第十六話 甘い話で終わると思うな
咲弥は日課の訓練を休み、今は帝国軍事図書館にいた。
木製の長机の席に着いており、隣にはジェラルドがいる。
ラクサーヌは、正面にある移動式黒板の傍に立っていた。前日に用意していたのか、すでに多くの文字や絵図で黒板は埋め尽くされている。
ラクサーヌは白いチョークを指示棒代わりに使い、まずは現状報告をしていた。
そして――
「――ぶっちゃけた話、もう解呪方法なんかありゃしねぇ」
ラクサーヌが断言した。室内に重い空気が広がる。
ラクサーヌはわずかな沈黙を挟み、太い吐息を吐いた。
「こんなに調べてもなお、女神ユグドラシールの形がまるで見えてこねぇ。善し悪しに関係なく、本来なんらかの事象があればこそ、そこに在る神を崇めるもんだ。だがな、根源に関する情報が完璧に欠落していやがる」
トネリコ大聖堂で得た情報も、結局ただの逸話に等しい。
明確なものは、何一つ掴めなかったのが実情であった。
「もはや誰かの空想を、広げに広げただけじゃねぇのかって疑いたいくらいだ。だが、それはねぇ。咲弥の特殊な力で、守護神獣の存在が確認されたからな」
「ふむ……それで?」
ジェラルドは重く唸り、続きを促した。
ラクサーヌが両手を小さく広げる。
「消滅した依代――つまり象徴か何かでもあれば、もう少し違った結果も手繰り寄せられたんだろうがな……そもそも、宿り木の起源ですら、いつどこで誰が入手したのか、そんな残って当然の歴史程度もわからねぇほどの始末だ」
「では、どうすれば……?」
ジェラルドの声には、絶望的な響きがこもっていた。
ラクサーヌは順々に、自身の指を立てながら述べていく。
「一、呪いの発端は不明。二、消滅した宿り木以外の依代が存在しない。三、したがって、正規の手順を踏む解呪方法は発見しえない――結果、もしこれが俺の見立て通り破滅樹の呪いだった場合……最悪、帝国が呪いで滅び去るのを、ただ指をくわえて待つのみ。ほんと、どうしようもねぇ災害だ」
息苦しい静寂に、場が包み込まれていく。
ラクサーヌは鼻で笑い、また口を開いた。
「と、まあ……本来なら、もう諦めちまいたいところだが、何も方法がまったくない――って、いうわけでもねぇ。ただそれは、可能性がゼロではないってだけだ」
「ほう……その方法とは?」
「二つある」
ラクサーヌが右手の人差し指を立てた。
「一つは、呪われた皇女をぶっ殺す」
咲弥はぎょっとする。
ジェラルドが険しい顔で、一気に席を立ち上がった。
「んな……! ばかな! 貴様……!」
「できねぇよな? まあ、そりゃそうだな。それに、皇女をぶっ殺したからって、じゃあ呪いが止まるか? ってぇと、実際のところわからねぇ」
ラクサーヌは、至って冷静な姿勢を見せた。
平静を装っているわけではない。これが、彼の素なのだ。
だがジェラルドは、憤怒の宿った静かな声音を放った。
「たとえ他国の者とはいえ、今のはさすがに問題発言だぞ」
「滅びる国にそんなものがあるのか、ほとほと疑問だな」
「貴様……」
不穏な雰囲気が漂い、咲弥はおろおろとする。
これ以上空気が拗れるようなら、止めなければならない。
ラクサーヌは呆れ気味に笑い、左手の人差し指を立てた。
「だから俺は、もう一つの方法を導きだした。これは別に、解呪でもなんでもねぇ。だが、それに近いものではある」
「どういった方法なんですか?」
咲弥は努めて、穏やかな声色で訊いた。
それは、ジェラルドの怒りを静めるためでもある。
ラクサーヌは力強い眼差しで、咲弥の疑問に答えた。
「呪いの条件を断ち切る。いいか――」
ラクサーヌは後ろを向き、傍にある黒板を翻した。
裏側もまた、すでに文字や絵図が書き込まれている。
再びチョークを使いながら、ラクサーヌは説明を始めた。
「まず呪いが成就するためには、どうしたって皇女の精神体――魂がなきゃ、始まらねぇ。ここが起点であって、呪いが広がる根源とも呼べるんだ。でもな、これは別に神に限った話じゃねぇ。だいたいは何かしらを媒体にして発生する」
黒板にある幽霊みたいな絵から、樹木の絵がつつかれた。
「属性で言やぁ、これは木属性で間違いねぇ。呪いの進行がとろいのは、木属性の特性でもあるな。その代わり威力は、他属性の追随を許さねぇほどだ。聞けば、皇女の魂は、木の麓で繋がれている。つまり、媒体にされてるってことだ」
「だから、なんだというのだ?」
ジェラルドはまだ憤りが収まらないらしく、ややきつめの口調をしていた。
さして気にした様子もなく、ラクサーヌは声を紡いだ。
「もし仮に、皇女の魂自体がなけりゃどうなる?」
「貴様、まさか……っ?」
ジェラルドは険しい眼差しで、ラクサーヌを睨んだ。
ジェラルドはおそらく、シャーロットの魂を消滅させると捉えたに違いない。そう聞こえたとしても、特に不思議でもなんでもない発言ではあった。
だが、咲弥は違う。呪術を学んだお陰か、また別の解釈が脳裏をよぎった。
ラクサーヌが肩を竦め、わざとらしいため息をつく。
「そんなんじゃねぇ。事実的な話だ。どうなると思う?」
「媒体がなくなれば……当然、呪いは止まる……?」
咲弥は思考しながら、やや曖昧な言い方で尋ねた。
ラクサーヌがゆっくり頷き、唇に笑みを湛える。
「ああ、その通りだ」
黒板には、四角が積み重ねられた逆三角形の図がある。
ラクサーヌはその下で並んでいる二つの丸に、チョークの先端を当てた。
「左が術者で、右が対象者だ。呪いっつぅのは、こうやってどんどんと上に積み重なり、初めて発動する。ただ一つでも欠けりゃ総崩れを起こし、不完全な呪いは発動しなくなる。または、術者が代償を支払わされる場合も多々とあるな」
そこに関しては納得できた。ただ、不明瞭な問題がある。
咲弥が訊く前に、ラクサーヌが問いかけてきた。
「さて……じゃあ、どう不完全にすればいいか?」
「……ま、まさか!」
咲弥はやっと、ラクサーヌの意図が汲み取れた。
「そう。精神世界に行き、皇女の魂を樹から分離する」
「いや、ですが……」
「これは、単純な憶測程度でしかないが、皇女の精神世界に行けるのは、お前だけか? 俺はそうは思わない。つまり、今度はこの場にいる全員で行く」
咲弥は絶句する。そんな方法、試した経験がない。
ラクサーヌはため息まじりに言った。
「少なくとも、守護神獣を相手にしなきゃならねぇ。だから皇女を救出する役目は、お前だ――咲弥の黒白さえあれば、破滅樹をどうにかできんだろ?」
「いや……そんなの、成功するかどうかなんて……」
「しなきゃ――帝国は樹海に変わって終焉。それだけだ」
じわりと湧く不安に胸が圧迫され、咲弥は息苦しくなる。
ラクサーヌが黒い瞳を、ジェラルドへと向けた。
「いいか? これはな、決して解呪なんかじゃねぇ。だから最悪の場合、女神ユグドラシールの怒りを買う可能性だって充分にあり得る。皇女を助け、めでたしめでたし――なんて甘い話で終わると思うな。何が言いてぇか、わかるか?」
「……まさか、女神を相手にしろ……と?」
「皇女を助けてぇんだろ? なら最悪、殺るしかねぇだろ。むしろ、それしかねぇんだ。こっちから行けねぇんならよ、あちらさんからこちらへ来てもらう」
これには、ジェラルドも絶句していた。無理もない。
帝国民が崇める女神を、殺せと言っているのだ。
漠然とした恐怖が不安と混ざり、やや吐き気を覚える。
咲弥は息を整え、ラクサーヌに問いかけた。
「待ってください。でも、そんなことになったら……帝国に住んでいる人達に、被害が出るんじゃないんでしょうか?」
「呪いを潰せなきゃ、どのみち全員死んじまうだろ?」
呆れ声で応えたラクサーヌに、咲弥は食い下がった。
「いやいや、そんなわけにはいきませんよ……」
「まあ、当然――できる限り抑え込む努力はするつもりだ。そのために、わざわざ俺の邸宅から、効果がありそうな品をいくつか取りに行かせたんだからな」
咲弥は驚きを隠せない。そんな話は初めて聞いた。
戸惑う傍ら、ぼんやりとある予測が浮かび上がってくる。おそらくラクサーヌは前々から、もはやこの手段しかないと踏んでいたのだろう。
もっと早く教えてほしいと思ったが、彼の性格を考えれば諦めるほかない。
落胆する咲弥をよそに、ラクサーヌは続けた。
「強力な結界を張り巡らせておき、降臨した女神を極限まで弱体化させる。さらに最悪の事態に備え、皇帝陛下の権限で帝国軍も動かしてもらうぞ。どうせ、相手は姿無き女神だ。新種の魔物が出るかもって煽り、こちら側の秘密がバレない程度の場所に配置しておいてくれたらいい」
ラクサーヌは頭をかき、げんなりしながら伝えてきた。
「有事の際――つまり俺らが失敗して死んだときに、最後の悪足掻きをして対処してもらう。あとは野となれ山となれ、ってな。何人かはそれで生き延びるだろ」
「じゃあ、皆さんを護るためには……僕らが……」
咲弥の呟きに、ラクサーヌはゆっくりと頷いた。
「まあ、そうだ。希望を言えば、俺らで密かに女神を殺る。それが達成できて、やっと――めでたしめでたし。だな」
「その結界とやらは、しっかり機能するのか?」
ジェラルドの疑問に、咲弥は固唾を呑んで見守る。
ラクサーヌは首を横に振った。
「正直、わからんな。マジで」
「んなっ……そんな……そんなあやふやなものに――」
「あのなぁ? 相手は得体の知れない女神だぞ? 確実――なんてものを、存在させろってほうが無理あんだろ。だからやるかやらないか、お前ら帝国側が決めろ」
実際問題、ラクサーヌの言葉に間違いはない。
それを理解したからこそ、ジェラルドは黙ったのだ。
ただジェラルドが抱えた不安も、咲弥は理解している。
失敗すれば、世界中が混乱の渦に呑み込まれてしまう。
沈黙する場に、ラクサーヌの低い声が響いた。
「やらねぇってんなら……もう、勝手に滅べ」
「ぐっ……」
進んでも地獄。引いても地獄――
そんな二択を突きつけられ、ジェラルドは口を閉ざした。
咲弥も内心、言い知れない恐怖に包まれている。
自分がしっかり力になれるのか、ただ不安でしかない。
その上さらに、自分を除く複数人を、他者の精神世界へと連れて行けるのかどうかも未知数だった。仮に成功しても、今度は守護神獣の件が絡んでくる。
また仲間達への安否も、咲弥は気にかかっていた。
当然、あらゆる意味から警告ができない。
そもそも任務の特性上、外部には漏らせないのだが、もし遠くへ離れていてくれと言おうものなら、間違いなく異変を察知し、仲間達全員で首を突っ込んでくる。
それはもはや、火を見るよりも明らかであった。
たった一通のメッセージから、始まった旅――
まさかこんな事態になるとは、予想すらもしていない。
仲間を一緒に連れてきたのは、本当に大失敗だった。
最悪の想定ばかりが、咲弥の脳裏をぐるぐると巡る。
しばらく続く沈黙を打ち破ったのは、ジェラルドだった。
「了解した。少し時間をくれ。まずは陛下に報告する」
「ああ。ただ準備にも、結構な時間がかかる。早くしろ」
「……了解、した」
ジェラルドは立ち上がり、一礼してから場を後にした。
咲弥とラクサーヌが、ぽつんと取り残される。
不意に、ラクサーヌが声を上げた。
「あっ、しまった」
「ど、どうしたんですか?」
「いや……あのおっさんの精神世界に、俺を連れていけるか試すっつぅのを忘れてた。さすがにぶっつけ本番は怖ぇし、できなきゃ別の方法考えなきゃだしな」
「あ、あぁ……! 確かに、そうですね」
咲弥は納得する。言われるまで思考が及ばなかった。
早い話、可能か否か確かめてみればいい。
咲弥は自分の間抜けさに、ほとほと呆れ果てる。
ラクサーヌは椅子に座り、揺りかごのごとく浮かした。
「まあ、文献程度でしか、お目にかかったことはねぇが……それと似た力なら、たぶんできるんだろうがな。でも一応、戻ってきたら、そんときゃあ頼むぜ?」
ラクサーヌが可能と思った根拠を知り、咲弥は胸の内側で静かに驚いた。
自分が調べた限りでは、似た力など発見できていない。
さすが大陸一の呪術師だと、こっそりと思わされた。
「はい。わかりました」
「はぁ……金のためとは言え、命張ることになるたぁな」
ラクサーヌのぼやきに、咲弥は苦笑を送る。
成功報酬は一〇億という大金だった。
あまりにも、現実味がない金額ではある。
そのため、咲弥は今の今まですっかりと忘れていた。
「ラクサーヌさんは、貰ったお金をどう使うんですか?」
「ああん? さぁ……どうすっかなぁ……」
ラクサーヌは呆然とした面持ちで、宙を見つめていた。
「ああ……そうだ。国に帰ったら、弟子を取って育てるのも案外、悪くねぇのかもなぁ……お前に呪術を教えて初めて、漠然とそんな気がしてきたぜ」
ラクサーヌは椅子と姿勢を正し、咲弥へと向き直った。
「ほんと、変な奴だよな。お前って」
「いやいや、別に普通ですから。でも……ラクサーヌさんは確かに、向いているかもしれません。教え方が凄く丁寧で、とてもわかりやすかったですから」
「へっ。あったりめぇだ」
ほんの少し、ラクサーヌは嬉しそうだった。
そんなラクサーヌを、咲弥はぼんやりと見つめる。
次第に胸の内側を、嫌な何かがぐるぐると生まれ始めた。
彼らは、まだ知らない。
守護神獣が、どういった存在なのか――
直接対面した咲弥だからこそ、よくわかる。
あれはきっと、普通の人がかなうような存在ではない。
正直、戦わざるを得なくなるとは考えたくなかった。
だから安全な解呪方法を、約一か月以上も探し続けた――しかし、安全な方法など存在しない。もっと言えば、呪いがいつ発動するのかさえ不明のままなのだ。
ラクサーヌいわく、呪いにはかなりの種類がある。
発動期間の長い呪いは、それだけ効果が凄まじい。帝国を滅ぼしかねないほどの威力ともなれば、どうしたって相応の時間はかかってしまうことになる。
もしラクサーヌが見立てた破滅樹の呪いが発動した場合、呪いは蔓延していく。
そうなれば、もう止める手段はいっさいない。
だからこそ、強硬手段に打って出るしかないのだ。
理解すればこそ、どんどん別の不安が胸に募っていく。
初対面での印象は最悪だったが、一か月以上も付き合い、ラクサーヌのよさはしっかりとわかっている。根は優しく、とても真面目で素直な人なのだ。
ジェラルドに対しては、最初から好感を抱いている。
少し堅物な面はあるものの、まるで父親みたいな安心感を与える雰囲気を醸した人だった。むしろ、彼がいなければ、帝国で安心して過ごせなかったに違いない。
どちらも咲弥にとっては、大切な人となっていた。
(……そう……だから……)
絶対に、死なせたくはない。
しかし、相手は守護神獣なのだ。
無事で済むはずがない。
咲弥は目を閉じた。
その選択は、今でも正しいのかどうかはわからない。
それでも――
「ラクサーヌさん」
「んあ?」
「……僕は今でもずっと、迷って、悩んで……」
「もごもごと、んだよ! はっきり言いやがれ!」
ラクサーヌの怒声を浴びたが、咲弥は真摯に向き合った。
「それがいいことか、悪いことか、正直わかりません」
「だから、何がだ!」
「……僕は、精霊と人を繋ぎ、力を与えることができます」
ラクサーヌの顔が強張った。
咲弥は重ねて告げる。
「黒白のハクには、精神世界へ行ける力があります」
「ああ。だいぶ前に聞いたぞ」
「その精神世界は、確かに純粋な魂と対面できます」
「それも聞いた」
「紋章者であれば……紋章石を宿していれば、それは精霊の領域を繋ぐ扉になります。精神世界では、その扉を開けば、精霊と直接対面できるんです」
「……マジかよ」
咲弥はこくりと頷いた。
「あまり、公にしたい力ではありません。僕の行動一つで、どんな影響が出るのかまったくわからないからです。最悪、世界に大混乱を招くかもしれませんから」
「じゃあ、なんでそんな話を……?」
「僕、ラクサーヌさんのことが好きです」
ラクサーヌの顔が、途端に引きつった。
咲弥は言ってから、言葉が足りなかったと気づく。
「んだよ! キメェな! んな趣味ねぇよ!」
「あっ! いやいや、そうじゃなくて! 人としてです! 尊敬をしてるって! つまり、そういうことですよ!」
ラクサーヌは、ひどく渋い表情で固まっていた。
これにはもう、苦笑でしか誤魔化せそうにない。
咲弥は気を取り直し、改めてラクサーヌを見据える。
「誰にも、死んでほしくなんかありません。ですが、僕らの相手は、守護神獣――最悪の場合、女神様かもしれません。それなら、ほんのわずかなのかもしれませんが……生存率を上げられるなら、僕は……僕は……」
「はぁん。なるほどな……」
ラクサーヌは鼻で笑った。
「はっ! おもしれぇ。じゃあ、ぜひ与えてもらおうか」
「まだ時間があります。ですから、別の力も開花できるかもしれません……それに関しては、本人の資質によるところが大きいかもですが」
「ほう……?」
「……ジェラルドさんが戻ってきたら、まずは一人ずつ精神世界につれていきます。そこで自分の宿した紋章石の精霊と出会い、対話してみてください」
ラクサーヌは頷き、不敵な笑みを湛えた。
「へっ……ほんと、お前ってとことん変な奴だな」
「いいえ。普通ですよ」
「そういう奴が、マジで一番やべぇんだよな」
「いやいや、なんでですか」
「まあ、楽しみにしといてやらぁ」
「はい」
咲弥は覚悟を決め、ラクサーヌに返事をする。
そして――
ジェラルドが戻るまでの間、少し場は静寂に包まれた。