第六話 取引
紅羽はゆっくりとした足取りで進み、色彩に富んだ衣類を眺めていた。
褐色肌のシーラに案内されて訪れた仕立屋、シフォンの森――このお店では、どうやら仕立ての請負以外にも、独自に作られたと思しき衣服も販売されている。
帝都民が着ているような意匠から、かなり奇抜な雰囲気を醸したものまで、とにかく種類は豊富であった。ぼんやりと眺めているだけでも、わりと楽しめている。
前にいるシーラが足を止め、くるりと身を翻した。
「ようこそ、シフォンの森へ――私が店主のシーラです!」
「えっ……?」
小さな驚きの声を漏らしたのは、メイアであった。
「私の記憶が正しければ、店主はミルコではないのか?」
「あっ! それ、私の母です」
「……そうだったのか。ミルコは、いったいどうした?」
メイアは問いかけながら、そっと小首を傾げていた。
シーラは少し言いづらそうに、困り顔で戸惑っている。
「えっと、その……実は去年、病で亡くなりまして」
「……そうか。もう六年ほど前の話になるか。彼女に一着、仕立ててもらった経験がある。実に腕のよい努力家といった印象が、今でも記憶として残っている」
メイアは顎に指を添え、虚空を見上げた。
「いや、そうだ……思いだした。確かそのとき、娘のために頑張っていると言っていたな。そんな母の意思を継ぎ、娘の君が、今度はこの店で頑張っているわけか」
「従業員さん達に、助けてもらってばかりですけどね……」
シーラは苦笑しつつ、自身の赤毛をゆるりと撫でた。
気を取り直したのか、彼女は両拳を胸の付近に置き、顔を明るく輝かせる。
「でもでも! 母のこと、そう言ってもらえて嬉しいです」
「ただの事実だ。それに当時、彼女のお陰で、私は帝国城で恥をかかずに済んだ」
「帝国城?」
シーラがあげた驚きの声に、メイアは鷹揚に頷いた。
「ああ……当時、私は上級冒険者だった。とある事情から、帝国城に招かれてしまってな。そのときに、私に合う衣裳を仕立ててくれたのがミルコだった」
「そう、だったんですか……」
「ミルコに立ち居振る舞いや、作法なども教えてもらった」
メイアはふっと微笑した。
「衣裳の着こなし方、また見せ方というのを、彼女は本当によく勉強されていたのだろうな。あちらで得られた評判は、上々といった感じだった」
「……それは、そうかもしれませんね。もしかしたら、もうお聞きしているかもしれませんが、母はもともと祭典の花と言われた踊り子でしたから」
「いや、初耳だな……」
メイアはやや困惑気味に応答していた。
シーラがちょこんと肩を竦める。
「あはは……そうでしたか。祭典が開かれなくなって、もうかなり縁遠いものになりましたから。私が生まれたちょっとあとのこと……でしたっけね」
「開かれなくなった理由が、何かあるのか?」
「いいえ、わかりません。かなり昔の話ですので……」
シーラは言葉を止め、視線をきょろきょろと動かした。
彼女は右から左へと、順番に紅羽達を見つめている。
シーラは両手を、ぱちんと叩き合わせた。
「そうだ。あなた方も、よかったら参加しませんか?」
紅羽達は揃って、小首を傾げた。
「実はその祭典、今年は復活できるかもなんですよ。でも、踊り子さんや裏方さんが、なかなか揃わなくて……今はもう冒険者じゃないんですよね? ああ、でも……ちょっとした報酬はちゃんとご用意しますので、参加してみませんか?」
メイアは苦笑まじりに肩を竦めた。
「私は別に構わないが、後ろの者達は現役だぞ」
「あぁ……そうですかぁ。やっぱり、無理な話なのかな……お母さんと同じ舞台に、人生で一度くらいは立ってみたいと思ったのになぁ……」
シーラが陰鬱な表情で、肩を深く落とした。
どんよりとした静寂が、場に満ちていく。
漠然とではあるものの、シーラの事情は理解した。だが、別に手を貸すほどの義理はない――昔の自分ならば、きっとそうあっさり切り捨てただろう。
紅羽はふと、咲弥の姿が脳裏に思い浮かぶ。
《なんだか困ってるみたいですし、力になれそうなら助けてあげられませんか? 踊り子のほうは僕には無理ですが……裏方であれば、力になれるでしょうし》
もはや、実際に聞かずともわかる。
彼がここにいれば、確実にそう言っていたに違いない。
とはいえ、問題はある。紅羽は、シーラに尋ねてみた。
「いつ催される予定なのですか?」
「んぅ? えっと……一か月半後くらい……かな」
「そもそも、私らそんなに帝都にはいないんじゃない?」
ネイが両手を小さく開き、ため息まじりに述べた。
咲弥次第ではあるが、確かに帰国している可能性は充分に考えられる。現状、事態がどう移り変わっていくのか、彼が戻ってこなければ何も判断がつかない。
紅羽は少し黙考する。もし彼が、シーラの話を聞けば――
「あまり過度な期待はしないでください」
「えっ……?」
シーラが顔を上げ、紅羽のほうへ目を向けてきた。
紅羽は淡々と告げる。
「――参加しても構いません」
「出たな! 怪物お節介小僧の嫁……!」
ネイの揶揄を受け、紅羽はどこかくすぐったさを覚える。
渋い顔をしているネイに、紅羽は視線を移した。
「さしあたり、何か明確な目的があるわけではありません。咲弥様の状況次第で、今後が左右されるのは否めませんが、おそらく問題はないかと思われます」
紅羽は予測を打ち明け、最後にもう一つ付け加える。
「帝都の祭典というものも――興味はありませんか?」
ネイはため息をつき、諦め気味の表情で肩を竦めた。
「まあ、そうね。今は目的らしい目的もないからね」
「……つか、踊り子なんか、お前らできんのかい?」
ゼイドのもっともな疑問に、シーラが割り込んで答えた。
「大丈夫です! 私が教えます! やったやったぁ!」
シーラが満面の笑みを浮かべ、紅羽の両手を取った。
「ありがとうございます! 本当に嬉しい!」
紅羽は両手を揺さぶられながら、再び釘を刺しておく。
「過度な期待はしないでください。状況次第で破綻します」
「そうならないことを、めっちゃ祈っておきます!」
ネイが、ややぐったりとした姿勢で言ってきた。
「ほんと……あいつに似てきたわね」
そう取られても仕方がなかった。否めない部分も多い。
ただ少しばかり、事実は異なる。似てきたのではない。
彼の思考や気持ちなどを想像しながら行動すれば、まるで自分の傍に今いるような感覚に浸れるのだ。端的に言えば、ただ寂しさをまぎらわせている。
紅羽は自分の行動原理を、そう分析していた。
「それじゃあ、少し測らせてください。皆さんに合う衣裳と報酬の準備をしますので。楽しみにしていてくださいね!」
そう言ってから、シーラは奥のほうへと走った。
沈黙に包まれる場に、ネイのぼやきが響く。
「やれやれ。どうなることやら……」
紅羽は少しの間、漠然とした未来について夢想した。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
前を進むパスカの背を追いながら、咲弥は彼女の話に耳を傾けていた。
「人の扱う紋様も、魔物の扱う魔法陣も、実に不可思議だ。つまるところ、これらの図形は霊的な道具、あるいは機械と言い換えても差し支えない。我々の研究は、これらの図形の未知を探求しつつ、ほかにどんな力が秘められているのか、日夜寝不足と戦い、精神を極限まで削って活動している」
「大変なお仕事ですね。興味深いです」
咲弥が相槌を打つと、パスカが肩越しに微笑んできた。
「謎に満ち溢れた世界は、本当に興味が尽きることがない」
「ははは……そうですね」
「ときに咲弥。君は共時性というものを知っているかな?」
「きょ……う、じせい?」
パスカの紫紺色をした瞳を見据え、咲弥は首を捻る。
パスカはすっと、前を向き直った。
「これはあくまで、ただの例えに過ぎないが――国も文化も違い、関連性を持たない二人がいたとする。その二人の内の一人が、自分の能力を極限まで鍛え、人類で初めて紋章術を会得した。と、仮定する」
「ああ、はい……」
「人類で初だ。そのはずだった――しかし時を同じく、もう片方の者もなんらかの要因が重なり合い、あるいは事故的に紋章術を開花させたとなれば、これはとても不思議な話だと思わないかい?」
偶然の一致とでも言いたいのか、咲弥は言葉なく頷いた。
「ただの偶然とも捉えられるのは、何も間違いではない」
「は、はい……」
「だが、これらを境に、各地でも同様の出来事が起きていた場合はどうだ? それは、偶然なのだろうか? それとも、もとからそんな力を宿した者が、潜んでいただけなのか? はたまた、なんらかの意思による意図的とも考えられる?」
咲弥は言葉に詰まった。
パスカが早口だったからという理由もある。
その問いに対する回答が、うまく像を結ばない。
パスカが再び肩越しに振り向く。咲弥は少しぞっとした。
睨まれたわけではない。眼差しが強かったわけでもない。
しかし紫紺の瞳には、言い知れない何かが宿っていた。
「とある一人の少年が、精霊の召喚といった奇跡を発する」
咲弥は背筋に悪寒が走り、はっと息を呑む。
パスカは淡々とした声音で続けた。
「時代を同じく、これまで物語の中にいた精霊を、召喚する者が複数体現れ始めた。実に、興味深い話だ。共時性か――はたまた、開花させる力を持つ者が誕生した? それとも、もとからそんな力を持つ者が、潜んでいたのだろうか?」
「……えぇっ……と……」
「この話を聞き、君はどう思う?」
精霊を召喚したのが咲弥だと、パスカは理解している。
知っているうえで、あえて聞いてきているのだろう。
まさかの尋問に、咲弥は何も言葉を返せない。
パスカは、ふっと鼻で短く笑った。
「では、さらに話を続けようか。これは、とある報告書から始まった話なのだが――実は最近、魔法陣を浮かべず魔法を扱ってくる魔物がいるらしい」
咲弥はまた息を呑んだ。
「驚くべき話だ。冒険者である君も、そうだろう? しかし実は、私はその報告書を見る前に、すでに知っていたんだ。それはなぜか?」
「ここ最近、同盟国でも同じ問題が発生しています。現状は事実確認にあたっており、冒険者ギルドを含め、各同盟国へ一気に通達される予定です」
ジェラルドが補足するように、そう口を挟んできた。
パスカは笑いながら前に向き直り、両手を大きく広げる。
「その魔物に似て非なる、新時代の力――紋様を虚空へ映し現わさずとも、紋章術を扱える輩が各地で増えているという報告もあるのさ。冒険者たる君ならば、そんな奇妙な連中と遭遇した経験もあるのではないか?」
咲弥は言葉を失った。
関連性は不明だが、確かに偶然だとは思えない。
パスカは咲弥の返事を待たず、軽快な声を紡いだ。
「さて、これは共時性? はたまた、なんらかの意思か? 去年あたりから、実に謎めいた事実が、溢れ返るようにして各地で起こっているよ」
咲弥の脳裏に、漠然と思い浮かび上がってきた。
(去年あたり……まさか、使徒による影響なのか……?)
事実は当然、わからない。だが、あり得る話だった。
天使達は自らが介入できず、また同様に手も下せない。
だから別世界の者達に力を与え、この世界へ送り込んだ。
小さな綻びを突く――咲弥を選んだ天使が言っていた。
この世界で起こる異常が、その綻びなのかもしれない。
また魔神の復活も、無関係ではなさそうな気もする。
あらゆる物事が複雑に、そして同時に絡み合っていく。
(送り込んだ時期にも、なんらかの意味があるのか……?)
咲弥の頭は、こんがらがりそうになっていた。
魔神の復活、十天魔の存在、送り込まれた使徒達、破壊と再生の神リフィア、いまだ不明瞭な邪悪な神、神殺しの獣、神に狙われる命、全人類への敵対――
抱えている問題を数え上げれば、もはやキリがない。
咲弥の脳では処理しきれず、頭の中がどんどんぼやける。
理解している。咲弥がどうあろうとも世界は動く。
それでもこのまま、何も考えたくない心持ちであった。
楽なほうへ流されたい。だが、それは許されないだろう。
「ぜひ、ゆっくり話を聞かせていただきたいねぇ」
パスカはそう呟き、立ち止まる。
そして、眼前の扉を力強く開いた。
「さあ、ここが私の研究室だよ」
パスカが中へと進むなり、室内から怒声が響いた。
「あっ! 戻って来やがった!」
「所長! いい加減にしてください!」
「マジで、いちいち掃除しなきゃならなくさせんなって!」
「ちょっとはこっちの身にもなってくれませんかねぇっ?」
咲弥はおそるおそる、室内をこっそりと覗き込んだ。
若い男女三名が、怒りの形相でパスカを取り囲んでいる。
しかし、当のパスカは、何事もない様子で歩いていた。
「おい! 聞いてんのか、テメェ!」
「もういっそ、清掃費として給料を上げてください!」
「それか所長とは、別室にしていただけませんかねぇっ?」
パスカが爽やかな表情で、背後を振り返った。
「さあ、遠慮せず入ってくれたまえ」
パスカの周りにいる男女が、咲弥側に顔を向けてきた。
まず桃色の髪をした女が、驚きの色を顔に湛える。
「あぁっ! ジェ、ジェラルド様ぁっ?」
「ど、どど、ど、どうされましたか!」
そう言ったのは、緑の髪色をした眼鏡をかけた女だった。
次いで青髪の男が腰に手を置き、大きな笑い声をあげる。
「ついに、パスカ所長の首を物理的に斬りに……? えぇ。どうぞどうぞ。後始末は我々がやりますんで、もう遠慮なくスパーンッとやっちゃって構いません」
「ああ、いやぁ……残念だが、そうではない」
ジェラルドはわずかに、頬を引きつらせていた。
満面の笑みだった男は、途端に落胆した顔へと変化する。
パスカは高笑いをあげ、演技がかった口調で言った。
「皆の者! 憤懣やるかたないといった様子だが――そんな一時的な感情など、綺麗さっぱり消え失せるような情報を、くれてやろうじゃないか」
咲弥がなかば茫然と見守っていると、パスカが踵を返して詰め寄ってくる。
不吉な笑みを湛えたパスカに引っ張られ、彼女の膨らんだ胸に咲弥の頬が大きくめり込んだ。そこでやっと我に返り、恥じらいと戸惑いが一気に押し寄せてくる。
「――いっ?」
「この少年、なんと――前回催された冒険者資格取得試験で精霊を召喚し、さらには空白の生物ジャガーノートを滅した噂の少年だ」
パスカの部下達が、揃って息を呑んだように固まった。
次第に目玉が落ちそうなくらい、目が見開かれていく。
「マ、マジだぁあああああ!」
「うそうそっ! 国際大会の映像にいた子!」
「えぇ! なになに! どうしてどうしてぇっ?」
「ねぇねぇねぇ! 私、リィン。よろしくね!」
「お、おお、おお俺はラーズだ。よろしくな!」
「あたしはレイよ。覚えてくれると、お姉さん嬉しいな」
三人が飛んでくると同時に、パスカがすっと離れた。
標的を変えられた事実に、咲弥はうめくほかない。
「ねぇねぇ! 君! いろいろ聞きたいことがあるの!」
「ちょ、ちょ、ちょっと、落ち着けって!」
「あんたも落ち着きなよ! 震えてるよ!」
「バッ! おめぇそりゃあ、そうなるだろうよ!」
「それより、お姉さん。君とゆっくりお話がしたいなぁ!」
おもちゃを取り合うように、咲弥はもみくちゃにされた。
苦い気持ちを抱きながら、咲弥はパスカを軽く睨む。
パスカは倒れた椅子を起こしてから、優雅に座り込んだ。
それから足を組み、裏返した人差し指を前へと伸ばした。
「さあ、咲弥。ちょっとばかし、取引といこうじゃないか。そちらの情報提供一つにつき、こちらは軍事機密の一つを、君に提示しよう」
「お、おい!」
抗議の声をあげたのは、近くにいたジェラルドだった。
ほぼ同時に、咲弥を取り囲んでいた三人の動きが止まる。
パスカは不敵な笑みを浮かべ、ジェラルドに告げた。
「将軍殿は黙っていただきたい。これは、彼と私の取引だ」
「彼は私のあずかりだ。勝手は許さない」
「これは、帝国のためでもある。他国の者がここまで入ってきている事実を、私は見逃さない。かなりの信用をおかれ、なんらかの特殊な任務のためだろう?」
パスカの予測に、ジェラルドが押し黙った。
パスカは凛とした顔に、見透かしたような笑みを湛える。
「なぁに。詮索はしない。邪魔もしない。ほんの少し空いた時間に、彼と取引させてくれるだけで構わない。何も取って食おうってわけじゃないんだ」
咲弥の意向は無視された状態にある。
事情はよく分からないが、はっきり断る気でいる。
そのとき、パスカの鋭い眼差しが咲弥を突き刺した。
「軍事機密とは、随分と漠然とした言い方だったね。一つ、例を挙げようか。君は冒険者だ。ならば、荷物関連の事情に困ったことはないか?」
「そう、ですね……どうしても、大荷物になりますから」
咲弥は首を捻り、パスカの言葉を待つ。
「では、その負担を軽減させる方法があるとしたら?」
「えっと……凄く、助かると思います」
「我が研究所で、その方法を確立している」
「どういった方法なんでしょうか?」
咲弥が問うや、パスカはにやりと笑った。
「紋様に荷物が収められる――とだけ、言っておこう」
「えっ……?」
まさかの情報に、咲弥は間の抜けた驚きの声が漏れた。