第二十七話 認めたくない現実
帝国兵の男に誘導され、ネイは軍の駐留所を走っていた。
駐留所といっても、そんな大々的なものではない。
普通の広場に、急ごしらえの仮設がある程度だった。
ここにはまず、帝国兵の姿しかない――ある者達は木箱を運び入れており、またある者達は忙しなく駆け回っている。ところどころに置かれてある木箱には、どうやら支援物資が詰め込まれているらしい。
木箱の色により、入っている品が異なっていた。
(やっぱり、ちょっとおかしいわね……)
周辺の状態から、ネイは漠然とした疑心を抱いた。
緊急時に備えていた事実は、別に不思議なことでもない。
ただ突発的な出来事への対応が、あまりにも迅速過ぎる。まるでこの日に異常事態が発生すると、帝国軍はあらかじめ予期していたとしか思えない。
ネイは前を行く男に、それとなく問いかけてみた。
「さすが帝国軍ね。緊急事態への対応が凄いわ」
「いいや……まさか、こんな大災害が起きるなんて……」
「ん……?」
「本当は……本日は、ただの予行演習のはずだったんだ」
男は困り顔を肩越しに見せ、またすぐ前を向き直った。
「上のほうからの命令でね……不測の事態が発生した場合に備え、即刻対応するための予行演習を実施する。全軍人は、速やかな行動を心がけるべし――って」
男は小さなため息をついた。
「何が起こっているのか、俺達にもさっぱりだよ……勲章を持っていた君だから教えるけれど、巨大樹の付近では混信がひどくて、大混乱が起きているらしいよ」
ネイは眉をひそめた。偽っている様子は特にない。
本当に偶然が重なったとしか、彼は思っていないのだ。
だが、ネイは違う。神鹿の不穏な発言が脳裏に浮かぶ。
(罪深き闖入者の遺薫……確かそう言って、あれは真っ先に紅羽のほうを見た)
その後、ネイとメイア側にも視線を移してきた。
これらを考慮すれば、曖昧ながらも推測が成り立つ。
軍の上層部は、ほぼ確実に発災の可能性を危惧していた。
ただ末端の兵にまでは、明確に伝わっていない。なぜなら今現在も遂行中だと思われる極秘任務が、今回の異常事態に深い関わりを持っているからなのだろう。
真偽は知れないものの、そう考えるほかない。
(咲弥……あんた、今どこでなにしてんのよ……)
お伽噺のごとく伝え聞いた神鹿ヨトヴァリン――
十中八九、咲弥に関連性のある者を狙ってきている。極秘任務の内容までは当然不明瞭だが、少なからず女神か神獣を怒らせる程度ではあったに違いない。
いずれにしろ、今は災害を食い止めるのが先決だった。
ふと――ネイは不吉な気配をかすかに察知する。
空を仰いでも、どこにも異変は見られない。
それなのに、いまだ本能が警告を発していた。
現状を考慮すれば、気配の正体は想像に難くない。
「まずい……! ねぇ、武器置き場はまだなのっ?」
「……ん? もう、そこだよ」
男が指で示した方角には、大きな天幕が見えた。
ネイは思考する余地なく、一飛びで天幕の傍まで進む。
警備している様子の男達に、ネイは素早く勲章を見せる。
「アイーシャの使いよ。急いで武器をもらっていくわね」
「え? あっ……お、おう。た、確かに……」
たじろぐ男をよそに、ネイは視線を走らせて確認する。
詰め込まれた武具の種類を一目で判別するためか、赤色の木箱それぞれには焼印が施されていた。開かれた赤箱の中を見れば、ネイの推測はどうやら正しい。
また帝国軍の物資は、とても高品質だと見受けられた。
アイーシャからの指示に従えば、ネイが扱える武器だけを得ればいいのだが、この先なにが起こるのかまったく見当もつかない。念のため予備の短剣と一緒に、メイア用の双剣を一組、腰に帯びておいた。
それから、黒い剣身をした短剣を握り締める。
ネイは再び、空を仰いだ。まだ遥か遠い位置にいる。
天空から人の流れを観察しているのか、それともこちらの動向を見張っているのか――その事情まではわからないが、警戒はしなければならない。
普段から相手にしているような、魔物ではないのだ。
いずれにしろ、まずは来た道を戻るべきだろう。
もし神獣の狙いが想像通りであれば、このままここに立ち止まっているのはよろしくない。極力、人の気配が薄い――つまり現状、ひどい騒ぎが起こり、大勢の人が離れつつある天樹祭の会場付近が、もっとも好都合な場の一つであった。
それならば――
「おい、そこの赤毛の女! いったい何者だ!」
勇ましげな女の声が、不意にネイの耳に届いた。
褐色の肌をした銀髪の女が、かなり険しい面持ちで足早に迫ってきている。やや高身長な彼女の身なりから、明らかにほかとは異なった雰囲気が醸されていた。
御付きらしき帝国兵の男二名が、彼女の両脇にいる。
その点も含め、軍の中でも地位が高い者だと推測した。
(これは、好都合かも)
銀髪の女が、ネイの眼前で立ち止まった。
翡翠色をした瞳で、じっと見据えてくる。
「私は帝国軍第一千人隊長を務める、シルヴィアだ。貴殿は何者だ。答えろ」
「レイストリア王国所属、中級冒険者のネイよ。いくつかの武器を、アイーシャからの使いでちょっと貰いに来たの」
ネイは言いながら、勲章をひらひらとちらつかせる。
勲章を提示すれば、末端の軍人ですらぎょっとしていた。
地位が高そうな彼女も、すぐ理解に達すると思われる。
しかしシルヴィアの反応は、予想外の方向へ転がった。
「レイストリア、王国……? そうか、貴殿が彼の……」
ネイの思考が、ほんの一瞬だけ停止した。
そして濁流のごとく、過去の記憶がよみがえる。
「そういえば、あいつ……軍の訓練を受けるとかなんとか」
「ははっ。そうか、そうか。貴殿が、咲弥の仲間なのだな。話だけは聞いている」
「あんたが……失礼。あなたが、咲弥に訓練を……?」
「貴殿は、軍人ではない。砕けた話し方で接してもらっても構わない――ああ、その通りだ。彼の訓練に関しては、私が一任させていただいている」
シルヴィアを下から上へと眺め、ほんの少しばかり咲弥のすけべ心を疑った。とはいえ、究極の奥手とも言える咲弥と何かあるはずもない。
ネイは胸裏で訂正してから、シルヴィアに問いかけた。
「その咲弥は、いったい今どこにいるの?」
「訓練外での行動は不明だ。したがって答えられない」
偽っている様子はない。ネイは小さなため息をつく。
訓練を一任されるほどの人ならば――そう考えたものの、どうやらあまかったようだ。おそらく千人隊長の地位を持つ彼女ですら、たいした説明を受けていない。
つい雑談じみた会話をしたが、ネイは首を横に振る。
思考を改めてから、シルヴィアを真っ向から見据えた。
「……あなたが、ここの管理を任されてる人?」
「ここ、というよりは、この地区一帯だ」
「そう。それなら、あなたにお願いがあるの」
「……? なんだ」
下手な説明は、かえって長引くかもしれない。
ネイは素早く、頭の中で伝える順番を思案した。
「まず私は、決して帝国軍を侮ってるわけじゃない。それを前提として聞いてちょうだいね――帝都の人達の救助活動を続けながら、帝国軍の人達もみんな、可能な限り全力でこの地区から遠ざけてほしいの」
ネイは一度言葉を止め、シルヴィアの反応をうかがった。
シルヴィアは黙したまま、続きを待っている。
ネイは組み立てた順に説明を進めた。
「帝国民が崇めている女神の守護神獣、あれはたとえ屈強な帝国軍の人でも、絶対かなう相手じゃないわ。その理由は、ある特殊なエネルギーを纏っているから」
シルヴィアは小首を傾げた。
「……特殊な、エネルギー?」
「ええ。会場で神鹿ヨトヴァリンと遭遇したときに見たの。あの領域にまで達していた場合、もう並みのオド程度では、傷一つすらもつけられやしないわ」
ネイはエーテルを生み、若草色をした紋様を描く。
シルヴィアの目が大きく見開かれた。
「わかるかしら? これが、その特殊なエネルギーで生んだ紋様よ――神獣に対抗できるのは、このエーテルと呼ばれる力を扱える者だけなの」
「エーテル……」
シルヴィアが硬い表情で黙る。
それから静かに、彼女は首を横に振った。
「あの咲弥の仲間だ。今の話を信じないわけではないが――それは、できない」
「ど、どうして……?」
「一部の帝都民が女神の天罰だと、そう騒ぎ立てているとの報告があがっている。そのような状況下、我々帝国軍も民と一緒に逃げるなど、あってはならない」
シルヴィアは苦い表情を、ほんの少し伏せた。
「我々ですら……正直、女神ユグドラシール様の守護神獣が降臨し、我が軍のほか、帝国民達に災いをなしているなどと信じたくはない心境なのだ」
シルヴィアは苦い表情を、さらに強めた。
ネイに信仰心はない。崇めるものなど、一つもなかった。
それでも彼女の心情は、理解できなくはない。
信じていた何かに、裏切られたのにも等しいからだ。
ネイの頭に思い浮かぶのは、同じ赤毛をした女――
だからそのつらい気持ちだけは、痛いくらいにわかる。
(たとえ、そうだとしても……)
ネイは目を閉じてから、まっすぐシルヴィアを見た。
「あなたや帝国民には悪いけれど……私は、戦うわよ?」
シルヴィアの目が、ネイへと向けられた。
ネイは心の中にあるものを、そのまま彼女に伝える。
「このまま黙って、私は死ねないの。あなた達が死ぬのも、絶対に見たくない。だからもし、帝国民に女神の叛逆者だと罵られても、私は守護神獣を討つわ」
シルヴィアは少し、きょとんとした顔で固まっていた。
一呼吸の間を置き、シルヴィアは妖艶に微笑んだ。
「確かに彼の仲間だ……一つ訂正させてくれ。その信念は、貴殿だけではない」
「え……?」
「我々帝国軍もまた、上からこう命じられている――たとえどのような災害、相手であろうとも、命を賭して民を護り、立ち向かえ……と」
シルヴィアは真面目な顔で腕を組み、小刻みに頷いた。
「話は理解した。エーテルを扱えない我々では、守護神獣の討伐にはまるで戦力にならない。されど、援護ならば可能。違うか?」
「それは……」
「ならば、貴殿が最善だと思える作戦を伝えてくれ。すべて叶えられるかはさておき、我々も可能な限りの助力はすると約束しよう」
あまりの聞きわけのよさに、ネイは逆に不安を覚えた。
威風堂々としたシルヴィアに、怪訝に思いながら問う。
「初対面の私に、どうしてそこまで……?」
「エーテルの指南に加え、現状……まあ、あの究極に愚直な彼の存在が影響しているのは事実だ。そう告げれば、貴殿に納得をしていただけるかな?」
「ああ……まあ、そう……ね」
シルヴィアの対応も、もちろん多少は影響している。ただ咲弥が軍の中でどう過ごしてきたのかなど、そこに関しては見なくとも容易に想像がつく。
シルヴィアは微笑してから、隣の男を手で指し示した。
「こちらの彼は咲弥とともに、厳しい訓練に励んだ仲だ」
「咲弥殿の真摯に物事へ取り組む姿勢、そして他者に対する温かな配慮の数々――我々も彼の意思に応え、負けまいと、切磋琢磨させていただいておりました」
男は言いながら、帝国式の敬礼をした。
仲間として誇らしく思う反面、少しだけ呆れてもいる。
それはそれとして、ふと新たな問題点が浮上した。
神鹿が口にした遺薫――
もし〝関わりあるすべて〟であれば、非常にまずい。
シルヴィア達もまた同様に、狙われる可能性がある。
ネイはこっそり、極々小さなため息をついた。
「わかったわ。それじゃあ、まず――」
ネイは簡潔に、想定していた策をシルヴィアに伝えた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
咲弥は恐れを抱きつつも、まっすぐ前を向いていた。
生きた彫像を思わせる女神ユグドラシールから、まったく視線が外せない。とはいえ、視界の端では、色鮮やかな光が広がっていく光景を捉えている。
ひらりとした不吉な光は、まるで津波のようであった。
きっと帝都では、惨劇と大混乱が巻き起こるだろう。
その中には、大切な仲間達も含まれている。
もっと言えば、放たれた神獣の件も気にかかっていた。
すべてにおいて、最悪だとしか言いようがない。
(でも、だったら……どうしていたら……)
その思考に意味はない。すでに賽は投げられたからだ。
わかってはいても、考えずにいられない。
咲弥はぐっと奥歯を噛み締め、女神を睨む。
女神はくすりと笑った。
「よいのか? 古の獣よ。我を消滅させぬ限り、天樹の光はやまない――」
女神はしとやかに、口もとを人差し指で覆った。
「次の段階へ進めば植物が動き、猛威を振るうぞ?」
咲弥の呼吸が止まった。植物化は前段階に過ぎない。
本当の惨劇は、もうじき始まるのだと理解する。
ただ知ってか知らでか、予期せぬ情報も手に入った。
(女神を討てば……止まる……?)
当然、確証はない。謀られている可能性は高かった。
とはいえ、今の咲弥には選べるほどの選択肢はない。
咲弥は呼吸を再開すると同時に、黒白を大きく構える。
空気を最大限まで吸いきる前に、女神へと駆けていた。
(止めなきゃ……絶対!)
一見、黒爪でも攻撃が通じそうな予感はある。
肩や顎を触れられた経緯からも、完全に霊的な存在というわけではないはずだった。問題は女神が全身に纏っている、凄まじいエーテルの質感にこそある。
疑う余地なく、神――そう、強く認識させられていた。
「すぐ止めてください。でなければ、僕は――」
咲弥は白手を大きく開き、女神に向かって振るう。
どんなエーテルであれ、白爪なら裂けないものはない。
このまま戦い続けるか、それとも引かせるのか――
いずれにしろ、まず女神のエーテルを削ぐ必要がある。
咲弥自身、愚かな希望だとわかっていた。
この期に及んでまだ、あまい幻想を胸に抱いている。
それでも可能な限り、穏便に事を済ませたいと願うのは、別に不思議な思考ではない。また相手が帝国民の崇めている女神というのも、理由の一つではあった。
だから、どうか――淡い期待だったと、すぐに思い知る。
空間が突如として歪み、そこから現れた蛇のような植物に白手が弾かれた。ほぼ同時に、別の捻じれた空間から伸びたツルが、咲弥の腹部を強打する。
咲弥の想いや願いは、物理的な方法で否定されたのだ。
「ぐはぁっ……」
ツルが与えてきた衝撃は、もはや鈍器にも等しかった。
苦しんでいる暇などない。
蛇らしき植物が、素早く追撃してきた。
咲弥は痛みに耐え、必死に黒爪で応戦する。
非常に硬い。黒爪ですら、かろうじて裂けたほどだ。
咲弥の体は、なかば強制的に後退させられていく。
「咲弥殿!」
「動くな」
叫んだジェラルドを、女神は手で制する――違う。
地面から伸びた植物に、ジェラルドの脚が絡め取られた。
「ぐぁあああっ!」
「ジェラルドさん……ぐっ!」
ジェラルドを案じた咲弥の腹部に、激痛が走った。
自然と腹に左手を向かわせ、ふと気づく。
苔らしき何かが、打たれた腹部に張り付いている。
危険だと直感で判断し、慌てて白爪で引っかいた。
すると、灰のごとく苔らしき何かは消え去っていく。
「異なる世界から訪れた運命の破壊者――古の獣よ、人選を誤ったのではないか? 心から不憫に思えるくらい弱いぞ。憐れよのぉ」
恐怖と辛酸が、一緒に咲弥の胸を訪れた。
わかっている。才能に恵まれているわけではない。
天使の人選ミスだと、咲弥本人ですら疑ったほどなのだ。
そう理解してはいるが、その事実がときにつらくもなる。
しかし、今はそんな負の感情など本当にどうでもいい。
咲弥はおずおずと、ジェラルド側を一瞥する。
ジェラルドは脚に絡まった植物に、苦戦しているようだ。
問題なのは――シャーロットがどこか唖然とした表情で、咲弥へ視線を据えてきている。当然の話ではあった。女神の発言に、ひどく驚いているに違いない。
眼前にいる男は、この世界の住人ではないと――
咲弥の心が、素早く焦燥感と恐怖に蝕まれていく。
ジェラルドは聞き逃した様子が濃厚だが、シャーロットは確実に認識してしまっている。天使との約束を破れば、咲弥もろとも彼女は死ぬはめとなるのだ。
命を賭して救えたのに、これでは何も意味がなくなる。
戦々恐々とする咲弥だったが、死の兆候は表れない。
時間差なのかどうか、理由がさっぱりと掴めなかった。
咲弥の事情など知らず、女神が緩やかな口調で告げる。
「怨むならば、己が運命を呪え」
「くっ! この地を慈しむ、女神じゃないんですか……!」
「勘違いするな。生者が我の力を酷く恐れ、縋り、また力の波により恵まれた大地を、ただ享受したに過ぎない。ほかの神々と違い、我は信仰心など糧とはせぬ」
咲弥は苦しい思いで、言葉を吐き出した。
「だったら……なんで宿り木で力を与えるような真似――」
「人の言葉で伝えるのであれば、ただの暇つぶしに過ぎぬ。我が力の一端をどのように扱い、そして何を成すのか。その過程と結末を眺めておるだけ――忘れるなよ。人の存在など所詮、世界の循環を保つための歯車に過ぎぬ。調和が崩れぬ程度であれば、我が何をしようとも自由なのだ」
女神がにたりと笑った。
「此度の選出者も、実に醜く憐れな存在よのぉ。吹けば消し飛ぶような短い一生――何を成すこともなく、惨めなまま、愛と憎悪の狭間で朽ちおったのだから」
そこに、善き神などいなかった――
きっとすべてが、悪しき神だとは限らない。
少なくとも、咲弥は優しい神もいてほしいと願っていた。
だが眼前で嘲笑う女神は、その括りには入らないらしい。
(そうか……そうか……)
咲弥はギリッと奥歯を噛み締め、女神を睨みつけた。
「嗤うな……人の気持なんか、何もわからないくせに!」
咲弥は言い終えると同時に、女神へ一気に迫った。
黒手を大きく振り上げ――
「果たして、そうかの?」
女神が手のひらの上で、やや小さめに空間を歪めた。
そこには再び、何かが映されている。
咲弥は息を呑み、目を大きく見開いた。
「まずは、一人目。異界の者、忘れるな。これは我が神域を荒らした罰なのだ」
咲弥の勢いは、完全に停止する。
我を忘れ、茫然と歪められた空間を凝視した。
銀髪の少女、紅羽の胴体が横に両断されている光景――
彼女の傍には、幼い少女が尻餅をついて愕然としている。
一瞬、嘘だと疑った。それなのに、脳が否定してくる。
踊り子の衣裳を着た彼女は、まぎれもなく紅羽だった。
見間違うはずなどない。
「この者が、汝とより深い繋がりを持った者であろう?」
女神の言葉が、咲弥の耳を通り過ぎていく。
仮に罰を受けるとしても、紅羽は関係ない。彼女は、別に――違う。神々に狙われるということは、つまりこういった最悪が、自分以外の者までをも襲うのだ。
あらゆる感情が、咲弥の胸の内側で荒れ狂う。
その衝動は凄まじく、唐突に爆発した。
「う……うわぁああああああああああ――っ!」
咲弥は再び黒手を振り上げ、女神へと一気に迫った。
したり顔で嘲笑っている女神に、黒爪を振るう。
感情任せの、愚かな一撃なのは否めない。
心の片隅では、理解している。それでも、止められない。
黒爪が女神に届く寸前、強烈な衝撃が咲弥を襲った。
空間が捻じれ、弾け飛んだような気がする。
全身の骨が砕けたのか、激痛と浮遊感だけがあった。
やがて咲弥の体は、地面のないところにまで達する。
放り投げられるかたちで、天樹から落ちていく。
(くそっ……くそっ! 紅羽……紅羽……!)
全身にある傷みなど、もはやどうでもよかった。
紅羽が殺された。その光景が脳裏に焼きついて離れない。
当然、受け入れられなかった。認めたくなどない。
しかし現実は、容赦なく咲弥の心を蝕む。
そこはまるで、何もない闇にも等しい。
咲弥は身も心も、どんどんと流れ落ちていく。
真っ暗闇の底へと向かって――