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神殺しの獣  作者: Key-No.92
第四章 無数にある分岐点(下)
207/222

第三十五話 額に刻まれた傷痕




 樹冠(じゅかん)に残る黒い斬撃痕(ざんげきこん)に、咲弥の意識は(とら)われていた。


(……紅羽……本当は、生きてるのか?)


 望みのない願望に過ぎないと、咲弥も重々承知している。

 仮に生きていたとしても、彼女にこれほどの力はない。

 そのはずなのに――視界に映る斬撃痕から、なぜか紅羽の気配が感じられた。


 その真偽(しんぎ)は知れない。咲弥の胸が困惑に圧迫されていく。

 女神ユグドラシールもまた同様に、不可解な現象にひどく驚き、茫然となっている。災厄が不発に終わるとは、夢にも思っていなかったに違いない。


 それは、刹那(せつな)の領域――

 沈黙する女神を見据え、咲弥の意識が切り替わった。


(今……この、瞬間……)


 二度と訪れないかもしれない、最大級の機会――

 そう(さと)った頃にはもう、空中に咲いた花の上に立っている女神ユグドラシールへ、咲弥はなかば自然と向かっていた。随所(ずいしょ)に咲く花々を飛び移っていく。

 咲弥は目を見開き、無言のまま女神に黒爪を振るう。


「が、はぁ……っ!」


 突如(とつじょ)現れた植物が、咲弥の腹部を強打した。

 咲弥は吹き飛び、がらんどうの地面へ背を打ちつける。


「ぐがっ……」

「咲弥殿!」


 ジェラルドの叫びが、やけに遠く聞こえる。

 咲弥は体中から広がる痛みに耐え、ジェラルドへと視線を移した。軽く揺れ動く視界のなか、彼はいまだ足を拘束する植物から抜け出せていなかった。

 よく見れば、魔法的な植物の一種なのだと思われる。


(わずら)わしい……もうよい。我が直々に、天罰を下そう」

 ぞっとする声音で、女神は言葉を(つむ)ぎ続ける。

「もう充分、興じた。まずは(なんじ)らからだ」


 咲弥は血の気が引く。何が起こるのかわからない。

 思考する間もなく、咲弥は白手で虚空を()いだ。


「白爪……空裂き!」


 ジェラルドの足を(から)()っている植物をめがけ、白爪から生じる衝撃波を放った。もちろんジェラルドのオドも多少は()がれてしまうが、さすがに仕方がない。

 選べる選択肢など、今はないにも等しいのだ。


 咲弥は思考を切り替える。

 拘束から(のが)れたジェラルドへ、短い指示を飛ばした。


「シャーロット様を連れ、ここから逃げてください!」

「で、ですが……」

「あなたの精霊を召喚すれば、不可能ではないはずです!」


 ジェラルドが宿す火の精霊は、空を自由に駆け回れる――それ自体は間違いないが、正直なところ、背に(また)がれるのかどうか少し疑問ではあった。

 とはいえ、再び人質に取られるわけにはいかない。


 もしこの場にシャーロットがいなければ、ジェラルドとの共闘もありえたが、事実と異なる思考を持ったところで何も意味はない。

 現にシャーロットはここにおり、彼女の身の安全が何より最優先であった。


 もうなりふり構ってなどいられない。

 たとえ難しくとも、なんとかしてもらうほかないのだ。

 ジェラルドが目を閉じてから、重い(うなず)きを見せる。


「了解しました。ご武運を」

 ジェラルドは言い、深紅の紋様を浮かべた。

「我に力を――火の精霊グトルファクシ!」


 ジェラルドの紋様が砕け、紅い円と模様が描かれる。

 傍観しているはずもない。咲弥は女神に注意を払った。


「誰一人、(のが)しはせぬ」


 案の定、女神が行動を始める。

 女神が顔の付近まで、右手を持ち上げていく。

 咲弥は瞬時に空色の紋様を浮かべ、声を張って唱えた。


「黒爪空裂き、限界突破!」


 紋様が砕け散るとともに、咲弥は黒手を振り抜いた。

 黒爪が空を裂き、飛ぶ斬撃にも等しい衝撃波を生む。

 当然、女神は難なく(ふせ)ぐ。それでも、別に構わない。

 ジェラルド達が遁走(とんそう)する時間さえ稼げればいいのだ。


「あまいのぉ?」


 女神が防衛すると同時に、なんらかの力を放っていた。

 咲弥は気づく。がらんどうが、ぐにゃりと変形する。


(ま、まず……っ!)


 足場や天井から、無数の植物が伸びてくる。

 黒爪で襲いかかる植物を裂き、咲弥は大声を張りあげた。


「ジェラルドさん! シャーロット様!」


 急成長する植物が邪魔となり、姿がまったく見えない。

 咲弥の不安が一気に(ふく)れ上がった。


「ぐっ……くそぉおおおっ!」


 無限増殖を思わせる植物を裂き、咲弥は外側へと出た。

 巨大な枝の上に移り、がらんどう側へ視線を滑らせる。

 気味の悪い植物に、がらんどうは埋め尽くされていた。


 ジェラルド達の気配が、どこにもない。

 咲弥はくっとうめき、唇を噛み締めた。そのとき――


「……危機一髪だ」


 赤く燃え盛る(たてがみ)を持つ、漆黒の馬が一体――成体の迅馬(じんば)が仔馬だと思えそうなほど大きく、体中のあらゆる場所に鬣と同様の激しい炎を(まと)っている。

 その背に、ジェラルドとシャーロットの姿を(とら)えた。


 炎馬(えんま)は天を駆け、素早く超巨大樹から遠ざかっている。

 咲弥に安堵(あんど)する暇などない。すぐ女神に視線を移した。

 女神まで辿(たど)り着くための花が、いくつか消滅している。

 十中八九、咲弥に迫られないために違いない。


 咲弥は空色の紋様を浮かべ、まだ残っている宙に咲く花を飛び移っていく。ある程度まで迫れれば、それで構わない。近づく方法など、一つではないからだ。

 女神がぼそりと(つぶや)いた。


「言ったはずだぞ――人の子よ。(のが)しはせぬ」

「お前の相手は……僕だ! 白爪、限界突破!」 


 咲弥は白爪を()ぐや、即座にまた紋様を顕現(けんげん)する。

 硬そうな女神の顔面に、不気味な笑みが張りついた。


「もう遅いわ。異界の者」

「清水の紋章第二節、澄み切る盾!」


 咲弥は唱えながら、炎馬(えんま)側を一瞥(いちべつ)した。

 空中に植物が生え、ジェラルド達へ襲いかかっていく。

 咲弥は(きも)を冷やしたが、すぐ安心感に胸が満たされる。


 炎馬(えんま)が襲いかかる植物を、一瞬で灰燼(かいじん)()したからだ。

 戦闘面は当然のこと、撤退でも強力な助けとなってくれる――これらの事実から、やはり精霊の召喚は奥の手として、残させておいて正解だったと認識する。


 咲弥は生みだした水の幕を、トランポリン代わりにする。

 大きく飛び跳ね、女神へ迫りつつ声を張った。


「人を……なめるな!」

「遅いか早いか――ただ、それだけに過ぎぬ」


 何にしても、一対一の状態にまで持ち込めた。


(ここで討たなきゃ、もう道はない……)


 咲弥は(おのれ)鼓舞(こぶ)して、覚悟を決めていく。

 咲弥もまた――最終手段はいくつか残っているのだ。



    ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆



 火の精霊――グトルファクシの背に座り、シャーロットは唖然となっていた。

 虚空より生じた植物を撃退するときとは違い、この炎馬(えんま)(まと)っている炎は熱くない。むしろ、どこか陽だまりのような温かさすらも感じられる。


 震撼している問題点は、しかしそこではない。

 精霊の存在は、御伽噺(おとぎばなし)の一つだと思っていた。

 読み漁った数々の書物からも、それは間違いない。


 けれど、(ちら)われていた場所で召喚をした長身の男と同様、ジェラルドも精霊の召喚をやってのけたのだ。そこの事情がさっぱりとわからない。

 彼が精霊を呼べるなど、聞いた記憶はいっさいなかった。


「ジェラルドおじ様は……いつから、精霊様を……?」


 シャーロットは好奇心から、疑問を声に(つむ)いだ。

 周辺をひどく警戒した状態で、ジェラルドが返答する。


「守秘義務のため、多くは語れませんが――これも()()()に関係しております」


 シャーロットは静かに驚く。

 曖昧(あいまい)ながらも、おおよその事情は呑み込めた。

 神殺しの獣の生まれ変わりと、そう思われる少年――


「彼は、いったい……何者なのでしょうか?」

「さぁ……私も、すべてを知っているわけではありません」


 ジェラルドが肩越しに顔を向け、シャーロットに微笑む。


「ですが、そんな私から申せるものがあるとすれば……彼はとても誠実であり、正義感に満ち溢れた心の優しい少年――と、いうことでしょうか」


 シャーロットは視線を()せた。

 少し前の記憶が、ぼんやりとよみがえってくる。


『それが、母親の言葉か――』


 自分と重なる部分があったのか、はたまたシャーロットのためだったのか、その真偽(しんぎ)までは知れない。それでも、彼は皇族を相手に、あのとき真に怒っていた。

 ジェラルドの(げん)を素直に受け取れば、後者なのだろう。


「母に……皇族の者に、あそこまできつく物申せるのは……お強い方ですね」

「は、はは……そうで、ございますな」


 ジェラルドは前を向き直り、苦笑まじりに言葉を(にご)した。

 どの部分を指したのか、深く言わずとも理解している。


 母から浴びせられた暴言は、確かにショックを受けた。

 けれど、さほど心に深い傷を残してなどいない。自分でも認めていた部分なうえに、世界の終末を予感させる状況が、反対に心を(しず)める要因ともなっている。


 さらに、彼が真剣な声で怒ってくれたから――

 これもまた、要因の一つに違いないと自己分析した。


(もし私が生まれた頃から、彼が(そば)にいてくれたら……)


 こんな心の弱い女などに、育ちはしなかったのだろうか。

 つい、そんなとりとめのない夢想をする。


 シャーロットは胸裏(きょうり)で溜め息をつく。

 顔だけ背後を振り返り、遠退(とおの)く巨大樹へ視線を据えた。

 彼は皇族どころか、神にですらも物怖(ものお)じしない。


「どうか、ご武運を……」


 シャーロットは彼の無事を、真心から祈っておいた。



    ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆



 咲弥はエーテルを込め、空色の紋様を右手付近に描いた。


「清水の紋章第二節、澄み切る盾!」


 水の足場を使って飛び跳ね、女神ユグドラシールへ迫る。

 基本は防衛を主体にして、隙を狙っては攻撃していた。


 しかし決定的な一打は、いまだ入れられていない。

 女神が繰り出してくる攻撃が、あまりにも(すさ)まじいのだ。あらゆる場所の空間が途端にひび割れ、そこから触手じみた鋭利な植物が襲いかかってきている。

 咲弥の攻撃は回避や妨害により、すべて失敗していた。


 さらに問題なのは、咲弥のエーテルは限られている。

 神殺しの獣から与えられた莫大(ばくだい)な力を、もし使い果たせば――咲弥は代償として、生命維持に必要な量以上のオドが、しばらくは生みだせなくなるらしい。


(女神を討つ前に、もしエーテルが切れたら……)


 咲弥は当然、なぶり殺しにされる。

 それどころか、女神による災厄は、帝国に住まう人々にも降り注ぎかねない――いや、女神の発言を考慮すれば、まず間違いなく滅ぼしにかかってくる。

 咲弥は(あせ)っていた。だが辛抱強く、機をうかがい続ける。


(まだだ……絶対に、チャンスはくるはず……)


 それはある種、手前勝手な願望にも等しい。

 絶好の機会が訪れるか、先に咲弥が力尽きるか――

 咲弥は何にとなく祈り、女神との戦闘を繰り広げる。

 そして、ついに――


「……ぅが、は……」


 さすがに、四方八方にまで気が回らない。

 背後から迫った植物に、胸の辺りを貫かれた。

 気が高ぶっているせいか、不思議と痛みはあまりない。

 咲弥が感じないだけで、体中の力は抜け落ちていった。


「うぅ……はぁ……あ……はぅ……ごふっ……」


 喉の奥から、血が逆流してきた。

 呼吸がうまくできない。確実に肺の片方が潰れている。

 必死に息をするも、意識が急激にぼやけていく。


 傷の深さを理解したせいか、痛みが一気に強さを増す。

 女神の攻撃はやみ、寒気を覚える静寂が広がった。


(あわ)れよのぉ……(いにしえ)の獣よ、やはり人選を(たが)えたな?」


 女神の声が、やや遠く聞こえる。

 ふと気がつけば、女神はすぐ眼前にまで迫ってきていた。


 威圧的な恐怖と美しさが共同している女神の顔を、咲弥はじっと見据える。なんの感情も表情からは受け取れないが、どこか微笑んで見えた。

 咲弥は、ふと気づく。女神も無傷というわけではない。


 どこか亀裂じみたヒビが、女神の(ひたい)に入っていた。

 死に物狂いで戦ったわりには、あまりにも傷が浅い。


 やはり、女神と(あが)められていた存在――

 人がおいそれと、立ち向かえる相手ではないのだ。

 咲弥は改めて、そう痛感させられる。


(わかってる……わかっちゃいるけど……)


 咲弥は気力を振り絞り、全力で女神を(にら)みつける。

 女神は鷹揚(おうよう)に首を横に振った。


「異界の者よ、ゆるりゆるりと死ね。安心しろ。(なんじ)を殺したあとは――またこの地に、我自らが天災を与えたもう。我は案外、慈悲深い。寂しくはなかろう?」

「……がぁ……はぁ……あ、あぁ……よか、っだ……」


 咲弥は胸の激痛を()じり()せ、かすれた声を吐いた。


「あなだが、慈悲ぶかぐで……」

 咲弥は力を振り絞り、素早く空色の紋様を浮かべた。

「ベイムゲーズ……我が紋様がら、じりぞげ……」


 咲弥の紋様から、ヘイムケースがぽとりと落ちてくる。

 ほぼ同時に、女神が虚空から生んだ鋭利な植物によって、ヘイムケースは(またた)く速さで真横に両断された。咲弥はなかば自然と、口もとが(ゆる)む。

 もとからヘイムケースは、すぐ開く状態にしてあった。


()()じゃなくて……()()で、よかった……)


 ヘイムケースの中から、黒い影が抜け落ちてくる。

 咲弥の血を浴びた悪魔の魂が、ぼろっとこぼれたのだ。

 まるで世界が、ゆっくり流れていくような感覚に(おちい)る。

 全開の限界突破と、少し似ている光景であった。


(理由までは知りませんが、なんか僕の血……魔には至高の味だそうです)


 声を出すのはつらい。だから心の中で、女神に告げた。

 女神の顔が次第に強張(こわば)っていく。瞬間――

 心が委縮(いしゅく)しかねないくらい気味の悪い叫びを、悪魔の魂が発した。

 それは悲鳴というよりは、どこか歓喜に近い。


 爆発したかのごとく、悪魔の魂が禍々(まがまが)しい光を放った。

 女神の体から空中に生えている植物に至るまで、すべてが一気に枯れていく。咲弥の胸部を突き刺していた植物も力を失い、体の支えが一気に(ゆる)んだ。


 落下などできない。この一瞬に、咲弥は全力を振り絞る。

 咲弥の胸からずり抜けた植物を黒手で(つか)み、それを足場に女神がいる場所へと飛んだ。一呼吸の間もなく空色の紋様を描き、黒手を頭上よりも高く(かか)げる。

 ありったけのエーテルを黒爪に込め、喉の奥に溜まる血を吐きながら唱える。


「ごぐぞう……げんがいどっぱ!」


 咲弥は死力を尽くして、黒爪を女神に振るった。

 黒爪は女神どころか、空気をも強烈に引き裂く。

 力を失った女神は、やけにあっさりと身を刻まれた。

 普通の魔物なら、確実に息の根が止まる。だが――


「ほんに、(おろ)かじゃのぉ……」


 咲弥は戦慄(せんりつ)する。心から絶望するしかない。

 女神の発言から、死には程遠(ほどとお)いのだと悟らされた。


(もう、じゃあ……どうやれってんだ……)


 女神の肌が、どんどん木質化していく。

 やがて枯れ果てて、灰のごとくぱらぱらと崩れ落ちる。

 咲弥も力が抜け、地上に向かって落下した。

 植物から解放され、咲弥の胸の痛みが徐々に(やわ)らぐ。


(あっ……やっぱり、治っていってる……)


 悪魔の魂に血を――いや、少し前から薄々気づいていた。

 まるで治癒術(ちゆじゅつ)みたいに、傷がなぜか(ゆる)やかに()えていく。


 軍の訓練中に、怪我をすることは珍しくない。そのときは癒えていなかった事実を考慮すれば、おそらくこれもまた、神殺しの獣による恩恵なのかもしれない。

 とはいえ、あらゆる部分が癒えるわけではなかった。


 疲労感は残るし、部分的に癒えないところも多い。 

 少なからず、重症は軽傷程度にはなってくれている。

 今はそれだけでも、充分にありがたい。

 不思議な力を享受(きょうじゅ)しつつ、咲弥はかなり(いぶか)しく思った。


(なんだ……? 結局、死んだ……のか?)


 状況だけを見れば、咲弥の勝ちで間違いはなかった。

 しかし感覚的には、そんな様子は微塵(みじん)も感じられない。

 女神はまだ、確実に生きている。そう考えたほうがいい。


 少しずつ、体中の機能を取り戻していく。

 そのさなか、超巨大樹が淡い光を(まと)った。

 すると周辺に、ホタルみたいな光の粒が生まれる。

 やがて、小さな光が人の形を()していった。


「はっ……あっはっはっはっ……」


 咲弥は失笑するほかない。絶望のみが、そこにはあった。

 もう何もかもすべて、諦めてしまいたい心境に(おちい)る。


(そういう、ことかぁ……)


 いまさらになって思えば、確かにあやふやではあった。

 どうやら女神の(ひたい)(きざ)まれていた傷は、咲弥が戦いの中で()わせた傷ではない。ほぼ間違いなく、謎の黒い斬撃による傷なのだと確信した。

 そう思える根拠は――


(十……二十……三十……ははっ、数えきれないや)


 今までなんのために頑張ったのか、本当にわからない。

 女神ユグドラシールの数が、次から次へと増えていく。


 女神が余裕を見せていた理由も、きちんと呑み込めた。

 咲弥が今まで死闘を繰り広げていた相手は、ただの分身に過ぎない――少なくとも、視認できる女神の(ひたい)にはすべて、亀裂じみた傷が入っている。

 この事実が意味するのは、たった一つしかない。


「……そっち(超巨大樹)が、本体かよ」


 咲弥は無気力な声音で、独り言を(つぶや)いた。

 頭から地上へ向かい、咲弥はどんどん落下していく。

 眼前に広がる光景を、逆さまの状態で茫然と眺め続ける。


 さすがにこれは、あまりにも慈悲がなく(むご)い。

 たったの一体ですら、死闘を()いられた相手だったのだ。それが今や――女神ユグドラシールが数えきれないくらい、たくさん出現している。


「さあ、再開しようぞ。異界の者」


 女神ユクドラシールの声が、幾重(いくえ)にも重なって響いた。

 咲弥はふと、紅羽に言われた言葉が脳裏(のうり)によみがえる。


『どんな困難な状況にあろうとも、決して諦めない――もし過程で諦めても、あなたは最後には立ち向かう選択をする』

「ははは……いや、限度はあるよ……やっぱさ」


 過去の紅羽に対して、咲弥は我知らず返答した。

 神に歯向かうなど、もとより無理な話だったのだろう。

 人の身では、決して(あらが)えないだけの差がある。


 そもそも女神ユグドラシールは、きっと使徒が対象とする邪悪な神などではない。さらに言えば、対象となった邪悪な神が、この女神よりも弱いはずないのだ。

 いまさらにして、咲弥は(おのれ)(おろ)かさを痛感させられる。


(そういえば、天使様はちゃんと言ってたっけ……これは、小さな(ほころ)びを突くようなものだって……つまりは、はなから可能性がゼロに等しかったって話か)


 体中から気力が抜け落ち、咲弥は活力を失っていく。

 この世界を訪れ、強くなったつもりでいた。


 それは、間違いない。当初の自分よりは強くなっている。

 むしろ、人間離れしたと言っても過言ではない。

 どんな厳しい環境や訓練にも、必死に耐えてきたのだ。


(その結果が……これか)


 咲弥は心底、何もかもに疲れ果てた。

 目もとに涙が浮き、視界がじわりと(にじ)んで(ゆが)む。


「父さん、母さん……ごめん。こんなの、さすがに無理だよ……勝てっこない」


 父と母の姿が脳裏(のうり)に現れ、次に紅羽の姿が映った。

 紅羽が死んだ姿を見せられたものの、納得はしていない。突如(とつじょ)として飛来してきた黒い斬撃が、まだ彼女が生きている可能性を示唆(しさ)していたからだ。

 仮に、本当に死んでしまっていたのであれば――


(謝らなきゃな……僕が実は、この世界の住人じゃなくて、別の世界の人間だったって……それから、君が死んだのは、僕のせいなんだって)

 今度は、ほかの仲間達の姿も浮かんでくる。

(ネイさんにゼイドさん……あとメイアさんにも、しっかり謝らなきゃ)


 完全に生への執着すらも失い、咲弥は――




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