第一話 必死の選択
威風堂々とした帝国城は、帝都の先に聳え立っていた。
遠目からでも、その厳かな存在感は強烈なくらい伝わる。
きっと帝都のほうで見られる帝国兵達の姿が、城の印象をより強めていた。
アイーシャの話によれば、たとえ蒸し暑い気候の中でも、軍人は鎧を着用しなければならない。とはいえ、頭の先から足の先までというわけでもなかった。
可能な限りの軽装を、それぞれが心がけている。
またこちらの世界には、紋章効果という代物もあるのだ。
熱が緩和される効果が、鎧に付与されているに違いない。
青と黒の二色を基調とした鎧の胸元には、帝国を象徴する紋章が刻印されていた。中に黒い布地の服を着ているのか、どこか威厳に溢れた格好だと感じられる。
帝国兵は少し物々しいが、帝都の民は真逆と言えた。
誰もが涼しそうな、日よけが考慮された装いをしている。
灼熱に焼かれたいのか、中には半裸に近い者までいた。
ただ暑い国にある帝都では、日陰がわりと多い。
さらに熱を除くために、あらゆる手段が用いられている。
謎の形をした建物、天幕――そして、帝都全体の造りだ。
暑いのは暑いが、しかし灼熱地獄というわけでもない。
とても冷ややかな風が、しきりに吹き抜けていく。
最初は紋章機か何かを疑ったものの、どうやら冷えた風が発生する現象が昔からあるようだ。また水の加護に恵まれ、水不足に悩まされた経験はほぼないらしい。
そんな暑くも活気に満ちた帝都を抜けた先――
帝国城に繋がる玄関とも呼べる場所に、咲弥は来ていた。
前方には、広々とした庭園がある。
鑑賞物はすべて意匠が凝らされており、水と植物に溢れた光景は、まさに圧巻の一言であった。その先には、それこそ見上げるほどの幅広い階段が待っている。
(うわぁ……)
階段が長い。確かにそれも、原因の一つではある。
だが心の中でうめいたのには、もっと別の理由があった。
隣にいるアイーシャは、とても涼しげな顔をしている。
咲弥は戦々恐々としながら、階段の手前まで進んだ。
実は階段の手前から上のほうまで、両端に三列ずつ並んだ帝国兵がいる。抜いた剣を一様に顔の前へ置き、鑑賞物かと疑うくらい静止していた。
帝都にいた者とは異なり、こちらは兜まで着用している。
「さあ、とっとと行くぞ。ドクソノロマガメ!」
「え? あっ、はい……」
アイーシャの指示に、咲弥は震えた声で了承した。
咲弥達が通り過ぎた瞬間、ついに帝国兵達が動き始める。
カッと音を鳴らし、剣を一度だけ上下に振ったのだ。
咲弥が進むたびに、その動作がおこなわれている。
それはどこか、スポーツイベントなどで見られる、観客のウェーブパフォーマンスを連想させるものであった。訪れた人に対する習わしか、とにかく少し怖い。
城門に辿り着く前に、帝国兵の一人が声を張った。
「開門!」
けたたましい音を響かせ、仰々しい扉は開かれていく。
小柄な色黒の老人が一人、扉の先でぽつんと立っていた。
アイーシャと並び、老人の前に立つ。
老人は拳を胸の前に置き、帝国式の優雅な敬礼をした。
「お待ちしておりました」
老人の声音は、ややしわがれていた。
アイーシャの敬礼に続き、咲弥も慌てながら一礼を送る。
「内務大臣がお出迎えとは、恐悦至極に存じます」
「ほっほっほっ。そちらの御仁が、例の咲弥様ですかな?」
「お察しの通りです」
初めて見るアイーシャの一面に、咲弥は内心で驚愕する。
礼儀正しい言葉遣いと立ち居振る舞いは、そこはかとなく気品が感じられた。普段のアイーシャを知っている者なら、きっと誰もが驚くだろう。
当然ではあるが、ここでは一介の冒険者に過ぎないのだ。
咲弥は緊張しながら、内務大臣に自己紹介する。
「あっ、と……初めまして。レイストリア王国の冒険者――咲弥と申します」
「これは、これは……申し遅れました。ラングルヘイム帝国内務大臣、ヴィクスと申します。以後、お見知りおきを」
咲弥は冷や汗をかいた。自分の礼儀に、自信が持てない。
ヴィクスが柔らかな声を紡いだ。
「そう、お硬くならず――ここでは、御客人でございます。遠路はるばるお越しいただき、まこと感謝しておりますぞ」
「あっ……その……」
緊張を見抜かれ、落ち着かせるための発言に違いない。
結果としては、反対に緊張感を高めさせていた。
咲弥はしどろもどろとなる。ヴィクスが朗らかに笑った。
「聞いていたよりも、精悍な顔つきをしていらっしゃる」
「いいえ――まだ所詮、雛鳥に過ぎません」
「では、将来が楽しみですな」
アイーシャの発言に、ヴィクスは微笑んだ。
以前、国際大会の優勝で、王城に招かれた経験がある。
そのときもまた、ほぼうろたえていたのを思いだした。
ヴィクスは右手を、ひらりと泳がせる。
「それでは、参りましょうか」
ヴィクスに誘導され、咲弥はアイーシャと並び歩く。
帝国城の内部は、ひどく硬い空気に満ちている。
どこもかしこも荘厳で、肌がひりつくほどであった。
石柱一本にすら、芸術的なまでの意匠が凝らされている。
それも確かに理由の一つではあるが、大部分はおそらく、出入口にあたる場所に必ず立つ帝国兵の姿が、そう思わせる原因のような気もした。
防犯に余念がなく、鼠一匹すらも通れそうにない。
またちらほらと、城内で働く使用人達の姿も見られた。
ここに関しては、本当に恐ろしいと思える。
咲弥達が通り過ぎた後も、絶対に敬礼の姿勢は崩さない。
王城でもそうだったが、かなり教育が行き届いていた。
冒険者の世界に、慣れてしまったというのは否めない。
だからきちんとされ過ぎると、もはや窮屈に感じられる。
さらに言えば、どんな用事で呼ばれたのかもわからない。
あらゆる不安から、咲弥は次第にお腹が痛くなってくる。
苦痛に耐え忍んでいると、ヴィクスが不意に足を止めた。
眼前には、とても厳めしい装飾が施された鉄扉がある。
きっとこの先に目的の人物が、待ち構えているのだろう。
門番のどちらにとなく、ヴィクスはしわがれた声を放つ。
「御客人をお招き致しました。さあ、扉を――」
「はっ!」
帝国兵の二人が動き、鉄扉はゆっくりと開かれる。
ヴィクスを先頭に、咲弥達は赤い絨毯の上を歩く。
豪華絢爛な造りをした広間は、異常なくらいだだっ広い。
平均的な学校の運動場を、連想させるほどの規模だ。
張り詰めた空気は重く、静寂に満ち満ちている。
そのせいで咲弥達の足音が、いやによく耳に届いた。
ずっと先には舞台があり、薄い垂れ幕がされている。
シルエットに近い影が、うっすらと二つ見えた。
ヴィクスは悠然と進んでいる。
隣にいるアイーシャが、不意に足を止めた。
咲弥も立ち止まり、前を行くヴィクスを眺める。
少ししてから、アイーシャが自身の胸を叩いた。
咲弥も教えられた通り、地に膝をついた敬礼をする。
「幕を開け」
顔を伏せている状態のため、誰が言ったかはわからない。
どこか気高い声質に、咲弥はいまだ見ぬ皇帝陛下だろうと検討をつける。
「はい。畏まりました」
しわがれた声音は、ヴィクスのものだった。
カーテンを開くような、さらさらとした音が流れる。
アイーシャと約束したため、咲弥は顔を上げられない。
咲弥はただ息を呑み、赤い絨毯のみを見据えた。
「ようこそ、冒険者諸君――よくぞ、余の城に参られた」
「もったいなき、お言葉でございます」
アイーシャの声には、少しばかりの緊張感が宿っていた。
咲弥はまだ無言を貫く。
「貴公が、咲弥か?」
これも約束のため、咲弥は声を発せない。
しかしこれでは、逆に失礼ではないかとも感じられた。
問われて無言なのは、さすがにおかしい。
なかば混乱状態に陥るが、咲弥はぐっと耐え忍ぶ。
「そちらのアイーシャから話を聞かされ、ぜひとも、貴公に会いたいと無理を言った。遠い国――レイストリア王国から足を運んでもらい、まこと感謝する」
皇帝陛下は言葉を止めた。
無言の沈黙が、ひどく咲弥の胸を痛める。
じわりとした冷や汗が、全身から噴き出していた。
「本当は我々も、前回の国際大会に出場したかったのだが、訳あって――不参加というかたちとなってしまった。実に、残念だ。例年通り参加を果たせば、もっと早く、貴公と巡り会えていただろう」
言われてもみれば、前回の国際大会に帝国の名はない。
別に国同士の仲が悪いと、そう聞いた覚えはなかった。
「これもまた、そこのアイーシャからではあるが――前回の国際大会で、貴公は優勝を果たしたそうだな? ぜひとも、この目で拝みたかったものだ」
いつまで無言でいればいいのか、本当にわからない。
少し視点を変えれば、皇帝陛下ともあろう者に、独り言を言わせているだけのような気がする。礼儀以前に、人として間違っている。
とはいえ、約束を破るわけにもいかない。
「ふっ――もう、顔を上げてもよいぞ」
咲弥は電撃にも似た痺れを覚える。
たとえ何を言われても、敬礼の姿勢を絶対に崩すな――
帝国城に向かうまでの間、ずっとそう念押しされていた。
ただ皇帝陛下を無視するのは、失礼極まりない。
いったいどうすればいいのか、何もわからなくなる。
今現在の姿勢では、アイーシャを見ることも叶わない。
少しでも顔を動かせば、それで敬礼の姿勢が崩れるのだ。
「どうした? 余の言葉が聞こえぬか?」
声は穏やかだった。しかし、確かな険がこもっていた。
さきほどから無言を貫き、無視に近い行為を続けている。
これで不快に思わない者など、そう多くはない。
「他国とはいえ、皇帝陛下たる余の命令――聞けぬか?」
じわりとした恐怖が、咲弥の心臓を握り締めた。
ひどく息苦しくなり、地につけた拳が震える。
何が正解で、不正解なのか――
冒険者資格取得試験の頃も、思えば似た経験をした。
アイーシャ絡みには、もう付き物だと疑うほかない。
重圧感のある空気が、咲弥をひどく蝕んでいく。
ついには眩暈が起こり、腹の底からくる吐き気を覚えた。
アイーシャは何も言わない。皇帝陛下も無言になった。
しんと静まりかえり、自分の心臓の鼓動のみが聞こえる。
咲弥はなかば自然と、呼吸を整えた。
理由は不明だが、何か特別な意味がきっとある。
そうでなければ、こんな失礼な行為をさせるはずがない。
咲弥は覚悟を決め、敬礼の姿勢のまま無言を貫いた。
しばらくしてから、隣にいるアイーシャが大笑いする。
「あぁーはっはっはっ!」
衣擦れの音から、アイーシャが立ち上がったとわかった。
「どうですか? 陛下。これが、咲弥という人間です」
アイーシャの不穏な発言に、咲弥は心の底から驚愕する。
血の気が一気に引き、暑い国の中で一人凍え始めた。
普段通りに近い口調に戻っていたのも理由ではあるが――今はそれ以前に、発言内容に意識が回る。事実は不明だが、貶められただけの可能性について模索した。
嫌な想像ばかりが、咲弥の脳裏をぐるぐると巡っていく。
「この者は何があろうとも、与えられた命令を厳守します。それがたとえ、皇帝陛下が相手だったとしても――です」
「うむ。見事だ」
皇帝陛下の賞賛を聞き、頭の中が疑問で溢れかえった。
傍にいるアイーシャが詰め寄ってくる。
腕を引っ張られ、咲弥は無理矢理に立たされた。
「いつまでやってんだ。このドクソノロマナメクジ!」
「え? へ? ええ?」
もはや、ただただ錯乱しかない。
咲弥は呼吸も忘れ、視線を右へ左へと泳がせた。
その際、立派な黒髭を蓄えた、褐色の肌を持つ皇帝陛下の姿が目に入る。
豪華な椅子に座っており、とても凛々しい顔をしていた。年は五十代なかば頃か――貫禄に満ち溢れ、体も大柄でよく鍛えられている印象を抱かせる。
皇帝陛下の隣には四十代後半だと思われる、色黒な赤髪の男が立っていた。
赤い外套と組み合わされたような青い鎧は、恐ろしいほどごつく感じられる。また帝国城付近にいる帝国兵とは違い、彼は兜を着用していない。
穏やかながらも硬派な印象がある、そんな顔立ちだった。
意識が朦朧とする咲弥は、事態が呑み込めず沈黙する。
皇帝陛下が、ふっと笑った。
「失礼した。貴公という人間を識るため、少々――一芝居を打たせてもらった」
咲弥の頭はぼんやりとしたまま、まだ戻ってこない。
皇帝陛下は気にした様子もなく、左手をあげた。
「紹介しよう。彼は帝国軍第二大将軍、ジェラルドだ」
「お初にお目にかかります。以後、お見知りおきを――」
ジェラルドは太い声で言い、優美に帝国式の一礼をする。
咲弥は戸惑いながら、ぎこちない敬礼を送った。
「あ、えっと……はい……」
まだ完全には、我を取り戻せていなかった。
よくよく考えれば、失礼な対応ではある。
皇帝陛下は力強い眼差しを携え、重い声を紡いだ。
「今、この場にいる者達は、余の忠実なる配下であり友だ。仮に裏切られたとしても、静かに受け入れられるほどの」
「はんっ! ご冗談を」
「お戯れが過ぎますな」
「ほっほっほっ」
まずアイーシャが応え、ジェラルドとヴィクスが続いた。
皇帝陛下は口もとに笑みを湛える。
「今回の件は、秘密裏に処理したい。そのため、貴公を試す形となった非礼を詫びておく。まこと、申し訳なかった」
咲弥はようやく、事態を把握しつつある。
皇帝陛下は述べた。
「貴公に送った一〇〇〇万スフィア――あれは、こちらまで来てもらうだけの旅費に過ぎない。余ったぶんは、そちらの懐に収めておいてくれ」
一スフィアも使っていないとは、さすがに言えなかった。
咲弥はどうすればいいのか、ほとほと困り果てる。
咲弥の内情を知らない皇帝陛下が、さらりと言い放った。
「今回の件が無事に済めば、別に一〇億を支払うつもりだ」
「……え?」
咲弥は絶句した。
あまりにも現実味のない金額を聞き、いったい一〇億とはどれほどの金額なのか――そんなばかな考えが脳裏を巡る。
「すでにアイーシャのほうから、話は伺っている。しかし、改めて貴公の口から、自身の実力に関した話を聞きたい」
「実力……とは、なんでしょうか?」
「たとえば、黒い手と白い手の力、とか?」
咲弥はつい、眉をひそめた。
武力に関する話なのか、はたまた別の何か――
自分の中で疑問を追求しつつ、黒白の籠手について語る。
どこまで知られているのかはわからないが、言える範囲で留めておく。皇帝陛下を相手に隠し事などとは思いながら、しかしすべてを話すわけにもいかない。
あらかた語り終えたところで、ジェラルドが唸った。
「ほう……随分と稀有な力ですな」
「長い帝国の歴史の中ですら、聞き覚えはありませんなぁ」
ヴィクスが神妙な面持ちで、ジェラルドの言葉に続いた。
皇帝陛下が顎髭を撫で、咲弥に問いかけてくる。
「その精神世界とやらは、いったいどこまで踏み込める?」
「どこまで……どうお答えすれば、よろしいでしょうか?」
「その者が自覚すらしていない、深層領域――とか?」
咲弥は息を呑んだ。
もしかしたら、精霊の領域についての問いかもしれない。
仲間が精霊を扱える事実は、前回の国際大会を見聞きした者ならば誰にでもわかる。だが咲弥が解放したのかどうか、それは一部の者しか知らないはずだった。
予測、または予知的な能力者がいる可能性も浮かぶ。
いずれにしても、あまり好ましくない質問ではあった。
咲弥は悩み、考え、それから回答する。
「おそらくは、可能かと思われます」
知られているのであれば、それはもう仕方がなかった。
ただいまだ、どの範囲かまでは見えてこない。
であれば、こうして濁しておくほうがいいと考えた。
咲弥の回答を最後に、場は静まりかえる。
緊迫感を含んだ静寂を打ち破ったのは、皇帝陛下だった。
「ある高名な呪術師が、匙を投げた呪いがあったとして――貴公ならば、それを裂くことが可能か?」
咲弥はふと、自分の勘違いに気づかされた。
皇帝陛下の発言から、呪いに関する話題だと予想する。
「……呪いの質にも、よると思われます。たとえばですが、魂が壊れるほどの呪い――まるで何かと混ざったかのような呪いは……もうどうしようもありません」
記憶によみがえるのは、ネイの故郷での出来事だった。
魔人ニギルの行為が、まさにそれにあたる。
皇帝陛下は唸り、穏やかに太い声を吐いた。
「魂が無事であれば……可能性は、ゼロではない……か?」
「はい。魂が無事であれば……ですが」
ジェラルドが皇帝陛下を向き、そっと言葉を送った。
「一度、実際に診てもらったほうがよろしいかと……」
「うむ」
皇帝陛下はこくりと頷いた。
咲弥はおそるおそる、皇帝陛下に疑問を投げる。
「あの……どういうことでしょうか……?」
「叶うならば、貴公にはとある呪いを除去してもらいたい」
「現在、陛下の大切なお方が、妙な呪いにかかっています。別の大陸から高名な呪術師をお招きしたが、その者が調べた結果、こうおっしゃられました」
ジェラルドは重く低い声音で、ゆっくりと告げた。
「これは――神の呪いだ、と」
咲弥ははっと息を飲み、全身に嫌な痺れを覚える。
静寂に満ちた場には、ただ息苦しい重圧感だけが残った。