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神殺しの獣  作者: Key-No.92
第四章 無数にある分岐点(下)
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第二十六話 最悪の災厄




 メイアは建物の屋上で、ネイと一緒に立ち尽くしていた。

 会場の出入口を抜ければ、本来は広々とした空間がある。しかし今現在は天樹祭を軸とした催しのため、多くの出店が所狭しと建ち並んでいる。

 そのうえ、帝都中の民が会場付近へ(つど)ってきているのだ。


「女神様のお怒りだぁあああ!」

「ユグドラシール様の守護神獣様がぁ――っ!」


 恐怖が伝播(でんぱ)してしまい、恐慌(きょうこう)状態に(おちい)っていた。

 逃げ惑う人々で、どこもかしこも大渋滞を起こしている。


 まずは、この部分を正さなければならない。

 だから近くにある、高い建物の屋上へ駆けのぼり――

 そこで目に入った異物に、メイア達は言葉を失ったのだ。


「なんだ……あれは……」

「普通に考えれば……木、なのかな」


 メイアは心の中で、ネイの(つぶや)きに同意を示した。

 遥か遠い先に、ありえない大きさをした木が見える。


 少し前までは、確実に存在していなかった。

 そもそも、あれほどの巨大樹があったのならば、一般的な名物となっていてもおかしくはない。天樹祭が原因なのか、はたまた別の理由があるのか――会場に現れた神獣の発言を考慮すれば、おそらく後者の可能性が高いのだろう。


 はっと我に返り、メイアは周囲の気配を探った。

 神鹿(しんろく)が二体、蛇龍(だりゅう)のほかに、大鷹と栗鼠(りす)が一体――

 女神の守護神獣は、全部でこの五体だと記憶している。


(ほかの神獣は……この付近にはいない、のか?)


 神鹿と同様の(すさ)まじいエーテルを、もしほかの神獣も身に(まと)っているのであれば、簡単に気づけるはずであった。だがそれらしいものは、どこにも感じ取れない。

 神鹿の一体が先兵か、あるいは察知外にいるのか――


 いずれにしても、状況は絶望的だと見ていい。

 そう思った矢先、気味の悪い雰囲気に肌がひりついた。


「ねえ! あれ!」


 ネイが指を差した。当然、メイアも気づいている。

 ひらひらとした帷帳(いちょう)を思わせる色鮮やかな光が、巨大樹の樹冠(じゅかん)から幾重(いくえ)にも降り注ぐかたちで迫ってきている。なかば反射的に、メイアの体がびくりと痙攣(けいれん)した。

 どう足掻(あが)こうとも、回避するすべなどあるはずもない。


 それでも、メイアは両腕を前にして防御の姿勢を作る。

 ふわりとした光が、メイア達の体をすり抜けていった。

 瞬間――


「ぐぁあああああああ――っ!」

「ぎゃぁああああ――っ!」


 悲鳴のした方角へ視線を(すべ)らせ、メイアは目を()いた。

 まるで寄生虫に浸食されているかのように、一部の者達の手足が植物に覆われ――(いな)、変貌している。それは爆発的に成長が進み、周囲の者をも巻き込んでいく。

 最悪な状況は、留まることを知らない。


 それはいわば、伝染病にも等しかった。

 巻き込まれた者達もまた、謎の植物化が始まっている。

 異常な現象が、場にさらなる混沌と恐怖をもたらした。

 原因は察せるものの、メイアも唖然とならざるを得ない。


(今の気味の悪い光が……けれど、私に異変はない……?)


 自己診断を終え、メイアはネイの様子をうかがった。

 ネイも同時に、メイアのほうへ視線を投げてくる。

 どうやら似た思考を、ネイも持った様子であった。


「いったい、何が起こっているの……?」

「わからない。が――この異常事態は、()()()()()()な」


 メイアの声音は、自然と低くなっていた。

 ネイは唇を()み締め、(けわ)しい表情で黙している。


 おそらく言葉の裏に含めた意図を、きちんと呑み込めたに違いない。謎の植物化問題は前提として、会場に残してきた紅羽の件もメイアは案じている。

 紅羽ほどの猛者(もさ)であれば、大半の物事は問題ない。

 だがそれは、あくまでも人としての範囲内での話だ。


 二転三転とした状況に、苦戦しているのは間違いない。

 メイアからしても、この展開はあまりにも想定外過ぎた。

 悩んでいる暇すらも()しい。メイアは思考を働かせる。


「――戻るにしても、やはり武器を得てからだ」

「ええ。今のままでは、紅羽の邪魔にしかならないものね」


 メイアはこくりと(うなず)いた。そのとき――


「皆さん、落ち着いて指示に従ってください! これより、我々帝国軍が場を取り持ちます! 繰り返します――」


 帝国軍の格好をした者達が、一気に押し寄せてきた。

 対応の速さに、メイアは眉をひそめる。

 警邏隊(けいらたい)の者ならいざ知らず、軍隊が動いているのだ。


(こうなることを、予期していた……?)


 真偽は知れないものの、メイアはそんな疑念を抱いた。


「おい! メイア!」


 聞き覚えのある声に呼ばれ、メイアは空を(あお)ぎ見る。

 紫色の髪をした女、アイーシャが落下してきていた。

 どうやら、飛竜に(またが)ってやってきたらしい。

 彼女は着地するなり、切羽詰まった口調で言ってきた。


「お前も手伝え!」

「ちょ……いきなり、なんなのよ」


 ネイは戸惑った様子で、声を荒げていた。

 ネイとは違い、メイアは落ち着いている。

 緊急時の説明は道中で、まずは行動が先決――

 それがメイア達の、昔からのやり方なのだ。


 とはいえ、メイアも今は緊急を要する立場にある。

 アイーシャが乗ってきたと思われる飛竜が、緩やかに降り立つさまを眺めながら、メイアはゆっくり首を横に振った。


「すまないが、無理だ……紅羽がいま一人、会場内で神鹿(しんろく)を相手にしている」

「んなっ……!」

「一刻も早く、武器を得て参戦しに戻らなければならない」

「くっ……もうすでに……そうか。おい、そこの赤髪!」


 アイーシャが何かを、ネイへと投げ渡した。


「その勲章があれば、軍に融通が利く。急ぎ、自分が扱える武器を取ってこい」

「……ええ。了解したわ」


 状況が状況なため、ネイは深く()かずに(うなず)いていた。


「早く行け! このドクソノロマガメ! ぼけっとしてる暇なんかねぇぞ!」

「わ、わかってるわよ!」


 ネイは颯爽(さっそう)と屋上から飛び降り、行動を開始する。

 アイーシャは短いため息を吐いた。

 メイアは少し眺めてから、不意の疑問を尋ねる。


「それにしても、よく私の居所がわかったな?」

「偶然だ。天樹祭会場にいること自体は知っていたからな」


 アイーシャが答えながら、飛竜へ足早に向かった。

 それから、飛竜の横腹にある鞄を漁り始めている。


「ほらよ」


 取り出された二つの剣を、ぽんっと投げ渡してきた。

 メイアは難なく受け取り、ざっと形や質を観察する。

 明らかに、メイアに見合った武器であった。


「これは……」

「もともとお前を目指して来たんだ。だからお前のぶんしか用意してない」


 話を聞きながら、メイアは双剣を両腕に装着した。

 古い付き合いもあってか、よく理解している。

 とても腕に馴染む、いい武器であった。


「よし。これなら、紅羽の助太刀に戻れる」

「いいや……それはちょっと、難しいみたいだぞ」

「なんだと……?」


 ()き返した直後、メイアは気づく。警戒を(おこた)っていた。

 かなり異質な気配が、遥か上空のほうにある。


 メイアは即座に天を(あお)いだ。空を泳ぐ蛇龍(だりゅう)が一体――

 紅羽の読みは正しい。確実に神鹿(しんろく)と類似した存在だった。


「皆さん! (あわ)てず急いでください!」

「しっかり指示に従ってください!」


 大混乱が相手では、さすがの帝国軍でも手を焼いている。

 その叫びに混じり、背筋がぞっとする声が届いた。


《罪深き闖入者(ちんにゅうしゃ)(かす)かな遺薫(いくん)――誰一人、(のが)しはせぬ》


 メイアは頭痛に近い痛みを覚える。

 脳に直接、言葉を叩き込まれたみたいであった。


(あれは監視なの、か……? 一人で討ち取れるか?)


 じわりとした恐怖に加え、焦燥感(しょうそうかん)も湧いた。

 正直、かなり厳しい。まず神獣と戦うならば、エーテルの習得は必須――もしアイーシャや帝国軍が応戦にきた場合、逆に最悪の事態を招きかねない。

 もっと言えば、相手は大空を自由に舞えるのだ。


 何が最善なのか、メイアは必死に思考を巡らせる。

 重圧感に満ちた雰囲気のなか、アイーシャがぼそっとした声で喋った。


「言える範囲内で説明しておく。おそらく、親父――いや、咲弥達が極秘任務に失敗した。その結果、お怒りの女神様が降臨した可能性がある」


 メイアは驚愕した。空を仰ぐアイーシャを凝視する。

 アイーシャはどこか、諦め気味に続けた。


「巨大樹……あそこが、女神の降臨地だ」

「咲弥達は……?」

「わからない。ここに来るまでに入った報告によれば……」


 しばし黙したあと、アイーシャは太いため息をついた。


「調査に向かった部隊が、一呼吸の間に植物化して殺された……ってことだけだ」


 もはや、最悪の災厄としか言いようがない。

 そんな感想を、メイアは人知れず胸に抱いた。



    ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆



 帝国紋章学研究所の通路を、女は(あわ)ただしく走っていた。

 桃色の髪は乱れ、全身が汗だくになっても気にしない。

 リィンは急ぎ、通いなれた職場を目指している。


 パスカの我が(まま)で、帝都で開催中のお祭りへ(おもむ)いていた。

 お使いを済ました直後――突如、異常事態が発生する。

 何が起こっているのか不明だが、確実にただ事ではない。

 そして、今やっとの思いで、職場の前まで辿り着く。

 リィンは勢いよくドアを開いた。


「はぁはぁ……はぁ……」


 室内は薄暗かった。機器が放つ明かり程度しかない。

 机にある画面に向かい、パスカが何かの作業をしていた。

 リィンの背筋は凍りつき、激しい息切れも止まる。


「……パ、スカ、所長……」


 一見、パスカが暗闇の中で、黙々と作業をしている。

 それは、間違いない。だが異変は、明確に捉えられた。

 パスカの右腕がない。血がぽたぽたと(したた)り落ちている。


「おやおや? 使いっぱしり、ご苦労さん」


 パスカは振り向くことなく、陽気な声を発した。

 リィンは全身の震えが止まらない。

 パスカは手を止めず、世間話のような口調で言った。


「我々、学問に身を置く者にとって、好奇心は必要不可欠な要素の一つだ。たとえ獰猛(どうもう)な魔物が現れると知っていても、未知への解答を得られる可能性がわずかでもあるのならば、(やぶ)であろうが巣穴であろうが、つつき続けるに違いない」


 パスカの言葉は、しっかり耳に届いていた。

 それなのに、何一つとして理解できない。

 リィンの精神は、静かな恐怖だけに侵されている。


「パ、パスカ所長……そ、その、腕は……」

「代償は小さくもあるが、同時に大きくもある。私が()()を失った事実など、さほど問題ではない。ただ……私の()()を失った事実は、実にショックが大きい」


 パスカが何を言いたいのか、本当に理解できない。

 リィンは次第に呼吸が乱れ、パスカへ静かに歩み寄る。

 そして、途端に肌寒さを覚えた。

 リィンは冷気を感じた場所に目を向け――


「レイ……ラーズ……?」


 同僚だった二人は、体中を謎の植物に変化させた状態で、氷漬けにされていた。パスカが紋章術で対処したのだろうと理解するや、リィンは力なくへたり込む。

 わずかな面影を残した同僚を、リィンは茫然と眺める。


 二人との思い出が、漠然と脳裏(のうり)を過ぎ去っていく。

 涙で視界が(にじ)むなか、パスカが淡々とした口調で述べた。


「問題その一、植物化する者の特徴――軍の内部通信で被害状況を傍受(ぼうじゅ)した結果、木属性が起因している可能性が濃厚。その二、植物化した者が他者をも巻き込み、同様に植物化を発生させる方法――普通の怪我ならば問題はないが、植物の種子を埋め込まれると一気に植物化が進行する模様」


 パスカのしたことは、確実に軍法会議ものであった。

 戦々恐々としたリィンは、自然とパスカを見つめる。

 彼女は手を止めない。口も動かし続けた。


「なかば強制的に、自分の右腕を犠牲にするかたちだったが――まあ、わりと情報は得られた。植物に侵されても、斬り落とせばそれ以外は護られるみたいだ。とはいえ、部位的に斬り落とせないところ、または木に属した者は可哀想だが、さすがに(ふせ)ぎようがないな……そう、レイのように」


 実際に見たわけではない。しかし、脳裏に浮かび上がる。

 レイの植物化が始まり、ラーズが助けに入った。そうしてレイから生み出された種子を、体内に埋め込まれてしまい、ラーズもまた植物化したのだろう。

 その(さい)、パスカが右腕を負傷したのだと思われる。


 過去の出来事を想像すると同時に、パスカの身も案じた。

 右腕の先端が氷に包まれてはいるが、完璧ではない。

 どんどん血が溢れ、漏れ出ている。


「パ、パスカ所長……その腕、早く処置を――」

「まあ、待て……よく聞け。そこの窓から見える突如現れた巨大樹に近いほど、ひどく混信していたのだが、軍は危機が迫っていた事実自体は、どうやら曖昧(あいまい)ながらも把握していた(ふし)がある」


 リィンはおずおずと()いた。


「軍、が……?」

「その中で気になる単語が、いくつか聞き取れた――まあ、それはいい。最悪なのは、これが()()()に過ぎない可能性も(いな)めないということだ」


 パスカが得た単語が何か、少し気にはなった。

 ただそれ以上に、さらなる災害が発生する可能性の示唆(しさ)畏怖(いふ)を覚え、疑問を追求できるほどの余裕はない。この世の終わりではないか、そればかりが頭にある。


 不穏な雰囲気が漂うなか、パスカがようやく手を止めた。

 眼前の機器から何かを抜き取り、椅子を回転させる。

 リィン側を向くや、パスカが何かを放り投げてきた。

 乾いた音を立てて、リィンの(そば)まで転がってくる。


「帰ってきて早々、申し訳ないのだが……第四軍施設にある防災課まで、ひとっ走り行ってきてくれ。急遽組んだから、不安が残っているのは(いな)めないが、中央制御室の主要機器にそれを挿し込めば、帝都中の機器を強制的に乗っ取り、君の声を届けられるようになる」


 リィンは(たく)された物を拾い、パスカのほうを凝視する。

 簡単そうに言っているが、決して単純な話ではない。


 帝国技術部の人ですら、顔面を真っ青にしかねないほどのプログラムを、パスカは短時間で――しかも利き腕を失った状態で組んだという証明でもある。

 まぎれもない天才は尋常ではない冷や汗をかき、少し硬い微笑みを見せた。


「私は、ちょっと疲れた……利き腕が使えないというのは、思いのほか難儀なものだね。ただ、君が生きてここに戻ると信じてよかったよ。あとは私がさきほど君に伝えた植物化に関する内容を、可能な限り何度も叫んでおいてくれたまえ」


 痛みが強まったのか、パスカがいったん言葉を止めた。

 荒々(あらあら)しい呼吸を整え、それから再び声を(つむ)いだ。


「取るに足りない、小さな情報ではあるが……そこから何か新しい活路を見いだせる者が、少なからずいるかもしれない――それで生き残る人が、たとえ一人でも増えてくれれば、頑張ったかいがあるってもんだ」


 パスカは目に見えて、ひどく憔悴(しょうすい)していっていた。

 嫌な想像が浮かび、リィンは心の底から震え上がる。


「……君まで失っていたら、さすがに立ち直れなかったね」

「パ、パスカ……所長……?」

「さあ、頼んだぞ。私の、優秀な……」


 ぐらりとうな垂れ、パスカが椅子から転げ落ちた。

 恐怖で胸を圧迫され、リィンはうまく呼吸ができない。

 (そば)に寄ろうとしたが、体に力が入らなかった。


「あ、ああ……パ、パス、パ……」

 もはや、口すらまともに動かせない。

「あぁあああっ! あぁああああああ――っ!」


 不思議と、なぜか叫びだけは吐き出せた。

 リィンは床を這いずり、パスカへ近づいていく。


 この帝国では――(いな)、この世界では、たった一つの何かに突出している者よりも、並大抵のことを満遍(まんべん)なく実行できる者のほうが生きやすい。

 現にリィン達三人は、息苦しい人生を送ってきていた。


 今でこそ人並みの人生を歩めているが、パスカの研究室に勧誘されるまでの間は、みんなそれぞれ、孤独な時間をただ漠然と過ごしてきている。

 誰にも理解されない。誰も理解しようとしない。


 胸に抱いた興味は、とことん突き詰めて研究する。

 たとえそれが、夢みたいな物事であったとしても――


 それは、ある日――

 公園の長椅子で、本を読んでいたときのことだった。


『やあ、君がリィンか?』

『……誰?』 

『初めまして、私はパスカだ』

『……? 誰?』

『いや、なに――帝国紋章学研究所で、自分だけの研究室を(こころよ)く貰える手筈(てはず)となってね。だから面白い研究員を、自分で抜擢(ばってき)している最中なのさ』


 パスカとの出会いが、次々とよみがえっていく。


『あっそ。もし勧誘に来たんなら、ほかをあたって』

『ん? なぜだ?』

『何を研究する場所か知らないけれど、私には関係ない』

『南アイクリッド大陸にある、空白の領域の一つ。アビスで発見された遺物に書かれていたのは、精霊を召喚するほか、その力を自在に扱えたという伝承――』


 パスカが唐突に語った内容に、当時はひどく驚かされた。

 よほどの物好きでもない限り、きっと知りすらもしない。


『――紋章石には精霊が宿るとされてはいるが、実際問題、それを証明できた者は現代にはいない。だからこれは魔物、あるいは空想でしかないと思われている』

『なに? 莫迦(ばか)にしてんの?』

『いいや? 少なからず、私はまだ答えを出せていない』


 その物言いに、リィンは疑心を抱いた記憶があった。


『まだって、なによ』

『現時点で未確定の物事を、一般的に認めさせるためには、誰一人、疑う余地などない事実を用意しなければならない』

『そりゃそうでしょうね』

『逆に言えば、そんなものは存在しないということもまた、誰一人、反論する余地のない証拠を用意する必要性がある』


 パスカはそう言い、不敵に笑った。


『残念ながら、私は精霊がこの世に存在しないという証拠を持っていない。まあ幸いな話、私の研究室では自由な研究が可能だ。私自身、興味もあるしね』

『精霊の、存在が……?』

『この世界は、実に多くの不思議と謎に満ち溢れている――果たして精霊は魔物の一種か、はたまた、ユグドラシールや他国にある神と類似した存在か。それとも、どこかの誰かの空想に過ぎないのか。あらゆる可能性を秘めている……私が興味あるのは、答えの出ていない不思議と謎のすべてさ』


 リィンは人生で初めて、理解者が現れたと思った。

 いないはずがない。だが、その事実はわからない。


 神、悪魔、魔物、妖精、そして精霊――

 この違いを即座に話せる者が、どれだけいるのだろうか。

 人の想像次第で、おそらくそれらの意味は大きく異なる。


 空想、お伽噺(とぎばなし)――多くの人は、適当にあしらっていく。

 当然の事実だけを見据え、日々を生きているからだ。

 しかしパスカと出会い、リィンの人生は大きく変わる。

 誰もが莫迦(ばか)にすることなく、好きな研究に没頭できた。


「パスカ、所長……嫌、嫌です……私は、まだ……」


 精霊使いの少年の噂が耳に届いたときは、本当の意味から心臓が破裂しかけた。お伽噺(とぎばなし)でしかなかった空想が、少年の情報が入るたびに現実味を増していく。


 そして、彼が研究所を訪れたときにもたらされた感情は、言葉では言い表せられないほどの強烈な歓喜であった。ただリィン以上に、パスカ、またレイやラーズも、まるで自分のことのように喜び、楽しんでいた気がする。

 そんな愛する職場が、なぜか唐突(とうとつ)に崩壊した。


 家族にも等しい仲間達は、もう二度と微笑まない。

 尊敬する人は、血だらけの状態で床に倒れ込んでいる。


「いやぁ……いやぁあああああああ!」


 リィンはやっとの思いで、パスカのもとまで辿り着く。

 近くで見れば、顔が汗でびっしょり濡れていた。

 まったく血の気がない。

 さきほどまで平然と話していたのが、嘘みたいだった。


 生き残る人が、たとえ一人でも増えれば――

 その信念のみで、パスカは意識を繋ぎ留めていたのだ。


 わかっている。理解できないはずがなかった。

 しかし、リィンは彼女の希望を叶えられない。

 ほかの誰かより、眼前にいる恩人のほうが大事(だいじ)なのだ。


 まずは軍の処置室へ、急ぎ運んだほうがいい。

 ただ問題がある。現状、機能しているのかあやしい。

 最悪、時間を無駄にする。


(パスカ所長も、きっと機能していないと思ってる。だからこんな時間稼ぎみたいな、無理矢理な処置を自分でしてた)


 それならば、パスカを救えるのは自分しかいない。

 だが最悪な話、治癒や処置に関する知識が欠乏(けつぼう)している。

 やはり、この世は――

 満遍(まんべん)なくこなせるほうが、望ましいということなのだ。


 己の無力に(なげ)いていると、ふと頬に冷たいものが当たる。

 パスカが左手で、リィンに触れてきていた。


「早く……行け。無駄に、するな」

「ですが……だって……」

「少し休んだら、自分でなんとかするさ。早く、行け」


 一目でわかる。もうパスカに、そんな余裕はない。

 わかっている――当然、理解している――

 リィンは悩み、迷い、苦しみ――


「絶対、死なないと約束してくださいね。行ってきます」


 リィンは涙を溢れさせながら、精一杯の笑みを見せる。

 パスカは言葉なく、ぎこちない微笑みで応えた。

 パスカから(たく)された物を握り締め、リィンは立ち上がる。


 足にまだ、うまく力が入らない。

 それでも、リィンは走った。

 この行為が、恩人への恩返しになってくれる。

 たとえもう、二度と会えなくなるとしても――




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