第四話 シフォンの森
ネイ達と一緒に、紅羽は帝都を歩いていた。
事前にアイーシャが手を回してくれていたお陰で、冒険者専用の宿舎へは円滑に案内をされ、すでに咲弥以外の者達は荷物の整理を済ませた状態にある。
一息ついた頃に、ネイから観光しようと誘われたのだ。
咲弥の帰りを待つという選択も浮かびはしたものの、いつ戻ってくるのか予想もつかない。また彼のほうから、仲間と時間を潰すよう言われている。
少し悩んだ末、ネイからの誘いを承諾する結果となった。
今は宿舎の付近にある、商店街を散策している。
王都とは違い、ここには馴染みのない香りが漂っていた。
人か、物か、それとも別の何か――目から得られる情報は多く、においの根源は特定できそうにない。いずれにせよ、不思議な香りに胸の奥が疼いていた。
別にそれは、不快というわけではない。
普段と異なる何かに巡り会えばこそ、自分は旅のさなかにあるのだと強く認識できるのだ。疼く胸の感覚は心地よく、嫌な感情とは程遠いところにある。
そんな心の作用から、紅羽はある記憶がよみがえった。
(趣味……)
咲弥から以前、趣味について問われた経験がある。
無論、そんなものがあるはずもない。咲弥以外のすべてに関心が持てず、人であれ何であれ、自分には不要なものだと切り捨てていたほどなのだ。
あの頃から、もう結構な時が流れている。
もし再び問われたら、今度は答えられるかもしれない。
(私の趣味は、見知らぬ場所を旅すること……)
胸の内側で呟き、ふとある疑問が浮かんだ。
一人旅の場合でも、同様の感想を抱けるのだろうか――
独りきりという境遇を、今ではもう想像するのが難しい。
それでも特別な感情など、湧かないような気がした。
(咲弥様……)
思考するまでもない。答えは、とても単純なものだった。
咲弥と一緒にする旅が好きなだけであって、旅そのものが好きというわけではない。けれど、それが悪いことだとは、露ほども感じていなかった。
さまざまな目的を胸に秘め、人は誰しもが生活している。
自分のため、他人のため、何かのため――当然、どこかで敵対する場合はあれども、人と人は深くお互いを支え合い、日々を懸命に生きているのだ。
きっと本当の孤独の中では、人は決して生きていけない。
咲弥と出会い、多くを学んできた。だから、よくわかる。
誰かのために生きる。誰かがいるから生きられる。
それもまた、人として生きる立派な理由となり得るのだ。
彼が傍にいれば、自分の人生は色づく。
彼が隣で笑えば、胸の奥が温かくなる。
彼がいなければ、心がかすんでしまう。
それでも――
咲弥と出会った頃に比べれば、成長したと実感している。
咲弥のいない寂しさを、仲間達で埋められるほどだ。
仲間が自分にとって、大切だと感じている証拠でもある。
(でも……)
趣味と類似した疑問が、再び紅羽の脳裏をかすめた。
もしこのままずっと、咲弥が消えてしまった場合、自分は仲間達に対して同様の感想を抱けるのだろうか――答えは、闇の中に溶けて消えていく。
想像がつかない。確かにそれも、理由の一つではある。
だがそれ以上に、考えたくない気持ちのほうが強かった。
紅羽はこっそり、己を律する。
無駄な予想を働かせるより、現在と未来を大事にしたい。
紅羽がそう、認識を改めた矢先でのことであった。
「ねぇねえ、君達って旅人さんだよね? 一〇〇〇ルーガ、もしくはスフィアだったらさ、七〇〇で案内するよ?」
色黒の男が笑みを浮かべ、紅羽達へ詰め寄ってきた。
メイアが切り捨てるように言い放つ。
「必要ない。私が案内役だ」
「でも、君も現地人じゃないんじゃないか?」
「問題ない」
メイアの力強い眼差しに、男が肩をびくりと震わせた。
つかの間の沈黙を経て、男は残念そうに肩を竦める。
「そっか、残念だ……旅人達に、ユグドラシール様の加護がありますように」
男はそう言い捨て、紅羽達とは逆側へ歩き去っていく。
人か神か――よくわからないが、どうやらなんらかの信仰対象があるようだ。
先頭を歩くメイアが、肩越しに顔を振り返る。
「もしついて行ったら、面倒ごとに巻き込まれるからな」
「おっかねぇ話だ」
ゼイドが苦笑まじりにぼやいた。
メイアはふっと笑う。
「豊かそうに見えても、貧困のせいで悪さをする奴は多い」
「それはどこの国でも、あんま変わらなさそうね」
メイアは前を向き直ってから、ネイに応じた。
「人が多く集う場所では、自然とどこもそうだ」
「そこに関しては、特に問題なさそうね……それにしても、私の着ている服、熱をまったく緩和できてないから、ほんと暑いわ……メイアのそれ、暑くないの?」
ネイは大きくうな垂れ、横目にメイアを軽く睨んでいる。
メイアが手で、自身の顔をゆるりと扇いだ。
「我慢ができないほどではない――が、そうだな。せっかく異国の地を訪れているんだ。どうせなら、こっちならではの装いでもしてみるか?」
「いいわね。こっちの服なら、紋章効果もよさそう」
「いい仕立屋を知っている。そちらへ向かおう」
「ほぉいほぉーい」
ネイが陽気な口調で、メイアの提案に乗った。
紅羽からすれば、王都にある冒険者ギルドの受付嬢から、あらゆる服装を着させられている。そのせいか、衣装替えに関しては、あまり胸が揺れ動かなかった。
(そういえば……また、五百件くらいになっていた)
件数しか見ていない。内容は開かずとも明白だからだ。
紅羽は人知れず、心の中だけでため息をつく。
そのお陰か、次第に気持ちと思考を切り替えられた。
このままずっと、腐っていても仕方がない。
咲弥の用事が済めば、自由時間は必ず生まれる。そのとき改めて、メイアが今やってくれているように、今度は自分が彼に帝都の案内をしてあげればいいのだ。
正直なところ、完全に残念感が消え去ったわけではない。
新天地の探索を、彼と一緒にしたかったのが本音だった。ただ今回の事情を経て、のちにどういった感情を抱くのか、楽しみにしている自分も確かにいる。
(そうと決まれば……)
まず好奇心がくすぐられそうなものはないか、活気溢れる街並みを目で探ってみた。方針が決まったからか、胸の奥がふわふわと疼いている。
こうした新天地は、彼もよく心を弾ませた顔をしていた。
いいものであればきっと、喜んでくれるに違いない。
そんな彼の表情を見たいと願い、紅羽は視線を巡らせる。
この帝都には、肌の色が黒い者ばかりが視界に入った。
そのせいか、より一層異国の地だと感じさせる。
それぞれの人が多種類の娯楽を嗜み、また多種多様な品を売り買いしていた。その中には、帝国兵だと思われる者達もよく目に映った。
周囲を眺め、ふと生まれ故郷の記憶がよみがえる。
あちらはもっと、殺伐とした雰囲気で張り詰めていた。
だがこちらの帝国兵は、うまく民の中に溶け込んでいる。
おそらくは、国の方針が違うからなのだろう。
同じ帝国でも、あちらとこちらでは別物だと思えた。
力こそが正義。力無き者に語る資格などない――
確かに、それ自体に間違いはなかった。
武力がなければ、世界中に蔓延る魔物に蹂躙されるうえ、そのせいで国力が細れば、いともたやすく他国に奪われる。
守りも攻めも、どちらも力がなければ何もできないのだ。
とはいえ――
「こらぁ~! 待ちなさぁ~い!」
不意に、女の怒声が紅羽の耳に届いた。
視線を移すと、女が慌てた足取りで走っている。
その前方に、自転車に乗って逃げている様子の男がいた。
「へっへぇん! 追いつけるもんなら追いついてみな」
「返しなさぁ~い!」
事情はわからないが、紅羽は一考の余地もなく動く。
女の物を取ったらしき男へ、神速の勢いで迫った。
「うぇ――っ?」
男の表情が、瞬時に驚愕へと染まった。
ほかに被害が出ないよう、自転車を人気のない場所へ蹴り飛ばしながら、男のむなぐらを掴んで身柄を拘束する。まだ正確な事情はわからない。
そのため、怪我がない程度に、男を地に押さえ込んだ。
「いててっ! な、なんだ! お前! 放せ! 放せよ!」
肌の黒い栗毛をした男は、まだ若かった。
おそらく、紅羽とさほど年は変わらない。
また紋章者ではなく、ただの一般人の様子であった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
追いかけていた女が、傍で立ち止まるや息を切らした。
赤毛をした彼女の肌も黒い。容姿から男と同年代だろう。
「だ、誰か、わかん、ないけど……あ、ありが、とう!」
息を整えながら、女は安堵した顔でお礼を告げてきた。
少ししてから、女が男をじろりと睨みつける。
「レクト! 私の物を返しなさい!」
「な、なんだよ。ちょっと見るだけじゃんか」
「だめに決まってんでしょ!」
「なんでだよ」
「恥ずかしいからよ!」
「いい年して恥ずかしがってんじゃねぇよ! シーラ!」
シーラと呼ばれた女は、憤慨した面持ちでしゃがんだ。
それからレクトの腰にある、画帳を抜き取っていた。
「まったく……いつもいつも、いい加減にしなさいよね!」
「んだよ。ちょこっと拝見するだけだろ」
「それをやめろっつってんのよ!」
シーラは立ち上がり、レクトの顔を軽めに蹴った。
「いってぇ!」
「次やったら、もっと本気でやるからね!」
シーラの憤りは、まだ収まらない様子であった。
むすっとした表情で、レクトのほうを睨み続けている。
紅羽はぼんやりと、なりゆきを見守った。
するとシーラが右拳を自身の胸に添え、一礼してきた。
「ありがとうございました。もう放しても構いません」
「了解しました」
紅羽はシーラに応え、拘束する手を緩めた。
レクトがするりと抜け出し、慌てた様子で逃げていく。
彼は肩越しに背後を振り返り、大きな声で言い捨てた。
「恥ずかしがってんじゃねぇよ! ぶぅす!」
「んだとコラァ!」
シーラは顔を赤くして怒鳴った。
ただ、もう追いかける気力はないらしい。
レクトは自転車を拾って乗り、どこかへと去っていった。
紅羽はなかば茫然と、レクトが消えた方角を眺める。
不意に、聞き慣れたため息が聞こえてきた。
「あんた。ちょっと、あいつと似てきたわね」
ネイが呆れ気味に、そう呟いた。
ネイの付近には、ゼイドとメイアもいる。
シーラがきょろきょろと、こちらの様子をうかがった。
「あなた達、旅人ですか?」
「ええ。まあ、そうね」
ネイが応えると、シーラは小首を傾げた。
「どこかへ、向かっていらしたんですか?」
「ああ。シフォンの森という名の仕立屋に行くつもりだ」
「あら……ふふっ。ユグドラシール様のお導きなのかしら」
メイアの回答に、シーラはやや驚いてから微笑んだ。
さきほど声をかけてきた男と同じく、また信仰対象らしき名が出てきた。彼女の声の響きから、おそらく人ではない。土地神か何かなのだろう。
シーラは、どこか得意げな顔をしながら肩を竦めた。
「でしたら、お礼も兼ねてご案内します」
シーラからの提案に、しかしメイアは首を横に振った。
「いや、場所なら知っている」
「いえいえ。私も同じ場所に、行くことになりますから」
シーラは数歩進んでから、肩越しに誰にとなく言った。
「いらっしゃいませ。我がシフォンの森へ」
どうやらシーラは、その店に関わりのある人物だと――
紅羽と同様、ほかの仲間達も気づいた様子であった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
高級感のあるソファーに、咲弥は腰を落ち着けていた。
目の前のテーブルには、飲み物と果物類が置かれている。
侍女が気を利かせ、あれこれと用意してくれたのだ。
気後れするくらい豪華絢爛な部屋に、たった一人きり――そう言い切ってしまってもいいものなのか、ちょっとばかり微妙なところではあった。
少なくとも、咲弥の見える範囲内に人の姿はない。
客に気を遣わせないための計らいなのか、咲弥の視界には入らない場所でじっと待機をしている。おそらく、いつでも即座に応対するためなのだろう。
正直、その配慮が逆に、少し居心地を悪くさせている。
とはいえ、ここ最近、一人で考える時間などなかった。
いい機会といえば、いい機会なのかもしれない。
咲弥はぼんやりと天井を仰ぎ、過去を振り返っていく。
すべては、一通のメッセージから始まった。
(そう……あれから、だったんだよなぁ……)
思い返してもみれば、かなり濃厚な旅だと感じられた。
獣人至上主義の問題、新時代の力、英雄の末裔と一悶着、飛竜達を苦しめる竜石化――順番に記憶を掘り起こし、ふと浮かんだ魔人ラグリオラスで停止する。
神々を殲滅するために、魔神を討ちたいと語った悪魔だ。
その真偽はしれない。しかし、偽りとも思えなかった。
ラグリオラスから連鎖していき、空白の領域での出来事が脳裏によみがえる。
(破壊と再生の神……リフィア)
この世界で語られる神の御使い、リフィア――
人類を滅ぼしたとされる神、リフィア――
この二つが同一の存在か、現状では判断のしようがない。
御使いに関しての話であれば、英雄の末裔が現代にいる。
調べようと思えば、きっと調べるすべはあるに違いない。
だが、もう片方は――想像もつかないほど昔の話なのだ。遺跡にあった記録を鵜呑みにすれば、現在の人類が誕生する以前に存在していた人類となる。
だから当時の情報が、そう簡単に見つかるはずがない。
咲弥は心から、道化師を思わせる魔物を恨んだ。
消滅させられた遺跡が、復活することは二度とない。あの場所でしか得られるはずのない情報は、もう見聞きできない状態となってしまっているのだ。
どうしようもないとはいえ、やるせない思いが胸に募る。
同一かどうか、もはや調べる方法などない気がした。
(やっぱり……言ったほうがいいのかな……)
実は仲間にすら、リフィアの話はいっさい伝えていない。
まだ言わずにいた理由は、主に二つある。
この世界の人達にとって、リフィアは信仰対象なのだ。
そんなリフィアが、人類を滅ぼす可能性を持つ最悪な神と言えば、いったいどうなるかがわからない。仲間はきっと、信じてくれるだろう。
そこを疑う余地はない。ただ、別の問題が発生する。
(もし……邪悪な神が……リフィア様なら……)
討とうものなら、全人類を敵に回す結果を招くだろう。
だからといって、そのまま放っておけそうにもない。何が起因したのかは不明瞭なものの、再び人類が滅亡させられる可能性がないとは言い切れないからだ。
たとえ、人類を敵に回したとしても――
最悪な神殺しの悪魔だと、人類から罵られようとも――
至上最悪な者として、歴史に名が記されようとも――
人類を――大切な人達を護れるのならば、咲弥はそれでも構わなかった。
極端な話をすれば、もし邪悪な神がリフィアだった場合、討てば自分のいた世界へと戻れる。天使の力があればこそ、訪れられた異世界なのだ。
追われることも、知られることすら何もできない。
(だけど……みんなは違う……)
仲間達は、とにかく優しかった。
咲弥の目的を知れば、協力してくれるに違いない。
だからこそ、巻き込みたくない気持ちが溢れ返った。
咲弥と同様、神の御使いに牙を剥いた者として――
たとえ仲間達の血族が途絶えたとしてもなお、おそらくは未来永劫、歴史に名が残り続ける可能性は否めない。咲弥と違い、仲間はずっとこの惑星の住人なのだ。
『人を――世界を救う必要はありません。あなたの使命は、邪悪な神を討つ。ただ、それだけです』
天使から送られた言葉が、脳裏をかすめた。
ようやく、すべてを呑み込めた気がする。
これは、最初から――
(僕一人で、やらなきゃならないことだったんだ……)
永遠に消えない傷痕を、仲間達には負わせたくない。
ならば、たった一人でも――ふと、ある思考が巡る。
決してそれは、妙案といえるようなものではなかった。
とてもばかげており、異常な考えに過ぎない。
だがそんな傷痕を、平然と受け入れられる存在があった。
(……ラグ、リ……っ?)
不意に部屋の出入口から、重いノック音が響き渡った。