第十七話 静かなる攻撃
夜が訪れた帝都の中を、咲弥は全速力で走っていた。
ただ思った以上に、進む速度をあげられずにいる。祭典の開催日とあってか、そこら中で出店が立ち並んでいるため、人や物でごった返しているのだ。
独特な夜祭の空気感が、たっぷりと満ち溢れていた。
(やばっ! 着く前に、もう始まっちゃってるんじゃ……)
予定していた時刻から、出発が大幅に遅れてしまった。
これに関しては、本当にどうしようもない。
先日、皇帝陛下ベルガモットが重い決断を下した。
明日の深夜帯――今から数時間後に、呪われた皇女の精神世界への侵入計画が実行される。それはすなわち、神殺しも辞さないという選択にほかならない。
そんな状況下で、外出許可が得られたことが奇跡なのだ。
きっと、咲弥の士気を下げさせないためなのだろう。
そう理解すればこそ、不実な真似などできなかった。
事態がどう転ぶのか誰にも予想がつけられない以上、常に最悪を想定して行動する必要がある。当然、帝国城で呪いの消滅を試すわけにはいかない。だからといって、あまり遠く離れた場所ともなれば、そのぶん時間が食われてしまう。
近くはないが、それほど遠くもない――
つまり人の気配がない地で、任務を遂行することになる。
そこは一般人では立ち入れない、帝国軍の演習目的にのみ扱われる地――より色濃い実戦を経験させるため、多種類の魔物がわざと野放しにされているのだ。
軍の訓練場からはさほど遠くないものの、帝都とはかなり離れた距離となる。
そこで咲弥は、限界まで計画の準備に参加していた。
見通しが甘かったのは否めない。
嘆いたところで仕方ないものの、紅羽達が出演する祭典の開催時間はどんどんと迫っている。そのせいで、不安で胸がひどく圧迫されていっていた。
(あぁあ……時間がないのに……!)
ついに咲弥の足が止まる。前方を慌ただしく見回した。
すり抜けられそうなルートが、どこにも見当たらない。
ほかの人達も、立ち往生している様子であった。
咲弥は別の道がないか探ろうと、必死に視線を巡らせる。
そんなさなか、意気揚々とした男の声が飛んだ。
「さあさあ! 寄ってらっしゃい、見てらっしゃいな!」
張られた男の声に、咲弥はなにげなく目を向けた。
すぐ傍に、装飾品ばかりが展示されている露店がある。
どうやら人が詰まっているのを、好機と捉えたようだ。
自然と耳に届く男の啖呵売を聞きながら、咲弥はまた抜け道探しに戻った。
「続きまして、こちらの商品! サイラハス共和国の有名な女細工師が作製した一品! 光の紋章効果が施されており、オドの回復速度を少し早める超レア物!」
咲弥は漠然と、古い記憶が脳裏によみがえった。
また露天のほうへ、ふと目が向かう。
男が手にしているのは、紅い花を模したリボンだった。
「あっ……ルクアネラ……?」
「おっ! そこの兄ちゃん博識だねぇ! その通り!」
ただの偶然か、はたまた同一人物なのか――
王都にいた女商人の姿が、ぼんやりと頭に浮かんだ。
「こちらは限定品だぞ! 兄ちゃん! これも何かの縁だ。購入しないかい? 今ならなんと! 十万! と、言いたいところだが、特別に八万で構わないぞ!」
咲弥は内心、激しくうろたえた。
値段が非常に高い。ただ、心のどこかで納得している。
あの日を境に、似た商品など一度も見た記憶がない。
商人の意図ではないだろうが、確かに不思議な縁だった。
(遅刻したら……これが、紅羽へのお詫びになるかな……)
打算的な想像を巡らせつつ、咲弥は露天商に歩み寄る。
「少し、見せてもらってもいいですか?」
「ああ! もちろん構わないよ」
手に取るや、とても滑らかな手触りに驚いた。
よく観察すれば、細部にまで意匠が凝らされている。
(こんな緻密な細工……やっぱ、あの人なのかなぁ……)
「それはなかなか手に入らないぞ! どうだい?」
咲弥は諦め気味に苦笑を漏らした。
「わかりました。これ、プレゼント用に包んでください」
「彼女への贈り物かい? いいセンスしてるねぇ!」
露天商の推察に、咲弥は軽く照れた。
露天商は素早く、紅い髪飾りを包装紙に収めていく。
言い値を手渡したあと、咲弥は品を受け取った。
「はいよ! まいどあり!」
「はい!」
咲弥は返事をしてから、目的の方角へと目を向けた。
(あっ……!)
人でごった返している状況に、何も変わりはない。
だが頑張れば、どうにかすり抜けられそうな道がある。
咲弥は考える余地なく、再び駆けだしていく。
紅羽が出演する祭典まで、あと残りもうわずか――
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
炎で照らされた会場の裏側で、紅羽は待機していた。
「それでは、皆様方――今宵より復活する天樹祭を、どうか心行くまで楽しんでください。我らに恵みを与えてくださる女神ユグドラシール様に、感謝を――!」
ユグドラシール教の教皇、ゼクセンの挨拶が終わった。
観客の歓声があがるなか、太鼓の音が大きく鳴り渡る。
祭典の花――シーラが先陣を切って進んでいく。
天樹祭の復活に向け、もっとも尽力した人物に認定されたシーラが、輝かしい祭典の花となることを許された。当然、踊りのほうもきちんと評価されている。
これでひとまず、彼女の願いは叶えられた。
(あとは……天樹祭を無事に、終わらせればいい)
それが果たせてようやく、本当の意味での成功となる。
シーラからやや遅れ、紅羽も舞台へと向かう。
眼前に広がる光景は、どこか国際大会を彷彿とさせた。
観覧席には言葉通り、大勢の人で埋め尽くされている。
広々とした空間があったはずだった。
だが、収まりきっていない。席の間に立つ者までいる。
ここまで人が押し寄せるのは、少し想定外であった。
紅羽は気持ちを切り替え、予行訓練通りに進めていく。
舞台に姿を現してから、まず帝国式の敬礼を観覧席にいる者達へと送る。それから華麗に舞い踊り、定められた位置に踊りをまじえて移動していった。
帝国特有の気候のほか、人による熱気も凄まじい。
その熱にあてられてか、わずかに紅羽の心が湧き立つ。
不思議な心境を抱きながら、紅羽の視線は観覧席を巡る。
(……まだ、来ていない……?)
紅羽にとって、心から特別な存在だった。
だからもし、ほんのわずかでも彼の気配があれば、たとえどれほど人が群がっていようとも、決して見逃しはしない。極秘任務で来られないのか、それとも――
彼が訪れていない事実に、紅羽の胸がちくりと痛む。
とはいえ、まだ天樹祭は始まったばかりだった。
(いいえ。きっと……来てくれる)
そう願いを込め、紅羽はしなやかに体を動かしていった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
太鼓のような重い音色が、遠くのほうから響いていた。
やはり祭典が、もう始まっているらしい。
「まずいまずい!」
咲弥は全力疾走していた。
祭典の会場が近づくたびに、不穏な光景が目に飛び込む。
どうやら、また人だかりができている。
咲弥は瞬時にルートを探して、走る速度は緩めない。
ようやく会場の一部が、視界に入ったそのとき――
「咲弥殿!」
突然、光のごとき速さで、男が咲弥の眼前に現れた。
咲弥は驚き、とっさに急停止する。
眼前の男は、黒いフードを目深にかぶっていた。
いったい何者なのか、さっぱりとわからない。
咲弥が警戒している最中、男が帝国式の敬礼をした。
「緊急事態につき、失礼! 私はジェラルド様直属の部隊に所属する者です。ジェラルド様よりおあずかりした伝令を、お伝えにあがりました」
「え、あ……き、緊急?」
「咲弥殿――即刻、禁断の地にお戻りください」
「……え?」
よくわからない状況下、咲弥は頭の中が真っ白になった。
もう祭典の会場は、目と鼻の先にある。
黒いフードの男が、素早く咲弥に耳打ちしてきた。
「皇子様の受けた呪いに、異変が現れたご様子です」
咲弥ははっと我に返り、そして心の底から震撼した。
最悪の場合、呪いが発動するかもしれない。
咲弥は事情を呑み込み、下唇を少し噛んでうめく。
あともう少しなのだ。
たとえ数分でも見れば、よくはないが約束は果たせる。
男はなおも続けた。
「最悪に備え飛竜を数体、各所に待機させています。どうかお急ぎください」
ある日の朝――紅羽との約束が、咲弥の脳裏をよぎる。
とても切ない声色で、彼女は観に来て欲しいと願った。
これまでも、たくさん迷惑をかけている。
だから紅羽が喜んでくれるなら、できる限り叶えたい。
「咲弥殿……!」
男がやや控えめに、じれったい様子で名を呼んできた。
その様子から、ひどく切羽詰まった状況がうかがえる。
咲弥はぎゅっと目を閉じ、どうすればいいのか悩んだ。
しかし、選べる選択肢など、はなから一つしかない。
(ぐぅうううう……! ごめん……紅羽……)
苦渋の決断であった。胸がはち切れそうなほどに痛む。
だが呪いが発動すれば、もはや祭典どころではない。
咲弥はつらさで歪んだ視線を、黒いフードの男に据えた。
「案内……してください」
「了解しました」
男の誘導に従い、咲弥は来た道を引き返していく。
仕方がない――それは、当然わかっている。
いくら頭で理解していようとも、心までは追随しない。
紅羽への負い目が、ずっと胸の中をぐるぐると巡った。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
実戦的な軍の演習場の一部――
円形をした石造りの闘技場では、ひどく不気味な雰囲気に支配されつつあった。
ラクサーヌは片目を細め、緊迫した光景を見つめている。
何がどうなっているのか、困惑するほかない。
闘技場にはラクサーヌのほか、ラングルヘイム帝国の皇帝陛下に、その側近に位置する第二大将軍ジェラルドがいる。そして、地面に描いた呪術陣の中央には、第四皇妃のスイと――空色の髪をした皇女が、椅子に座った状態でいた。
その皇女の周辺に、なにやら妙な異変が起きている。
(なんだ……? 草……?)
これは、実に珍しい。あまり見聞きしない事態だった。
呪われた本人ではなく、まず周囲から兆候が出ている。
数少ない類似の現象が、ラクサーヌの脳裏を巡った。
(いや、にしても……これは、おかしい……)
まるでラクサーヌの施しに、対抗している気配があった。
守護神獣か、はたまた女神本人か――
いずれにせよ、敵意を示しているのに間違いはない。
仮に阻んでくれているのであれば、不安要素の一つだった問題が片づく。つまりラクサーヌの呪術が、しっかり効果が見込めるという証明になるからだ。
効果がなければ、そもそも対抗自体してこないだろう。
ただ不思議な問題点は、まだまだ尽きない。
ラクサーヌが作った結界が、いまだ沈黙を守っている。
もし攻撃を受ければ、自動的に発動する仕組みなのだ。
変な話、呪いの効果でありながらも呪いではない。
「……訳、わかんねぇだろ。そりゃあ……」
ラクサーヌは我知らず、そんな呟きが自然と漏れた。
大柄なジェラルドが、ラクサーヌへと歩み寄ってくる。
「ラクサーヌ殿、これはいったい……?」
「……さあな。マジで、わからん……」
不明瞭な部分ばかりだが、明確にわかることはある。
もう呪いの発動は、目前にまで迫りつつあるのだ。
「咲弥を行かせちまったのは……ちぃっと失敗だったな」
ラクサーヌのぼやきに、ジェラルドは閉口していた。
正直なところ、最終調整にはどうしたとて時間がかかる。ラクサーヌほど呪術に長けた者はいないため、こればかりは自分でやらざるを得ない。
たったの数時間――
その事実を知るや、咲弥が頭を深く下げて懇願してきた。
子供さながらの願いに、ジェラルド側もやれやれといった様子ではあったものの、今回の作戦の要となる少年の士気が下がるのは、まずいと判断したのだろう。
結果、咲弥の必死な希望を呑むかたちとなった。
そもそも、呪いは二ヶ月以上も反応を示さずにいる。
まさかこんなときに限って、兆候が現れるとは誰も――
(いや、今はそんなことどうだっていい)
ラクサーヌは思考を切り替えた。
まず石畳の地面に生え始めた草だが、ラクサーヌが描いた呪術陣を消すまでには至っていない。それ以前に、もし陣の上に草が生えても問題はなかった。
結界自体は、すでに張り終えている。
だがいまだに、じわじわと草が急成長していた。
ところどころでは、ついに花まで咲かせている。
やがて木に成長するともなれば、さすがにまずい。
ほぼ間違いなく、成長した樹木によって地面が変形する。
そうなると、結界の一つが呆気なく潰えてしまう。
(そうか……だからか……)
とはいえ、結界の破壊は想定の範囲内ではあった。
そのため、十重二十重、多種類の結界を準備している。
相手は情報の薄い、姿無き女神なのだ。
時間が許す限りの準備は、当然の対策だと言える。
それはおそらく、女神側も理解している。
曲がりなりにも、神――最悪、すべての結界が潰されると想定したほうがいい。
ラクサーヌは、どっとしたため息をついた。
「やれやれ……腹ぁ、括るしかねぇか」
「ラクサーヌ殿……?」
訝しげなジェラルドの脇をすり抜け、ラクサーヌは皇妃と皇女のほうへ進む。
「へっ……女神だかなんだか知らねぇけど、特殊な奥の手を持ってんのが、テメェだけだと思ってんじゃねぇぞってな。大陸随一と呼ばれた呪術師、なめんな」
地に描いた呪術陣には、とある仕掛けを施していた。
それはさながら、機械仕掛けにも等しい。
皇女達の十数歩手前――
ラクサーヌはしゃがみ込み、円の一部に手を置いた。
「我、願うは世の理。掟に忠実であれ」
円がオドを吸い、淡く、されど力強い輝きを放つ。
「相反は拒絶、蝕は罰、強いは断罪」
地に描いた模様が、ぎこちない音を立てて動き始めた。
初見の者であれば、きっと歯車を連想するに違いない。
「我、願うは自然律――覆せば、滅せ!」
呪術陣の光が、さらに強まった。
すると法則に背いた草花が、灰となって消えていく。
これで終わりではない。
むしろ、ここからが始まりだと予想している。
(やっぱりか……)
風がやんだ。空気が一気に張り詰めていく。
時の停止にも等しい空間が、素早く形成されている。
ラクサーヌは動じず、まず相手の出方をうかがった。
「な、なんだ……」
ジェラルドの声が、背後から響いた。
そのとき、次第に地面が震え始める。
「全員、呪術陣の中にいろ!」
もとから全員、呪術陣の中にいる。
それでもラクサーヌは、声を張って指示した。
間抜けはいないと思うが、出られでもしたらまずい。
(なるほど……そうくるか)
呪術陣の外側が、まるで数年――否、数十年も放置された廃墟のごとく、凄まじい速度で草花に覆われた。おそらく、外側からの攻めへと転じている。
ラクサーヌは目もとを歪めた。出し惜しみなどしない。
ラクサーヌは腰から、怨嗟の数珠を取り出した。
遥か昔、とある国の高名な僧侶が、愛する者を救うために黄泉の国へ赴く。そこで魑魅魍魎に、ありとあらゆる苦痛を味わわされたが、目的自体は達成する。
だが現世に戻った際、受けた苦痛はずっと残っていた。
気が狂った僧侶は逃れられない苦痛を払うために、自らを切り刻み、血と肉と骨を数珠に変えた――そんな逸話のある数珠だった。当然、その真偽は知れない。
ただ効果を考えれば、眉唾物ではないと思われる。
ラクサーヌは皇女に歩み寄り、怨嗟の数珠を首にかけた。
反応を示さない人形のような皇女から、わずかながら神のにおいが漂っている。
まず間違いなく、このにおいが媒体となっていた。
「怨嗟の数珠――拒絶しろ」
ラクサーヌの言葉に、怨嗟の数珠が禍々しい光を放つ。
やがて悲鳴に似た音を立てて、数珠の一つが砕けた。
一つ、二つ、三つ、四つ――どんどん珠が破裂する。
(ちっ……さすがに、神を相手にはきつい、か……?)
人の思念は強い。
それが負の感情ともなれば、より一層であった。
いけると踏んだものの、どうなるのか正直わからない。
ラクサーヌは固唾を呑み、皇女にかけた数珠を見守る。
次第に、珠を繋ぎ留めていた糸ばかりが残った。
あと数個――周辺の植物が、ぴたりと成長を止める。
揺れていた地面も途端に収まった。
安堵のため息を吐きたい。そんな気分になる。
ぎりぎりのところで、女神側からの攻撃を阻止できた。
そう思ったのも、つかの間に過ぎない。
再び、大きな地震が発生する。
「くそっ!」
忌々しげな声を発した直後――
「あぁあああああ――っ!」
なんの反応もなかった皇女が、悲痛な声を天へと放った。
皇女が淡い光に包まれるや、まるで火山の噴火のごとく、呪術陣を描いた地面が盛り上がり、数本の木が生えていく。
どうやら女神側が、本気になったようだ。
ラクサーヌは即座に、残り二つの内の一つ――
悪魔の魂と呼ばれる、秘蔵の呪具を取り出す。
正直に言えば、あまり使いたくない代物だった。
迷っている暇などない。
ラクサーヌは瞬時に覚悟を決め、皇女の太ももへと悪魔の魂を放り投げて置いた。それから今度は短剣を取り出して、自身の右肘付近を一気に切り裂いた。
石の地面に、ぼとっとラクサーヌの右腕が落ちる。
「ラ、ラクサーヌどの!」
ジェラルドの叫びが聞こえた。
ラクサーヌは応えない。これが最低限の代償なのだ。
落ちた右腕を拾い、すぐ悪魔の魂に捧げる。
「我が右腕を対価に、疎ましき神の威光を振り払え!」
炎にも似た禍々しい光が、悪魔の魂から放たれる。
身の毛もよだつような囁きが、周囲に木霊した。