜け、地面へと激突した。


「ぐぼぉっ……いっ、ったぁ……」


 咲弥は悶絶(もんぜつ)してしまい、怨嗟(えんさ)じみたうめき声が漏れる。

 とはいえ、落下の速度は極限まで弱まっていた。

 感覚的には、二階から落ちた程度だと思われる。


 もしオドが万全(ばんぜん)の状態であれば、余計な苦痛を味わわずに済んだ可能性は(いな)めない。今はもう、気絶寸前にまでオドが枯渇しているのだ。

 そもそも、オドがあれば紋章術はきちんと発動している。


 神殺しの獣から力を得た代償の危険さが、いまさらにしてよく理解できた。

 咲弥は右へ左へと体を向け、必死に痛みの軽減を試みる。


「うぅあぁ……痛いぃ……痛いぃ……」


 次第に痛みは(やわ)らぎ、咲弥は気力のみで立ち上がる。

 女神がまだ生きている可能性も、なくはないのだ。

 しっかり確認するまでは、安心などできない。

 いまだ消えぬ痛みを抱え、咲弥は足を引きずって進んだ。


 たどたどしくも、超巨大樹が見える場所にまで辿(たど)り着く。

 中央よりもやや下の部分で、超巨大樹は完全にぼっきりと折れている。両側へ倒れた際の衝撃によってなのか、まるで切り株を彷彿(ほうふつ)とさせる状態に(いた)っていた。

 咲弥は目を閉じてから、(あや)しい気配を深く探っていく。


(女神……どこに……いない……?)


 しばらく探ったが、女神の気配がいっさい感じられない。

 超巨大な切り株も、じっと沈黙していた。

 咲弥はすべてが終わったと(さと)り、心の底から安堵(あんど)する。

 そして――


「うぅ、うぉおおおおおおおおおおおお――っ!」


 感極まった咲弥は一人、自然と腹の底から叫ぶ。

 女神ユグドラシールに打ち勝てた喜び、命からがらも生き抜けた喜び、呪い騒動がようやく終わりを迎えられた喜びと――様々な感情が混ざり合っていた。

 その途中、女神の天災で殺されたであろう人達を(いた)む。


 深い悲しみが、雄叫(おたけ)びに宿ったと自覚する。

 それでも息の続く限り、咲弥は夜空へ声を放っていた。




 咲弥は生涯――(いな)。未来永劫、知ることなどない。

 のちの極秘文献の一つに、こう記された一文がある。

 獣の遠吠(とおぼ)えが()()()の端にまで響き渡った日、()()()()の始まりを迎える、(しん)の知らせであった。と――




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