第二十五話 終の想い
紅羽は舞台裏を歩き、自分の持ち場へと向かっていた。
まもなく、天樹祭はフィナーレを迎える。
ひょんなことから始めた人助けの終わりもまた、もう目と鼻の先にまで迫っているのだ。そんな理由もあってか、胸の奥で感慨深い思いがわずかに漂っている。
未知なる経験は、新たな一面を覗かせてくれた。
おそらく人として、また少し成長できたに違いない。
惜しむらくは、やはり彼と過ごせなかったことにある。
本音を言えば、自分の変化を傍で見ていてほしかった。
(でも、だからこそ……)
当然、残念感のすべてを、払拭できたわけではない。
ただ紅羽なりに、気持ちの入れ替えを済ませている。
もっと別の形で、彼をより驚かせられるのだ、と――
そう結論を導き出せば、ある種の楽しみを見いだせた。
(とにかく、天樹祭はこれで最後。今は……)
天樹祭の大詰めを、成功させなければならない。
紅羽はまっすぐ前を見据え、ふと視界の端で捉えた光景に意識を奪われる――シーラが胸に両手を添え、石像のごとく壁に向かって立っていたのだ。
紅羽は彼女の傍へ、ゆっくりと歩み寄っていく。
「どうかされましたか?」
「あっ……紅羽ちゃん……」
シーラは口を閉ざした。紅羽は小首を傾げる。
しばらくして、シーラは普段よりも低い声を紡いだ。
「もうすぐ、天樹祭が終わります」
「はい」
「幼い頃からずっと、夢に見ていた母と同じ天樹祭……もう終わるんだって思うと、少し胸がせつなくて――あっでも、なんだか達成感もあって……」
声の端々から、緊張している気配が如実に表れている。
シーラは、ややぎこちない笑みを見せた。
「すみません。ですが、やり遂げてみせます」
「はい。私も気を抜かず、ご助力いたします」
「もし紅羽ちゃん達と出会えていなければ、私はたぶん……ここまで来られてなかったかもしれません。だから本当に、紅羽ちゃん達には心から感謝しています」
「いいえ。何も問題ありません」
シーラは苦笑してから、神妙な面持ちへと変わった。
まだ胸の奥に、なんらかのしこりを残しているらしい。
紅羽は黙したまま見据え、シーラの言葉を待つ。
「……少し、心に溜めたものを吐いてもいいですかね?」
「……? どうぞ」
「すぅ……レクトのばか! 本当は天樹祭、あんたにも見に来てほしかったのに! いつもいつも、肝心なときに限って来ないなんて、くそばか野郎ぉっ!」
シーラの声量に驚き、紅羽はわずかに身を仰け反らせる。
だがシーラの叫びは、少なからず紅羽も共感できた。
切り替えたはずの感情が、再びちらりと顔を覗かせる。
『もう自分の中で溜め続けるな』
メイアに言われた言葉が、不意に脳裏をよぎった。
紅羽はそっと、シーラに微笑む。
「では、私も……すぅ」
紅羽は息を大きく吸い込み、胸に募った想いを吐き出す。
「咲弥様のばか! 私の踊りや成長を、あなたにしっかりと見てほしかった!」
叫べば心にある陰りが、不思議と一気に薄れていく。
それはこれまでの人生、味わった経験のないものだった。
また新たな一面を知り、心の内側で静かに驚き戸惑う。
しかしすっきりとした胸に、紅羽はそっと手を添える。
ふと、気づく。シーラが目を丸くしていた。
「ふっ……ふふ……あはははっ……」
突然、シーラが笑った。
「紅羽ちゃんってほんと、可愛い方ですね。私……ちょっと、誤解していました。私から見た紅羽ちゃんって、もっとこう……お堅い人だと思っていましたから」
紅羽は首を捻った。
「……そうですか?」
「でも、紅羽さんも私と同じだって、よくわかりました」
シーラは満面の笑みで、右手を差し出してきた。
「天樹祭が終わったら、お互い本人に文句を言いましょ」
「……はい。そうですね」
紅羽は自然と微笑み、シーラに応えた。
シーラは深呼吸を始める。それから、後ろを振り返った。
「それでは、天樹祭のフィナーレ……成功させましょう」
「了解しま――はっ!」
紅羽は言い切る前に、ひどく気味の悪い気配を察知した。
ほぼ同時に、会場のほうで妙なざわつきが起こる。
「……何かあったんでしょうか? 行ってみましょう」
「あっ……待ってください!」
制止の声も聞かず、シーラが舞台側へと駆けていく。
紅羽も即座に、シーラの後を追いかけた。
表舞台には、当然まだ誰もいない。
出演者は全員、舞台裏で待機しているからだ。
(あれは、いったい何……?)
誰もいないはずの表舞台に悠然と立つ、一体の獣――
まるで鹿を彷彿とさせる頭を二つ持ち、その筋肉質な体は迅馬以上に屈強そうだった。見た目から魔物と判断したが、何か独特な神秘性を醸している。
ただ容姿よりも、もっと別の部分に紅羽の目は奪われた。獣が纏っているエーテルが、あまりにも流麗であり、さらに底が計り知れない力強さもある。
放たれる強烈な威圧感は、空白の領域で邂逅した魔物をも超えていた。
(いいえ。もっとそれ以上……これはネイの故郷で遭遇した悪魔すらも……)
「なに……あれ……?」
シーラの呟きを聞き、紅羽ははっと我に返る。
底知れない存在感に、つい茫然となっていた。会場にいる観客達の誰もが、紅羽やシーラと同等の感情を抱いているに違いない。
表舞台を支配する獣へ、一人の老人が歩み寄っていく。
「皆の者、静まれぇい!」
ユグドラシール教の教皇、ゼクセンが声を張った。
彼は獣の前で、帝国式の深い敬礼をする。
それから手を祈りの形へと変え、獣を大きく見上げた。
「おお、おぉお……まさかユグドラシール様にお仕えする、神鹿ヨトヴァリン様にご降臨していただけますとは――このゼクセン、感慨無量でございます」
紅羽は漠然と理解に達した。
視界に映る獣こそ、女神の守護神獣なのだろう。
存在自体は把握できた。また同時に、疑問も生まれる。
(なんのため……?)
女神ユグドラシールについて、ある程度の情報ならば耳に届いている。だが天樹祭の催しで守護神獣が降臨するなど、聞いた覚えはいっさいなかった。
周囲の状況からも、これが異常事態なのは間違いない。
紅羽の脳裏に、無数の思考が一気に駆け抜けていく。
媚びるような声音で、ゼクセンは言葉を紡いだ。
「やはり、見てくださっていたのですね……長い間、ずっと暗闇の中を、歩き続けてきた心持ちでした。ですが……女神ユグドラシール様は――」
紅羽は息を呑んだ。自然と、目を大きく見開いていく。
電撃にも似た痺れが、紅羽の体内を駆け抜けた。
神鹿ヨトヴァリンの視線が、紅羽のほうを向いたからだ。
「罪深き闖入者の遺薫――そこか」
ゼクセンの発言を遮り、ヨトヴァリンが重い声を吐いた。
紅羽は失敗に気づく。異質な空気に呑まれていた。
何もわからない。けれど、純白の紋様を描いていく。
この神獣は危険――紅羽は本能からそう察したのだ。
(間に、合わない……!)
それはまさに、ほんの一瞬の出来事であった。
エーテルを扱えない者には、決して理解などできない。
ヨトヴァリンの周囲にある空間が、瞬間的な速度で歪むや否や――まるで巨大な斬撃を彷彿とさせる衝撃波が生まれ、四方八方へと放たれていく。
神獣のすぐ傍にいたゼクセンが、まず縦に両断された。
鋭い衝撃波はそのまま、一部の観客達を巻き込んでいく。
紅羽はシーラの腕を掴み、安全と思われる領域に引っ張り込みながら唱える。
「ヴァルキリー降臨!」
「うっ、うわぁあああああ――っ!」
「きゃあああああ――っ!」
紅羽の詠唱と同時に、そこかしこから悲鳴があがった。
出演者及び観客達が、恐怖した顔で一斉に逃げ始める。
ヨトヴァリンに追う気配は感じられない。
殺気立った神獣は、どこか別の方角に目を向けていた。
「仄かな遺薫が、あと三つ――」
その三つが、いったい何を指しているのかわからない。
紅羽は察知能力を高め、探りを入れ――はっと息を呑む。
神獣が見ていた方角には、どうやら紅羽の仲間がいる。
とある予感が、漠然と思い浮かぶ。
関連する人物など、一人しかいないからだ。
「シーラ、すぐ逃げてください」
「こ、腰が……ぬ、抜け……きょ、教皇様が……」
唐突な惨劇に、心がやられたようだ。
悩む暇などない。紅羽は決断を下した。
「では、安全な場所に隠れておいてください」
紅羽は極限までエーテルを滾らせ、素早くヨトヴァリンの前に移った。真っ先に視線を投げてきた事実を考慮すれば、囮としての役目は充分果たせるに違いない。
紅羽は紅い大太刀を構え、時間稼ぎがてらに問いかけた。
「あなたの目的は、なんでしょうか?」
「汝が甚だ濃厚なり。壊滅人よ」
紅羽は内心、若干の戸惑いを覚える。
十中八九、前半の部分は咲弥との関係性を示していた。
しかし壊滅人に関しては、意味をうまく汲み取れない。
警戒を緩めず思案しているさなか、背後から二つの気配が勢いよく迫ってくるのを察知した。両脇に立ち並んだネイとメイアの様子を、視界の端でうかがう。
どこかで得たらしき刃物を、彼女達は握っていた。
(脆い武器では、さすがに太刀打ちできない。ならば……)
帝国を訪れた日から、天樹祭の復活や踊りの練習にばかり集中していたわけではない。メイア達と日課的に、エーテル向上の訓練は当然してきている。
だが眼前に立つ神獣は、紅羽達を遥かに凌駕していた。
メイア達には支援に回ってもらうか、それとも――紅羽は思考を巡らせつつ、周囲の状況をより深く探る。まず付近で横たわる教皇は、もう救いようがない。
恐ろしいくらい綺麗に、縦に両断されている。
巻き込まれた観客達も、教皇と同様に絶息していた。
(出入口は詰まっている。混乱が原因――)
「慌てるな! こっちにも避難口はある! 行けぇ」
聞き馴染みのある男の声が、紅羽の耳へと届いた。
ゼイドは迅速に、避難誘導のほうに転向している。
紅羽は現状、もっとも適切だと思える結論を導き出した。
「お二人は、観客の避難を優先してください。こいつは――私一人で始末します」
「いやいや、さすがにきついっしょ……」
「空白の領域にいる魔物ですら、怯えそうな気配だぞ」
やや緊張の宿った声音で、ネイとメイアが諭してきた。
確かに、一人では危うい予感がある。とはいえ、不出来な得物を所持した状態で、戦力になるのか問われると、それもひどく危険な答えしか見つからない。
紅羽は迷うことなく口を開いた。
「一体とは、限りません。避難誘導を優先しつつ、まともな武器を得てください」
気持ち、紅羽は声を低めにして伝えた。
急かす意味合いもあるが、反論させないためでもある。
ネイが呆れ気味のため息をついた。
「わかった。死ぬんじゃないわよ」
「確かに……一体とは限らない、か……了解した」
ネイとメイアはそう言い、会場の入口側へと向かった。
紅羽は紅い大太刀を、さらに力強く握り締める。
やはり、ヨトヴァリンに追う様子は見られない。
ほかにも存在する可能性は濃厚だと判断する。
紅羽は瞬時に前を進み、ヨトヴァリンの右側を制した。
「咲弥様の敵は、私の敵――始末します」
ヨトヴァリンの首を目掛け、紅羽は紅い大太刀を振るう。
ヨトヴァリンは動かない。代わりに、空間が歪んだ。
紅羽の斬撃は、謎の空間により阻まれる。
その感触はどこか、硬い盾にも等しい。
紅羽は打ち込んだ衝撃を利用して、空高く舞い上がる。
瞬間的な早さで、ヴァルキリーを純白の弓に転化した。
(ならば……手数で攻めるのみ)
一本の光の矢を生み、弓弦を限界まで引き絞った。
エーテルを込めた矢を、紅羽は力強く放つ。
一筋の光が途中で弾け飛び、流星のごとくヨトヴァリンを多方向から攻めていく。だが、空間が途端に捻じれ、すべて防がれてしまっていた。
原理はいまだ、よくわからない――
(いいえ……これは、マナを操っている……?)
真偽は知れないものの、紅羽はそう推測した。
いずれにしろ、攻撃を無効化されると勝ち目がない。
紅羽の思考中に、ヨトヴァリンがぼやいた。
「人類よ。天樹の煌めきを受容せよ」
紅羽は背筋が凍りついた。全身に嫌な痺れも覚える。
ヨトヴァリンではない。もっと別の奇妙な気配だった。
謎の光が何度も壁をすり抜け、ふわりと通り過ぎていく。
瞬間――
「ぐぁっ……がぁあああああああ――!」
紅羽は瞬時に、悲鳴のほうへ視線を滑らせる。
人で溢れ、詰まっている会場の出入口――男の手や足が、植物と思しき状態へと変化していた。しかも一人ではなく、ほかにも類似した状況にある者がいる。
(なに……?)
紅羽は着地すると同時に、ヨトヴァリンに視線を戻した。
ヨトヴァリンは表情一つ変えず、重い声音で言った。
「開戦だ。壊滅人」
紅羽は目を剥いた。ヨトヴァリンが始動する。
途端に空間が捻じれ、紅羽に衝撃波を放ってきた。
紅い大太刀で受けるが、衝撃波の力は凄まじい。
(斬れない。かき消せない。ならば――)
紅羽は衝撃波を滑らせ、やや上空へと弾いた。
その最中も、植物化した者への警戒も欠かせない。
紅羽はやまぬ悲鳴を一瞥した。
手足から始まっていた植物化は、やがて全身を飲み込み、爆発的な勢いで成長をしていた。さらにそれは、周囲にいる者達にまで被害をもたらしている。
紅羽はくっと息を詰めた。
(被害を受けた者もまた、植物化が始まっている……?)
植物化の発生源となる対象は不明瞭だが、周りの者にまで伝染していくのであれば、もう最悪としか言いようがない。そうでなくとも、人が密集しているのだ。
紅羽は己を責め立てる。判断を誤ったのは間違いない。
神獣一体であれば、まだかろうじて対処できた。
これほどの事態は、さすがに想定外でしかない。
ヨトヴァリンの放つ衝撃波が、再び紅羽に襲いかかった。
紅羽は再び大太刀を構え――
「きゃぁああああああ!」
切迫した状況下、シーラと思われる悲鳴が響いた。
紅羽の目もとが、極わずかに歪む。
このままヨトヴァリンの始末を急ぐか、それともシーラを助けにいくか――どちらを選択したとしても、確実に多くは救えない。
紅羽は悩み、迷い、そしてシーラ側に視線を走らせた。
紅羽の現在地からであれば、舞台裏がよく見える。
植物化した人に、シーラは巻き込まれる寸前であった。
距離的に、もう間に合わない。
それでも、純白の紋様を描いていく――
「シーラァアアアアアアッ!」
舞台裏にある垂れ幕から、飛び出してきた男――
レクトが、シーラを大きく突き飛ばした。
シーラは絶望的な面持ちで、手を前へと伸ばしていく。
「レ、レクトォオオオッ!」
「ぐあっ……!」
シーラの代わりに、レクトが植物に刺されてしまった。
レクトの悲痛なうめき声と同時に、紅羽は詠唱する。
「魔女の悪戯」
時間停止に等しい空間の中を、紅羽は飛ぶ勢いでシーラへ駆け寄り、彼女の腰に腕を回した。救える可能性を考慮し、レクトを一瞥――確実に、救えない。
心臓の位置を貫かれ、植物化の始まりがうかがえる。
紅羽は固有能力を解除して、シーラを一気に引き離した。
レクトは血を吐きながら、満面の笑みを浮かべている。
「……綺麗、だっ、たぞ……」
「いやぁああああ! レクトォオオ! いやぁあああ!」
レクトもまた、凄まじい勢いで植物化していった。
憎悪に近い感情が、紅羽の胸の奥から湧き上がる。
荒れ狂いそうな心を鎮め、紅羽は冷静に努めた。
レクトのほうへ駆け寄ろうとするシーラを、このまま堰き止め続けているわけにもいかない。こうしている最中にも、被害はどんどん増大しているからだ。
紅羽は心を殺して、シーラの腹部に強めの打撃を与える。
気絶に加え、体が吹き飛ぶほどの衝撃だが、さほど痛みは感じないはずであった。申し訳ない気持ちもあったが、今は贅沢を言っていられる状況でもない。
紅羽は即座に、ヨトヴァリンを振り返った。
「瞬間移動――否、時間停止。稀有だ」
紅羽を見据えられる位置に、ヨトヴァリンは移っていた。
再び、空間が歪に捻じれていく。
紅羽は紅い大太刀を構え、即座にヨトヴァリンを――
紅羽は不意に、最悪な状況に陥っている気配を捉えた。
「うわぁああああん!」
「いやぁあああっ!」
(子供達……と、ミィア……)
きっとどこかの物陰に、身を隠していたのだ。
だが子供達の内の何人かが、途端に植物化したのだろう。
多くの子供達は、うまく回避できた様子であった。しかしその中で一人――ミィアがつまずいて転び、成長する植物の餌食となりかけている。
ほんの一瞬だけ、紅羽の思考は停止する。
シーラを救った代償で、魔女の悪戯はもう使えない。
とはいえ、駆けつけて救うのも難しい距離がある。
状況を考慮すれば、ミィアは見捨てるほかない。
今現在、またたく間に多くの命が失われている。
ミィアもまた、そうなる内の一人でしかない。
結論は出ていた。けれど、紅羽は我知らず駆けていた。
『何も問題ありません。もし恐怖の対象が迫れば、私が必ず始末してみせます』
約束をした。確かに、それも理由の一つではある。
抱き締めたときの温もりが、ふと記憶によみがえった。
きっと理由を追求すれば、そんな単純なものに過ぎない。
紅羽は純白の弓から、翡翠色をした短剣に転化させる。
「ミィア!」
紅羽は飛び込むかたちで、ミィアを左手で押し飛ばした。
まだ終わっていない。態勢を整える暇すらもなかった。
幼い少女と自分に迫る謎の植物を、紅羽は地へ落ちる前に短剣で切り裂く。
瞬間――これから訪れる未来を、紅羽は静かに悟った。
もう、回避できない。防ぐのもまた不可能だった。
「汝は、罪深き闖入者を苦しめる贄となる」
ヨトヴァリンの重苦しい声と同時に、紅羽の腹部に強烈な痛みが走り抜ける。予兆は見ていたため、想像に難くない。閃光のごとき衝撃波が迫ってきていたのだ。
すべてに対応など、いかに紅羽とてできるはずもない。
さすがに、状況が二転三転としてしまっていた。
心がなければ、そうはならなかったのだろうか――
ふと、そのような思考が脳裏に浮かぶ。
ぼとっと嫌な音を立て、紅羽は地に伏した。
血の気が引き、一気に寒気を覚える。体内にある内臓が、こぼれ落ちていくのがわかった。徐々に力を失いながらも、紅羽はミィアへと目を向ける。
幼い彼女は尻餅をつき、小さな体を震わせている。
それも、仕方のない話だった。
紅羽の胴体が横に両断され、まもなく死ぬ――
たとえ幼くとも、それくらいはわかるに違いない。
薄れゆく意識のなか――謎の情景が思い浮かぶ。
そこはどこかの平原か、知らない若い男がいる。
(違う……知っている? これは……あの男……?)
ある種、生みの親とも呼べる男の面影があった。
ミィアのように彼はひどく怯え、小刻みに震えている。
『さあ、早く安全な場所へ』
(……これは、私の声……?)
似てはいたが、どこか違う気もする。
震えている男は涙しながら、ひどく険しい表情で叫んだ。
『なぜ、俺なんかを助けた! 答えろ、白銀の戦姫!』
紅羽は理解した。どうやら、自分の記憶ではない。
自分が造られる基となった――母親の記憶なのだ。
そう把握するなり、男の姿がミィアへと戻っていく。
紅羽は微笑み、力の限り声を絞り出した。
「さあ、早く安全な場所へ」
紅羽の視界は、すっと暗転する。
何もない暗闇の中に、古い過去の記憶が映った。
『君らには、感情などいらない。君らに与えられた使命は、完璧な白銀の戦姫の復活――愚かな男を助け、愚かに死んだ女を超えろ。出来損ないは無論、破棄だ』
いったい、どんな思いで言葉を紡いでいたのか――
もしかしたら、自分を顧みず救ってくれた女の死を、彼は受け入れられなかったのかもしれない。だからこそ、頑なに紅羽達が感情を持つことを拒んだのだ。
感情を持てば、こうなると知っていたから――
その真偽は知れないが、明確に予想がつくものもある。
初代白銀の戦姫もまた、きっと体が自然と動いたのだ。
もちろん、たんなる妄想の可能性は捨てきれない。
あの男は人間だった。百年半も生きているはずがない。
充分、理解していた。だが同時に、満足もしている。
心が穏やかに澄み、すべてを受け入れる準備ができた。
命が尽きる寸前、ぼんやりと浮かんだのは――
(咲弥……願わくは、私の魂はあなたの傍へ……)
その想いを最後に、紅羽に静寂なる死が訪れる。
何もない。無の世界へ――
紅羽の魂は、ただ静かに落ちていった。