第二十四話 天樹災
咲弥は巨大なツタの上を駆け下りながら、周辺を忙しなく見回していた。
不安が際限なく膨らみ、胸の大半を占めている。
あまりにも唐突過ぎる出来事だった。
宿り木がひとりでに動き始め、さらに妙な力を発するなど想像のしようがない。ただでさえ――ベルガモットとスイの件で、心が悲しみでくすんでいたのだ。
咲弥側の事情がどうであれ、悲嘆にくれてもいられない。
自分の身を守るので、とにかく精一杯だった。
その事実が、自身をより強く責め立ててもいる。
(くっ……すみません。ラクサーヌさん……)
いくら胸を痛めようとも、立ち止まることは許されない。
超巨大樹の急激な成長に巻き込まれたラクサーヌを、今は急いで探しださなければならないのだ。しかし最悪なのは、オドをほとんど察知できないことにある。
魂の消滅にともない、オドもほぼ消えているからだ。
上空から降り注ぐ明かりのお陰で、完全な真っ暗闇からは逃れられていたが、目では確認できない部分も多い。
正直、真っ昼間でも、捜索は困難を極めると思われた。
(たとえ見えづらくたって、諦めちゃだめだ……!)
ラクサーヌは魂を犠牲にしてまで、咲弥を救ってくれた。
だから受けた恩には、どうしても報いたい。そんな心境を抱きながら、咲弥は必死に目を凝らし、仮に期待は薄くとも気配での察知にも力を入れた。
この超巨大樹の幹には、いくつかの極大なツタが螺旋状のごとく這っている。それらはうまく絡み合い、上にも下にも行ける道となっている様子であった。
ただ進める道に、何一つ障害がないわけではない。
いたるところで岩石みたいな樹皮が飛び出ており、咲弥の行く手を阻んでいる。黒爪で裂けそうな樹皮は問題ないが、無理なら別のツタに移る必要があった。
萎縮しかねない高さだが、今は恐怖を噛み殺すしかない。
何度目かの障害を、からくも乗り越えた先――
気配で探るのは、どう足掻いても不可能だったと悟る。
咲弥は茫然と立ち尽くし、ある一点だけを凝視した。
(ラク、サーヌ……さん……)
咲弥は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。
魂が消え、確かにいずれ肉体も死に至った可能性は高い。
たとえ、そうであったとしても――
「ぐっ、ぐぐっ……すみません……ラクサーヌさん……」
ラクサーヌのちぎれた上半身が、手の届かない位置にある樹皮に突き刺さっている。そんな想像はしたくない――だが薄々、そうかも知れないとは思っていた。
咲弥自身、防衛をしなければならなかったほどなのだ。
身動き一つ取れないラクサーヌが、無事のはずがない。
咲弥の目もとから、涙がぼたぼたとこぼれ落ちていく。
悔しさ、悲しさ、己の不甲斐なさ、腹立たしさ――
あらゆる感情が混ざり、咲弥の胸をひどくかき乱した。
ラクサーヌの魂は、神域で壊されて消えている。
だからせめて、彼の肉体は穏やかな死を迎えてほしい。
その程度の小さな願いすら、結局は叶わなかった。
咲弥は天を仰ぎ、限界いっぱいの深呼吸を繰り返す。
壊れそうな心を、強制的に鎮めていった。
「ラクサーヌさん……あとで必ず、迎えにきますから」
咲弥は雑に涙を拭い捨て、全力で走っていく。
ラクサーヌの遺体は、咲弥よりも下の位置にあった。
そこから考えれば、ジェラルド達は上にいるのだろう。
咲弥は来た道を戻り、最初にいた地点をも越えていく。
しかし次第に、胸の内側に陰りが生まれた。
進めば進むほど痛感する。あまりにも果てしなかった。
どれだけ走ろうとも、終着点がまったく見えない。
もはや超巨大樹の頂上は大気圏をも突き抜け、宇宙にまで達しているのではないか――そんなばかな妄想を抱くほど、咲弥の精神はやられつつある。
(くじけるな……!)
心が折れている暇などない。咲弥は自分を窘めた。
一刻も早く、ジェラルド達の安否確認を急ぎたい。
よく考えずとも、危機は確実に迫っている。
超巨大樹が生えて終わり――それで済むわけがないのだ。
守護神獣、あるいは女神の仕業なのだろう。
(もうこれ以上、誰も失わない……絶対!)
決意を固め、より素早くツタを駆け上がっていく。
幾多の障害を乗り越え、そして――
超巨大樹の中腹くらいか、妙にひらけた場所がある。
どこか広場を連想させる場所に、ジェラルド達はいた。
「ジェラルドさん! シャーロット様!」
咲弥は声を張りながら、ジェラルド達に駆け寄る。
ジェラルドが険しい顔を向け、咲弥へと手を伸ばした。
「咲弥殿! こちらに来てはなりません!」
「――え?」
瞬間――
バチッと音が鳴り響き、咲弥は見えない壁に弾かれた。
強烈な痺れを覚え、咲弥は木の地面を転がっていく。
衝撃が凄まじく、危うく落下する寸前であった。
「ぐっ……ぐぐっ……」
「ご無事ですか! 咲弥殿!」
ジェラルドが取り乱した口調で問いかけてきた。
注意不足だったのは否めない。とはいえ、まさか見えない障壁が張られているとは、さすがに予想外の展開であった。
咲弥は痛みに耐えつつ、ゆっくりと体を起こしていく。
痺れが消えない。手や足が、ずっと震えていた。
ぎゅっぎゅっと両手足に力を込め、感覚を取り戻させる。
咲弥はうめきまじりに、まずジェラルドへ応えておいた。
「うっ……ちょ、ちょっと……やばかったですね」
ジェラルドが安堵のしぐさを見せた。
傍にいるシャーロットは、少し茫然と見据えてきている。
「お気をつけください。この障壁――少々、乱雑なのです」
「えっ? それは……?」
「檻に近い障壁が、そこかしこに張り巡らされています」
ジェラルド達は、動くに動けない状況だったに違いない。
咲弥は素早く汲み取り、解放した白手を掲げた。
「なるほど。ですが、それがわかれば問題はありません」
咲弥はそう言い、白爪にオドを込めて振るった。
「白爪空裂き!」
ふわりとした衝撃が、見えない障害を打ち砕いていく。
ジェラルドの言葉通り、確かに檻じみてはいた。
厳密に言えば、抜け出せない鳥籠に等しい。
ただ白爪で壊せば、再び障壁が張られる様子はなかった。
咲弥は警戒を解かず、ジェラルド達のほうに歩み寄る。
ジェラルドの前に立ち、ほんの少しばかり気が抜けた。
「はぁ……よかった。もう、心配はありません」
「さすがです。私では、手の施しようがありませんでした」
「いえ……どちらも、お怪我はありませんか?」
咲弥は言ってから、自分の発言の間抜けさに気づいた。
少なくともジェラルドは、すでに大怪我を負っている。
スイとの戦いの際、彼が身を挺して護ってくれたのだ。
ジェラルドは鷹揚に頷いてから、ちょこんと肩を竦めた。
「はい。あれ以来は……ですが」
ジェラルドの言葉に苦笑しつつ、咲弥は胸を撫で下ろす。
ジェラルド達が無事であれば、今はそれで構わない。
咲弥は気持ちを切り替え、改めて周囲に視線を流した。
「そういえば、ここは……?」
一見、がらんどうで間違いはなさそうだった。
ただ普通の樹木とは異なり、あまりに整い過ぎている。
咲弥はざっと観察してから、すぐにジェラルドを向いた。
「いいえ――それよりも、すぐここから離れたほうがいいと思います」
「そうですな。私のことはさておき、今はシャーロット様を一刻も早く、安全な場所まで送り届けておきたいです。何が起こるか、わかりませんからな」
きっとジェラルドも、超巨大樹の存在を危惧している。
ジェラルドは腕を組み、短いため息をついた。
「あと急ぎたい理由は、ほかにもあります」
「どうかされたんですか?」
「通信機が壊れたというわけでは、ないはずなのですが……なぜかさきほどからずっと、軍への緊急連絡が届けられない状態となっていまして」
咲弥は息を呑み、漠然と神域での出来事が脳裏に浮かぶ。
その真偽はともかく、最悪な状況だと理解する。
「そっ……それは、かなりまずいんじゃ……いきなりこんな超巨大樹が生えたら、近隣に待機している軍の人達だって、異変ありと見做してしまいます、よね?」
「……ええ。おそらく、まずは偵察隊を送り込むはずです。ですから、そうなる前に、急いで軍隊長に近づかぬようにと警告をしなければなりません。ただ……」
咲弥は首を捻った。ジェラルドは困り顔で述べる。
「このような高い場所から、シャーロット様を連れ、無事に降りられるのか……」
「まだ深く調べたわけではありませんが……この超巨大樹に巻きついてるツタを伝っていけば、地上まで降りられるかもしれません。僕は途中からだったので正確には不明ですが、少なくともそうやってここまでのぼって来られましたから」
ジェラルドは唸りながら、小刻みに頷いた。
「了解しました。とにかく、下へ移動をしましょう」
「はい。途中までは障害を壊して――」
再び気味の悪い鼓動の音が、咲弥の言葉を遮った。
木の地面全体が、途端に淡い青色の光を放つ。
咲弥はひどく焦り、慌ただしく周囲に視線を巡らせる。
発光していた地面が、徐々に形をなしていく。
(これは……魔法陣?)
「シャーロット様! お傍へ!」
「は、はい……!」
ジェラルドの背後に、不安顔のシャーロットが寄った。
安全地などわからないが、咲弥達は少しずつ後退する。
その最中、地面から青い光の粒がふわりと舞い上がった。
「……っ!」
咲弥は自然と仰ぐ。そこに、妙な気配があったからだ。
まるで天井を浸食するかのごとく、無数のツルが中央へと這って進んでいく。同時に、色とりどりの花々を咲かせ――多くのツルが、一気に地を突き刺す。
その激しい衝撃に、ぐらぐらと足場が揺れた。
がらんどうはツルの柵に――いや、そうではない。
咲弥はようやく、整い過ぎていた謎を解明できた。
「これは、祭壇……」
咲弥は嫌な予感を抱き、我知らず呟いた。
ジェラルドへは向かないまま、咲弥は声を張る。
「ジェラルドさん! シャーロット様を連れ、ここから早く逃げて――」
咲弥の言葉が終わる前に、強烈な鼓動の音が鳴った。
中央に巨大な紅い花が咲き、空間に亀裂が生じる。
そこから抜け出るようにして――それはぬるりと咲弥達の前に現れた。
(まさか、これが……?)
咲弥がまず連想したのは、神々しい人型の彫像だった。
色鮮やかなツルや葉が真っ白な肌を覆い、どこか踊り子を彷彿とさせる衣裳を形作っている。かき上げられた草っぽい髪には、美しい花々が飾られていた。
確かに、一見して女性らしい容姿をしている。
咲弥は見つめながら、心の底から恐怖した。
それが纏う濃度の高いエーテルに、全身が震えている。
咲弥は疑う余地なく、女神が降臨したのだと断定する。
大人の女を感じさせる女神の美貌が、右へ左へと向いた。
瞳のない目で辺りを見回してから、咲弥達を振り返る。
緩やかな立ち居振る舞いで、女神が手で鼻を覆った。
「臭い、臭い……古き獣の臭いが漂っておるわ」
脳内に直接響くような透き通った声音で、女神が不快感を露わにした。
咲弥は瞬時に理解する。神殺しの獣のことに違いない。
心理的な作用からか、咲弥は自然と身構えた。
黒白から聞かされた話が、脳裏によみがえってくる。
『いずれは君を抹殺しにくる』
『神殺しの獣ともども消滅させにくる』
『君は逃れられない戦いに身をおいている』
『決して避けられない戦いが待っている』
真偽は定かではないが、それが今なのかもしれない。
女神が薄く笑い、再び涼やかな声音を紡いだ。
「まだ惨めに這いずっておるのか? 罪深き邪悪なる獣よ。運命の破壊者――否、いずこかから訪れし、理に背く異界の者に憑き、何を成したいのか?」
咲弥は恐怖から総毛立つ。女神は完全に気づいている。
咲弥が、この世界の住人ではない。と――
だが、やはり何かおかしい。咲弥は訝しさが先立つ。
天使の発言通りであれば、こちらの住人に正体を知られた瞬間、即座に命が失われるはずだった。黒白のときにも似た疑問を抱いたが、そんな気配は微塵もない。
黒白の場合は、咲弥の一部だと解釈できる。
だからそうならなくても、なんら不思議ではない。
しかし、女神は違う。明らかに咲弥の一部ではないのだ。
ここから察せるのは、二通りしかない。
人類限定、あるいはまだ確定に至っていないからだ。
いずれにせよ、明確な答えを知る方法などない。
とにかく、女神に喋られ続けるのは危険だと判断した。
「いったい……何を言って……?」
案の定、ジェラルドが困惑の声を漏らした。
ただどちらに対して、悩まされているのかはわからない。咲弥の正体はもちろんのこと、神殺しの獣に関しての説明もいっさいしていないからだ。
咲弥は胸裏に湧く恐怖を噛み殺し、一歩を前へと進む。
「ジェラルドさん。逃げてください。ここは、僕が……」
「んなっ……咲弥殿。しかし……」
「シャーロット様の安全が第一です……だからここは、僕に任せてください」
一刻も早く、ジェラルド達を遠ざけたほうがいい。
女神が咲弥の正体をばらせば、二人も一緒に死ぬ。
それだけは、何があっても阻止しなければならない。
「ふふっ……その必要はなかろう」
女神が手を高く掲げた。
咲弥はびくりと体が震える。
「くるがよい」
女神の言葉とともに、再び空間に亀裂が生じた。
咲弥は目の前にある現実に、ただただ絶望する。
神域にいた守護神獣が、三体――
女神の傍で、神鹿ヨトヴァリンが悠然と立ち並んだ。
蛇龍ウルズヘッグは、超巨大樹の周囲を廻っている。
大鷹アースヴェルグは羽ばたき、空中に留まっていた。
「罪深き闖入者」
「再びまみえたぞ。憎き闖入者」
「許されざる闖入者」
ただでさえ、咲弥達の体力はひどく消耗している。
女神の一体ですら、死活問題だったのだ。
そこへさらに、神獣の三体までもなど冗談ではない。
咲弥は顔を歪め、現実逃避しながら女神側を眺めた。
(こん、なの……どうしろ、って言うんだよ……)
現状、咲弥にできることは、そう多くない。
なかば諦めの境地で、咲弥は静かに深呼吸をする。
素早く覚悟を決め、声を――先に女神が声を発した。
「ゆけ……より深き絶望を、刻もうぞ」
「承知」
「んなっ……待っ――!」
咲弥の制止の声は届かない。
守護神獣三体が了承したのち、素早く場を離れていく。
咲弥はとっさに、神獣達が去った方角を見た。
ほぼ間違いなく、帝都がある場所を目指している。
咲弥は再び、女神を振り返った。
女神があやしげに笑う。
「古の愚かな獣、汝のせいだぞ。我が神域を荒らした罪を、大勢の人間で償ってもらう。悔しかろう? 悲しかろう? 汝は三度、護るべき者を失うのだ」
女神の言葉を聞き、咲弥はふと古い記憶が湧いた。
始めのほうは咲弥に向けての発言ではあったが、途中から神殺しの獣に対して挑発している。遥か大昔、大切な人々を天罰で失った神殺しの獣に――
咲弥はくっと息を詰め、握り締めた手が大きく震えた。
女神を真っ向から睨みつけて言い放つ。
「すぐに……神獣達を引き返させてください。罰なら、僕が一人で受けます」
女神は嘲笑った。
「愚者よのぉ。やはり、周りを消されるのを嫌がるか」
「なっ……」
「であればこそ、より華やかに、より絶望を――」
不意に、女神が言葉を止めた。
咲弥は一呼吸の間を置き、静寂が訪れた理由を察する。
漠然と感じ取った気配へ、咲弥は顔を振り向かせた。
やや遠くに、飛竜の群れがあり――その遥か下のほうに、いくつかの明かりがぼんやりと見える。不測の事態に備え、ジェラルドが配備した帝国軍に違いない。
ジェラルドの想定通り、偵察に来ているのだ。
しかも訓練されているだけあって、行動がかなり早い。
咲弥は恐怖から、ぞっと背筋が凍りついた。
「丁度よい。これから起こる天罰を、見せてやろう」
「んなっ……」
咲弥は肩越しに、女神を振り返った。
妖艶な美貌はひどく冷たい。女神はそっと手を掲げた。
咲弥は飛竜達のいる方角へ進み、腹の底から叫び上げる。
「逃げろぉおおおおおお――っ!」
「全軍! 撤退しろ! 繰り返す! 全軍撤退だ!」
咲弥とほぼ同時に、ジェラルドも叫んでいた。
おそらく使用不能となった通信機器に向かい、何度も声を張っているに違いない。たとえ通じないとわかっていても、何もせずにはいられないのだろう。
「天樹災」
叫び続けている最中、女神の声が後ろから耳へと届く。
瞬間――天を覆っている超巨大樹の輝きが強まった。
距離が遠過ぎるため、よくは見えない。
だが確実に、帝国軍の中で何かが起こっていた。
「人の身では見えぬか? ならば、見せてやろう」
咲弥の警戒心は、完全に消え失せていた。
女神が寄り添うように、咲弥の背後を陣取る。
咲弥の肩を掴み、女神はもう片方の手を見せてきた。
途端に空間の一部分が歪められ、そこに――
「あ、あぁ……あぁあ……」
咲弥は言葉を失い、代わりに悲痛な声が漏れた。
全員ではない。一部の人の体に突然草花が生え、恐ろしい速度で樹木化していた。その成長で周りの人達を巻き込み、どんどんと木々へと変化させていく。
まるで、土砂崩れに巻き込まれている光景にも等しい。
「ふぅむ……久方振りに降りてきたが……今世の者は、実に質がよくないのぉ。手始めに樹に属した者を変えてみたが、これではあまりに程遠い」
咲弥は総毛立つ。一部の人――木属性の者であった。
またたく間に失われていく命に、咲弥は呼吸をも忘れる。
「どうすれば……もとに戻りますか……?」
咲弥は我知らず呟いた。無理だとわかっている。
それでもなお、訊かずにはいられなかった。
そっと咲弥の顎を一撫でしてから、女神が離れていく。
咲弥は女神を振り返った。
「どうすれば……あなたは、やめてくれますか……?」
女神は立てた人差し指を、艶やかに口もとに添えた。
「一つ、教えてやろう。もうまもなく、天樹の輝きは人々の住まう地へ辿り着く」
惨烈を予見する言葉に、咲弥は心から恐れおののいた。
咲弥は、まだ知らない。
喜、怒、憂、恐、愛、憎、欲――
今を生きる人々は当然、あらゆる感情を宿している。
ある者は夢を眺め、またある者は現実を直視する――この世に生を受けたもののすべては、それぞれ多種多様の思いを抱き、さまざまな未来へと向かって進む。
そんな無数にある思い、多くの感情が――
この日、あっという間に消し飛んだ。