第十一話 美しく素敵で知的なパスカ
間取りで見れば、パスカの研究室はわりと広かった。
小さな研究のほか、執務もここでしているらしい。
そのため、こまごまとした物がたくさんある。
特に机の上は、ほぼ機能しないくらい乱れ切っていた。
咲弥は今現在、研究スペースへと招かれている。
ほかよりは片づいている机と向き合い、ぽつりと置かれた鞄を眺めていた。
妙な意匠をした鞄の形は、旅行用のスーツケースに近い。
「これが、噂の物……なんですか?」
「うん。そうだよ! 凄いっしょー?」
リィンが桃色の髪を揺らし、嬉々とした表情で応えた。
彼女の隣にいる青髪ラーズが、鼻息を荒くする。
「実はな、これ――我々の部署で作ったものなんだぞ」
「まあ……ほぼ、パスカ所長の開発だけれどねぇ」
どこかうんざりとした様子で、緑髪のレイがぼやいた。
内情はよくわからないが、咲弥は素直に凄いと感じる。
机の向こう側にいるパスカが、にやりと笑った。
「まあ、ちょっと見たまえよ」
パスカが水色の紋様を顕現する。
どうやら氷に属した紋様のようだ。
「美しく素敵で知的なパスカ製の鞄、我が紋様に宿れ」
少しきつい品名だと、咲弥はこっそりと思った。
頬をやや引きつらせたが、すぐ驚愕のものへと変わる。
机に置かれた鞄が淡い光を放ち、瞬時に消え去った。
それはどこか、紋章石を宿したときと似ている。
「おわぁ……これは、本当に凄いですね」
咲弥が感嘆のため息を漏らすや、パスカが浮かべたままの紋様に指を差した。
「私の紋章穴――この透明な部分に収められている」
「もしかして、これって無属性の紋章石扱いなんですか?」
「さすがだね。察しがいい。その通りさ」
パスカは小首を傾げながら、ちょこんと肩を竦めた。
まるで学校の先生に、褒められたような心持ちになる。
パスカが机へ視線を戻し、それから凛とした声を紡いだ。
「美しく素敵で知的なパスカ製の鞄、我が紋様から退け」
すると今度は、パスカの紋様から鞄がボトッと落ちた。
紋章石と同質の役割が、本当にあるらしい。
レイが眼鏡を指でクイッと持ち上げ、説明してきた。
「現状では、この大きさが紋様に込められる最大限なのよ。なんかこれ以上は、サイズオーバーになってしまうみたい」
「あと、微生物以外の生命体は入れられないぞ」
咲弥は興味を惹かれ、ラーズへと顔を向けた。
ラーズは青髪に指を通し、少し頭をかきながら述べる。
「なぜかカビや菌とかなら問題ないんだが、蚊やダニなどの生物が一匹でも入っていたら、紋様に宿る直前にすぽんっと排出されるんだ。理由は当然、わからん」
「虫も死んでたら、普通に宿せるようになるんだよねぇ……まあ、こういった可不可を調べて謎を解き明かすってのも、私達の研究の一環ってわけ」
そう補足してきたのは、リィンだった。
リィンはそのまま、ぐいぐいと咲弥へ迫ってくる。
至近距離にまで顔が近づけられ、咲弥はぎょっとした。
「また飲食物を入れていた場合、たとえ数か月経過しても、保存された状態を維持しているの! きっと紋様の中では、時間が停止しているのかもっ? 時計を入れて確認したら、入れたときの時刻が示されたままだったからね!」
リィンとの距離に慌てながら、咲弥は便利だなと思った。
場合によっては、かなり応用が利きそうな話でもある。
興奮するリィンの背後で、ラーズがため息をついた。
「い~や。俺は時間切除説を推すね。おそらく紋様の中では時間が存在しない。だから物視点で考えれば、入れた直後にすぐ取り出されたようなもんさ」
リィンがむっとした顔で、背後を振り返った。
「それって、未来への瞬間移動でしょ? 絶対ありえない。じゃあ訊くけど、紋様に込められた紋章石も、取り出される未来に飛んでるってことになるよね?」
「だぁかぁらぁ! 未来への瞬間移動と時間切除は別物だ。取り出される未来に飛んでるんじゃなくて、時間そのものの概念が存在しねぇんだよ!」
「言い方が違うだけで、おんなじことでしょ! そもそも、それ自体も時間停止に等しい事象だし、あんたの説だと空間そのものが存在しないじゃない」
「ぜんっぜんっ、違うね!」
「じゃあどう違うか、きっちり説明してみなよ!」
リィンとラーズの二人が、激しい口論を始めた。
正直、何がどう違うのか、咲弥にはさっぱりわからない。
ただ紋様の中ではないが、精神世界と似たものであれば、時間の概念は存在する気がした。それを時間停止、あるいは切除と呼ぶのか――
人の見方次第で、結論は変化するのかもしれない。
咲弥はふと、リィン達の傍にいるレイを見る。
彼女はにっこりと微笑み、リィン達を手で示した。
「とまあ、こんなどうでもいい言い合いも、研究の一環ね」
「どうでもよくない!」
「どうでもよくねぇよ!」
リィンとラーズが、揃って否定の声をあげた。
咲弥は苦笑で応える。
再び言い合いを始めるリィン達を眺めていると、パスカの声が耳に届いた。
「よかったら、これは君にプレゼントしよう」
「えっ! いいんですか?」
「ああ。精霊の件での、お礼だと思ってくれ。なんなら――君の仲間にも、これと同様の品をプレゼントしてもいいぞ」
あまりに気前がいいため、咲弥はひどく怪しむ。
何か裏がありそうな、そんな予感がした。
そう疑いはしたものの、ただの杞憂かもしれない。
咲弥が説明している最中、パスカは心から驚いたといった面持ちで耳を傾け、ときどき質問をしてくる以外は、ずっと真摯な姿勢を保っていた。
少なからず、パスカに満足感を与えられた印象はある。
賢い相手なだけに、変に勘繰ったと反省しておく。
「いつか商品化した際、国際大会の優勝者達も愛用している――そう宣伝すれば、きっとがっぽりと儲けられるからね」
「あっ……そういう……」
咲弥は苦笑した。やはり、パスカには裏がある。
とはいえ、これは本当にありがたい。
咲弥は、ふと気づいた。
「あぁ……でも、僕……紋章穴、一つしかないんですよ」
パスカがぎょっとした顔を見せた。
なんとも言えない笑みを浮かべ、咲弥は場を持たせる。
パスカは困り顔で固まり、あっと声を発した。
「そういえば、君の紋様は少し変わっていたね。ちょっと、見せてくれないか」
「わ、わかりました」
咲弥は右手を前に差し出し、空色の紋様を宙に描いた。
レイ達が感心したような声をあげていく。
「映像でも見たけれど、これ本当に凄く綺麗ですねぇ」
「いろんな紋様を見てきたが、これはマジで珍しいな」
「実はさっ君、歴史的偉人になれちゃう人なんじゃない?」
いきなりリィンに愛称をつけられ、咲弥はどきりとした。
人生で一度も呼ばれた記憶のないものでもある。
三人はそれぞれ、紋様について語り始めた。
そのさなか、パスカが顎に指を置き、妙な声をあげる。
「おやぁ?」
「どうしました?」
「なんだ。紋章穴が二つあるじゃないか」
「えっ?」
唐突な驚きが、咲弥の胸を占める。
咲弥が目で探す前に、パスカが指を差した。
「この青い光がある部分と、対象の部分だよ。ほら、ここ」
咲弥は絶句する。
確かに、そこには穴が空いていた。
じわじわと理解が及び――
「あ、穴が空いてるぅううううう! わぁあああああ!」
咲弥はつい、心の底から感激の声を放った。
最初に落胆したのは、冒険者資格取得試験の最中だった。
火の紋章石を託されたものの、紋章穴は一つしかない。
だから自分の代わりに、紅羽へと紋章石を託したのだ。
そこに後悔もなければ、正解だったとすら思っている。
とはいえ、一つしかないのは、さすがに少しばつが悪い。
その日から、修行するたびに空いていないか眺めていた。
当然、簡単に願いが叶うはずもない。
いつの頃からか、確認する作業もしなくなる。
もう一つしかないものだと、そう諦めたからだ。
あれからどれほど月日が流れたのか、もうわからない。
「空いてる! 二つ目の紋章穴が、空いてる!」
あまりの嬉しさに、咲弥は泣きそうな心境であった。
紋章者になれたのは、そもそも天使の謎の力でしかない。何もわからないままオドが解放され、紋様も始めから簡単に顕現が可能だった。
ほかの者達とは違い、血の滲むような努力はしていない。
だからこそ、余計に深く心に沁みた。
きっと本来は、紋章者になれた瞬間に味わうような感覚に違いない。
「ははっ――まあ、よかったじゃないか」
「はい! 穴が二つ! 空いてました!」
二つ目の穴から、咲弥は視線を外せない。
だが、紋様越しにパスカの姿は見えた。
「じゃあこれを、君の紋様に宿したまえ」
咲弥ははっと我に返り、机の上にある鞄へ目を向けた。
記念すべき二つ目の紋章穴に、鞄を宿そうと思い――
「……あの?」
「なんだ?」
「鞄の名前ですが……もっと、いいのありませんか?」
パスカが目を見開き、驚きを理知的な美貌に湛えた。
「おいおい。これ以上の名があると……? 考えられん」
「いやぁ、あの……さすがに、ちょっと……」
「いったい、何を恥ずかしがっているんだ? さあ、美しく素敵で知的なパスカ製の鞄と唱え、二つ目の紋章穴に宿せ」
「……少し、長過ぎません?」
「一理ある。じゃあ、女神パスカ様製の鞄でいいぞ」
どう足掻いても、自分の名前を入れておきたいらしい。
咲弥は困り果てた。パスカも困り顔をしている。
どう対処すればいいのか、いい案は浮かばない。
そのとき、リィンがそっけない声で言った。
「いや、正式名称は〝ヘイムケース〟だよ」
咲弥ははっとなった。国名が取り入れられている。
パスカがだだっ子のように、地団太を踏んだ。
「ちぃーがぁーうぅ! これは、れっきとした美しく素敵で知的なパスカ製の鞄なんだい! それ以外は、認めない!」
「認めないも何も……商業省のほうから許可できないって、はっきりと言われたじゃないですか。だから、お偉いさんが〝ヘイムケース〟って名づけたんです」
「そんなの知らない! 奴らが勝手に言っているだけだ!」
パスカは、なおもリィンに対抗した。
そこへ、レイが割り込む。
「あそこの許可がないと、流通自体できませんから」
「うんうん。つか、むしろ〝ヘイムケース〟がいいよな」
ラーズは腕を組み、小刻みに頷いていた。
パスカは声を荒げる。
「絶対、認めない! 絶対、許さない! 否定した産業省の奴ら全員、どんな手段を使っても地獄の底に落としてやる」
「あそこが崩壊したら、そもそも商品化できませんから」
レイが顔を引きつらせ、ぼそりと言い放った。
咲弥は対応に困り、なかば諦め気味に告げる。
「わ、わかりました。すみません。僕のせいで……えっと、美しく素敵で知的なパスカ製の鞄、我が紋様に宿れ――」
咲弥が唱えると、机にある鞄が紋様の中へと溶け込んだ。
咲弥の発言がお気に召したのか、パスカは落ち着きを取り戻していた。
「うむうむ。それで、いい。うむうむ。いい子だ」
感動と満足が入り混じった笑みを湛え、パスカが呟いた。
咲弥は苦笑するしかない。
パスカの前だけでは、そう唱えようと心に刻んだ。
(もう……パス鞄でいいんじゃないのかな……)
詰まらない冗談を、咲弥は内心で密かに思った。
それはともかく、品として見れば超一級品ではある。
荷物量を軽減できるなど、正直ありがたさしかない。
特に女性陣は――そのとき、咲弥は思考を改めた。
(ちょっと、待てよ……よく考えてもみれば、仮に全員分のヘイムケース貰えたとしても――それはそれ。これはこれ。って、感じなんじゃ……?)
『女の子ってのはね、常備しておく物が何かと多いのよ』
ネイの不吉な声が、咲弥の脳裏を過ぎ去っていく。
これまでも、限度近くまで荷物があるのはざらなのだ。
容量が増えたところで、何も変わらない可能性が高い。
不穏な予測が、咲弥の肩を深く落とした。
咲弥はため息をつき、ふと疑問を覚える。
「そういえば、このヘイ……美しく素敵で知的なパスカ製の鞄は、大事に扱うつもりではいます。ですが、もしも何かの拍子で傷ついたり、あるいは壊れたりしたら、もう紋様には宿せないんでしょうか?」
パスカはふっと短く笑った。
「それは、耐久力に関する話だね。木っ端微塵ともなれば、さすがに話は別となるが、多少の傷つき、あるいはへこんだ程度なら何も問題はないぞ」
「これはね、絶対に内緒の話なんだけど……いい? 絶対に誰にも言っちゃだめだよ? さっ君だから教えてあげる」
レイが口の前に人差し指を添え、そう念押ししてきた。
「紋章石と似て非なる晶霊石っていう結晶が発掘されてね、それがヘイムケースの外装に混ぜられて造られているの」
「実は――というか、これまでほかの品々も確かめてんだ。最初はそのまま晶霊石を……ただ紋様に宿せるだけの、何も効果を発さない物だったんだ」
ラーズに続き、今度はリィンが口を開いた。
「そこでパスカ所長が、何をとち狂ったのか……価値のない晶霊石を加工して作ったのが、コップね。そこから、お皿、フォーク、謎のトロフィー、紋章石の模造品――で、最後に本のカバーだったの」
「そこで、私はふと思ったのさ。このカバーをした状態で、紋様に宿した場合、いったいどうなるのか……ってね?」
パスカは不敵な笑みを浮かべ、言葉を紡ぎ続けた。
「結果、本ごと紋様に宿せてしまった。これを知ってから、美しく素敵で知的なパスカ製の鞄が誕生するまで、それほど遠くはなかったよ。まず問題として挙がったのが、紋章穴を絶対に一つ消費してしまう点だったからね」
「であれば、鞄。ならば、大きさは? ここが、私達の研究対象だったの」
レイは話をまとめ、簡潔に述べた。
ラーズが首を捻り、呆れ気味のため息を吐く。
「というか、現状はこれ以上の対象なんかないからな」
咲弥は内心、はっとなる。
まだほかにも隠し玉はあると、そう勘繰っていた。
理解すると同時に、パスカが改めて恐ろしくなる。
初めて訪れた日――すでにその時点から、パスカの策略は始まっていたに違いない。一番の目玉となる品を例に挙げ、それ以上が隠されているとにおわせた。
やはり、咲弥の頭脳では対処しきれない。
咲弥は自分の頭の不出来さを嘆く。
悲しみに暮れるなか、パスカがちょこんと肩を竦める。
「これが、どの国もまだ知らない、我が帝国の軍事機密だ。とはいえ、これは一般に普及する予定なんだがね……それもまあ、軍が潤う結果に結びつくのさ」
パスカは小首を傾げながら、咲弥に説明してきた。
「まずは安全性、次に悪用の防止や対策、それから安定した晶霊石の確保、製造工場の建設と、現状では問題が山積みで一般には普及できない。だが一連の問題が片づけば、あとは計り知れないほどの、莫大な資金を生めるだろうさ」
咲弥は漠然と理解したあと、少しばかりの不安を覚えた。
「そんな大事な話、本当に聞いてもよかったんですか?」
「ふっ……精霊の話は、正直これを遥かに凌駕しているぞ。ここから先は、もうお互いの信頼関係で結ばれるしかない」
パスカの意図を呑み込み、咲弥は頷いた。
「そうですね」
「もしこういった研究が好きなら、またいつでもおいでよ。騒がしい場所ではあるが、新しい発見ができるというのは、実に面白い」
パスカの言葉を聞き、心から同意を示せた。
きっと本当に、研究というものが好きな人なのだろう。
本音を言えば、ずっと入り浸りたいほどに面白い。
ただ咲弥も咲弥で、抱えている問題が山ほどあるのだ。
咲弥は苦笑で応えたあと、パスカに尋ねる。
「それでは、息抜きに――また遊びに来てもいいですか?」
「ああ。歓迎するよ」
「いつでもおいで!」
「俺らももっと、いろいろ話が聞きたいもんな」
「さっ君の話、また聞かせてね」
一同の顔を眺めてから、咲弥はゆっくりと頷いた。
「はい。わかりました」
咲弥は応えてから、ふと窓の外に視線を向けた。
気がつけば、もう空が茜色に染まりつつある。
(そろそろ、時間か)
咲弥は少し、名残惜しい気持ちを抱え――
帝国紋章学研究所から帝国軍事図書館へと向かった。