第十五話 心苦しい思い
別世界を訪れてから、咲弥はあまり夢を見なくなった。
起きた瞬間に忘れる。ただそれだけのことかもしれない。
少なくとも、本人に夢の記憶は残っていなかった。
とりとめのない夢は、やがて闇に溶けて消えていく。
大半はその程度だが、たまに現実味の強い夢が存在する。
久々に咲弥が見ている夢は、五感を覚える後者だった。
とはいえ、別に現実感のある場所ではない。
ここは本来、幼い乙女が思い描くような世界なのだ。
どこも色鉛筆を使ったような、優しい色使いをしている。
綿菓子を彷彿とさせる雲の地面――
とても柔らかいボールみたいなシャボン玉――
まるでトランポリンにも等しいキノコ――
子供が描いたような愛くるしい謎の動物――
そして、どこまでも続く花と甘い香り――
咲弥は童心に返り、そんな乙女的な空間を堪能していた。
キノコで空高く飛び、落下中にシャボン玉に跳ね返され、雲の地面にぱふっと乗る。華やかな匂いを発する謎の動物に群がられ、体中をくすぐられた。
なぜかはわからないが、無性に楽しい。
「もう、やめてよぉ」
咲弥は言いながら、優しく動物を一匹ずつ離していく。
可愛らしい声をあげながら、動物は跳ね回っていた。
シルクに近い滑らかさがあり、かなり手触りが心地よい。
その中には、弾力に富んだ動物もいた。
「うきゅ?」
困惑げに鳴いた動物の頬を、揉むように撫でまわした。
ぷるぷるとしているのに、張りと温もりがある。
もはや、やみつきになりそうな感触であった。
「あははっ。君、可愛いなぁ」
「ん、はぁ……」
唐突な艶めかしい吐息に、咲弥はぎょっとする。
それはどこか、女らしき声質をしていたのだ。
一気に我に返るや、夢の世界はぐにゃりと消え去る。
咲弥の視界は暗いが、やや赤みを帯びていた。
朦朧とした意識を抱え、眠りから覚めたと自覚する。
不思議な話――いまだ華やかな香りがしていた。
それどころか、まだずっと手に感触と温もりがある。
理解不能な心境を抱え、ゆっくりと目を開いていく。
射し込んだ光に目をやられ、またとっさに閉じた。
その際――何か一瞬、衝撃的な光景を捉えた気がする。
絶対にありえないはずの存在が、陽射しを浴びていた。
「……え?」
咲弥は再び目を大きく開き、それから絶句する。
思考が完全に固まった。まったく状況を把握できない。
なぜか銀髪の少女が、同じベッドで寝転がっていた。
ほんのり赤らんだ美麗な顔を伏せ、上目遣い気味に咲弥を紅い瞳で見据えてきている。手触りのよいネグリジェを着た彼女は、少し恥ずかしそうな顔をしていた。
咲弥は次第に、違和感の正体に気づく。
通常、手触りなどわかるはずがない。
漠然とではあるが、ふっと記憶がよみがえってきた。
夢を見ていた気がする。そこで何かに触れていた。
その何かは、思いだせない。
だがどうしてか、触り心地がよかったことは覚えている。
もはや、それが夢か現実なのかわからない。
一つ言えるのは、今もなお紅羽の胸に触れている。
どんどん血の気が引くさなか、紅羽が静かに呟いた。
「……咲弥様の、えっち」
「――っ!」
咲弥は声にならない悲鳴をあげ、ベッドから転げ落ちた。
寝起きのせいもあってか、思考が上手く働かない。
「な……んな……な……なな……」
咲弥は気が動転してしまい、ついでに全身が震えだす。
紅羽がベッドに手をつき、さっと上半身を起こした。
綺麗な銀色の髪が、さらさらと流れ落ちていく。
咲弥はひっくり返ったまま、起き上がれない。
そんな姿勢でも、視線だけは紅羽から外せなかった。
とても扇情的な格好に、つい紅羽の胸に目が向かう。
透き通るような白い肌に、大きな谷間ができている。
ネイほど主張は激しくないが、紅羽も充分にでかかった。
少なくとも、咲弥の手のひらでは全部を覆い隠せない。
(いや、違う……そうじゃない! なんで、ここに……?)
理解に苦しい展開に、思考がまとまる気配はない。
真顔になった紅羽が、淡々とした口調で挨拶してきた。
「おはようございます。咲弥様」
「おは、あ、え……な、なんで?」
紅羽は小首を傾げた。
咲弥は精一杯、声を絞り出して問いかける。
「な、な、なん、で……こ、こに?」
「メイアに、咲弥様と寝てこいと言われて来ました」
「寝て? え……? いや、だって、ここ……」
紅羽はこくりと頷いた。
「特例で許可を頂き、案内をしてもらいました」
「だ、だだ、誰に?」
「帝国軍に所属する女性です。名は聞いておりません」
どうやら、まだ理解に達せそうにない。
咲弥は改めて尋ねる。
「……許可?」
「はい」
「……誰の?」
「帝国軍第二大将軍、ジェラルドという方の許可です」
ようやく、思考が正常に働き始める。
部屋の移動は、咲弥の行動に配慮してだと思っていた。
確かにそれも、理由の一つには違いない。
だが大部分は、きっとこのための移動だと考えられた。
現状、咲弥は特殊な任務の最中にある。
そのため、帝国城の貴賓室で生活しているなどと、外部の者に知られるわけにいかない。あるいは単純に、外部の者を下手に招けないだけの可能性もある。
なにはともあれ、多くの理由があって今に至るのだ。
そんな曖昧な程度の理解までは、なんとか辿り着く。
「咲弥様」
咲弥はぎょっとする。
紅羽がベッドに乗ったまま、咲弥へと迫ってきた。
そのせいで、胸の谷間がよりくっきりと浮き上がる。
内心で慌てふためく咲弥に、紅羽が手を差し出してきた。
何のための手か、よくわからない。
「その姿勢、おつらくないですか?」
「ああ……あぁ……うん。そうだね」
咲弥は納得してから、滑らかな紅羽の手を掴んだ。
さっと引っ張り起こされたあと、咲弥は彼女に背を向けるかたちでベッドのふちに腰を落ち着けた。場に沈黙が落ち、ひどく重い空気が満ちていく。
何を話せばいいのか、うまく思い浮かばない。
「あ、と……そのぉ……」
「咲弥様」
背後にいる紅羽へ、咲弥はやや肩越しに振り向いた。
紅い瞳を見据えながらに応じる。
「え? うん? なに?」
「お元気そうで、なによりです」
「ああ、うん……そうだね。紅羽も元気そうでよかった」
「はい」
咲弥は不意に、祭典の話を思いだした。
「そういえば、そっちのほうは順調?」
「はい。問題ありません」
「そ、そっか……」
「このまま順調に事が運べば、成功は間違いありません」
「そう。よかった。なんか、ごめんね。手伝えなくて……」
「いいえ……」
咲弥は言葉を選び、紅羽に告げた。
「僕のほうは、まだまだ時間がかかりそうなんだ」
「そうですか」
「ただ、やることは多いから……」
「ほんの少し――体つきが、よくなりましたね」
「あっ! わかるっ?」
咲弥は自然と笑みを浮かべた。
「指導官の方に、足技とか教わってるんだけど、今は別に、武器の扱いも簡単にって感じで、ちょっと習ってるんだ」
「武器、ですか?」
「それぞれの武器を、完璧に使いこなすため――って、いうわけじゃなくてさ、武器の扱いを覚えれば、自然と対処法も見えてくるからって言われて」
紅羽はこくりと頷いた。
「そうですね」
「紅羽みたいには、いかないけど……でも、少し……本当にほんの少しだけ、近づけたような気がするよ。ああ、紅羽もたくさん武器を使いこなせるから、すぐ動けるのかなって。といっても、まだまだ全然だめなんだけどね」
咲弥は苦笑する。黒い髪に指を通し、軽く頭をかいた。
「それでも……ちょっとずつでも実感できるのは、いいね。前までは難しかったことも、今じゃなんとかできるかもって感じになれてるからさ」
見据えてくる紅羽を眺め、咲弥ははっと我に返った。
「あ、いや……その……ごめん」
「なにが、でしょうか?」
「別に、遊んでるわけじゃないから。極秘任務も自分なりに頑張ってるよ」
紅羽は沈黙してから、穏やかな笑みを浮かべた。
「わかっています。咲弥様がお元気そうで、安心しました」
「なるべく早く、任務が終わるように頑張るから」
「いいえ。急く必要はありません」
紅羽は首を横に振った。
「ですが、もしも都合がつけば……一週間後に、例の祭典が開催されます。私も一人の踊り子として、参加します。観に来て……くれますか?」
紅羽の紅い瞳の奥に、不安げな色が宿っていた。
咲弥は複雑な心境を抱えたが、まずは頷いて応える。
「一週間後か……う、うん。なんとかしてみせるよ」
「そうですか」
紅羽がもぞもぞと動き、咲弥の隣へと移動してきた。
そのとき――紅羽のすらりと伸びた白い脚が露わとなり、ネグリジェの裾が捲れ上がっていく。かなり際どいところで止まり、下着が丸見えになりかけていた。
なかば無意識に目が向き、咲弥は勝手にどきっとする。
それでなくても、紅羽の肢体は魅力に満ちているのだ。
胸が高鳴る咲弥の手に、紅羽がそっと手を乗せてくる。
咲弥はびくりと肩を震わせた。紅羽の紅い瞳を凝視する。
紅羽は美麗な顔に微笑みを湛え、短い一言を放った。
「約束、ね」
「……あ、ああ……うん! 約束」
咲弥はかろうじて笑みを作り、紅羽に応答した。
場に妙な空気が漂う。甘くねっとりとした雰囲気だ。
きっと恋人同士であれば、そのまま――
そんな想像が働くと同時に、複雑な心境が胸を圧迫する。
(……こんな関係、手放したくなんかないなぁ……)
それが心に浮かんだ、素直な感想であった。
だが、最悪の場合――自ら手放さなくてはならない。
その選択が、自分と紅羽、またみんなのためになるのだ。
心が落ちていく。まるで奈落の底のようにも感じられた。
天使から与えられた使命、家族、別世界の住人――
あらゆる問題が、咲弥の心をひどく蝕んでいく。
それでも、心配かけまいと笑みだけは崩さずにいた。
(……天使様……さすがの僕でも、つらいですよ……)
胸の内側で吐いた泣き言は、決して慰めにはならない。
わかっている。理解してなお、吐かずにはいられない。
そうしなければ、心の何かが壊れてしまう気がした。
静寂に包まれる部屋の中に、電子的な音が鳴り渡る。
咲弥がセットした目覚まし時計だった。
「あ……」
「咲弥様。お会いできて、少しほっとしました」
紅羽がベッドから、すっと立ち上がった。
咲弥もつられて腰を上げる。
「く、紅羽……?」
紅羽は、ベッドの裏側へと回りながら述べた。
「咲弥様とお会いするために、いくつか条件が課されました――ですから、人気のない時間に、私は再び帝都のほうまで戻らなければなりません」
「ああ、そうだったんだ……ごめん」
「いいえ。短い時間だとしても、お話できてよかったです」
紅羽が突然、着ていたネグリジェを肩から下へ落とした。
咲弥はぎょっとする。大慌てで身を翻した。
一瞬とはいえ、紅羽の綺麗な後ろ姿が脳裏に焼きつく。
「ちょっ……! 紅羽! 一応、僕……異性だから! もう少し、こう……なんというか、恥じらいってやつをだね?」
「咲弥様以外の前ではしません」
それならば、安心――と、なるのか少し疑問ではある。
咲弥が懊悩している最中、紅羽が淡々とした声を紡いだ。
「またこうした時間は、何度か作る予定だ――担当の方に、そう言われましたが……祭典の復活に向け、私も追い込みをかけなければなりません」
「あ、ああ……そっか……」
気を取り直すなり、咲弥は言葉に詰まった。
つまりはもう、最低でも祭典までは会えない。
咲弥はとても申し訳ない気持ちになる。
「もし、それまでにこっちが終われば……すぐ行くから」
「了解しました」
紅羽の了承を最後に、お互いに沈黙する。
紅羽が着替える物音だけが、かすかに響き続けていた。
ほどなくして、その衣擦れの音もぴたりと止まる。
「咲弥様。着替え終わりました」
「あ、うん」
咲弥は後ろを振り返った。
見慣れた白い衣服を着た紅羽が、窓を背に立っている。
紅羽は小首を傾げ、穏やかに微笑んだ。
「約束。守ってくださいね」
「え? あ、うん。もちろん」
「それでは、戻ります」
「気をつけてね」
「はい。了解しました」
そう応えた紅羽が、なぜか窓のほうへと歩み寄っていく。
咲弥は疑問に思い、首を捻る。
紅羽がさっと窓を開き、窓の下枠へと片足を乗せた。
咲弥は自然と驚きの声が漏れる。
「えっ――?」
「それでは……」
「ちょちょっ!」
紅羽に制止の声は届かない。
そのまま窓の外へ、紅羽はすっと飛び立った。
「ここ五階なんだけどぉおおおおっ?」
咲弥は大慌てで、窓のほうへ駆け寄った。
やや遠くにある地点で、紅羽が着地した瞬間を捉える。
そのあと、あっという間に紅羽の姿が見えなくなった。
(えぇえええ……ま、まあ、紅羽なら普通……なのか?)
なんとも言えない気持ちを抱き、咲弥は窓の外を眺める。
なんらかの条件を、紅羽は課されたと言っていた。
あまり人に、見られてはならないのかもしれない。
だからといって、五階の窓から帰るのは違う気もする。
咲弥はため息をついた。
いろいろ思うところはあったが――ただ、突然の出来事に驚きはしたものの、紅羽に会えて満足している自分がいる。そのせいか、普段よりも体の調子がいい。
やはり彼女は、特別な存在だということなのだろう。
だからこそ、より心が重く苦しくなる。
咲弥は首を横に振り、思考を改めた。
今はまず、目先の問題を片づけなければならない。
「さて、僕も準備しなきゃ……」
消えない心のもやもやを抱え、咲弥は身支度を始めた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
帝都にある夜の酒場は、騒がしい時間を迎えていた。
日中に比べれば、気温は心地よいくらいまで下がるため、人はより活発さを増していた。ネイとゼイドの二人もまた、輪に馴染むかのように空騒ぎをしている。
紅羽はやや離れた位置にある、静かなテーブル席にいた。
「――で、ちゃんと咲弥と寝てきたのか?」
同じテーブルを囲むメイアが、酒を片手に尋ねてきた。
紅羽は頷きをもって応える。
「はい。とてもよく熟睡できました」
「……んぁ?」
「ただ咲弥様が、疲労困憊の様子で寝ていましたので、少し治癒術を施してから、隣で添い寝させていただきました」
メイアはどこか、きょとんとした顔をしている。
それから苦笑しながら、彼女はすっと肩を竦めた。
「そういう意味ではなかったのだが……まあ、それもそうか……純愛だな」
メイアの言葉の意図が汲み取れず、紅羽は小首を傾げる。
だがメイアは、それ以上は何も言わなかった。
事情はよくわからないが、紅羽はきちんとお礼を告げる。
「配慮していただき、ありがとうございました」
「この程度、別になんでもないさ」
「心がほんの少し、軽くなった気がします」
「なら、手配した甲斐があるな」
「あ、あの! 紅羽さん!」
メイアの言葉が終わるや、若い男の声が飛んだ。
紅羽は顔だけ振り返る。
褐色の肌をした三人の男が、地に膝をついた姿勢で花束を差し出していた。
「僕と、真剣なお付き合いしてください!」
「いいえ! どうか、わたくしめと!」
「いいや! 俺とだ!」
「私、主人がおりますので」
紅羽は即座に断ってから、メイアに視線を据え直した。
度々ある誘いを受けては、こうして一蹴している。
メイアが立てた親指を紅羽へ向け、つんつんとつついた。
「昨夜も旦那様と、幸せたっぷりに寝てきたばかりだぞ」
「ね、寝て……? がぁ~んっ……!」
周囲の者が、男達を笑って慰める声が聞こえた。
険しい表情をしたシーラが、紅羽の視界を横切っていく。
「もし踊り子に手を出したら、袋叩きにしますからね!」
気持ち本気の声で、シーラが怒鳴った。
そちらで話が進むさなか、紅羽はメイアに声をかける。
「気のせいであれば、何も問題はありませんが……」
「んぅ。どうした?」
「彼はまた、何か抱え込んでいるかもしれません」
メイアが真摯な面持ちで、小刻みに頷いた。
紅羽は、もう少し噛み砕いて説明をする。
「もとから隠し事は多いのですが、それとは別の――そんな予感がしました」
「たんに極秘任務が、難航しているんじゃないか?」
「いいえ……違和感を覚えたのは、空白の領域後からです」
「ふむ……」
メイアとの間を、沈黙が行き来する。
しばらくしてから、メイアは呟くように口ずさんだ。
「ならば……古代の遺跡だろうか……もしかしたら、我々にまだ伝えていない何かを、隠し持っている可能性があるな」
「それは、いったい……?」
「いまさらだが、咲弥の顔がかなり青ざめた瞬間があるのを思いだした。それは神々の果実ではなく、もっと別の情報を耳にしたからなのかもしれない」
紅羽は思考する。彼がいったい何を聞いたのか――
「正直、古代語なんか私にはわからない」
「彼は以前から古代語に長けておりました。それは、精霊のお陰だと――ですが、私達は別に、精霊からそのような力は与えられておりません」
「精霊、か……聞けば、咲弥の精霊は特殊らしいな」
紅羽はこくりと頷いた。
「はい。我々とは違い、呼びかけに応えないそうです。また事態がひどく窮する直前、意思を流し込んで召喚させるよう催促してくるとお聞きしました」
「そうか……まあ一度、問い詰めてみるべきだろうな」
「おそらく……彼は応えてくれません。これまでも……」
もどかしい気持ちが、胸の中をぐるぐると巡っていく。
紅羽はなかば無意識に、そっと両手で胸を押さえ込んだ。
紅羽へと視線を注いでいたメイアが、ふっと微笑する。
「それでも、何もしないで後悔するよりはいい。お前が彼に異変を覚えたのであれば、きっとそれは正しい。私はお前の直感を信じよう」
「……感謝します」
紅羽は微笑みを顔に作り、再びお礼の言葉を送った。
メイアは頷いてから、手にした酒を口へと流し込む。
一段落つき、紅羽は改めて周囲を眺めていく。
彼がここにいれば――そんな夢想を、また始めている。
漠然と募る不安が、際限なく紅羽の胸を苦しめていった。




