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神殺しの獣  作者: Key-No.92
第四章 無数にある分岐点(下)
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第二十五話 終の想い




 紅羽は舞台裏を歩き、自分の持ち場へと向かっていた。

 まもなく、天樹祭はフィナーレを迎える。


 ひょんなことから始めた人助けの終わりもまた、もう目と鼻の先にまで迫っているのだ。そんな理由もあってか、胸の奥で感慨深い思いがわずかに漂っている。

 未知なる経験は、新たな一面を覗かせてくれた。


 おそらく人として、また少し成長できたに違いない。

 ()しむらくは、やはり彼と過ごせなかったことにある。

 本音を言えば、自分の変化を(そば)で見ていてほしかった。


(でも、だからこそ……)


 当然、残念感のすべてを、払拭できたわけではない。

 ただ紅羽なりに、気持ちの入れ替えを済ませている。

 もっと別の形で、彼をより驚かせられるのだ、と――

 そう結論を導き出せば、ある種の楽しみを見いだせた。


(とにかく、天樹祭はこれで最後。今は……)


 天樹祭の大詰めを、成功させなければならない。

 紅羽はまっすぐ前を見据え、ふと視界の端で捉えた光景に意識を奪われる――シーラが胸に両手を添え、石像のごとく壁に向かって立っていたのだ。

 紅羽は彼女の(そば)へ、ゆっくりと歩み寄っていく。


「どうかされましたか?」

「あっ……紅羽ちゃん……」


 シーラは口を閉ざした。紅羽は小首を(かし)げる。

 しばらくして、シーラは普段よりも低い声を(つむ)いだ。


「もうすぐ、天樹祭が終わります」

「はい」

「幼い頃からずっと、夢に見ていた母と同じ天樹祭……もう終わるんだって思うと、少し胸がせつなくて――あっでも、なんだか達成感もあって……」


 声の端々から、緊張している気配が如実(にょじつ)に表れている。

 シーラは、ややぎこちない笑みを見せた。


「すみません。ですが、やり()げてみせます」

「はい。私も気を抜かず、ご助力いたします」

「もし紅羽ちゃん達と出会えていなければ、私はたぶん……ここまで来られてなかったかもしれません。だから本当に、紅羽ちゃん達には心から感謝しています」

「いいえ。何も問題ありません」


 シーラは苦笑してから、神妙な面持ちへと変わった。

 まだ胸の奥に、なんらかのしこりを残しているらしい。

 紅羽は黙したまま見据え、シーラの言葉を待つ。


「……少し、心に溜めたものを吐いてもいいですかね?」

「……? どうぞ」

「すぅ……レクトのばか! 本当は天樹祭、あんたにも見に来てほしかったのに! いつもいつも、肝心なときに限って来ないなんて、くそばか野郎ぉっ!」


 シーラの声量に驚き、紅羽はわずかに身を()()らせる。

 だがシーラの叫びは、少なからず紅羽も共感できた。

 切り替えたはずの感情が、再びちらりと顔を覗かせる。


『もう自分の中で溜め続けるな』


 メイアに言われた言葉が、不意に脳裏(のうり)をよぎった。

 紅羽はそっと、シーラに微笑む。


「では、私も……すぅ」

 紅羽は息を大きく吸い込み、胸に募った想いを吐き出す。

「咲弥様のばか! 私の踊りや成長を、あなたにしっかりと見てほしかった!」


 叫べば心にある(かげ)りが、不思議と一気に薄れていく。

 それはこれまでの人生、味わった経験のないものだった。

 また新たな一面を知り、心の内側で静かに驚き戸惑う。


 しかしすっきりとした胸に、紅羽はそっと手を添える。

 ふと、気づく。シーラが目を丸くしていた。


「ふっ……ふふ……あはははっ……」

 突然、シーラが笑った。

「紅羽ちゃんってほんと、可愛い方ですね。私……ちょっと、誤解していました。私から見た紅羽ちゃんって、もっとこう……お堅い人だと思っていましたから」


 紅羽は首を(ひね)った。


「……そうですか?」

「でも、紅羽さんも私と同じだって、よくわかりました」


 シーラは満面の笑みで、右手を差し出してきた。


「天樹祭が終わったら、お互い本人に文句を言いましょ」

「……はい。そうですね」


 紅羽は自然と微笑み、シーラに応えた。

 シーラは深呼吸を始める。それから、後ろを振り返った。


「それでは、天樹祭のフィナーレ……成功させましょう」

「了解しま――はっ!」


 紅羽は言い切る前に、ひどく気味の悪い気配を察知した。

 ほぼ同時に、会場のほうで妙なざわつきが起こる。


「……何かあったんでしょうか? 行ってみましょう」

「あっ……待ってください!」


 制止の声も聞かず、シーラが舞台側へと駆けていく。

 紅羽も即座に、シーラの後を追いかけた。

 表舞台には、当然まだ誰もいない。

 出演者は全員、舞台裏で待機しているからだ。


(あれは、いったい何……?)


 誰もいないはずの表舞台に悠然と立つ、一体の獣――

 まるで鹿を彷彿(ほうふつ)とさせる頭を二つ持ち、その筋肉質な体は迅馬(じんば)以上に屈強そうだった。見た目から魔物と判断したが、何か独特な神秘性を(かも)している。


 ただ容姿よりも、もっと別の部分に紅羽の目は奪われた。獣が(まと)っているエーテルが、あまりにも流麗であり、さらに底が計り知れない力強さもある。

 放たれる強烈な威圧感は、空白の領域で邂逅(かいこう)した魔物をも()えていた。


(いいえ。もっとそれ以上……これはネイの故郷で遭遇した悪魔すらも……)

「なに……あれ……?」


 シーラの(つぶや)きを聞き、紅羽ははっと我に返る。

 底知れない存在感に、つい茫然となっていた。会場にいる観客達の誰もが、紅羽やシーラと同等の感情を抱いているに違いない。

 表舞台を支配する獣へ、一人の老人が歩み寄っていく。


「皆の者、静まれぇい!」


 ユグドラシール教の教皇、ゼクセンが声を張った。

 彼は獣の前で、帝国式の深い敬礼をする。

 それから手を祈りの形へと変え、獣を大きく見上げた。


「おお、おぉお……まさかユグドラシール様にお仕えする、神鹿(しんろく)ヨトヴァリン様にご降臨していただけますとは――このゼクセン、感慨無量でございます」


 紅羽は漠然と理解に達した。

 視界に映る獣こそ、女神の守護神獣なのだろう。

 存在自体は把握できた。また同時に、疑問も生まれる。


(なんのため……?)


 女神ユグドラシールについて、ある程度の情報ならば耳に届いている。だが天樹祭の(もよお)しで守護神獣が降臨するなど、聞いた覚えはいっさいなかった。

 周囲の状況からも、これが異常事態なのは間違いない。


 紅羽の脳裏(のうり)に、無数の思考が一気に駆け抜けていく。

 ()びるような声音で、ゼクセンは言葉を(つむ)いだ。


「やはり、見てくださっていたのですね……長い間、ずっと暗闇の中を、歩き続けてきた心持ちでした。ですが……女神ユグドラシール様は――」


 紅羽は息を呑んだ。自然と、目を大きく見開いていく。

 電撃にも似た(しび)れが、紅羽の体内を駆け抜けた。

 神鹿ヨトヴァリンの視線が、紅羽のほうを向いたからだ。


「罪深き闖入者(ちんにゅうしゃ)遺薫(いくん)――そこか」


 ゼクセンの発言を(さえぎ)り、ヨトヴァリンが重い声を吐いた。

 紅羽は失敗に気づく。異質な空気に呑まれていた。

 何もわからない。けれど、純白の紋様を描いていく。

 この神獣は危険――紅羽は本能からそう察したのだ。


(間に、合わない……!)


 それはまさに、ほんの一瞬の出来事であった。

 エーテルを扱えない者には、決して理解などできない。


 ヨトヴァリンの周囲にある空間が、瞬間的な速度で(ゆが)むや(いな)や――まるで巨大な斬撃を彷彿(ほうふつ)とさせる衝撃波が生まれ、四方八方へと放たれていく。

 神獣のすぐ(そば)にいたゼクセンが、まず縦に両断された。


 鋭い衝撃波はそのまま、一部の観客達を巻き込んでいく。

 紅羽はシーラの腕を(つか)み、安全と思われる領域に引っ張り込みながら唱える。


「ヴァルキリー降臨!」

「うっ、うわぁあああああ――っ!」

「きゃあああああ――っ!」


 紅羽の詠唱と同時に、そこかしこから悲鳴があがった。

 出演者及び観客達が、恐怖した顔で一斉(いっせい)に逃げ始める。

 ヨトヴァリンに追う気配は感じられない。

 殺気立った神獣は、どこか別の方角に目を向けていた。


(ほの)かな遺薫(いくん)が、あと三つ――」


 その三つが、いったい何を指しているのかわからない。

 紅羽は察知能力を高め、探りを入れ――はっと息を呑む。


 神獣が見ていた方角には、どうやら紅羽の仲間がいる。

 とある予感が、漠然と思い浮かぶ。

 ()()()()()()など、一人しかいないからだ。


「シーラ、すぐ逃げてください」

「こ、腰が……ぬ、抜け……きょ、教皇様が……」


 唐突(とうとつ)な惨劇に、心がやられたようだ。

 悩む暇などない。紅羽は決断を下した。


「では、安全な場所に隠れておいてください」


 紅羽は極限までエーテルを(たぎ)らせ、素早くヨトヴァリンの前に移った。真っ先に視線を投げてきた事実を考慮すれば、(おとり)としての役目は充分果たせるに違いない。

 紅羽は紅い大太刀を構え、時間稼ぎがてらに問いかけた。


「あなたの目的は、なんでしょうか?」

(なんじ)(はなは)だ濃厚なり。壊滅人(かいめつびと)よ」


 紅羽は内心、若干の戸惑いを覚える。

 十中八九、前半の部分は咲弥との関係性を示していた。

 しかし壊滅人に関しては、意味をうまく汲み取れない。


 警戒を緩めず思案しているさなか、背後から二つの気配が勢いよく迫ってくるのを察知した。両脇に立ち並んだネイとメイアの様子を、視界の端でうかがう。

 どこかで得たらしき刃物を、彼女達は握っていた。


(もろ)い武器では、さすがに太刀打ちできない。ならば……)


 帝国を訪れた日から、天樹祭の復活や踊りの練習にばかり集中していたわけではない。メイア達と日課的に、エーテル向上の訓練は当然してきている。

 だが眼前に立つ神獣は、紅羽達を遥かに凌駕(りょうが)していた。


 メイア達には支援に回ってもらうか、それとも――紅羽は思考を巡らせつつ、周囲の状況をより深く探る。まず付近で横たわる教皇は、もう救いようがない。

 恐ろしいくらい綺麗に、縦に両断されている。

 巻き込まれた観客達も、教皇と同様に絶息していた。


(出入口は詰まっている。混乱が原因――)

(あわ)てるな! こっちにも避難口はある! 行けぇ」


 聞き馴染みのある男の声が、紅羽の耳へと届いた。

 ゼイドは迅速に、避難誘導のほうに転向している。

 紅羽は現状、もっとも適切だと思える結論を導き出した。


「お二人は、観客の避難を優先してください。こいつは――私一人で始末します」

「いやいや、さすがにきついっしょ……」

「空白の領域にいる魔物ですら、(おび)えそうな気配だぞ」


 やや緊張の宿った声音で、ネイとメイアが(さと)してきた。

 確かに、一人では(あや)うい予感がある。とはいえ、不出来な得物を所持した状態で、戦力になるのか問われると、それもひどく危険な答えしか見つからない。

 紅羽は迷うことなく口を開いた。


「一体とは、限りません。避難誘導を優先しつつ、まともな武器を得てください」


 気持ち、紅羽は声を低めにして伝えた。

 ()かす意味合いもあるが、反論させないためでもある。

 ネイが呆れ気味のため息をついた。


「わかった。死ぬんじゃないわよ」

「確かに……一体とは限らない、か……了解した」


 ネイとメイアはそう言い、会場の入口側へと向かった。

 紅羽は紅い大太刀を、さらに力強く握り締める。


 やはり、ヨトヴァリンに追う様子は見られない。

 ほかにも存在する可能性は濃厚だと判断する。

 紅羽は瞬時に前を進み、ヨトヴァリンの右側を制した。


「咲弥様の敵は、私の敵――始末します」


 ヨトヴァリンの首を目掛け、紅羽は紅い大太刀を振るう。

 ヨトヴァリンは動かない。代わりに、空間が(ゆが)んだ。


 紅羽の斬撃は、謎の空間により(はば)まれる。

 その感触はどこか、硬い盾にも等しい。

 紅羽は打ち込んだ衝撃を利用して、空高く舞い上がる。

 瞬間的な早さで、ヴァルキリーを純白の弓に転化した。


(ならば……手数で攻めるのみ)


 一本の光の矢を生み、弓弦を限界まで引き絞った。

 エーテルを込めた矢を、紅羽は力強く放つ。


 一筋の光が途中で弾け飛び、流星のごとくヨトヴァリンを多方向から攻めていく。だが、空間が途端に()じれ、すべて(ふせ)がれてしまっていた。

 原理はいまだ、よくわからない――


(いいえ……これは、マナを操っている……?)


 真偽は知れないものの、紅羽はそう推測した。

 いずれにしろ、攻撃を無効化されると勝ち目がない。

 紅羽の思考中に、ヨトヴァリンがぼやいた。


「人類よ。天樹の(きら)めきを受容せよ」


 紅羽は背筋が凍りついた。全身に嫌な(しび)れも覚える。

 ヨトヴァリンではない。もっと別の奇妙な気配だった。

 謎の光が何度も壁をすり抜け、ふわりと通り過ぎていく。

 瞬間――


「ぐぁっ……がぁあああああああ――!」


 紅羽は瞬時に、悲鳴のほうへ視線を(すべ)らせる。

 人で溢れ、詰まっている会場の出入口――男の手や足が、植物と(おぼ)しき状態へと変化していた。しかも一人ではなく、ほかにも類似した状況にある者がいる。


(なに……?)


 紅羽は着地すると同時に、ヨトヴァリンに視線を戻した。

 ヨトヴァリンは表情一つ変えず、重い声音で言った。


「開戦だ。壊滅人」


 紅羽は目を()いた。ヨトヴァリンが始動する。

 途端に空間が()じれ、紅羽に衝撃波を放ってきた。

 紅い大太刀で受けるが、衝撃波の力は(すさ)まじい。


(斬れない。かき消せない。ならば――)


 紅羽は衝撃波を滑らせ、やや上空へと弾いた。

 その最中も、植物化した者への警戒も欠かせない。

 紅羽はやまぬ悲鳴を一瞥(いちべつ)した。


 手足から始まっていた植物化は、やがて全身を飲み込み、爆発的な勢いで成長をしていた。さらにそれは、周囲にいる者達にまで被害をもたらしている。

 紅羽はくっと息を詰めた。


(被害を受けた者もまた、植物化が始まっている……?)


 植物化の発生源となる対象は不明瞭だが、周りの者にまで伝染していくのであれば、もう最悪としか言いようがない。そうでなくとも、人が密集しているのだ。

 紅羽は己を責め立てる。判断を誤ったのは間違いない。


 神獣一体であれば、まだかろうじて対処できた。

 これほどの事態は、さすがに想定外でしかない。

 ヨトヴァリンの放つ衝撃波が、再び紅羽に襲いかかった。

 紅羽は再び大太刀を構え――


「きゃぁああああああ!」


 切迫した状況下、シーラと思われる悲鳴が響いた。

 紅羽の目もとが、極わずかに(ゆが)む。


 このままヨトヴァリンの始末を急ぐか、それともシーラを助けにいくか――どちらを選択したとしても、確実に多くは救えない。

 紅羽は悩み、迷い、そしてシーラ側に視線を走らせた。


 紅羽の現在地からであれば、舞台裏がよく見える。

 植物化した人に、シーラは巻き込まれる寸前であった。

 距離的に、もう間に合わない。

 それでも、純白の紋様を描いていく――


「シーラァアアアアアアッ!」


 舞台裏にある垂れ幕から、飛び出してきた男――

 レクトが、シーラを大きく突き飛ばした。

 シーラは絶望的な面持ちで、手を前へと伸ばしていく。


「レ、レクトォオオオッ!」

「ぐあっ……!」


 シーラの代わりに、レクトが植物に刺されてしまった。

 レクトの悲痛なうめき声と同時に、紅羽は詠唱する。


「魔女の悪戯」


 時間停止に等しい空間の中を、紅羽は飛ぶ勢いでシーラへ駆け寄り、彼女の腰に腕を回した。救える可能性を考慮し、レクトを一瞥(いちべつ)――確実に、救えない。

 心臓の位置を貫かれ、植物化の始まりがうかがえる。


 紅羽は固有能力を解除して、シーラを一気に引き離した。

 レクトは血を吐きながら、満面の笑みを浮かべている。


「……綺麗、だっ、たぞ……」

「いやぁああああ! レクトォオオ! いやぁあああ!」


 レクトもまた、(すさ)まじい勢いで植物化していった。

 憎悪に近い感情が、紅羽の胸の奥から湧き上がる。


 荒れ狂いそうな心を(しず)め、紅羽は冷静に(つと)めた。

レクトのほうへ駆け寄ろうとするシーラを、このまま()き止め続けているわけにもいかない。こうしている最中にも、被害はどんどん増大しているからだ。

 紅羽は心を殺して、シーラの腹部に強めの打撃を与える。


 気絶に加え、体が吹き飛ぶほどの衝撃だが、さほど痛みは感じないはずであった。申し訳ない気持ちもあったが、今は贅沢を言っていられる状況でもない。

 紅羽は即座に、ヨトヴァリンを振り返った。


「瞬間移動――(いな)、時間停止。稀有(けう)だ」


 紅羽を見据えられる位置に、ヨトヴァリンは移っていた。

 再び、空間が(いびつ)()じれていく。

 紅羽は紅い大太刀を構え、即座にヨトヴァリンを――

 紅羽は不意に、最悪な状況に(おちい)っている気配を(とら)えた。


「うわぁああああん!」

「いやぁあああっ!」

(子供達……と、ミィア……)


 きっとどこかの物陰に、身を隠していたのだ。

 だが子供達の内の何人かが、途端に植物化したのだろう。


 多くの子供達は、うまく回避できた様子であった。しかしその中で一人――ミィアがつまずいて転び、成長する植物の餌食となりかけている。

 ほんの一瞬だけ、紅羽の思考は停止する。


 シーラを救った代償で、魔女の悪戯はもう使えない。

 とはいえ、駆けつけて救うのも難しい距離がある。

 状況を考慮すれば、ミィアは見捨てるほかない。


 今現在、またたく間に多くの命が失われている。

 ミィアもまた、そうなる内の一人でしかない。

 結論は出ていた。けれど、紅羽は我知らず駆けていた。


『何も問題ありません。もし恐怖の対象が迫れば、私が必ず始末してみせます』


 約束をした。確かに、それも理由の一つではある。

 抱き締めたときの温もりが、ふと記憶によみがえった。

 きっと理由を追求すれば、そんな単純なものに過ぎない。

 紅羽は純白の弓から、翡翠色をした短剣に転化させる。


「ミィア!」


 紅羽は飛び込むかたちで、ミィアを左手で押し飛ばした。

 まだ終わっていない。態勢を整える暇すらもなかった。

 幼い少女と自分に迫る謎の植物を、紅羽は地へ落ちる前に短剣で切り裂く。


 瞬間――これから訪れる未来を、紅羽は静かに(さと)った。

 もう、回避できない。(ふせ)ぐのもまた不可能だった。


(なんじ)は、罪深き闖入者(ちんにゅうしゃ)を苦しめる(にえ)となる」


 ヨトヴァリンの重苦しい声と同時に、紅羽の腹部に強烈な痛みが走り抜ける。予兆は見ていたため、想像に難くない。閃光のごとき衝撃波が迫ってきていたのだ。


 すべてに対応など、いかに紅羽とてできるはずもない。

 さすがに、状況が二転三転としてしまっていた。

 心がなければ、そうはならなかったのだろうか――

 ふと、そのような思考が脳裏(のうり)に浮かぶ。


 ぼとっと嫌な音を立て、紅羽は地に()した。

 血の気が引き、一気に寒気を覚える。体内にある内臓が、こぼれ落ちていくのがわかった。徐々に力を失いながらも、紅羽はミィアへと目を向ける。

 幼い彼女は尻餅をつき、小さな体を震わせている。


 それも、仕方のない話だった。

 紅羽の胴体が横に両断され、まもなく死ぬ――

 たとえ幼くとも、それくらいはわかるに違いない。


 薄れゆく意識のなか――謎の情景が思い浮かぶ。

 そこはどこかの平原か、知らない若い男がいる。


(違う……知っている? これは……あの男……?)


 ある種、生みの親とも呼べる男の面影があった。

 ミィアのように彼はひどく(おび)え、小刻みに震えている。


『さあ、早く安全な場所へ』

(……これは、私の声……?)


 似てはいたが、どこか違う気もする。

 震えている男は涙しながら、ひどく(けわ)しい表情で叫んだ。


『なぜ、俺なんかを助けた! 答えろ、白銀の戦姫!』


 紅羽は理解した。どうやら、自分の記憶ではない。

 自分が造られる(もと)となった――母親の記憶なのだ。

 そう把握するなり、男の姿がミィアへと戻っていく。

 紅羽は微笑み、力の限り声を絞り出した。


「さあ、早く安全な場所へ」


 紅羽の視界は、すっと暗転する。

 何もない暗闇の中に、古い過去の記憶が映った。


『君らには、感情などいらない。君らに与えられた使命は、完璧な白銀の戦姫の復活――愚かな男を助け、愚かに死んだ女を超えろ。出来損ないは無論、破棄だ』


 いったい、どんな思いで言葉を(つむ)いでいたのか――

 もしかしたら、自分を(かえり)みず救ってくれた女の死を、彼は受け入れられなかったのかもしれない。だからこそ、(かたく)なに紅羽達が感情を持つことを拒んだのだ。

 感情を持てば、()()()()と知っていたから――


 その真偽は知れないが、明確に予想がつくものもある。

 初代白銀の戦姫もまた、きっと体が自然と動いたのだ。

 もちろん、たんなる妄想の可能性は捨てきれない。

 あの男は人間だった。百年半も生きているはずがない。


 充分、理解していた。だが同時に、満足もしている。

 心が穏やかに澄み、すべてを受け入れる準備ができた。

 命が尽きる寸前、ぼんやりと浮かんだのは――


(咲弥……願わくは、私の魂はあなたの(そば)へ……)


 その想いを最後に、紅羽に静寂なる死が訪れる。

 何もない。無の世界へ――

 紅羽の魂は、ただ静かに落ちていった。




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