間話一 朝の風景
帝国で初めての朝を迎え――
咲弥は長く伸びた食卓の席に着いていた。
真っ白な卓布の上には、芸術の域に達した料理がいくつも並べられている。お皿一つとっても、なにやら異常なくらい拘り抜かれた雰囲気が醸されていた。
これは、絵画の一種――もしそう言い張られたら、素直に納得したに違いない。
仮に絵画と定義した場合、手前にある料理は、きっと朝を表現している。そのほかにも、日の出に照らされた庭園に、果樹園が描写された作品まであった。
そんな感想を抱きつつ、咲弥はおずおずと食事を始める。
まず芸術の一部を、控えめにフォークで突き刺した。
申し訳ない気持ちを込め、今度はナイフで切っていく。
それから口へ運び、ゆっくりと噛み締めて味わう。
凝縮されたうま味が、口の中を完全に支配していった。
噛むたびに、味が踊り狂っているような印象さえ抱く。
(なんか……美味しいのに、まったく味がしないや……)
心の中で漏れた声は、もはや矛盾でしかない。
その訳については、しっかりと理解している。
食器の触れ合う音が、極わずかながら鳴っていた。
咲弥とは対面にあたる席――とはいえ、かなり遠い場所に帝国軍第二大将軍のジェラルドがいる。彼はとても優雅に、朝食を堪能している様子であった。
また咲弥達の傍には、侍女が一人ずつ待機している。
何か指示が飛べば、即座に行動するためなのだろう。
咲弥は今朝を振りかえり、ややげんなりとした。
至れり尽くせりといえば、聞こえはいい。
だが何事にも、限度があると痛感させられた。
重々、承知している。侍女としての責務があるのだ。
だからといって、起床時間前に部屋を訪れ、朝の身支度も含め、何から何まで世話をしようとするのは、さすがに困り果てるしかない。
下着の履き替えすら、侍女達はやろうとしてきたのだ。
こればかりは、恥ずかしいなんてものでは済まない。
かなりごねた末に、侍女の一人が咲弥にこう言った。
『咲弥様のお世話は、きちんとなさってください――上からそう申しつけられております。もしこれを反故にした場合、私達一同、揃って首を切られる結果を招きます。ですから、どうかご安心して、お任せくださいませ』
脅迫まがいの忠告を受け、咲弥は押し黙るほかない。
最終的には、朝の身支度程度は自分でやると、上にはそう話を通しておくといった形で、なんとか侍女達には納得してもらえた。
そんな一騒動を終え、今現在へと至っている。
貴族的な暮らしはできそうにないと、心から実感した。
ガチャガチャとうるさい物音が常に鳴り、そこかしこから大きな笑い声や話し声が飛び交う――酒場の日常とも呼べる光景が、初日にしてもう恋しくなる。
ここはまるで、御通夜を連想させるほど静かだった。
この状況で朝食を楽しめとは、無理にも程がある。
もっと言えば、今日だけの話ではないのだ。
しばらく続きそうな予感が、心苦しさを増大させている。
(こういうのも、やっぱ慣れなのかなぁ……)
実際、経験したことのない奴隷暮らしには慣れた。
これもまた、住めば都なのかもしれない――奴隷時代とは対称と言える貴族的なものも、例外ではない可能性が浮く。
ただ不自由がないぶん、慣れるのは時間がかかるだろう。
「咲弥殿」
ジェラルドの太い声が耳に届き、咲弥ははっと我に返る。
彼は小首を傾げ、やや不安そうな表情をしていた。
「食事が進んでおりませんが、お口に合いませんか?」
「あっ、いいえ。すみません。少し考え事をしてました」
「そうですか。料理長が腕に縒りをかけた料理――どうか、堪能してください」
「はは……本当に美味しくて、びっくりしました」
ジェラルドは、ゆっくりと頷いた。
「この料理を用意してくれた料理長は、もとは調理ギルドに所属していた方で、若い頃はなんでも、諸外国を飛び回って修行していたとお聞きしています」
「そうなんですか」
「料理は味覚だけでなく、触覚、聴覚、視覚、嗅覚と五感のすべてで味わう――これが彼の流儀のため、お皿の一つにも拘りをもっております」
咲弥は感嘆の吐息を漏らした。
芸術的に見えたのも、料理長の努力の結晶に違いない。
ジェラルドは微笑する。
「昔の話ですが、腹に入れば同じではないのか……? 私がそう言ったとき、ひどく激昂してしまいましてね……料理の意義がわかるまで、説教されました」
「ははは……」
咲弥は苦笑した。
ジェラルドにも青い頃があったのだと、少し安心する。
「説教後に出されたのが、お世辞にも美しいとは言い難い、食材がかき混ぜられた冷えた料理でした。ですが、まあ……食べてみると、これがまた美味しいのです」
まず頭に浮かんだのは、冷やし中華とサラダであった。
ただ故意に冷やされたのかどうかで、話は大きく変わる。
「それからすぐあと、また同じ食材のみを使用された料理が出されました。そちらは先の料理とは異なり、とても整った彩り豊かな見た目をしています。かき混ぜるといった過程を省かれただけに過ぎないのですが、彼の言う五感のすべてで味わう――その意味を、はっきりと理解させられました」
混ぜても美味しい。混ぜなくても美味しい。
さらに故意ではなく、もとから冷えている。
いくら考えても、明確な答えは見えてこない。
咲弥は思考を諦め、ジェラルドに問いかけた。
「具体的には、どんな料理だったんでしょうか?」
「新鮮な海鮮類を扱った料理でしたか――この暑い国では、なかなか食べられない一品だと言われました。ああ、あとは卵焼きや、野菜も使われていましたね。分類上は、米料理にあたるのだと思われます」
咲弥は眉をひそめた。
漠然と脳裏に料理の姿が浮かび、さらに尋ねてみる。
「それ、お米にお酢を混ぜられていませんでしたか……?」
「ああ……そうそう。思いだしました。その通りです」
「うわっ……それって、ちらし寿司なのでは……!」
「そのような名称なのですか?」
ジェラルドからの素朴な疑問に、咲弥は少し戸惑った。
「ああ、いや……こちらでどう呼ばれているのか、ちょっとわかりませんが……僕が聞いたのは、そんな名ですね」
「おお……まさか咲弥殿も、食した経験があるとは」
「あははは……」
咲弥からすれば、ジェラルドのほうにこそ、信じられない心持ちだった。
とはいえ、別にそこまで不思議というわけでもない。
完全に一致ではないにしろ、似た料理はたくさんあった。
レイストリアの王都を探索していたときに、見覚えのある料理はいくつも発見している。その中でも一番驚いたのは、やはりラーメン屋台があったことだろう。
それは箸ではなく、フォークで食べる代物であった。
まったく別の世界なのに、なにかと類似点は多い。
少し奇妙な気持ちを覚えながら、咲弥は呟いた。
「僕も久々に、食べてみたいですねぇ」
「わかりました。私のほうから、彼に話を通しましょう」
「え? あ、いやいや……そんな、ご迷惑を……」
催促したつもりではないため、咲弥は慌てて否定した。
ただちょっと、本音が漏れただけに過ぎない。
ジェラルドはふっと微笑する。
「いいえ。彼とは気心知れた仲ですから。ただ、さきほども申しました通り……この暑い国では、なかなか難しい一品に間違いありません。ですから、用意に多少時間がかかるかもしれないというのは、覚悟しておいてください」
「ああ、いや……はい。ありがとうございます」
「それでは、朝食で英気を養ってください」
「はい! いただきます」
久々に見知った料理が、食べられる可能性がある。
口では否定したものの、内心はとても嬉しいと思った。
それに加え、料理長の話を聞いたというのも大きい。
気分が変われば、味もまた変わる。
味のしなかった朝食が、とても美味しいと感じられた。
食事する人のことを、極限まで考え抜かれている。
作法や礼儀に関しては、少し億劫ではあったが――
気がつけば、あっという間に食べ終わっていた。
(はぁ……凄い、ちょうどいい量だったなぁ……)
咲弥は満足感に浸りながら、食後の挨拶をする。
「ご馳走様でした。本当に、美味しい料理でした」
ジェラルドは微笑み、鷹揚に頷いて応えた。
咲弥はしばし、食後の休憩に入る。
そうして、本日から始まる――
また新たな一日を、迎え入れたのだった。