第三十六話 この世界にいらない
これから迎えるであろう死を、咲弥は待ち続けていた。
もうどうにもできない。何かする気力も湧かなかった。
眼前に詰め込まれた絶望に、抗う力など残っていない。
(はぁ……疲れた……)
《情けない。自ら歩みを止めるなど、実に愚かですね》
辛辣な念が、不意に咲弥の脳へと伝わってきた。
相手はわかっている。
かなり久々の感覚ではあるが、別に驚きはしない。
それほどまでに、咲弥の心は弱りきっていた。
(無茶を言わないでください。もともと僕は、普通の平和な世界で生まれ育った人間なんですよ。こんな訳のわからない怪物や神様がいる世界とは、違うんです)
《汝の努力は、決して無駄ではありません。唱えなさい》
咲弥は命じられ、右手を前へ差し出した。
空色の紋様を浮かべ、かすれ気味の声で唱える。
「水の精霊、グレイス様――召喚」
咲弥の紋様は蒼く輝き、粉々になって砕け散った。
宙に漂った小さな煌めきは一か所に集い、蒼い円と模様を瞬時に描いていく。やがて渦を巻き、色濃く塗り潰され――そこから青みがかった肌を持つ、清楚感に満ちたグレイスがすっと歩いて現れた。
ほぼ同時に、咲弥の落下がなだらかに減速する。
咲弥は頭から倒れ込み、即座に顔を持ち上げた。安定感の高い水の幕と思しき足場が、いつの間にか形成されている。
グレイスの力によるものだと、すぐ理解に達した。
咲弥達の付近に、一体の女神ユグドラシールが迫る。
女神は一定の距離を保ち、緩やかな声を紡いだ。
「ほぅ……水の精――霊?」
その声音には、どこか疑念が宿っていた。
グレイスが肩越しに、冷ややかな眼差しを向けてくる。
「汝が一歩、また一歩と重い足で進んできた道を、汝自身が信じなくてどうするのですか? たとえ、どれほどの絶望が立ち塞がろうとも、視野を広くなさい」
グレイスから説教を受け、咲弥の胸がきつく疼いた。
確かに、諦めるのにはまだ早い。咲弥はまだ生きている。
本当に諦めるのは、死んでからでも構わないのだ。
咲弥は涙しながら、グレイスを見据える。
本当に久しぶりに接してきたグレイスの眼差しは、とても冷ややかであった。
グレイスは前を向き直り、手のひらをはらりと薙いだ。
「初めは、我を召喚するのでさえ精一杯でした――それが、どうでしょうか……? 汝の努力と寄り添う獣の力により、我の力をここまで解放できるのです」
グレイスが指を弾き鳴らした。涼しい音色が広がる。
咲弥は目を見開き、はっと息を呑んだ。光が射し込む海の中とでも言えばいいのか――見惚れるくらいの幻想的な蒼い光景に、視界が一気に支配されている。
ゆったりとした口調で、グレイスが声を紡いだ。
「異界の女神よ。我が一撃、耐えられるでしょうか」
付近にいる女神が、ひどく不穏な威圧感を放つ。
大勢の女神ユグドラシールが、あちこちで虚空から植物を誕生させていった。もし一人でこの場面を目にしていたら、絶望感はより強まっていたと思われる。
グレイスが傍にいるお陰か、咲弥の心は乱れていない。
今はグレイスの行動にしか、注目できそうになかった。
グレイスが展開した空間には、クラゲを彷彿とさせる蒼く透き通った物体が、ところどころに浮かんでいる。それらが途端に、心地のよい音色を響かせていく。
グレイスが音に合わせ、ひらりとたおやかに舞い始めた。少し前の自分であれば、儀式めいた踊りをしているとしか、そう考えられなかったに違いない。
咲弥は呼吸するのも忘れ、ひたすら茫然と見入った。
(空気……違う。漂うマナが、操られてる?)
その表現も正しくはない。厳密には、導かれている。
女神達が陣形を組み、攻めと守りの二種類に分かれた。
恐ろしい連携ではあるが、あまり意味をなしていない。
蛇龍を連想させる無数の水により、女神ユグドラシールが扱う植物はすべていなされ、あるいは圧し潰され、最後には力を失って枯れていた。
また同時に、大小とある泡沫があちこちで破裂している。泡沫の爆発に巻き込まれた女神は、木質化するや塵となってどんどん崩れ去っていく。
無数にいた女神が、たちまちのうちに数を減らした。
(なんだ、これは……なんか、凄すぎるぞ……)
グレイスの理解不能な強さに、咲弥は瞠目する。
絶望に満ちた場を、完全にグレイスが掌握していた。
「――其方、やはり精霊などではあるまい?」
何一つとして、グレイスは応えなかった。
自分の世界へ、完全に入り込んでしまっているらしい。
疑問を投じた女神の傍に、ほかの女神達が集まっていく。
女神達は協力し合い、一つの深緑色の円を植物で作る。
魔法陣じみた造形はあまりに大きく、力強く――そして、ひどく禍々しかった。
「朽ち果てろ……他所からの異物め」
深緑の魔法陣が、鈍くも強烈な輝きを放つ。
瞬間――空間のあちこちで気味の悪いひび割れが起こり、そこから噴き出すかたちで大量の植物らしき何かが、次から次へと際限なく飛び出してきた。
どうやら、一般的な植物などではない。
明らかに生命を宿した何かだと、目で判断が可能だった。
花や草木に、さらには菌類か――いずれにしても、植物に属するものだと見受けられる。女神の召喚にしては、どれもかなり醜悪な容姿をしていた。
化けの皮が剥がれたのかと、咲弥はそんな感想を持つ。
「塵一つ残すな」
召喚された植物性の生物が、四方八方から迫ってくる。
咲弥は死の予感を覚え、本能から身構えた。
グレイスは動じない。ひたすら舞い踊り続けていた。
(まずい……)
咲弥はごくりと固唾を呑んだ。
無限に出現する植物の生命体が、少しずつグレイスの力を押し返している。
このままでは、あと数秒と持たず突撃されかねない。
咲弥は今の自分にできることを、必死に考えた。
黒手をやや持ち上げ、黒爪にエーテルを込める。
焼け石に水かもしれないが、何もしないよりはいい。
(どこを狙えば、一番効果的に……)
咲弥が思案した直後、グレイスが緩やかに動きを止めた。
グレイスはおもむろに両手を開き、そして――
「解」
グレイスが手を叩き鳴らすや、空気が凄絶に爆ぜた。
それはまるで、波紋のように広がる津波にも等しい。
無限に湧き出てくる植物性の生物どころか、空間の亀裂や女神の軍勢までもが、荒れ狂った津波に飲み込まれ、一瞬で綺麗さっぱり消え去ったのだ。
咲弥はようやく、グレイスの所作を理解する。
これは確かに、ある種の儀式と言えるのかもしれない。
グレイスの動き一つ一つが、周囲にあるマナを導く役割を担っており、それはまた同時に、最後の一手へと至るための準備でもあったのだろう。
解――導いたマナの解放だと、咲弥はそう解釈した。
つまりグレイスは、最初から踊ってなどいない。
マナを導く動作が、華麗な舞いに見えただけなのだ。
静まりかえるなか、咲弥は茫然とグレイスを見据える。
「グレイス様って……精霊じゃあ、ないんですか?」
非常に間の抜けた声で、咲弥は疑問を吐いた。
グレイスが優美な顔を向けてくる。
「いいえ。広義的には、水の精霊ですね――ですが、ほんの少し考えれば、わかるはずです。汝をここへ導いた存在は、自らが干渉できないのですから」
「……あっ……」
咲弥は呆気に取られた。
もし天使が降臨できるのであれば、そもそも使徒達を送り込む必要はない。天使は『あなたに多少の力を付与し、送り出す――私が〝介入〟できる〝唯一〟の道でした』と、そう言っていたのだ。
つまりグレイスは、別世界の精霊か、あるいは天使により創られた存在なのかもしれない。今まで想像すらしなかった事実に、咲弥は自分に呆れ果てる。
グレイスの返答通り、少し考えれば済む話だった。
「それよりも……」
グレイスが前を向くや、その姿が少しずつ透けていく。
「まだ終わってなどいません」
咲弥ははっと我を取り戻した。
グレイスの一撃で、超巨大樹もひどく傷ついてはいる。
だが生命力に溢れた気配が、ひしひしと伝わってきた。
「道は切り拓きました。あとは、汝で対処してください」
「……グレイス様」
「一つ、伝えておきます――我は汝の敵ではありませんが、完全なる味方というわけでもありません。もしも、心がまた折れるならば、二度はありません」
グレイスの唐突な忠告に、咲弥の胸がちくりと痛んだ。
グレイスが肩越しに蒼い目を見せ、なおも続ける。
「汝がどこかで討たれれば、それはもう仕方がありません。もっと精進なさい」
グレイスは言い放ち、虚空を歩いて遠ざかっていく。
咲弥はぐっと押し黙った。
当然、何かを言い返そうとしたわけではない。与えられた厳しい叱責の数々を、グレイスが去ってしまう前に、自分の中でしっかりと消化したかったのだ。
グレイスの後ろ姿を見つめ、咲弥は真摯にお礼を告げる。
「……はい。本当に、ありがとうございました」
背後からでは、グレイスの表情はわからない。
それでも、グレイスは微笑んだような気がする。
とても優しい精霊だと、咲弥は心からそう思った。
もし本当に見捨てる気なら、はなから手助けなどしない。
おそらく、咲弥の成長を促すための叱咤だった。
現にグレイスが消えたあとも、咲弥は落下しない。
この置き土産こそ、優しい精霊といった証拠でもある。
(でも……グレイス様に、甘えてるだけじゃだめだ)
咲弥は目に力を込め、超巨大樹へ視線を据える。
これが女神の本体なのは、間違いないはずであった。ただあまりにも巨大過ぎるため、いったいどこをどう攻撃すればいいのか、さっぱりとわからない。
(まさか、根元から……いいや、さすがに無理だ。じゃあ、ほかの何か……?)
熟考している暇など、きっとありはしない。
女神の分身が、再び増殖しないとは限らないのだ。
咲弥は焦燥感を抑え、思案しつつ視線も巡らせる。
「くっ……」
咲弥は息を詰めた。焦りばかりが、膨れあがっていく。
仮に弱点があるとしても、探しだせるはずがない。根元に近づけば暗さは増すし、下から順に上へと登って探すというわけにもいかない。
発見する前に、確実に女神の妨害が再開する。
(どうする……どうすればいい……どう、す――)
『どれほどの絶望が立ち塞がろうとも、視野を広くなさい』
グレイスの言葉が、ふと咲弥の脳裏によみがえる。
視野が狭い――咲弥は呼吸するのも忘れて考え込んだ。
(待てよ、待てよ……何かを、見落としてる? なんだ……僕は何を……)
咲弥は気を静め、慌てず本日を振り返った。
神域から始め、第四皇妃スイの豹変、宿り木という存在、皇帝陛下ベルガモットとスイの死、超巨大樹の唐突な出現、女神と守護神獣の襲撃、そして――
咲弥は全身に、痺れにも似た感覚が走り抜けていく。
「そうか――!」
咲弥は声を張り、空高く見上げる。
黒い斬撃だけが、女神の分身に傷痕を反映させていた。
弱点ではないかもしれないが、何かがある可能性は高い。
しかしどう上へ行くか、咲弥はまた悩んだ。
巨大なツタを、いちいち走っている暇などない。
今は急を要している。時間がもったいない。
行動が先決だと思い、足を一歩前へ――ふと、気づいた。
(グレイス様の作った足場……硬い。それなら……)
咲弥は空色の紋様を浮かべ、口早に唱えた。
「ジャンプ力、限界突破」
紋様が砕け散り、咲弥は腰を低くした。
上空に狙いを定め、足に最大限の力を込めてから飛ぶ。
想像以上に速く、樹冠のほうへと迫っていく。
咲弥は近づくにつれ、視界いっぱいに異変を探った。
(絶対、どこかに……あれは!)
樹冠の始まりとなる部分のやや下に、妙な突起がある。
咲弥はさらに目を凝らした。それは――
(女神、ユグドラシール……!)
超巨大樹に埋まっているのか、上半身しか見えない。
なにやら、もがき苦しんでいるようだ。
「なんぞ……あやつめ……なんぞ……この斬撃痕……」
女神は呪詛のごとく、何かぼやいていた。
咲弥は白手を背後に回しながら、空色の紋様を描いた。
「水の紋章第二節、天空の砲撃!」
咲弥は後方に紋章術を放ち、女神側へと軌道修正する。
咲弥の接近が、紋章術により女神に気づかれた。
こればかりは、どうしようもない。
咲弥は諦めの境地で、さらに女神を観察する。
(下半身を作ってる最中か? それとも、抜け出せない? いやいや、少なくとも……空間の亀裂から現れたり、小さな光が形作ったりしてるわけじゃない……まさか、あれこそが本体……? もし間違えていたら、終わりだ。でも……)
ここを逃せば、どちらにしても打つ手がなくなる。
神殺しの獣から得たエーテルも、無限ではないのだ。
しかも精霊の召喚により、かなり消耗している。
(本当、僕は……いっつも、こうなるんだな……)
もう一か八かの賭けに出るほかない。
悩む余地などなかった。ここが、最後の正念場となる。
咲弥は覚悟を決め、超巨大樹の出っ張りに着地した。
女神へ全速力で駆け、空色の紋様を宙に顕現する。
「全力だぁあああ――女神ユグドラシール!」
咲弥は叫び、紋様にありったけのエーテルを込めた。
青空のように輝いた紋様を携え、声を張って唱える。
「全開限界突破ぁあああ――っ!」
それは、禁断の力――だが咲弥は、ある予感がしていた。
真偽はともかく、今は女神を討つことだけに集中する。
世界の停止を思わせる視界のなか、咲弥は顔をしかめた。
やはり神の一種に違いない。女神は平然と動いている。
咲弥は迷わない。黒手を大きく振りかぶった。
「ここで! 絶対! 終わらせてやる!」
咲弥は意気込み、女神の上半身へ黒爪を送った。
女神が両手を前に伸ばして、防御態勢に入る。
黒爪は――届かない。見えない障壁に阻まれていた。
「愚かな……異界の者よ。あと少しで、我の力は復活する」
「させるかぁああああああ――っ!」
咲弥は黒爪を押し込みつつ、白爪を振りかぶった。
見えない防壁を白爪で裂き、軽々と打ち砕いて見せる。
女神の堅そうな顔が、ひどく歪んでいく。
妨害を失った黒爪が、一気に女神へと迫った。
「ぐっ……」
女神が両手で黒爪を掴み、なおも抗った。
女神は焦り気味の声音で告げる。
「我を滅しても、平穏は戻らぬ! この灼熱の地が穏やかに済んでおるのは、我の力があってこそ――失えば、草すらも生えぬ砂漠と化すぞ!」
咲弥ははっと息を呑んだ。
女神を見逃しても地獄、反対に殺しても地獄――
どちらにしても、帝国の崩壊は免れない。
その迷いが、黒爪に表れた。
女神がここぞとばかりに、押し返してくる。
「汝は、我を滅し、この地の者も滅するか? ああ、まるで古の獣と同じぞ! 神々を殺すため、世界のすべてまでをも敵に回した――あの獣となぁ!」
「ぐぅ……ぐぐっ……ふざけるなぁあああっ!」
咲弥は負けじと、黒爪を押し込んだ。
女神もまた、険しい形相で抵抗してきている。
咲弥は最悪を知る。さきほどよりも、押し返しが強い。
女神の言葉通り、本当に力を取り戻し始めていた。
「驕るなよ、異界の者。よいか? 我ではない。いたずらに人々の運命を崩壊させていく汝と、神々を葬るために恐怖を振り撒いた古の獣――真にいらぬは我などではなく、世界を狂わせる汝らのほうなのだ。この悍ましき異物めらが」
咲弥の迷いが、女神の言葉で深みを増した。
咲弥は歯を食いしばり、現状を力の限り維持する。
女神の憤怒の形相を眺め、咲弥は思案した。
(僕は……)
『人を――世界を救う必要はありません。あなたの使命は、邪悪な神を討つ。ただ、それだけです』
(僕は……)
『どんな困難な状況にあろうとも、決して諦めない――もし過程で諦めても、あなたは最後には立ち向かう選択をする』
過去の出来事が、走馬灯のごとく脳裏を駆けていく。
暗闇の中に立つ黒白の姿が、ふと浮かんだ。
悲しそうな顔をして、こちら側を見据えてきている。
なぜそんな顔を――そのとき、女神が微笑んだ。
「時間切れだ。愚かな異界の者よ」
女神の体から、荒々しいエネルギーが迸った。
理不尽なまでの力により、黒爪が大きく弾かれる。
咲弥は愕然となり、女神をじっと見つめた。
埋まって見える女神の下半身が、超巨大樹からずるずると離れつつある。
「古の獣よ。もう二度とよみがえるな」
それはきっと、刹那にも等しい時間であった。
あの日、垣間見た光景が咲弥の脳裏をよぎる。
神殺しの獣は――
少女の優しい笑みを、温もりのある人々とのひとときを、絶やしたくなかっただけであった。だが冷徹な一柱の神が、無情にも多くの命を奪ってしまう。
穏やかで優しかった獣は、その日を境に憎悪に満ちた。
そこから、女神ユグドラシールの行為へと連想が働く。
嘲笑いながら、人の命を奪う災厄の光を放ったのだ。
「ざ、けんなぁああああ!」
咲弥は再び、黒爪を繰り出した。
女神もまた、防御へと転じる。
咲弥は腹の底から声を荒げた。
「お前らが奪わなきゃ、誰も悲しまなかったんだろうが!」
「わからぬ奴だ。我を滅すれば、この地はやがて滅びる」
「人を……人類をなめるな。お前なんかいなくても……」
言い切る前に、咲弥の黒爪はあさっての方角へ弾かれた。
女神が不敵に微笑む。攻撃態勢に入っていた。
咲弥は絶対的な死を予感する。もう、力が――
『でも、忘れないで』
『私達は、あなたの味方』
『僕達は、君の力』
『だから、忘れないで』
(ああ……うん。そうだね。一緒に、戦おう!)
咲弥は奥歯を噛み締め、姿勢を無理矢理に整える。
残ったエーテルで、空色の紋様を虚空に描いた。
「黒白、限界突破」
いまだかつて試した経験のない、二重の限界突破だった。
成功するのかどうか、咲弥本人にさえわからない。
空色の紋様は輝きを強め――爆発じみた砕け方をした。
(成功……した……)
女神の付近から、気味の悪い植物が無数に飛び出した。
咲弥は白爪を右側に置き、左側へと全力で振るう。
想像を絶する衝撃波が、すべての植物を突き抜けていく。
これまでの女神であれば、おそらくは回避していた。
幸い女神はまだ、超巨大樹から完全に離れられていない。
植物を枯らす衝撃波は、やがて女神へと到達する。
「んなっ……」
女神の硬そうな顔が、ひどく歪んでいく。
あらゆる力が、女神から消し飛んだからだ。
咲弥は止まらない。黒爪を高く掲げ――
「いらないのは、お前みたいな邪悪な神だぁあああ!」
咲弥は腹の底から叫び、女神の頭部へ黒爪を走らせる。
力が消し飛んだ女神は、どこか茫然としていた。
女神の頭から胴体へ、黒爪がぬるりと駆け抜けていく。
いやな感触が、黒爪から咲弥へと伝わってくる。
確かな手応えを感じたとき、限界突破が終わりを迎えた。
静まりかえる空間のなか、女神が静かな声音で言った。
「汝はもう、逃れられぬ……じきに他の神々が動くぞ」
女神の言葉に、ぞっとした寒気を覚える。
女神はくすりと笑った。
「永久の呪いだ……愚かな異界の者と、古の獣よ」
女神の発言中に、どんどん爪痕が広がっていた。
そして、爪痕は超巨大樹までに達する。
瞬間――爆発じみた破裂が起こり、空気が震え上がった。
「うぐっ……」
咲弥の体が、大きく吹き飛ぶ。
しかし視線は、女神ユグドラシールへ向け続けた。
まるで思いだしたかのように、爪痕が走り抜けていく。
二重の限界突破のせいか、これまで以上に凄まじい。
女神の姿が、一瞬で消し飛んだのだ。
(五つに裂かれた超巨大樹が、倒れていく……)
咲弥は落下しながら、見たままの状況を胸裏で呟いた。
裂かれた超巨大樹が激しい音を響かせ、両側へゆっくりと折れ曲がっていく。その光景はどこか、一輪の花が花びらを広げていくさまを彷彿とさせた。
そんな感想を持ちつつ、咲弥はほっと安堵している。
(ここが……人のいない場所で、よかった)
そう安心してもいられない。
今は自分の身を、どうにか守らねばならないからだ。
もうエーテルはない。オドも枯渇に近い状態だった。
絶望的な状況ではあるが、決して最悪な状況でもない。
咲弥の抱いていた予感は、見事に的中したからだ。
神殺しの獣から借り受けたエーテルのお陰ではある。
禁断の限界突破を使っても、後遺症じみた激痛にまったく襲われていない。
そこが問題にならないのであれば、あとは――
(いけるのか……? この、なけなしのオドで……)
後遺症じみた激痛がない代わりに、落下死が待っている。
咲弥は心の底から、深いため息をつく。
どんな場合であれ、うまくは収まってくれないらしい。
咲弥は首を横に振る。愚痴をこぼしても仕方がない。
生き残るためには、どうにかするほかないのだ。
咲弥は空色の紋様を浮かべ、じっと待機する。
どんどん地上が近づいてくる。正確に間を見計らい――
「清水の紋章第二節、澄み切る盾!」
なけなしのオドでは、やはり足りない。
咲弥は水の幕を突き抜け、地面へと激突した。
「ぐぼぉっ……いっ、ったぁ……」
咲弥は悶絶してしまい、怨嗟じみたうめき声が漏れる。
とはいえ、落下の速度は極限まで弱まっていた。
感覚的には、二階から落ちた程度だと思われる。
もしオドが万全の状態であれば、余計な苦痛を味わわずに済んだ可能性は否めない。今はもう、気絶寸前にまでオドが枯渇しているのだ。
そもそも、オドがあれば紋章術はきちんと発動している。
神殺しの獣から力を得た代償の危険さが、いまさらにしてよく理解できた。
咲弥は右へ左へと体を向け、必死に痛みの軽減を試みる。
「うぅあぁ……痛いぃ……痛いぃ……」
次第に痛みは和らぎ、咲弥は気力のみで立ち上がる。
女神がまだ生きている可能性も、なくはないのだ。
しっかり確認するまでは、安心などできない。
いまだ消えぬ痛みを抱え、咲弥は足を引きずって進んだ。
たどたどしくも、超巨大樹が見える場所にまで辿り着く。
中央よりもやや下の部分で、超巨大樹は完全にぼっきりと折れている。両側へ倒れた際の衝撃によってなのか、まるで切り株を彷彿とさせる状態に至っていた。
咲弥は目を閉じてから、怪しい気配を深く探っていく。
(女神……どこに……いない……?)
しばらく探ったが、女神の気配がいっさい感じられない。
超巨大な切り株も、じっと沈黙していた。
咲弥はすべてが終わったと悟り、心の底から安堵する。
そして――
「うぅ、うぉおおおおおおおおおおおお――っ!」
感極まった咲弥は一人、自然と腹の底から叫ぶ。
女神ユグドラシールに打ち勝てた喜び、命からがらも生き抜けた喜び、呪い騒動がようやく終わりを迎えられた喜びと――様々な感情が混ざり合っていた。
その途中、女神の天災で殺されたであろう人達を悼む。
深い悲しみが、雄叫びに宿ったと自覚する。
それでも息の続く限り、咲弥は夜空へ声を放っていた。
咲弥は生涯――否。未来永劫、知ることなどない。
のちの極秘文献の一つに、こう記された一文がある。
獣の遠吠えが旧帝都の端にまで響き渡った日、新生帝国の始まりを迎える、真の知らせであった。と――




