第七話 試し合い
咲弥はやや懐疑的に、知的な美女パスカを見つめていた。
紋様に荷物が宿せるなど、にわかには信じられない。
パスカが口もとに、不敵な笑みを浮かべた。
「別にすぐ結論を出せ――と、急かすような真似はしない。そちらもそちらで、秘密を簡単に明かしはしないだろうと、私はそう踏んでいるからな」
パスカの舌は、とても滑らかに回り続けた。
「だからこれは、最初で最後の交渉なのだと認識してくれ。こちらは条件を提示した。それに応えるか否か、少なからず選択肢に含まれはしただろう?」
咲弥は漠然と、パスカの意図を汲み取る。
無理強いされるよりは、確かにきちんと選択肢に入った。
大人の交渉に、咲弥の心がたじろぐ。
まだ真偽は知れないものの、実に魅力的な話ではある。
今回のような長距離の旅ともなれば、荷物量はどうしても増えてしまう。また事と次第によっては、荷物の厳選をする必要性が出てくる場合も多々とあるのだ。
もし本当に軽減できれば、非常に助かるのは間違いない。
「えぇっ? パスカ所長ばかなんですかっ?」
「この機会を逃したら、もう二度とありませんよ!」
「無駄に格好つけんなよ! 絶対、後悔すんぞ!」
パスカの部下らしきリィン達が、早口に捲し立てていた。
しかし、パスカは少しも動じていない。
冷静な姿勢を保ち、じっと咲弥のほうを見据えていた。
口を開かない者は、どう足掻いても口を開かない――
パスカはそれを、重々承知しているのだろう。
だから提案したうえで、選択権を相手に委ねている。
パスカは両手を小さく開き、ちょこんと肩を竦めた。
「引き留めて悪かったね。そちらにも都合はあるだろうに」
「い、いいえ……」
「ところで、この国にはいつまで滞在を?」
パスカの疑問には、ジェラルドが代わりに答えた。
「期間は不明瞭だが、しばらくは滞在してもらう予定だ――だが、好きにはさせんぞ? さきほども言ったが、彼は私の管轄だ。それを、理解しろ」
「ほう……なあに、決めるのは彼さ。選択権は咲弥にある」
ジェラルドとパスカの間に、不穏な空気が漂い始めた。
リィン達と一緒に、咲弥もおろおろとするほかない。
「やれやれ……それが、お前の狙いか。咲弥殿――どうやらこれ以上ここに居ても、息抜きにはなりそうもありません。ですから、場所を移りましょう」
「え? あっ……はい!」
咲弥は我に返り、とっさにジェラルドへ反応を示した。
案じてくれているのだと、わかってはいる。
しかしもう、パスカの取引は、咲弥の胸に大きなしこりを残していた。
パスカの口ぶりから、漠然と浮かんでくるものがある。
荷物を紋様へ収める方法は、あくまでも興味を引くための一例に過ぎない。同等、あるいはそれ以上の何かを、彼女は隠し持っている気がした。
それを尋ねたところで、きっと答えない。
すでにパスカは、咲弥への餌撒きを終えているからだ。
咲弥はジェラルドに誘導され、室内の出入口へと進む。
「いつでも連絡してくれたまえ。喜んで、お招きしよう」
ジェラルドが扉を開くや、パスカの涼やかな声が届いた。
咲弥は肩越しに、背後を振り返る。
荒れ果てた室内の中で、パスカはどっしりと椅子に座って構えていた。頬を緩ませた顔は、どこか勝利を確信している様子にもうかがえる。
咲弥は改めて、パスカに向き直った。
そして、なかば諦め半分の気持ちで告げる。
「わかりました。考えがまとまり次第、ご連絡します」
「ああ。待っているよ」
「それでは、失礼します」
簡易的な帝国式の敬礼を送り、咲弥は研究所を後にする。
しばらくしてから、ジェラルドが忠告してきた。
「咲弥殿。どうか、お気をつけください。普段はああやって剽軽者を演じているため、誤解されがちですが――あの女、相当な切れ者ですから」
「ははは……そんな印象は、確かにありましたね」
「今はもう研究職に身を置いていますが――軍学校を首席で卒業後、しばらく軍の参謀を務めていました。あれが出した功績は、正直ばかにできないほどです」
ジェラルドへの態度を含め、ぼんやりと相関図が見えた。
咲弥は頭に思い浮かんだ疑問を、そのまま投げる。
「そんな方が……なぜ、研究職に……?」
ジェラルドは答えない。言いづらそうに顔を歪めている。
重い沈黙を経てから、ジェラルドは口を開いた。
「誰でもできる参謀より、自分にしかできない可能性を追い求めたいと、駄々をこねまして……止めようとしたときにはもう遅く、文句がつけられない者を参謀に据え置き、自分の在籍を研究所のほうへ移し替えていました」
ジェラルドは、げっそりとしたため息を吐いた。
この帝国の中枢とも呼べる場所で、そこまで自由気ままに動ける人物は、おそらくそう多くはない。ジェラルドからの助言を、咲弥は素直に呑み込んでおく。
ただ問題は、咲弥の頭脳では対処しきれないことだった。
これまでも頭の出来が違う人とは、多く巡り会ってきた。
そのたびに、いつもわりを食わされている気がする。
咲弥は心の中で、ジェラルドと同等のため息をつく。
「はい、次ぃ! 素振り千回! 一人でも遅れた場合、もう五百回を追加する!」
「了解しました!」
了承の合図が無数に重なり、少しけたたましく聞こえた。
咲弥は目で探り、声がしたほうを見る。
どうやら軍人が、整えられた草地で鍛錬しているようだ。
やや遠めに見ているためか、状況がよくわかる。
剣を振り上げてから振り下ろすまでの間隔が、全員寸分の狂いもない。あまりに機械じみた素振りは、見ていてとても清々しい気分にさせた。
(やっている側は、絶対大変だよなぁ……)
そんな感想を抱いていると、ジェラルドが呟いた。
「そうか……今はシルヴィアが担当だったか……」
ジェラルドは立ち止まり、大広場のほうを眺めていた。
ジェラルドの青い瞳が、不意に咲弥へと向けられる。
「咲弥殿の主な武器は、爪――で、間違いありませんか?」
「え、あ、はい……逆に、それ以外の武器を扱った経験が、ほぼありません」
「そうですか……」
ジェラルドは顎をつまみ、虚空を見上げた。
妙な間が置かれ、咲弥は首を捻る。
「いえ……ただ待つだけというのも、退屈かと思いまして。今あそこで指導しているシルヴィアは、咲弥殿と同じ爪術の使い手なのですよ」
「えっ! そうなんですかっ?」
「咲弥殿は、冒険者。ゆえに、ここで体を鈍らせるわけにはいかないでしょう。ですから、同じ武具を扱うシルヴィアを相手に訓練されては……と、思いまして」
帝国紋章学研究所と同じくらい、咲弥は興味を引かれた。
爪を武器として扱う者とは、案外あまり出会わない。
だいたいが短剣、剣、槍、弓の四つが主流だからだ。
咲弥は悩み、ジェラルドに尋ねる。
「でも、よろしいんでしょうか……? 軍の訓練もしっかりやってらっしゃるのに、一介の冒険者でしかない僕なんかの相手をしてもらっても……」
ジェラルドがくすりと笑った。
「パスカには、方便で言った程度に過ぎませんでしたが――咲弥殿に興味がおありでしたら、本当に軍事訓練に参加してくださっても構いません」
「えっ……!」
「日々同じ顔触れでは、飽きも生じましょう。他国の賓客が参加するともなれば、みな恥をかかぬよう一層奮起するかもしれません」
「えぇええ……!」
ジェラルドは大きく笑い、手で誘導を促してきた。
「それはさておき、まずはシルヴィアを紹介しましょう」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
ジェラルドに連れられ、咲弥は訓練場へと向かった。
遠くでは聞こえなかった音も、近づくにつれ響いてくる。
剣が虚空を斬る音、地を踏み締める足の音――
音以外にも、とても張り詰めた雰囲気が肌で感じ取れた。
息が詰まりそうな空気が、この辺りにひどく漂っている。
数えきれないほど大勢の軍人を指導しているのは、褐色の肌をした銀髪の女だった。彼女もまた軍人だからか、どこか勇ましい顔つきに見える。
だが、その容姿は妖艶な美女――そんな言葉がよく似あう人であった。
まだ距離はある。しかしシルヴィアの綺麗な顔が、不意に咲弥達のほうへ向いた。どうやら気配から、こちらの存在に気づいたらしい。
シルヴィアは小首を傾げたあと、再び顔を前に戻した。
「全体、一時停止!」
シルヴィアの号令に、全員の動きがぴたりと止まる。
一呼吸程度の間を置き、まずシルヴィアが帝国式の敬礼を咲弥達側へ送ってきた。すると今度は、訓練していた者達が一斉に敬礼の姿勢へと変化する。
凄まじい光景に、咲弥は感動と恐怖を同時に覚えた。
忘れていたわけではない。ただ、改めて認識が強まる。
帝国軍第二大将軍といった階級を持ち、さらに皇帝陛下の傍に立つことが許された人物――ジェラルドの存在は、軍の訓練を中止させるほどなのだ。
そんなジェラルドと並び、咲弥はシルヴィアの前に立つ。
シルヴィアはやや硬い面持ちで、力強い声を紡いだ。
「第二大将軍ジェラルド様――ご多忙の中お越しくださり、大変恐縮でございます。本日はどのような御用で、訓練場を訪れくださったのでしょうか?」
「ああ、構わない。訓練自体は続けてくれ」
「はっ……! 了解しました」
シルヴィアは素早く、軍人達を振り返った。
「再開!」
「はっ――!」
了承の合図が重なり、爆音にも等しい響きをもたらした。
再び剣を振る音と、地を踏み締める音が鳴り渡る。
シルヴィアは少し見届けてから、また咲弥達を向いた。
「ジェラルド様、如何されましたか?」
シルヴィアの翡翠色をした瞳には、困惑が宿っている。
ジェラルドが案内するような手振りで、咲弥を示した。
「紹介しよう。こちらはレイストリア王国の冒険者、咲弥殿――少々込み入った事情から、帝国がお招きした御仁だ」
「お初にお目にかかります。帝国軍第一千人隊長を務める、シルヴィアと申します。どうか、お見知りおきください」
帝国式の敬礼をもって、シルヴィアが自己紹介してきた。
咲弥もやや慌てながら、帝国式の敬礼で応じる。
「あっ、えっと……初めまして。よろしくお願いします」
「咲弥殿は、しばらく帝国城に留まる予定だ。その間、体を鈍らせるわけにもいかない。聞けば、彼は爪術の使い手だ。シルヴィア――君もそうだろう?」
シルヴィアは目を開き、はっとした表情を見せる。
それから微笑を湛え、彼女はゆっくりと首を縦に振った。
「心得ました。身に余る大役ですが……お受け致します」
「ああ」
ジェラルドが微笑み、鷹揚に頷いた。
咲弥は固唾を呑んで、なりゆきを見守る。
シルヴィアが手のひらを、ひらりと虚空に漂わせた。
「それでは、咲弥様――こちらのほうへ」
「え? あ、はい」
咲弥が返事をするや、シルヴィアは颯爽と歩きだした。
どんな訓練を施されるのか、予想すらもつかない。
咲弥は緊張しながら、とりあえず誘導に従って進む。
少しでも何かで気分を和らげたいと思い、咲弥は前を歩くシルヴィアの観察を始めた。まず彼女の腰でゆらゆらと揺れ動く、二つの鉤爪へと視線が移る。
片方につき四本ある細長い刃物は、まるで鎌と刀の融合を思わせる形状をしていた。現状は刃の部分にはめ込む形で、連なった金属製の鞘が被せられている。
材質や装飾から、結構値が張りそうな気配が漂っていた。
シルヴィアが不意に足を止め、咲弥側を振り返る。
場所自体に、移り変わりはほとんどない。
鉤爪を腰から取り外しつつ、シルヴィアは言った。
「それでは、こちらで試し合いをさせていただきます」
咲弥の緊張感が一気に高まった。
まさか対人戦をするとは、まったく考えていない。
咲弥はひどく戸惑い、シルヴィアに問い返した。
「た、試し合い……ですか?」
「はい。一度、咲弥様の実力をお見せください。どういった訓練が効果的なのか判断するため、任を授かった私が、直接お相手させていただきたく存じます」
シルヴィアは述べながら、得物を手に装着した。
黒白とは、また異なった威圧感を放っている。
事情は理解した。確かに、実力が不明のままでは難しい。
咲弥は呼吸を整え、次第に覚悟を決めていく。
「……了解しました。それでは、僕も武器を装着します」
咲弥は右手を少し掲げ、虚空に空色の紋様を描いた。
やや茫然とした表情のシルヴィアを眺め、咲弥は唱える。
「おいで、黒白」
空色の紋様が砕け散り、両腕が淡い光に覆われていく。
眩しい光が弾け飛んだ瞬間、右手に漆黒の籠手、左手には純白の籠手が装着した状態で出現した。籠手へとオドを少し流し込み、黒白を解放する。
光沢感のあるモヤが、瞬間的な速さで両腕を呑み込む。
右手は黒と赤が交じる、悪魔を連想する獣の手に――
左手は白と金が交じる、どこか神々しい獣の手に――
「……っ! 生命の宿る――宝具所持者?」
シルヴィアは目を丸くして、ジェラルドへと顔を向けた。
ジェラルドは、少し離れた位置にいる。
腕を組んだ姿勢で、ジェラルドはにやりとしていた。
表情を硬くしたシルヴィアが、咲弥のほうへ向き直る。
それから足を適度に開き、両腕を垂らした構えを取った。
「咲弥様。お手合せのほど、よろしくお願い致します」
「あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
つかの間の沈黙を経て、ジェラルドの太い声が放たれた。
「――始めぇっ!」
開始の合図が響くや、シルヴィアが先んじて動く。
ふわりとした動作は、まるで風に流される煙を思わせた。
咲弥は視界全体を漠然と捉え、彼女の行動を予想する。
(どう来るんだろう……)
思考を働かせつつ、咲弥もシルヴィアとの距離を詰める。
しなやかで軽やかな動きから、おそらく素早さを活かして攪乱するタイプだと睨んだ。そうだとすれば、まずは防御に徹したほうがいい。
下手な攻撃に出れば、返り討ちに合う可能性がある。
少なくとも、軍人の指導を任されるほどの人物なのだ。
全力で対応しなければ、何もできず終わるに違いない。
咲弥は気を引き締める。目に全神経を集中させた。
「ふむ……」
そんな唸り声が、かすかに耳に届いた。
シルヴィアの姿が、ふわりと消える。
注意していた。それなのに、彼女の姿を見失ってしまう。
咲弥はとっさに、オドの気配を探った。
彼女は横にも上にもいない。咲弥の股下を潜っていた。
(ま、まずっ……!)
足を斬られる。瞬時にそう判断した。
頭が下になるようにして、咲弥は力強く跳躍する。
幸い足は斬られずに済んだ。だが、追撃が迫ってくる。
こうなると、シルヴィアはそう踏んでいたのだろう。
シルヴィアの鋭い蹴りが、咲弥へめがけて飛んできた。
右手の甲でいなしたあと、咲弥もここぞと白爪を送る。
しかし、届きそうにない。
蹴りによる衝撃で、想像以上に距離が離されたからだ。
間合いから外れた白爪が、むなしく虚空を薙いだ。
咲弥は気を取り直し、すぐ地に足をつける。
わずかに滑ったが、この程度であれば何も問題はない。
地を力強く踏みつけ、再びシルヴィアとの距離を縮める。
黒手を大きく開き、斜めに振り下ろした。
シルヴィアは避けない。弾きすらもしなかった。
代わりに右腕を鉤爪の隙間に挟み、きつく捻ってくる。
(お、折られ……いや、同時に斬って無力化が狙いかっ?)
咲弥はなかば無意識に、流れに逆らわず腕を引っこ抜く。
それ自体は、かろうじてうまく対処ができた。
ほんの一瞬の隙――咲弥は背筋がぞっとする。
気づかない間に、シルヴィアの細長い脚が、咲弥の右足に絡まっていた。それはきっと、女性特有の軟体がもたらせる芸当に違いない。
咲弥の体が吸い寄せられるかのように、シルヴィアの脚で引っ張り込まれた。
「んなっ……」
咲弥は瞬時に悟る。このままでは、拘束されかねない。
咲弥は白爪で、すてみの攻めへと転じた。
今は不格好でも構わない。
距離を取らなければ、確実にやられる。
「うっ……!」
白爪に裂かれ、シルヴィアは驚愕している。
肉体ではなく、精神――オドを削られたからだ。
咲弥は思考を改めた。
距離を置けば、相手が逆に冷静を取り戻す時間になる。
好機は逃せない。即座に攻撃に打ってでた。
(えぇえ……)
やはり相手は、戦闘のプロなのだと思い知らされる。
未知への硬直など、まばたき程度のものでしかない。
すでにシルヴィアは、戦闘態勢を整え直している。
咲弥は判断を誤った。とはいえ、もう後には引けない。
(やるしか、ない!)
咲弥はさらに奥の手、黒白を振りながら爪を伸ばした。
突然の変化に、シルヴィアの目が大きく見開かれていく。
今度ばかりはいける――そのときであった。
「そこまで!」
野太い停止の合図に、咲弥の体はびくりと硬直した。
辺りは、しんと静まりかえっている。
咲弥は呼吸すらも忘れていた。
確かに咲弥の爪は、シルヴィアに届く直前ではある。
だがシルヴィアの爪もまた、咲弥の腹を裂く寸前だった。
正確に状況の把握をした途端、嫌な冷や汗をどっとかく。
「まるで野良犬みたい。いえ……傭兵仕込みかしら、ね?」
シルヴィアが鮮烈なほど、妖しい笑みを口もとに湛える。
咲弥は、ほんの少し――
本当に極わずかに、シルヴィアの素を垣間見た気がした。