第二十六話 最悪の災厄
メイアは建物の屋上で、ネイと一緒に立ち尽くしていた。
会場の出入口を抜ければ、本来は広々とした空間がある。しかし今現在は天樹祭を軸とした催しのため、多くの出店が所狭しと建ち並んでいる。
そのうえ、帝都中の民が会場付近へ集ってきているのだ。
「女神様のお怒りだぁあああ!」
「ユグドラシール様の守護神獣様がぁ――っ!」
恐怖が伝播してしまい、恐慌状態に陥っていた。
逃げ惑う人々で、どこもかしこも大渋滞を起こしている。
まずは、この部分を正さなければならない。
だから近くにある、高い建物の屋上へ駆けのぼり――
そこで目に入った異物に、メイア達は言葉を失ったのだ。
「なんだ……あれは……」
「普通に考えれば……木、なのかな」
メイアは心の中で、ネイの呟きに同意を示した。
遥か遠い先に、ありえない大きさをした木が見える。
少し前までは、確実に存在していなかった。
そもそも、あれほどの巨大樹があったのならば、一般的な名物となっていてもおかしくはない。天樹祭が原因なのか、はたまた別の理由があるのか――会場に現れた神獣の発言を考慮すれば、おそらく後者の可能性が高いのだろう。
はっと我に返り、メイアは周囲の気配を探った。
神鹿が二体、蛇龍のほかに、大鷹と栗鼠が一体――
女神の守護神獣は、全部でこの五体だと記憶している。
(ほかの神獣は……この付近にはいない、のか?)
神鹿と同様の凄まじいエーテルを、もしほかの神獣も身に纏っているのであれば、簡単に気づけるはずであった。だがそれらしいものは、どこにも感じ取れない。
神鹿の一体が先兵か、あるいは察知外にいるのか――
いずれにしても、状況は絶望的だと見ていい。
そう思った矢先、気味の悪い雰囲気に肌がひりついた。
「ねえ! あれ!」
ネイが指を差した。当然、メイアも気づいている。
ひらひらとした帷帳を思わせる色鮮やかな光が、巨大樹の樹冠から幾重にも降り注ぐかたちで迫ってきている。なかば反射的に、メイアの体がびくりと痙攣した。
どう足掻こうとも、回避するすべなどあるはずもない。
それでも、メイアは両腕を前にして防御の姿勢を作る。
ふわりとした光が、メイア達の体をすり抜けていった。
瞬間――
「ぐぁあああああああ――っ!」
「ぎゃぁああああ――っ!」
悲鳴のした方角へ視線を滑らせ、メイアは目を剥いた。
まるで寄生虫に浸食されているかのように、一部の者達の手足が植物に覆われ――否、変貌している。それは爆発的に成長が進み、周囲の者をも巻き込んでいく。
最悪な状況は、留まることを知らない。
それはいわば、伝染病にも等しかった。
巻き込まれた者達もまた、謎の植物化が始まっている。
異常な現象が、場にさらなる混沌と恐怖をもたらした。
原因は察せるものの、メイアも唖然とならざるを得ない。
(今の気味の悪い光が……けれど、私に異変はない……?)
自己診断を終え、メイアはネイの様子をうかがった。
ネイも同時に、メイアのほうへ視線を投げてくる。
どうやら似た思考を、ネイも持った様子であった。
「いったい、何が起こっているの……?」
「わからない。が――この異常事態は、極めてまずいな」
メイアの声音は、自然と低くなっていた。
ネイは唇を噛み締め、険しい表情で黙している。
おそらく言葉の裏に含めた意図を、きちんと呑み込めたに違いない。謎の植物化問題は前提として、会場に残してきた紅羽の件もメイアは案じている。
紅羽ほどの猛者であれば、大半の物事は問題ない。
だがそれは、あくまでも人としての範囲内での話だ。
二転三転とした状況に、苦戦しているのは間違いない。
メイアからしても、この展開はあまりにも想定外過ぎた。
悩んでいる暇すらも惜しい。メイアは思考を働かせる。
「――戻るにしても、やはり武器を得てからだ」
「ええ。今のままでは、紅羽の邪魔にしかならないものね」
メイアはこくりと頷いた。そのとき――
「皆さん、落ち着いて指示に従ってください! これより、我々帝国軍が場を取り持ちます! 繰り返します――」
帝国軍の格好をした者達が、一気に押し寄せてきた。
対応の速さに、メイアは眉をひそめる。
警邏隊の者ならいざ知らず、軍隊が動いているのだ。
(こうなることを、予期していた……?)
真偽は知れないものの、メイアはそんな疑念を抱いた。
「おい! メイア!」
聞き覚えのある声に呼ばれ、メイアは空を仰ぎ見る。
紫色の髪をした女、アイーシャが落下してきていた。
どうやら、飛竜に跨ってやってきたらしい。
彼女は着地するなり、切羽詰まった口調で言ってきた。
「お前も手伝え!」
「ちょ……いきなり、なんなのよ」
ネイは戸惑った様子で、声を荒げていた。
ネイとは違い、メイアは落ち着いている。
緊急時の説明は道中で、まずは行動が先決――
それがメイア達の、昔からのやり方なのだ。
とはいえ、メイアも今は緊急を要する立場にある。
アイーシャが乗ってきたと思われる飛竜が、緩やかに降り立つさまを眺めながら、メイアはゆっくり首を横に振った。
「すまないが、無理だ……紅羽がいま一人、会場内で神鹿を相手にしている」
「んなっ……!」
「一刻も早く、武器を得て参戦しに戻らなければならない」
「くっ……もうすでに……そうか。おい、そこの赤髪!」
アイーシャが何かを、ネイへと投げ渡した。
「その勲章があれば、軍に融通が利く。急ぎ、自分が扱える武器を取ってこい」
「……ええ。了解したわ」
状況が状況なため、ネイは深く訊かずに頷いていた。
「早く行け! このドクソノロマガメ! ぼけっとしてる暇なんかねぇぞ!」
「わ、わかってるわよ!」
ネイは颯爽と屋上から飛び降り、行動を開始する。
アイーシャは短いため息を吐いた。
メイアは少し眺めてから、不意の疑問を尋ねる。
「それにしても、よく私の居所がわかったな?」
「偶然だ。天樹祭会場にいること自体は知っていたからな」
アイーシャが答えながら、飛竜へ足早に向かった。
それから、飛竜の横腹にある鞄を漁り始めている。
「ほらよ」
取り出された二つの剣を、ぽんっと投げ渡してきた。
メイアは難なく受け取り、ざっと形や質を観察する。
明らかに、メイアに見合った武器であった。
「これは……」
「もともとお前を目指して来たんだ。だからお前のぶんしか用意してない」
話を聞きながら、メイアは双剣を両腕に装着した。
古い付き合いもあってか、よく理解している。
とても腕に馴染む、いい武器であった。
「よし。これなら、紅羽の助太刀に戻れる」
「いいや……それはちょっと、難しいみたいだぞ」
「なんだと……?」
訊き返した直後、メイアは気づく。警戒を怠っていた。
かなり異質な気配が、遥か上空のほうにある。
メイアは即座に天を仰いだ。空を泳ぐ蛇龍が一体――
紅羽の読みは正しい。確実に神鹿と類似した存在だった。
「皆さん! 慌てず急いでください!」
「しっかり指示に従ってください!」
大混乱が相手では、さすがの帝国軍でも手を焼いている。
その叫びに混じり、背筋がぞっとする声が届いた。
《罪深き闖入者の微かな遺薫――誰一人、逃しはせぬ》
メイアは頭痛に近い痛みを覚える。
脳に直接、言葉を叩き込まれたみたいであった。
(あれは監視なの、か……? 一人で討ち取れるか?)
じわりとした恐怖に加え、焦燥感も湧いた。
正直、かなり厳しい。まず神獣と戦うならば、エーテルの習得は必須――もしアイーシャや帝国軍が応戦にきた場合、逆に最悪の事態を招きかねない。
もっと言えば、相手は大空を自由に舞えるのだ。
何が最善なのか、メイアは必死に思考を巡らせる。
重圧感に満ちた雰囲気のなか、アイーシャがぼそっとした声で喋った。
「言える範囲内で説明しておく。おそらく、親父――いや、咲弥達が極秘任務に失敗した。その結果、お怒りの女神様が降臨した可能性がある」
メイアは驚愕した。空を仰ぐアイーシャを凝視する。
アイーシャはどこか、諦め気味に続けた。
「巨大樹……あそこが、女神の降臨地だ」
「咲弥達は……?」
「わからない。ここに来るまでに入った報告によれば……」
しばし黙したあと、アイーシャは太いため息をついた。
「調査に向かった部隊が、一呼吸の間に植物化して殺された……ってことだけだ」
もはや、最悪の災厄としか言いようがない。
そんな感想を、メイアは人知れず胸に抱いた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
帝国紋章学研究所の通路を、女は慌ただしく走っていた。
桃色の髪は乱れ、全身が汗だくになっても気にしない。
リィンは急ぎ、通いなれた職場を目指している。
パスカの我が儘で、帝都で開催中のお祭りへ赴いていた。
お使いを済ました直後――突如、異常事態が発生する。
何が起こっているのか不明だが、確実にただ事ではない。
そして、今やっとの思いで、職場の前まで辿り着く。
リィンは勢いよくドアを開いた。
「はぁはぁ……はぁ……」
室内は薄暗かった。機器が放つ明かり程度しかない。
机にある画面に向かい、パスカが何かの作業をしていた。
リィンの背筋は凍りつき、激しい息切れも止まる。
「……パ、スカ、所長……」
一見、パスカが暗闇の中で、黙々と作業をしている。
それは、間違いない。だが異変は、明確に捉えられた。
パスカの右腕がない。血がぽたぽたと滴り落ちている。
「おやおや? 使いっぱしり、ご苦労さん」
パスカは振り向くことなく、陽気な声を発した。
リィンは全身の震えが止まらない。
パスカは手を止めず、世間話のような口調で言った。
「我々、学問に身を置く者にとって、好奇心は必要不可欠な要素の一つだ。たとえ獰猛な魔物が現れると知っていても、未知への解答を得られる可能性がわずかでもあるのならば、藪であろうが巣穴であろうが、つつき続けるに違いない」
パスカの言葉は、しっかり耳に届いていた。
それなのに、何一つとして理解できない。
リィンの精神は、静かな恐怖だけに侵されている。
「パ、パスカ所長……そ、その、腕は……」
「代償は小さくもあるが、同時に大きくもある。私が片腕を失った事実など、さほど問題ではない。ただ……私の片腕を失った事実は、実にショックが大きい」
パスカが何を言いたいのか、本当に理解できない。
リィンは次第に呼吸が乱れ、パスカへ静かに歩み寄る。
そして、途端に肌寒さを覚えた。
リィンは冷気を感じた場所に目を向け――
「レイ……ラーズ……?」
同僚だった二人は、体中を謎の植物に変化させた状態で、氷漬けにされていた。パスカが紋章術で対処したのだろうと理解するや、リィンは力なくへたり込む。
わずかな面影を残した同僚を、リィンは茫然と眺める。
二人との思い出が、漠然と脳裏を過ぎ去っていく。
涙で視界が滲むなか、パスカが淡々とした口調で述べた。
「問題その一、植物化する者の特徴――軍の内部通信で被害状況を傍受した結果、木属性が起因している可能性が濃厚。その二、植物化した者が他者をも巻き込み、同様に植物化を発生させる方法――普通の怪我ならば問題はないが、植物の種子を埋め込まれると一気に植物化が進行する模様」
パスカのしたことは、確実に軍法会議ものであった。
戦々恐々としたリィンは、自然とパスカを見つめる。
彼女は手を止めない。口も動かし続けた。
「なかば強制的に、自分の右腕を犠牲にするかたちだったが――まあ、わりと情報は得られた。植物に侵されても、斬り落とせばそれ以外は護られるみたいだ。とはいえ、部位的に斬り落とせないところ、または木に属した者は可哀想だが、さすがに防ぎようがないな……そう、レイのように」
実際に見たわけではない。しかし、脳裏に浮かび上がる。
レイの植物化が始まり、ラーズが助けに入った。そうしてレイから生み出された種子を、体内に埋め込まれてしまい、ラーズもまた植物化したのだろう。
その際、パスカが右腕を負傷したのだと思われる。
過去の出来事を想像すると同時に、パスカの身も案じた。
右腕の先端が氷に包まれてはいるが、完璧ではない。
どんどん血が溢れ、漏れ出ている。
「パ、パスカ所長……その腕、早く処置を――」
「まあ、待て……よく聞け。そこの窓から見える突如現れた巨大樹に近いほど、ひどく混信していたのだが、軍は危機が迫っていた事実自体は、どうやら曖昧ながらも把握していた節がある」
リィンはおずおずと訊いた。
「軍、が……?」
「その中で気になる単語が、いくつか聞き取れた――まあ、それはいい。最悪なのは、これが第一波に過ぎない可能性も否めないということだ」
パスカが得た単語が何か、少し気にはなった。
ただそれ以上に、さらなる災害が発生する可能性の示唆に畏怖を覚え、疑問を追求できるほどの余裕はない。この世の終わりではないか、そればかりが頭にある。
不穏な雰囲気が漂うなか、パスカがようやく手を止めた。
眼前の機器から何かを抜き取り、椅子を回転させる。
リィン側を向くや、パスカが何かを放り投げてきた。
乾いた音を立てて、リィンの傍まで転がってくる。
「帰ってきて早々、申し訳ないのだが……第四軍施設にある防災課まで、ひとっ走り行ってきてくれ。急遽組んだから、不安が残っているのは否めないが、中央制御室の主要機器にそれを挿し込めば、帝都中の機器を強制的に乗っ取り、君の声を届けられるようになる」
リィンは託された物を拾い、パスカのほうを凝視する。
簡単そうに言っているが、決して単純な話ではない。
帝国技術部の人ですら、顔面を真っ青にしかねないほどのプログラムを、パスカは短時間で――しかも利き腕を失った状態で組んだという証明でもある。
まぎれもない天才は尋常ではない冷や汗をかき、少し硬い微笑みを見せた。
「私は、ちょっと疲れた……利き腕が使えないというのは、思いのほか難儀なものだね。ただ、君が生きてここに戻ると信じてよかったよ。あとは私がさきほど君に伝えた植物化に関する内容を、可能な限り何度も叫んでおいてくれたまえ」
痛みが強まったのか、パスカがいったん言葉を止めた。
荒々しい呼吸を整え、それから再び声を紡いだ。
「取るに足りない、小さな情報ではあるが……そこから何か新しい活路を見いだせる者が、少なからずいるかもしれない――それで生き残る人が、たとえ一人でも増えてくれれば、頑張ったかいがあるってもんだ」
パスカは目に見えて、ひどく憔悴していっていた。
嫌な想像が浮かび、リィンは心の底から震え上がる。
「……君まで失っていたら、さすがに立ち直れなかったね」
「パ、パスカ……所長……?」
「さあ、頼んだぞ。私の、優秀な……」
ぐらりとうな垂れ、パスカが椅子から転げ落ちた。
恐怖で胸を圧迫され、リィンはうまく呼吸ができない。
傍に寄ろうとしたが、体に力が入らなかった。
「あ、ああ……パ、パス、パ……」
もはや、口すらまともに動かせない。
「あぁあああっ! あぁああああああ――っ!」
不思議と、なぜか叫びだけは吐き出せた。
リィンは床を這いずり、パスカへ近づいていく。
この帝国では――否、この世界では、たった一つの何かに突出している者よりも、並大抵のことを満遍なく実行できる者のほうが生きやすい。
現にリィン達三人は、息苦しい人生を送ってきていた。
今でこそ人並みの人生を歩めているが、パスカの研究室に勧誘されるまでの間は、みんなそれぞれ、孤独な時間をただ漠然と過ごしてきている。
誰にも理解されない。誰も理解しようとしない。
胸に抱いた興味は、とことん突き詰めて研究する。
たとえそれが、夢みたいな物事であったとしても――
それは、ある日――
公園の長椅子で、本を読んでいたときのことだった。
『やあ、君がリィンか?』
『……誰?』
『初めまして、私はパスカだ』
『……? 誰?』
『いや、なに――帝国紋章学研究所で、自分だけの研究室を快く貰える手筈となってね。だから面白い研究員を、自分で抜擢している最中なのさ』
パスカとの出会いが、次々とよみがえっていく。
『あっそ。もし勧誘に来たんなら、ほかをあたって』
『ん? なぜだ?』
『何を研究する場所か知らないけれど、私には関係ない』
『南アイクリッド大陸にある、空白の領域の一つ。アビスで発見された遺物に書かれていたのは、精霊を召喚するほか、その力を自在に扱えたという伝承――』
パスカが唐突に語った内容に、当時はひどく驚かされた。
よほどの物好きでもない限り、きっと知りすらもしない。
『――紋章石には精霊が宿るとされてはいるが、実際問題、それを証明できた者は現代にはいない。だからこれは魔物、あるいは空想でしかないと思われている』
『なに? 莫迦にしてんの?』
『いいや? 少なからず、私はまだ答えを出せていない』
その物言いに、リィンは疑心を抱いた記憶があった。
『まだって、なによ』
『現時点で未確定の物事を、一般的に認めさせるためには、誰一人、疑う余地などない事実を用意しなければならない』
『そりゃそうでしょうね』
『逆に言えば、そんなものは存在しないということもまた、誰一人、反論する余地のない証拠を用意する必要性がある』
パスカはそう言い、不敵に笑った。
『残念ながら、私は精霊がこの世に存在しないという証拠を持っていない。まあ幸いな話、私の研究室では自由な研究が可能だ。私自身、興味もあるしね』
『精霊の、存在が……?』
『この世界は、実に多くの不思議と謎に満ち溢れている――果たして精霊は魔物の一種か、はたまた、ユグドラシールや他国にある神と類似した存在か。それとも、どこかの誰かの空想に過ぎないのか。あらゆる可能性を秘めている……私が興味あるのは、答えの出ていない不思議と謎のすべてさ』
リィンは人生で初めて、理解者が現れたと思った。
いないはずがない。だが、その事実はわからない。
神、悪魔、魔物、妖精、そして精霊――
この違いを即座に話せる者が、どれだけいるのだろうか。
人の想像次第で、おそらくそれらの意味は大きく異なる。
空想、お伽噺――多くの人は、適当にあしらっていく。
当然の事実だけを見据え、日々を生きているからだ。
しかしパスカと出会い、リィンの人生は大きく変わる。
誰もが莫迦にすることなく、好きな研究に没頭できた。
「パスカ、所長……嫌、嫌です……私は、まだ……」
精霊使いの少年の噂が耳に届いたときは、本当の意味から心臓が破裂しかけた。お伽噺でしかなかった空想が、少年の情報が入るたびに現実味を増していく。
そして、彼が研究所を訪れたときにもたらされた感情は、言葉では言い表せられないほどの強烈な歓喜であった。ただリィン以上に、パスカ、またレイやラーズも、まるで自分のことのように喜び、楽しんでいた気がする。
そんな愛する職場が、なぜか唐突に崩壊した。
家族にも等しい仲間達は、もう二度と微笑まない。
尊敬する人は、血だらけの状態で床に倒れ込んでいる。
「いやぁ……いやぁあああああああ!」
リィンはやっとの思いで、パスカのもとまで辿り着く。
近くで見れば、顔が汗でびっしょり濡れていた。
まったく血の気がない。
さきほどまで平然と話していたのが、嘘みたいだった。
生き残る人が、たとえ一人でも増えれば――
その信念のみで、パスカは意識を繋ぎ留めていたのだ。
わかっている。理解できないはずがなかった。
しかし、リィンは彼女の希望を叶えられない。
ほかの誰かより、眼前にいる恩人のほうが大事なのだ。
まずは軍の処置室へ、急ぎ運んだほうがいい。
ただ問題がある。現状、機能しているのかあやしい。
最悪、時間を無駄にする。
(パスカ所長も、きっと機能していないと思ってる。だからこんな時間稼ぎみたいな、無理矢理な処置を自分でしてた)
それならば、パスカを救えるのは自分しかいない。
だが最悪な話、治癒や処置に関する知識が欠乏している。
やはり、この世は――
満遍なくこなせるほうが、望ましいということなのだ。
己の無力に嘆いていると、ふと頬に冷たいものが当たる。
パスカが左手で、リィンに触れてきていた。
「早く……行け。無駄に、するな」
「ですが……だって……」
「少し休んだら、自分でなんとかするさ。早く、行け」
一目でわかる。もうパスカに、そんな余裕はない。
わかっている――当然、理解している――
リィンは悩み、迷い、苦しみ――
「絶対、死なないと約束してくださいね。行ってきます」
リィンは涙を溢れさせながら、精一杯の笑みを見せる。
パスカは言葉なく、ぎこちない微笑みで応えた。
パスカから託された物を握り締め、リィンは立ち上がる。
足にまだ、うまく力が入らない。
それでも、リィンは走った。
この行為が、恩人への恩返しになってくれる。
たとえもう、二度と会えなくなるとしても――