第二十三話 我が愛しき人
暗く重い雰囲気のなか、咲弥は沈黙していた。
愛した人が別の誰かと、親密に過ごす――たとえそれが、皇帝陛下としての責務だと呑み込んでいたとしても、きっとすんなり受け入れられるはずもない。
現に結果として、スイの心は壊れてしまっているのだ。
咲弥はスイを憐れむと同時に、ふと過去を思い出す。
ある島で起きた出来事――もっとも咲弥の場合、恋人だとはっきり言える間柄ではない。それでも、あのときに感じた苦痛を考慮すれば、ほんのわずかでも、スイの抱いた心情をわかってあげられるような気がした。
もう一つ、そこから見えてきたものがある。
スイもまた、ベルガモットを心から愛していたのだろう。
そう推察すれば、余計に悲しさが胸に募っていく。
ただ何がどうであれ、もう事は起きてしまった。
シャーロットの呪い騒動に、ラクサーヌの精神的な死――
この事実だけは、どう足掻いても覆りはしない。
咲弥が事態を見守っていると、ベルガモットが動いた。
「やれやれ……我が愛しき人よ」
ベルガモットが大きく両手を広げ、スイへと歩んだ。
「どうやらお前には、俺の声が届かなかったようだな?」
スイは冷めた目つきで、ベルガモットに応えた。
「あなた様には、私の闇が伝わらなかったご様子ですね」
「ああ。そうだな」
「もう、あなた様に……愛などない。視界に入るたびに負の衝動が湧き、声を聞くたびに両耳が穢れ、触れられるたびに殺意が滲む。だから、寄るな」
再び宿り木が輝き、地面から無数の植物が生えてきた。
植物は生き物のごとく、俊敏な動きを見せる。
「陛下ぁっ!」
ジェラルドが叫んだ。咲弥も慌てて、戦闘態勢に入る。
ほぼ同時に、ベルガモットが声を張った。
「動くな! 誰一人、場を移ることを禁ずる!」
助太刀に入ろうとした咲弥の体が、びくりと硬直した。
皇帝陛下の命令だとはいえ、ベルガモットへ無数の植物が迫ってきている。
ある植物はベルガモットを貫き、またある植物は肉を深く切り裂いていく。手酷い怪我を負わされているはずなのに、ほんの少しも歩みを止める気配はない。
何事もないかのように、鷹揚にスイを目指していた。
「ふっ……これは、ひどく嫌われたものだ」
「寄るな! 寄るなぁあああ!」
スイの怒声とともに、ベルガモットは片足をやられた。
踏ん張る様子を見せたものの、また前進していく。
「確かに、俺は約束を守れなかった男だ。だから、お前から罵られようが、この身を傷つけられようが文句は言えぬ……すまなかった」
「いまさら……なにを!」
また鋭利な植物が、ベルガモットの体を切り裂いた。
「ぐっ……おいおい。狙う場所を間違えているぞ」
ベルガモットは立ち止まり、胸をとんとんと叩いた。
「狙うならここか、もしくは頭だ――大概の生物は、それで息の根を止めることができる。いかに屈強な俺だとしても、そればかりは変わらん。さあ、やれ」
スイに発破をかけ、ベルガモットは再び進む。
スイは唇を噛み締め、右手を前に伸ばした。
「言われずとも……」
しかし、スイの放った植物は、ベルガモットをかすめた。
ベルガモットは大きく笑う。
「もっとしっかり狙え。精神を整え、まっすぐに……だ」
「ぐっ……ぐぅっ……」
スイは険しい表情で、植物を操っていく。
それでもまだ、ベルガモットの急所は貫けずにいた。
きっと、迷いが生じている。咲弥はそう判断した。
今ならスイの身柄を、容易に確保できるかもしれない。
だが、ベルガモットから命じられている。動けない。
ベルガモットの傷がどんどん増え、深さを増していく。
それでも、ついには――
手の届く範囲まで、ベルガモットはスイに詰め寄った。
「がっはっはっ! 辿り着いてしもうたぞ?」
「あなた様は、どうして……いつも、そう……」
「これで、終いだ。スイよ」
ベルガモットは腰に帯びた剣を抜き、天高く掲げた。
咲弥はベルガモットの思惑に気づき、目を丸くする。
おそらく、自らの手で処刑するつもりだったのだろう。
スイは抵抗しない。曇りきった表情をうつむかせていた。
いくら大罪を犯したからといっても、娘のシャーロットの目の前で、父親が母親を処刑する――それはとても残酷で、絶対にあってはならない。
たとえ罰を受けることになったとしても――
「さらばだ……スイ!」
ベルガモットが剣に、ぐっと力を込めたのがわかった。
もう猶予はない。咲弥は素早く、阻止すると決断する。
咲弥は手を大きく前へと伸ばして、一歩を前に進んだ。
「待っ――」
咲弥は意識的に、自分の発言を抑え込む。
ベルガモットが迅速に、剣を振り下ろした。確かにそれも理由の一つではあったものの、制止を諦めたのには、もっと別の事情がある。
ベルガモットの剣は空を裂き、スイには当たっていない。
ベルガモットは剣を振った勢いで、そのままスイを力強く抱き締めたのだ。
「……すまなかった。スイ。俺はついぞ、お前の抱えた闇に気づいてやれなんだ。お前を幸せにできない、愚かな男だ。それでも、俺は今もお前を愛している」
「なにを……いまさら……」
「許せとは言わん。だがな、俺は何度でも言おう。これから先も、もし生まれ変わっても、お前はずっと俺の傍にいろ。次こそ必ず、お前を幸せにしてやる」
スイは黙している。ベルガモットも口を閉ざした。
事実こそ悲しいが、咲弥はまず安堵しておく。
(……これで、終わったんだ……)
もちろん大変なのは、これからなのかもしれない。
少なくとも、被害者が出ている。それに関しては、絶対に許されるべきではないし、咲弥も許せない――ラクサーヌは咲弥の先生であり、大切な仲間なのだ。
だから、処刑とは異なる方法で償ってほしい。
咲弥は本心から、そう思っていた。
だが、咲弥はすぐに痛感する。
自分の思考が、いかにあまいのかを――
ベルガモットはスイを抱き締めたまま、肩越しに背後へと顔を向けた。どうやらジェラルドのほうを見ているらしく、少ししてから穏やかに微笑んだ。
「さすがの俺でも、耐えられないことはある……お前には、本当に昔から数々の苦労をかけさせてしまい、すまない……これが、最後だ。シャーロットを頼んだぞ」
「へ、陛下? まさか――お待ちください!」
次の瞬間――
ベルガモットはスイの背から鋭い剣で貫き、一緒に自分の胸をも突き刺した。ベルガモットの背から飛び出た剣身が、ぬめり気のある血で湿っている。
咲弥は唐突な出来事に我が目を疑い、言葉を失った。
「えっ……な、なんで……?」
思考が疑問で溢れかえる。
ベルガモットは、口から血を流しながら告げた。
「お前は強く、生きろ……俺達の、愛する宝だ」
「お、おと……お父様……」
シャーロットは泣きそうな表情で、その身を震わせた。
シャーロットに微笑み、ベルガモットはまた前を向く。
ベルガモットが、苦しそうな声で言った。
「いかに、皇帝といえども……お前の死罪は免れん……」
「……ええ……」
「これまでも……これからも……お前を、愛している」
「……本当、自分勝手な……お人ね」
ベルガモットとスイは、しばし無言で見つめ合っていた。
それから、ほどなくして――
二人は糸を切られた人形のように、地へと倒れ込んだ。
「なん、で、こんな……」
体中の力が抜け、咲弥は呟いた直後に腰が落ちた。
茫然とした頭の中に、ふとベルガモットの言葉が浮かぶ。
『次こそ必ず』
きっと――あるいは、もっと前から覚悟していたのだ。
スイは救えない。だが、処刑される姿など見たくもない。
その結果、自分を道連れに処刑する選択をしたのだろう。
(そんな選択は、しちゃだめだ……宝だと言えるくらいの、子供の前なのに……)
咲弥は胸が引き裂かれる思いだった。
もっと方法はなかったのか、あれやこれやと模索する。
まったく意味のない、無駄な思考だとわかっていた。
たとえ何か案が思いついたところで、もうすでに遅い。
ベルガモットとスイは、この世を旅立っているのだ。
そう理解していても、考えられずにはいられない。
「くっ……ベルガモット様。本当に、自分勝手なお人だ」
ジェラルドの声音は苦く、せつない響きがこもっていた。
咲弥もまた、やりきれない気持ちでいっぱいになる。
哀愁に満ちた静寂だけが、場を完全に支配していた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
町から大きく離れた地となる、静かな丘の上――
大剣を携えた男が、一本の大樹に背をあずけていた。
男はこっそりため息をつき、視線をやや高く上げる。
黄昏の空には、星々が薄く姿を現しつつあった。
緩やかに、夜が迫ってきている。
ここは付近の住人でも、滅多に訪れることはない。
道中に厄介な魔物がいるというのも理由の一つだが、丘を越えた先へ進む必要性が、一般人には特にないのだ。隣町へ行くなら、ほかにいい街道がある。
だから丘に来る者は、大概が冒険者ばかりであった。
ただ自分も含め、先にいる二人も冒険者ではない。
帝の血が流れる大柄な男に、辺境の地に住む貴族の娘――二人は地べたに座り込んで寄り添い合い、遠くのほうにある景色を楽しんでいた。
「がっはっはっ! どうだ? よい景色だろ!」
「ええ。そうですね」
「この時間でしか見られない景色……俺がとても気に入った場所の一つだ」
大柄な男は立ち上がり、それから両手を大きく広げた。
「ほかのところじゃ、土地開発に心血を注ぎ、より大きく、より豊かな暮らしをするための都市を目指しておる。が……そんなもの、ここでは必要ない。溢れんばかりの大自然を、全身で感じながら生きる。それで充分だ。違うか?」
「いいえ。あなた様が、そうおっしゃるのであれば……」
大柄な男は片膝を地につけ、貴族の娘の顎をつまんだ。
「俺に倣う必要はない。お前の心を聴かせろ」
「私の真心が、あなた様の心には届きませんでしたか?」
貴族の娘はいたずらっぽく微笑んだ。
大柄な男は面を食らったらしく、体を硬直させている。
それからすぐあと、大柄な男は豪快に笑い飛ばした。
「がっはっはっ! これは一本取られた。それでこそ、俺が惚れた女だ」
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
大柄な男は不敵な笑みで頷き、再び立ち上がった。
また山がある方角へ向き、大柄な男は野太い声を紡ぐ。
「帝都のほうでは、次期帝の候補だとかで、なぜか俺の名も挙げられてはいるが……帝の地位なんぞに、興味などない。仮に父上が病臥、あるいは絶息しようとも、俺以外の誰かが新たな帝になればいい」
これに関しては、いささか複雑な心境ではあった。
私腹を肥やす俗物、色情に狂った下種、無能の似非為政者――正直、ほかの候補者にはろくなのがいない。帝都を除く八都市ですら、弾かれそうなのばかりだ。
もし現皇帝陛下の皇子達以外となれば、八つの都市長達が候補に挙がることになる。だが、これはこれで、かなり頭を抱えるようなのしかいない。
帝国の積み重ねてきた歴史が、潰れかねないほどだった。
先の未来を想えば、再び心の中で重いため息が漏れる。
こちらの心情も知らず、大柄な男は明るい声で告げた。
「俺は、ここがいい。愛するお前と、この大自然に恵まれた場所で、のんびりと過ごしたいんだ。無論――体裁上程度の責務はこなしてやるがな」
「本当、自分勝手なお人ですね」
「ほかの奴らよりは、随分と出来がよくないか?」
「さあ……血筋を感じさせますね」
大柄な男は苦笑した。
方向性が違うだけで、確かに似ている部分はある。
ただほかの者にはないものを、彼は持っていた。
それは、慈しむ心――
民が嘆き悲しめば、彼は尽力するだろう。
民が笑い楽しめば、彼も心から微笑む。
良くも悪くも、一途なのだ。
とはいえ、本人にその気がなければどうしようもない。
しかし、そんな彼だからこそ――
命を託すにふさわしい人物だと思っている。
そこが少々、歯がゆい点でもあった。
「……ですが、もしあなた様が帝になられたら、そのときは……いったい、どうなさるおつもりなのでしょうか?」
貴族の娘からの問いに、大柄な男は黙していた。
まっすぐ前を見据え、微動だにしていない。
どう応えるつもりなのか、こっそりと興味が湧く。
不意にこちらへと、大柄な男が顔を向けてきた。
「……そうなれば、お前も俺と一緒に、灼熱の大地を素足で進むことになるな」
「……は?」
予想外の発言を聞き、つい間の抜けた声を漏らした。
大柄な男が、大きく笑い飛ばしてから言ってくる。
「せめて大将軍程度の地位にまでは、のぼってきてくれ」
「程度……ご冗談を……」
「俺の側近として、未来永劫こき使ってやるからな」
どうやら、本気で言っているらしい。
げんなりとしたせいか、なかば自然に肩が落ちていく。
大将軍になど、なろうと思ってなれるものではない。
帝国軍の最高峰となる称号なのだ。
ある種、帝になるよりも大変な道のりだとも言える。
大柄な男とのやり取りを見てか、貴族の娘が微笑んだ。
「あなたには、いつもいつも……ご苦労をおかけしますね」
「……いいえ。苦労というもので済むような話では……」
「きゃっ……!」
言葉を遮るように、大柄な男が貴族の娘を抱え上げた。
「そして、お前は当然――第一皇妃だ! そもそも、ほかの皇妃なんぞいらん。これから先も、もし生まれ変わっても、お前はずっと俺の傍にいろ」
大柄な男は、自信満々に言ってのけた。
貴族の娘は恥じらい気味に、微笑んで応えている。
幸せそうな二人を横目に、一人だけが肩を落としていた。
(やれやれ……本当に、困ったお人だ……)
そう不満を持ったが、二人が幸せならばそれでいい。
そのために、これから先もずっと剣を振い続けるのだ。
そう、もう少し――あと、ほんのわずかにだけ――
何かが変わっていれば、それでよかったのかもしれない。
その小さな変化があれば、きっと二人は――
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
「陛下……スイ様……」
「お父様……お母様……」
なんとも後味の悪い幕切れだった。
ジェラルドとシャーロットの悲壮感に満ちた声音が、その心苦しい雰囲気をより強める。誰一人として、いい結果など迎えられるはずのない呪い騒動――
ただ寂しさと悲しさだけを残して、幕を閉じたのだ。
「……くそ……結局、僕は……」
誰にも聞こえない声量で、咲弥は悔しさを吐き出した。
いったい何度、つらい現実を味わえば気が済むのか、もう自分にもわからない。大きな出来事には必ず、誰かが悲しい思いを――心が曇る思いをしている。
その事実が咲弥の心をより責め立て、苦しめていく。
天使から与えられた力は、確かに大きなものだ。
神殺しの獣の力も、計り知れないくらいでかい。
だがこの世界の広さに比べれば、とても小さかった。
自分一人の力など、たかが知れている。
どれだけ頑張ろうとも、どれだけ苦労しようとも――
何も変わらない。みんなが幸せになれる道などなかった。
それが悔しくて涙が溢れ、自分の力のなさに胸を痛める。
「くそ……どうして、僕は……」
地面に額をつけ、咲弥は涙しながら泣き言を漏らす。
そのときのことだった。
まるで鼓動にも等しい重低音が、周囲に響き渡っていく。
重く、鈍く――
咲弥が顔を上げると、視線の先には二人の亡骸がある。
そこには当然、スイが手にしていた呪いの根源となる――宿り木は深緑色をした光を放ち、ふわりと宙に浮いていた。時折、鼓動じみた音を響かせていく。
一気に血の気が引き、咲弥は全身に寒気を覚えた。
(なんか……やばい気がする……)
それは、本能か――いや、違う。
黒白の籠手が、ひどく警告しているのだ。
咲弥はとっさに、ジェラルドとシャーロットを向く。
「気をつけてくだ――」
危険を知らせている最中、宿り木がさらに強烈な重低音を響かせた。
ベルガモットとスイの間に、宿り木がゆるりと落ちる。
瞬間――
二人の遺体が一気に樹木化し、地面が盛り上がっていく。
そして噴水のごとく、あちこちで大地が噴き出したのだ。
「きゃぁああああ――っ!」
「シャーロット様ぁあああ――っ!」
巻き込まれたシャーロットのほうへ、ジェラルドが迅速に向かっていった。
よく見れば、これは土ではない。樹木の様子であった。
(いや、それも違う……っ? まさか……枝、なのか?)
そう分析した咲弥は、即座にラクサーヌへ視線を移す。
地から急激に伸びる枝に、ラクサーヌが飲み込まれた。
「ラクサーヌさん!」
咲弥は駆け寄ろうとしたが、もう間に合わない。
無数に噴き出した木の枝が、咲弥の体をも引っかけた。
(ぐっ……ぐぐっ……)
凄まじい勢いで成長している。
巻き込まれた咲弥は、防衛に回らざるを得ない。
ときに黒爪で植物を裂き、大木にも等しい枝をいなした。
何度も――何度も――何度も――
いったいどれほどの時間、抵抗を続けたのかわからない。
気がつけば、咲弥は四つん這いの姿勢となっていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
激しい息切れに苦しみながら、咲弥はふっと顔を上げる。
何がどうなっているのか、まずは理解に苦しむほかない。
夜の時間帯だというのに、なぜか妙な明るさがあった。
また遠くに、ちかちかとした帝都の明かりも見える。
咲弥の視界は、飛行中の飛竜にも近い高さに至っていた。
理解不能な状況下、咲弥は背後を振り返る。
そして、そのまま高く見上げていく。
「なん、なんだ……これは……」
それはまるで、天をも貫きそうなほどの超巨大な樹木――まったく現実味が感じられないまま、今度はふと下を見た。どうやら、極太のツタに立っている。
もはやツタと呼べるのか、はなはだ疑問でしかない。
咲弥は呆然となり、また空高く視線を持ち上げていく。
「おいおい……なんなんだよ。いったい……」
一瞬、満点の星空が広がっているのだと錯覚した。
しかしそれは、決して星々なんかではない。夜空を完全に遮っている枝や葉が、どこかオーロラを彷彿とさせるくらい色鮮やかに輝いていたのだ。
その規模はいまだ、どんどん拡大していっている。
計り知れないほどの、超巨大樹の一部分で――
咲弥はただただ、立ち尽くすほかなかった。