第三話 守護神獣からの警告
粘り気のある恐怖に包まれ、咲弥の全身は強張っていた。
(あれは……間違いない。シャーロット様だ)
泉の中心で聳え立つ、螺旋状に捻じれた巨大な大樹の根本付近――まだ距離があるため、はっきりとはしない。だが、囚われている様子が色濃く感じられた。
咲弥は覚悟を決め、まずは片足を水面へと運んでいく。
足は沈まない。それはどこか、ゴムに似た感触だった。
やはり想像した通り、ただの水ではない。
咲弥は怯えながらも、シャーロットを目指して進む。
近づくにつれ、どんどん状況を把握できた。
シャーロットの両手足が吊るされたような姿勢で、大樹に埋まっている。融合かどうかの判断はまだできないが、体が木に浸食されつつあると見受けられた。
やがて、大樹の一部となる。そんな印象を強く抱かせた。
泉の上を進み、シャーロットに半分近づいたところで――
眠りから覚めるように、彼女の目が見開かれていく。
ぼんやりとした顔を向け、シャーロットが声を紡いだ。
「た、すけ、て……助け、て……」
ややかすれた可憐な声を聞き、咲弥はふと呼吸を忘れる。
魂は無事――そう安堵した直後のことであった。
脳内に直接、重く低い声が響き渡ってくる。
《去れ。闖入者。ここは、神域だ》
背筋に悪寒が走り、咲弥は不意の寒気を覚えた。
途端に泉の水が震え、同時に周囲の森がざわつき始める。
すると水中から、細長い魚に似た蛇龍種が一体出現した。さらに二つの首を持つ、巨大なトナカイらしき存在が二体、ゆるりと水面へ舞い降りてくる。
また上空には、巨大な鷹のような鳥が空中停止していた。
どれも神聖な雰囲気が、きついくらい放たれている。
《闖入者。去れ。命惜しくば、二度と踏み込むな》
《次はない。我ら守護神獣が、汝の命を滅する》
《去れ。闖入者》
どの個体が声を発しているのか、まったくわからない。
漠然とした予感を覚えながら、それでも咲弥は恐怖を振り払って問いかけた。
「なぜ……彼女は囚われているんですか?」
《汚らわしい。言葉を、声を紡ぐな》
《直ちに去れ。闖入者》
《下等生物。消え去れ》
案の定、まるで話が通じない。
じわりと肌や気配から伝わってきた。神の番人と思われる存在が、臨戦態勢へ入りつつある。おそらくは、言葉の通り強制的に排除するつもりなのだろう。
希望は見えないが、咲弥は一歩を――
「――っ!」
咲弥の前にある水が、凄まじい勢いで二つに裂けていく。
もしあと一歩を踏み出していたら、片足を失っていた。
咲弥はぞっとしながら、守護神獣を力強く見据える。
水飛沫にも似た衝撃波は、目で確認ができた。とはいえ、どの個体がどう放った攻撃なのかが、まるで理解できない。それこそ、無から生じたとさえ思えた。
見えない場所に、別の存在が潜んでいる可能性が浮く。
咲弥は警戒を最大限に、また語りかけた。
「……シャーロット様を、どうか解放してください」
《警告する。闖入者。次はない》
《否。今、滅する》
咲弥ははっと息を呑んだ。迅速に後方へと飛び退く。
瞬間――四方八方から、さきほどの衝撃波が迫ってきた。
咲弥は悔しさに心を痛めながら、精神世界を解除する。
「うぁはっ……はぁあはぁ……はぁ……」
まるで水中から這い上がったあとのような呼吸を、咲弥は繰り返していた。
ひどく息苦しい。嫌な汗がどっと下へ流れ落ちていく。
視界はすでに、現実世界に戻って来ていた。
精神世界からの帰還が、あとわずかにでも遅れていたら、咲弥の魂は消滅させられていたに違いない。そんな予感が、胸にある恐怖心をより一層高めていく。
呪術師ラクサーヌが、ふんと鼻を鳴らした。
「なぁにやってんだ? お前?」
「咲弥殿……いかがなされましたか?」
ジェラルドが不安げな面持ちで、咲弥に歩み寄ってきた。
応える余裕がない。先に自分の心を、静めるよう努める。
困惑の空気が漂う場に、ラクサーヌの笑い声が響いた。
「はっはっはっ! やっぱ、ただのガキだな。白爪とやらを刺してすぐ引き抜くとか、パフォーマンスとしても、ちっとばかし稚拙過ぎるぜ?」
「え? あっ……」
咲弥は息を整えつつ、言い忘れていた事実に気づいた。
「実は精神世界と現実世界では、時間の流れが違います……こちらでは数秒かもしれませんが、あちらでは結構な時間が経っています」
「ほぉん……で? お前の語る物語だけは、聞いてやるよ」
ラクサーヌが嘲笑をまじえて言った。
咲弥は、ようやく息を整え終える。
「これから、見たままをお伝えします」
まず語ったのは、暗闇からではなかったことであった。
どんな景色があったのか、泉で何が起こったのか――
最初は茶化していたラクサーヌも、次第に口を噤んだ。
誰もが無言で、咲弥の話を険しい顔で聞き入っている。
「これ以上は、残念ながら……もう、留まれませんでした。これも後づけになってしまいましたが、もしあちらで怪我を負った場合、現実では目に見えない怪我となって残ります。魂だけが、ひどく膿んでしまうからです」
咲弥の説明を最後に、場は静まりかえる。
深い沈黙を破ったのは、ラクサーヌであった。
「おい、ガキ……また、聞かせろ。泉に赤い葉の木があり、そこに娘が繋がれたような状態で囚われていた、と?」
「あ、はい。そうです……両手足が大樹に埋まり、そこから少しずつだと思いますが、シャーロット様の体が、どんどん木に浸食されているように見えました」
「……まさか、破滅樹の呪い。か……?」
咲弥は首を捻った。
「破滅樹……? なんでしょうか、それは?」
「皇族や王族から始まる、神の力を使った呪い――破滅樹の呪いを受けた者は、次第に肉体が木へ変わる。根を伸ばし、巨大な成長を遂げ、最終的には国自体を呑み込む。たとえ、どこへ逃げようとも、だ――呪いを受けた血筋は皆、次々に同様の呪いにかかり、最後にはただ深い森だけが残るんだ」
ラクサーヌは嫌な顔をせず、予想外にも説明してくれた。
漠然とした想像が、咲弥の恐怖心を掻き立てる。
もしラクサーヌの推測が正しければ、今は単なる始まりに過ぎない。シャーロットが起点というだけであり、これから呪いが広まっていく可能性を示していた。
重い空気に、場が支配される。
静寂を払うかのように、スイがそっと声を紡いだ。
「咲弥殿が語った守護神獣――それは、ユグドラシール様に仕えし聖獣では……」
「……はい。私もまた、同様の想像を抱きました」
スイとジェラルドを、咲弥は交互に見つめる。
すると困惑を宿した視線に、スイが気づいてくれた。
スイは硬い面持ちを崩さず、重い声音で語り始める。
「帝国が灼熱の地にありながらも、人々が繁栄できるのは、ユグドラシールといった女神の加護があり、彼の神に仕えし聖獣それぞれが、多大な恩恵を与えているからと、古来より云い伝えられているのです」
スイが綺麗な青い瞳を、まっすぐ咲弥へと向けてきた。
「赫灼の炎が闇を払い、恵みの大地が生命を育む。穏やかな風が命を運び、癒しの水が潤いを与える。これらすべては、女神ユグドラシールによる恩恵なり――と」
神話を聞き、咲弥の脳裏に疑問が巡る。
そんな女神がなぜ、少女を呪ったのかがわからない。
咲弥が悩んでいるさなか、ラクサーヌがぼそっと言った。
「ちと、あまりにもでき過ぎだな……」
「え?」
ラクサーヌが片目を細め、咲弥を睨みつけてきた。
「宝具所持者っつぅのは、素直に認めてやるよ。だが、その能力に関しちゃ、さすがにちょっと疑わざるを得ねぇな?」
「疑う……?」
「その精神世界とやら、本当にそんなもんがあんのか?」
ラクサーヌは顎をしゃくりあげ、鼻で笑った。
「単純に、それらしい呪いや帝国の神話を、事前にどこかで調べておいた――って、それだけの話じゃねぇだろうな? もしそうなら、相当なペテン師だな」
難癖にも程がある。咲弥は首を横に振った。
「い、いえ……違います! 呪いの話も神話も、いま初めてお聞きしましたから」
「どうだかな。皇族連中に取り入ろうとするために、お前が謀っている可能性もなくはないだろ。人は目的のためなら、手段を択ばねぇからな」
あまりにも理解不能な疑われ方に、咲弥は絶句する。
ただ証明自体は、さほど難しい話ではない。
しかしジェラルドが、一歩を前に進んだ。
「残念ながら、そのような可能性はありえないかと――」
「なぜだ?」
訝しげに、ラクサーヌは小首を傾げた。
「皇帝陛下に謁見するまでの間、咲弥殿には事情がいっさい明かされておりません。彼が我々の目的を知ったのは、ついさきほどのことなのですよ」
ジェラルドは、さらに述べた。
「そもそもの話ですが、咲弥殿が皇族と面会をすると知った事実でさえ、帝国を訪れるまでは知らされておりません――ですから、事前にというのは不可能です」
ラクサーヌは口を噤み、深く思考するような顔を見せた。
場に沈黙が落ちる。
ジェラルドが短いため息をつき、スイへと向き直った。
「しかし、実に――最悪としか言いようがありません……」
「ええ。まさか呪いの源が、ユグドラシール様とは……」
スイはひどく悲しみ、暗い表情を伏せた。
ジェラルドは唸り、自身の唇を指で撫でる。
「いったい、なぜなのでしょうか……?」
何が起因となったか、ジェラルドにもわからないらしい。
問わずして回答が得られたが、謎がより深まっていく。
ラクサーヌが呆れ気味に、ため息まじりにうめいた。
「やれやれ、だな……いずれにしろ、もう精神世界に行って調べるのはよろしくねぇ。最悪、呪いの進行が早まっちまう可能性だってあるからな。だから、まずは……この帝国に、女神に関した資料を集められる場所はあるか?」
「……でしたら、帝国軍事図書館がよろしいですわ。本来、一般人では立ち入れませんが、そこであればおそらくは……大抵の資料が、揃うかと存じます」
スイの応答に、ラクサーヌは柔軟運動をしながら立った。
「すぐ俺の立ち入りを許可しろ。まずは呪いの情報を集め、お怒りらしい女神が、穏便に済ましてくれる方法を探る――その間、なぜ呪いが発生したか調べておけ」
ラクサーヌは呆れ気味に肩を竦め、両手を小さく広げた。
「たとえば根絶やしにしたいと怨んでいる奴……とかな?」
ラクサーヌの発言に、周囲の空気が凍りついた。
彼は神そのものではなく、人為的なものを疑っている。
確かに、ありえない話ではないと思えた。
とはいえ、それをずかずかと言い放てる度胸はない。
ラクサーヌはため息まじりに、出入口へと進んでいく。
だが不意に足を止め、彼は肩越しに少し陰険さのある顔を向けてきた。
「お前、確か咲弥……だったか?」
「え? あ、はい……」
「まだ、この国に来たばかりなんだろ?」
「はい。少し前に到着しました」
「なら、俺が情報を集め終えるまでは、ゆっくりしてろ」
ラクサーヌの言葉に、咲弥は耳を疑った。
第一印象を考えれば、そんな配慮などするはずがない。
何か意図があるのか、咲弥はひどく訝しんだ。
「いつ呼び出されてもいい覚悟だけはしておけ。いいな?」
「もちろん、構いませんが……」
「へっ! そんな不思議がんなよ。さっきは、悪かったな。あんまりにも非現実な能力すぎるんで、ほんのちょっとだけかまをかけただけだ。マジで驚いた」
ラクサーヌは出入口側へ向き、軽く片手を振って見せた。
「俺は無能な奴が大嫌いだ。でもな、有能な奴の名は覚える――まだガキ臭さは残っちゃあいるが、それでもお前という人間を認めてやる。咲弥、お前の手柄だ」
褒められているはずなのに、そうだとは感じられない。
咲弥は苦笑しながら、部屋から出るラクサーヌを見送る。
額を抱えたジェラルドが、小さなため息をついた。
「悪い人ではない、と思われますが……あの不躾な態度が、どうにもこうにも……個人的には、受け入れ難いですな」
ジェラルドのぼやきにも、咲弥は苦笑するほかない。
「ははは……僕はどちらかと言えば、ああいった方のほうが接しやすいですが」
「正直、内心はらはらしておりました。いきなりあのような態度を取られ、咲弥殿がお気を悪くしないのか――ですが、うつわの大きさに感服致しました」
ジェラルドの発言に、咲弥は少しばかり戸惑った。
「い、いえ。冒険者ギルドでは、案外普通のことですので」
「……アイーシャも、ですかな?」
「あはは……」
咲弥は苦笑いで誤魔化しておいた。
ジェラルドは眉間をつまみ、首を横に振る。
「本当に、申し訳ない。あれは、母親似なのです」
ジェラルドの発言を聞き、それとなく間柄が掴めた。
おそらくは、血縁関係者なのだろう。
ただ現状、皇妃の前でするような会話でもない。
咲弥は頷きをもって、ジェラルドに応えておいた。
少しの沈黙を挟み、ジェラルドはスイのほうを振り返る。
それから拳を胸にあて、軽いほうの敬礼をした。
「スイ様。我々は一度、こちらで失礼させていただきます。ラクサーヌ殿がおっしゃった通り、まずは情報をかき集め、事実をより鮮明にする必要があるかと思われます。陛下へのご報告は、僭越ながら私に任せていただけたらと存じます」
スイは鷹揚に頷いた。
「ええ。いつも、あなたにはご苦労をおかけしますね」
「いいえ。もったいなきお言葉、感謝致します」
スイは少し微笑んでから、咲弥へと顔を向けた。
「咲弥殿。あなたも……頼りにしていますわ」
咲弥は、なかば茫然としていた。
はっと我に返り、咲弥も慌てて帝国式の一礼を送る。
「どこまでお力になれるのか、わかりませんが……でき得る限り、全力を尽くさせていただきます。ですから――どうかお体のほうを、お大事になさってください」
やつれたスイの身を案じ、咲弥は言葉を選んで伝えた。
スイはやや驚きを顔に湛え、また静かに微笑む。
「ええ。感謝致しますわ」
それから咲弥は、ジェラルドと一緒に出入口へと進んだ。
そこで再び、スイとシャーロットに向けての一礼を送る。
侍女に扉を開かれ、部屋の外へと出た。
花の香りが薄れ、やや冷えた空気に鼻先をくすぐられる。
ジェラルドが、咲弥を振り返った。
「それでは、咲弥殿」
「あ、はい」
「これより、応接室へとご案内致します」
「応接室……ですか?」
まだ誰かと会うのか、咲弥は小首を傾げる。
ジェラルドは、ゆっくりと首を縦に振った。
「はい。司書官に連絡のほか、陛下へ途中経過をお伝えする必要がございます。申し訳ないですが、私が戻るまでの間、少々お待ちいただきたいのです」
「ああ……そうですか。わかりました」
「侍女を一人待機させておきますので、何か入用があれば、なんでもおっしゃってください。お食事からお飲み物と――すぐ、ご用意させますので」
ジェラルドの配慮を、咲弥は素直に嬉しく思った。
お腹は空いていないが、さすがに喉がひどく渇いている。
「すみません。では、お飲み物をいただけたらと思います」
「了解しました」
ジェラルドは朗らかに微笑み、右手をはらりと流した。
「それでは、こちらへ」
「はい」
咲弥は誘導に従い、帝国城の廊下を歩いていく。
静かなせいか、目に映る光景に謎の圧迫感を覚える。
我知らず自身の胸に手を置き、それからそっと掴む。
言い知れぬ不安が、じわじわと襲ってきていたからだ。




