第二十話 異形となりし者
咲弥は茫然自失となり、無言のままスイを見据えていた。
彼女が何を発言したのか、曖昧にしか記憶できていない。
咲弥がまず疑ったのは、自分の耳であった。しかし周辺に漂う不穏な空気、またはシャーロットの怯えた姿勢からも、スイが不振な発言をしたのは間違いない。
ジェラルドが戸惑った様子で、やや震えた声音を紡いだ。
「ス、スイ様……?」
「やはり少々、発動に時間がかかり過ぎましたね。しかし、帝国を壊滅させるくらいともなれば、それも致し方なきこと……あと、もう少しでしたのに……」
スイは沈んだ表情を伏せ、両手を胸の前まで持ち上げた。
まるで水を掬うような手のひらの上に、無数の緑色をした光線が集い、やがて色鮮やかな光の球体が生まれる。そして突然、光球は閃光を放って弾け飛んだ。
咲弥は眩しさに目を細めるも、視線だけは外さない。
(……あれは、まさか……)
咲弥は静かに驚きながら、不可解な疑問に苦しんだ。
まったく同じではない。だが、似た代物を知っている。
ジェラルドが再び、おずおずと呟いた。
「それは、宿り木……? なぜ、スイ様が……?」
「宿り木とは、然るべきとき、然るべき場所を訪れるもの。トネリコ大聖堂にも過去、同じ代物が存在しておりました。ですが、役目を終えた宿り木は、光の泡となって消え去り、また新たに私のもとを訪れた――ただ、それだけのこと」
スイは宿り木を、そっと口のほうへ引き寄せていく。
どこか赤子をあやすみたいな、優しい振る舞いであった。
「宿り木を手にした瞬間、不思議とすべてを理解しました。そう……女神ユグドラシール様は、初代皇帝陛下に次ぎ――今度は私をお選びくださったのです」
スイは唇に薄い笑みを張りつけた。
「とても奇妙な話ですね。初代皇帝陛下は国を纏めるため、宿り木をお使いしましたが……私はその帝国を滅ぼすため、宿り木をお使いするのですから」
スイの語りに激しく混乱させられ、咲弥は眉をひそめた。
彼女が口にした歴史は、帝国軍事図書館に収められていたどの資料にも記されていない。当然、教皇ゼクセンのほか、ジェラルドからの話にもなかった気がする。
そもそも宿り木に関しては、灼熱の大地に住まう人々に、女神ユグドラシールがもたらした恩恵――そういった童話、あるいはお伽噺程度のものしかない。
ユグドラシールと同様、正確な記録はどこにもないのだ。
「初代皇帝陛下が……まさか、そんな……?」
やはりジェラルドもまた、驚きを隠せないでいる。
うろたえるジェラルドに、スイは落ち着いた声で述べた。
「知らぬも仕方なきこと……彼は宿り木の力を使い、多くの邪魔者を排除していった。そうしてついに皇帝となる目的を達成したのち、トネリコ大聖堂を建て、ユグドラシール教を創設――純粋無垢な者を教皇に据え、不都合な事実はすべて抹消した。この宿り木から、そう教えていただきました」
「まさか……そのような事実が……?」
ジェラルドが訝しげな顔を見せた。咲弥は首を捻る。
隠蔽などする必要性が、特に感じられない。むしろ女神に選ばれた者ともなれば、それこそ他者から英雄視されても、なんら不思議ではないと思える。
一端だけ聞かされても、内容がうまく伝わってこない。
「おかしな話に思えますか……?」
スイの問いに、咲弥ははっとなった。
おそらく、抱いた疑問を覚られたというわけではない。
スイの視線は、咲弥へは向いていなかった。
「彼は……怯えていたのですよ。あまりにも強力な宿り木に……そして、闇に葬り去った自らの行為に――巨大な帝国のどこにも、それらしい記述は残されていない。それだけで、彼がどれほど恐怖していたのか、おわかりになるでしょう」
「にわかには……信じ難いお話ですな……」
ジェラルドの否定に、スイはくすりと微笑んだ。
「彼は所詮、もう過去の者。それでも構いません」
「スイ様! そのような発言は……おやめください」
所縁の薄い咲弥には、あまりぴんとくる内容ではないが、帝国が自国だと言える者からすれば、スイの発言には複雑な心境と憤りを覚えても仕方がない。
明らかに、帝国の始祖を軽んじていたのだ。
「都合の悪いことは、なかったことにする……」
スイの空色の瞳が、なにやら暗い色を湛えた。
その視線は、現皇帝陛下ベルガモットへと向いている。
「本当、血筋を感じさせます……ね?」
「ほう……?」
ベルガモットは、唸りに近い相槌を打った。
スイの険悪な眼差しが、今度はシャーロットへと向く。
「シャーロット。お前にも、本当にがっかりしました」
「お、お母様……」
「せめて……お前だけでも、役に立ってくれていれば……」
咲弥の心臓が一度、静かに、しかし力強く跳ねる。
なんとも悲しい発言だと、咲弥にはそう感じられた。
シャーロットは顔をうつむかせ、口を噤んでいる。
スイがため息をつき、首を小さく横に振った。
「本当は人として――滅びゆくこの帝国を、実際に我が目で眺めていたかったのですが……それはもう、仕方なきこと」
宿り木が突然、深緑色をした禍々しい閃光を放った。
スイの全身が同色の淡い光に包まれ、彼女の手からほんの少し離れた宿り木と一緒に、宙へ浮かび上がっていく。ほぼ同時に大地が揺れ始め、生温い風が吹き――
咲弥は嫌な予感を覚え、肌に奇妙な痺れを覚えた。
(いったい、何が……)
咲弥が胸中で呟いた瞬間、無数の植物が石の地面を激しく突き破って伸びていく。それらは編み物のように絡み合い、一呼吸の間にスイの背後で壁を形作った。
咲弥はなかば茫然と眺め、すぐさま認識を改める。
(……ただの壁じゃない。これは、魔法陣……?)
そう呼称してもいいものか、実際のところわからない。
少なくとも、魔物が扱う魔法陣ではなかった。
偶然できた模様が、ぼんやりと魔法陣に見えただけ――
(いや、そうじゃない!)
咲弥は目を大きく見開いた。
植物の壁に、色とりどりの花々が一気に咲き乱れていく。まるで万華鏡みたいに場所を移り変わり、とても色鮮やかな模様をいくつも描いている。
数秒程度の出来事に、咲弥の判断は少し遅れをとった。
「シャーロット様! 私の後ろに……!」
「ジェ、ジェラルドおじ様!」
ジェラルドが素早く、シャーロットを護る態勢に入った。
皇帝陛下ベルガモットは、腕を組んで静観を続けている。
流れるように状況を確認し、咲弥はラクサーヌを向く。
(くっ……)
ラクサーヌの魂が消え、いずれ肉体も死ぬ可能性は高い。
たとえそうだとしても、咲弥はラクサーヌの左腕を掴んで背負い込んだ。ただ自分よりも遥かに高身長なため、両足をずるずると引きずることになる。
それでも、咲弥はラクサーヌをスイから遠ざけていく。
これ以上の被害を、ラクサーヌに浴びせたくないのだ。
(少しでも、遠くに……安全なところへ……)
瞬時に場所を選び、移動しながらスイの様子をうかがう。
徐々にスイの姿が、人ならざるものへ変貌を遂げている。身長に変化は見られないものの、頭髪が植物のツルとなり、肌がところどころ樹木化していた。
化け物といった容姿ではなく、どこか神々しさがある。
(女神……ユグドラシール……?)
咲弥はふと、そんな感想を抱いた。
咲弥は想像を振り払い、思考を切り替える。
ラクサーヌが作った呪術陣は、幸いまだ機能していた。
だから下手に外側に出すのは、さすがにまずい。
呪術陣の際の辺りで、ラクサーヌを横たわらせておいた。
一秒経つごとに、張り詰めた空気が濃くなっている。
安堵する暇などない。咲弥は即座に、ジェラルドの傍まで素早く戻っていく。黒白を解放してから警戒態勢へと入り、異形の姿に変わるスイをじっと見据えた。
スイの変貌は、とても緩やかになりつつある。
そして――スイはついに、完全な人外となり果てた。
彼女は深呼吸をおこない、歪な声音で述べる。
「はぁ……さあ、終わらせましょう。すべてを――」
「これが……宿り木の力……?」
ジェラルドの呟きに、咲弥も息を呑んだ。
スイが全身に纏っている、力強くも流麗なエネルギー――それはまぎれもなく、オドとマナの融合エネルギーとなる、エーテルで間違いない。
問題はエーテルという存在ではなく、その質にあった。
(どの域まで達した……エーテルなんだ……?)
本気の紅羽ですら、まだ届かない領域だと思えた。
そんな代物を、スイはたやすく身につけている。
これが夢であってほしいと、少しばかり現実逃避をした。
咲弥は不意に、過去の記憶が鮮明によみがえる。
(これって……なんか、シェリアさんと似た……)
ネイの故郷で起きた、悲しくつらい事件――
魔物化したシェリアと、スイの変貌は近い気配があった。異なる点は、シェリアの容姿は魔物的な要素が強かったが、スイは精霊らしい印象を抱かせる。
(神と魔による違い……なのか?)
推察の正否は不明だが、危険な状況に変わりはない。
また、最悪な問題点がある。相手はラングルヘイム帝国の第四皇妃スイ――現皇帝陛下ベルガモットの妻であり、皇女シャーロットの母親なのだ。
人外に堕ちたとしても、事実は何も変わらない。
「陛下ぁ! ご指示を!」
ジェラルドの張った太い声が、大きく響き渡る。
咲弥と同じ懸念を、ジェラルドも抱いていたに違いない。
咲弥はスイを見つめたまま、指示を待ち続けた。
「スイの処刑は免れん――」
背後から聞こえた重い言葉に、咲弥の胸がじわりと痛む。
ちゃんとわかっている。スイは帝国の崩壊を計画、そして実行に移したテロリストなのだ。もっと言えば、その行為は世界中にまで被害をもたらしかねない。
また直接的ではないにしろ、すでに被害者が出ている。
理解してもなお、悲しさばかりが溢れた。
罰を受ける必要はあるし、スイは償わなければならない。
ただ叶うなら、死刑以外の方法が望ましかった。
苦い心境のなか、再び皇帝陛下の威厳に満ちた声が届く。
「――だが、処すことは許さん。生かしたまま捕縛せよ」
真意は当然、咲弥にはかり知れるものではない。
それでも、胸の中を漂う嫌な気持ちが晴れ渡っていく。
ベルガモットの命令は、咲弥からすれば理想的だった。
人は殺したくない。
たとえ、異形と化していたとしても――
とはいえ、難しい話ではある。現実はいつも、人の願いや想いとは別の答えを突きつけてくるからだ。それでもまた、諦めるわけにはいかない。
糸に等しい細い道でも、咲弥は進みたかった。
咲弥は気を改め、スイの捕縛方法を思案する。
再び魔物化したシェリアを思いだし、ふと連想が働く。
あの日、水の精霊はシェリアを人の状態へと戻した。
当時は理解に苦しんだものだが、今の咲弥には漠然とした答えが浮かんでくる。きっとシェリアが身に纏っていた謎のエネルギーを、消し飛ばしたからなのだ。
もし咲弥の解釈が正しければ、スイもまた――
思考が至ったとき、ジェラルドの声が耳に入ってきた。
「シャーロット様。陛下のお傍へ……」
「ジェラルド、おじ様……」
「ご安心を……さあ」
一瞥程度だったが、ジェラルドは優しげに微笑んでいた。
対してシャーロットは、不安そうに顔を歪めている。
咲弥がスイへ視線を戻すと同時に、駆け足の音が響く。
隣にいるジェラルドが、ため息をもらした。
「やれやれ……それでもなんとかするしかないのが、大人のつらいところですな」
咲弥にだけ伝わる声音で、ジェラルドが囁いてきた。
咲弥は笑えない心境ではあったが、少し苦笑する。
「はい。それでも……僕は、頑張りたいと思います」
「――承知。では……」
スイがくすりと笑った。
「お覚悟は、決まりましたか……?」
「私は、ラングルヘイム帝国を護る剣であり盾――ですが、実際は……あなた方を護るために、これまでの人生ずっと、血の滲むような努力をしてきたつもりです」
ジェラルドは大剣の剣尖を、スイへと向けた。
「叛逆者スイ――国家転覆罪及び、第七皇女シャーロット様殺人未遂により、帝国軍第二大将軍ジェラルド……いざっ、参る!」
ジェラルドは大剣を構え直し、深紅の紋様を宙に描く。
スイは口に微笑を湛え、流れるように動き始めた。
宿り木が輝くや、複数のツルが鞭のごとく迫ってくる。
「烈火の紋章第六節、灰燼の神剣」
ジェラルドの大剣に、真っ赤な炎が迸る。
襲いかかるツルを、ジェラルドは一呼吸の間に斬った。
防御に徹する咲弥も、黒爪でツルを引き裂く。
(これは……っ!)
ただの植物ではない。裂く瞬間、金属音が聞こえてきた。
鉄に近い硬度が、鞭みたいな植物に備わっているらしい。
咲弥はジェラルドを脳裏に浮かべ、素直に賞賛する。
物質をすべて裂く力を秘めた黒手ではなく、ジェラルドは重量感のある大剣で軽々と斬っていた。そこから彼の弛まぬ研鑽が、ぼんやりとうかがい知れる。
そうはいっても、難しい芸当に違いはない。
(黒爪でもぎりぎりなんだ……)
多勢に無勢のごとく、ツルの数があまりにも多い。
さすがのジェラルドも、ツルをいなし始めていた。
すべてを斬れるわけではない。苦戦を強いられている。
(距離が離れている……!)
分断されるのはまずい。
咲弥はツルを裂き、ジェラルドの背後に移った。
ジェラルドの死角から迫るツルを、黒爪で引き裂く。
(……いける!)
ジェラルドクラスの大剣を扱う者は、さほど多くない。
軍の訓練でも、ちらほらと目に映る程度でしかなかった。獣人並みに、体格と筋力に優れている必要がある。咲弥では持ち上げることですら一苦労なのだ。
そのため、数々の武器を扱わされたが、大剣や大斧などは除外されていた。
しかし帝国には、帝国式の型というものがある。
ジェラルドも当然、その型を使って対処していた。
それならば、呼吸を合わせるのは不可能ではない。
ジェラルドの動きを注視して、咲弥は黒爪を振るう。
「咲弥殿! 私をお気になさらず!」
ジェラルドは言いながら、深紅の紋様を浮かべた。
「烈火の紋章第八節、猛る残火」
深紅の紋様が弾けるや、大剣が青い炎に包まれた。
ジェラルドが叫ぶ。
「くらえ!」
ジェラルドが一気に、複数のツルを横に両断した。
すると激しい燃焼音を響かせ、斬られた部分から青い炎が駆け抜けるように、ツルを伝って包み込んでいく。凄まじい火力に、ツルは火の粉を舞い散らしている。
炎の傍にいない咲弥ですら、肌が焼かれそうなほどだ。
スイの顔に険がこもり、細い腕を虚空に漂わせる。
まだ炎にやられていないツルがうねり始め、やがてそれは毛玉のごとく丸まった。炎が到達するや否や、ボトッと音を立てて、ツルの球体が切り離される。
(……っ!)
咲弥は状況を確認しつつ、体が自然と動いた。
炎を恐れたスイに、わずかな隙が生じている。
咲弥は空色の紋様を浮かべ、白手を高く掲げた。
白爪にオドを込め、咲弥は唱える。
「白爪空裂き、限界突破」
空色の紋様が砕けた瞬間、咲弥は白爪で虚空を裂く。
猛火をも吹き飛ばす衝撃が、スイの全身を貫いた。
スイは驚愕の表情を見せたあと、静かに微笑みを湛える。
「恐ろしい――女神様の力が、抜けるがごとく感覚でした」
(そ……そんな……)
咲弥はくっと息を詰め、奥歯を噛み締めた。
スイのエーテルは、減少すらもしていない。風に煽られるローソクの火みたいに消えかけはしたが、またすぐにもとの状態へと戻ったのだ。
信じたくはない事実に、咲弥は己の無力を呪う。
スイのエーテルに対抗するためには、咲弥程度のオドでは歯が立たないのだろう。おそらくは同じエーテルを扱えば、想像通りの結果を得られた可能性はある。
ただ今の咲弥は、エーテルがまったく扱えない。
空白の領域で紅羽を救って以来、どんなに訓練をしても、エーテルを生みだせないのだ。あのときは必死だったため、奇跡的に上手くいったに過ぎない。
咲弥本人でさえ、どう実現したのか首を捻るほどだった。
(エーテルと限界突破の併せだったら……)
仕方のない話だが、悔しさから心の中で泣き言が漏れる。
スイは当然、咲弥の事情など汲まない。
スイは手のひらに、小さな花を咲かせた。
「では、次は私の番ですね」
咲弥の背がぞっと凍りついた。
無数の植物のツルが、地面を突き破って出てくる。ツルは至るところに色鮮やかな花を瞬時に咲かせ、吐き出すように花粉らしき何かをまき散らした。
咲弥は目を大きく見開き、肌が一気に粟立つ。
心理に影響を及ぼす系統だと勘繰ったが、そうではない。
極々小さな粒子の一つ一つが、バチバチと弾けていた。
咲弥は即座に空色の紋様を描き、口早に唱える。
「清水の紋章第二節、澄み切る盾!」
発現した青白い光玉がお互いを繋ぎ合い、ひらひらとした水の防壁が生まれる。
ほぼ同時に、爆竹みたいな破裂音が、そこかしこから鳴り響いた。やがて規模は大きさを増していき、咲弥達の周辺で強烈な大爆発が起こる。
咲弥の視界はすべて、言葉に表し難いくらい綺麗な――
とても色鮮やかな、赤みを帯びた空間のみとなっていた。