第三十八話 避けられない戦い
咲弥は一人、現実逃避に近い心持ちになっていた。
魔神の脅威から救った神の御使い、リフィア――
破壊と再生を繰り返している神、リフィア――
単なる同名といった可能性は、もちろん捨てきれない。
だが心のどこかで、そうだとは思えなかった。
自分の中で出した予測を、自分で疑っている。
『人を――世界を救う必要はありません。あなたの使命は、邪悪な神を討つ。ただ、それだけです』
咲弥を選んだ天使は、最後にこうも言った。
『それはいずれ、理解する日が来るでしょう』
魔神の復活と同様、別の意味で天使の言葉が噛み合った。
魔神が復活すれば、人類の大半が滅亡する。
きっとそれは、嘘偽りのない事実ではあるのだろう。
その一方で――もし神の御使いが破壊と再生の神と同一の存在だった場合、魔神とはまた違った意味から、世界を救う必要はないと解釈できてしまえるのだ。
きちんとした場所のほか、辺境地にある貧しい農村でも、食前には祈りを捧げるくらい、神の御使いリフィアは信仰の対象とされている。
いまだ未踏の地となる根強い信仰を示す国に加え、英雄の末裔が生まれ育つ強大な権力を持った神殿などもある。仮にリフィアを討つともなれば――
それこそ、世界中の人達を敵に回すことになりかねない。
(そうだと、決まったわけじゃない。でも……)
もっとも、予感通りであれば解せない点が生まれる。
そんな恐ろしい神だったとすれば、なぜ魔神が封印程度で済んでいるのか――仮に力が拮抗していたとしても、ならば魔人までもが封印されているのはおかしい。
魔神と同等の力など、魔人は持っていないはずであった。
だからこそ、魔人ラグリオラスは魔神の力を欲している。
やはり、単に同名というだけの可能性は高い。
そこまで考えてなお、咲弥は自分を信じきれなかった。
「あの……魔神と戦ったリフィア様と、同じなんですか?」
咲弥はパラケルススに問いかけた。
パラケルススは肩を竦め、両手を小さく広げる。
「ごめんね。君の質問には答えられない。その疑問は、僕の知識にはないからさ」
どうやら魔神が現れた時代よりも、ずっと昔の人らしい。
もはや古代どころか、太古より昔ではないのかと疑った。
事実の確認ができない状況に、咲弥は歯噛みする。
同じか、別か――真偽を知るすべが、何も見つからない。
また悩みの種が増え、咲弥は重い気持ちを抱え込んだ。
「昔の人がそうしてくれたみたいに……僕もまた未来の君に事実を伝えたかった。だから、現状もてる最高の科学力で、このアジトを強固に改造したのさ」
寂しそうに微笑むパラケルススを、咲弥は見据え続けた。
「いつの日か、また――人類が誕生して、僕の言葉がわかるレベルに達したときのために……神に破壊されない限りは、たとえどれほどの月日が流れようと、決して壊れない建物と記憶を、最後まで生き残った人達と一緒に遺したのさ」
パラケルススの目もとから、静かに涙が流れた。
「どうか未来の人が、僕らや昔の人とは違う道を……そして願わくは、あの憎き神を討てる人類であることを――僕らの科学力ではさ、あれは倒せなかった」
つらさを耐え忍ぶように、パラケルススの表情が崩れる。
「どんなに対策を練っても……村が、町が、都が破壊され、人々はまたたく間に殺された。誰もが恐怖に怯え、苦しみ、悲しみ……あっという間に世界は崩壊した。アジトに遺した資源は、何を使ってもらっても構わない。だからさ――」
「ンぅ……? 内緒ばなシ?」
いきなり背後から飛んだ声に、咲弥はぞっと怖気立つ。
甲高い声には、聞き覚えがあった。
メイアと一緒に、咲弥は後ろを振り返る。
そこには、まるで道化師を連想させる――瞬間的な転移を強制する魔物がいた。
「お前は――お前はぁっ!」
低い声で怒鳴ったメイアの瞳が、まるで爬虫類を思わせる形へと変化する。それは怒りが限界を超えたときに見せる、竜人特有の瞳であった。
道化師はしかし、余裕たっぷりな姿勢を貫いている。
細長過ぎる指を揺らし、チッチッチと舌を鳴らした。
「ノけ者は、かなシいネ。罰を与えちャおうかナ」
道化師が両手を大きく広げていく。
何が起こるかわからない。咲弥は途端の寒気を覚えた。
「んなっ……やめろぉおおおお!」
咲弥は叫び、我知らず走りだした。
メイアもすでに、道化師へと向かっている。
だが、間に合わない。道化師は穏やかに後ろへと跳ねた。
「神の裁き」
道化師は両手を叩き、強烈な破裂音を鳴り響かせた。
火が放たれたわけではなく、温度が変わった様子もない。それなのに、まるで猛火に包まれたかのように遺跡中が焼け爛れ、次第に灰となって散っていた。
進行速度が緩やかなためか、まだ灰と化していない箇所が重力に従ってどんどん崩落する。すると形作られた人工物と同様、パラケルススもふっと姿を消した。
最悪な事実をまのあたりにして、咲弥は短くうめく。
彼からはもっと、有益な情報が得られたかもしれない。
もう二度と、よみがえらせることはできないと思えた。
通信機やパソコンみたいに、その物自体の理解はできる。だからといって、内部構造や、使われている素材や原理を、事細かく熟知しているわけではないのだ。
それ以前に、破壊の規模があまりにも大きい。
そこら中が、次々に崩壊していっていた。
「な、なんて……ことを……」
いったい何が目的なのか、まったく理解できない。
道化師は楽しそうに、けらけらと笑った。
「アハッ! 絶望シてる? すンごい顔してるョ!」
「貴様ぁっ――! 覚悟しろ!」
メイアが勇ましい声を放ち、瓦礫を避けて進んだ。
メイアの刃が届く瞬間、道化師はふわりと消える。
気配で追えない。おそらくは、瞬間移動の類いだった。
周囲に視線を――咲弥は不意に、左肩に重みを覚える。
ほぼ同時に、咲弥の顔が細長い指で覆われた。
「なァ、お前サ? 神殺しの獣……ダろ? あノね、神様ガとても怒ってるョ? 神殺しの獣ヲ、よみガえらせたカら」
それは低く重く、腹に響く声音だった。
咲弥は虚を衝かれ、電撃にも似た痺れが全身に走る。
咲弥は恐怖に襲われながらも、急いで黒爪を振るう。
道化師は再び、蝋燭の火のごとく姿を消してしまった。
「あッ! ヒャひゃッ! あッ! ひゃヒャヒャひゃッ!」
道化師はぱちぱちと手を叩き、あちこちに瞬間移動する。
やがて道化師を見失い、咲弥は視線を大きく滑らせた。
すると今度は、背にもたれられたような重みを覚える。
「だめダメだめ。そいツはネ、大罪。バグ――なんだョ?」
「なっ、にを――!」
咲弥は再び攻撃したが、やはり届かない。
不規則な場所への瞬間移動が、ずっと繰り返されていた。
咲弥は見失わないように、道化師の姿を必死に目で追う。
そのとき、金色の紋様を浮かべて走るメイアが見えた。
「雷鳴の紋章第一節――夜裂きの紫花」
紫色の放電を始めた途端、メイアの姿がふっと消えた。
気配で追えている。すでに彼女は十数メートル先にいた。
勢いよく宙を舞い、何もない空間へ紫色に輝く刃を放つ。
それは単なる奇跡、あるいは偶然だとも感じられた。だが不規則に思える道化師の瞬間移動に関して、メイアは何かを掴んだに違いない。
そこに来ると踏んでか、道化師を見事に雷の刃で貫いた。
紫色をした強烈な電撃を、道化師は浴びている。
それはまるで、本当に咲いた花にも見えた。
「ぐぎャああアァ! いィーたァー……くはないンだナァ、こレが! あヒャ!」
道化師はなおもおどけ、細長い手でメイアに襲いかかる。
かろうじて防いでいたが、メイアは強く吹き飛ばされた。
「くっ……」
メイアは崩落中の瓦礫を飛び移り、難なく地へ降り立つ。
上級冒険者となれた者の身体能力に、咲弥は舌を巻いた。
人の心配よりも、まず自分の身を案じるべきなのだろう。
メイアみたいな動きは、紅羽やネイにしか真似できない。
咲弥は思考を切り替え、道化師に神経を注ぐ。
道化師は拍手しながら、瞬間移動を繰り返している。
「アッひゃっヒャッ! たのシいね! たのシいねェ!」
道化師が嬉々とした声で言い、再び煙のごとく消える。
顔がくっつきそうな距離で、道化師が咲弥の前に現れた。
「人をおチョくるのッテ、たのシいィ。困ッて、絶望シてる姿が滑稽だネ!」
道化師の行動原理を、ようやく呑み込めた気がする。
これは悦楽のためだけに、人をもてあそぶのだ。
レティアの無残な亡骸を眺める、暗く重い雰囲気を纏ったメイアの後ろ姿――少し前に見た光景が、胸を痛めるくらい鮮明に、咲弥の脳裏に思い浮かぶ。
空白の領域を訪れるなら、死を覚悟するのは当然だった。
多かれ少なかれ、その意識は持たなければならない。
充分にわかっていた。
それでも――
「お前がいなきゃ……そうは、ならなかったかもしれない」
咲弥は目に力を込め、真っ向から道化師を睨みつける。
道化師は卑しく、嘲笑を宿した表情を見せた。
道化師の態度が、咲弥の怒りをひどく刺激する。
「ならバ、どうスる? 殺すカ? ほかノ神々ノように――我もマた、神だゾ」
咲弥の心臓が、どくんと力強く跳ねた。
真偽は知れないが、確かに異質な存在ではある。
咲弥は素早く気を改め、道化師に向かって言った。
「だからなんだ……お前をこのまま、野放しにはさせない」
咲弥は、白爪と黒爪を同時に振るった。
道化師は人差し指を振りながら、軽快に後退していく。
「でも、むりィ! 神殺しの獣、弱すぎィッ!」
「くそ……!」
咲弥は短くうめいた。
メイアの張った声が響く。
「咲弥、目を凝らせ! 転移場所に小さな魔法陣がある!」
言われて初めて、ようやく認識できた。
何か妙な光が、そこにはある。
咲弥は思考を巡らせつつ、体が勝手に動き始めた。
数ある光の欠片に向け、力を込めた黒爪を放つ。
ただの偶然でしかないが、ついに黒爪で道化師を貫けた。
「グギャあああッ! やァ~らァ~れェ……なァい!」
道化師の胸部を、黒爪が確実に貫いていた。
手応えはある。貫いた感触すら手に残っていた。
それなのに、まるで何も効いていない。
道化師はけらけらと笑った。
「希望が見えタ? 活路が見えタか? 残念。ソれ、ただの罠なンだ。ほらッ!」
咲弥の位置、メイアの位置、道化師の位置――
崩壊する遺跡の中のまま、場所自体に移り変わりはない。だが景色がぐるぐると、凄まじい速度で切り替わっていた。
何度も繰り返される転移に、ひどい吐き気が込み上がる。
脳の処理が追いつかない。意識が混濁状態に陥った。
もはや、理解不能な心境でしかない。魔法陣を顕現せず、魔法が扱える――それは少し前に知った新世界の力と、よく似ている気がする。
それもまた、ここ最近から謎に広まった力だった。
人と連動している可能性が、漠然と咲弥の脳裏をよぎる。
そうでなければ、何者かによって与えられたのか、技術を盗まれたのか――もしくは、道化師が口にした通り、本当に神だからなのかもしれない。
虚ろな意識を正してから、咲弥は気を取り直していく。
その瞬間での出来事であった。
「んなっ――」
咲弥一人が、夜空に向かって転移が繰り返される。
あっという間に、遥か上空にまで到達していた。
転移が止まれば当然、今度はもの凄い勢いで落下する。
「うぉあぁあああ――っ!」
咲弥は我知らず、悲鳴をあげていた。
光る葉をつけた大樹が、とても小さく見える。
肌寒い空気に凍えながら、トラウマのせいで身が竦む。
ひどい恐怖が心を――そして、全身を強烈に蝕んでいく。
道化師の笑い声が、激しく風を切る音に混じって届いた。
「お前は神殺しの獣ノ、まがいモノだナァ――」
咲弥はくるりと仰向けにされ、道化師に顔面を掴まれる。
「こノまま、落下すレば死ぬ。最高速に達シた瞬間、場所を地ノ付近へ戻せバ、そレでも死ぬンだ。脆いナァ、人の子は実に脆いナァ――あッヒャッ!」
対策を何も取らなければ、落下の衝撃で死ぬ。
至極当然の事実に、咲弥は逆に冷静さを取り戻せた。
(そうか……僕は、もう……あの頃の、僕じゃないんだ)
ろくに紋章術が、扱えなかった頃とは違うのだ。
黒白の籠手を、上手く扱えなかった頃でもない。
今の咲弥には、着地前にできることなどたくさんあった。
咲弥は胸の内側から湧き出る恐怖を、ぐっと噛み殺す。
「たとえ死んでも、僕はお前を許さない!」
道化師の腕を、咲弥は黒手で掴んだ。
どこにも逃がさない。転移しても、きっとついていける。
なかば懇願じみた希望を胸に宿し、咲弥は白爪を振るう。
しかし咲弥の抱いた願いは、呆気なく崩壊する。
道化師だけが、空気に溶け込むように消えたからだ。
「むだムダむだぁ! 残念、無念! あひゃヒャひゃぁ!」
何がどうなっているのか、まったく理解できない。
どうすれば一撃を入れられるのか、予想もつかなかった。
たとえ無事に着地できたとしても、なにも意味がない。
道化師に対抗する手段がなければ、いずれは殺される。
(くそっ……いったい、どうすれば……)
「もう、おシまいッ!」
やや遠くにいる道化師が、両手を大きく広げた。
落下寸前の地点へ、強制的に転移する気なのだろう。
最悪なことに、ネイや紅羽とは違い、咲弥は空中での移動方法をもっていない。
咲弥の胸は苦渋に溢れ、自然と死を覚悟する。
そんなとき、なにやら黒い影が上空へ駆けのぼった。
それは――咲弥は目を見開き、心が安堵感で満ち溢れる。
「風の紋章第七節、蒼天の亀裂!」
激しい烈風が、ネイの右手から放たれた。
「ネイさん! そいつ、無敵です!」
説明不足もはなはだしいが、迅速に伝えたかったのだ。
第七節を介せば、きっと意味を呑み込んでくれるだろう。
だがここで、予想外の事態を目撃した。
道化師が姿を消さない。
それどころか、ネイの紋章術が直撃していた。
道化師の顔は苦い。怒っている表情にもうかがえる。
「どぉこが! 無敵じゃいっ?」
そう言われても仕方がない。
同時に、やっと理解に達した。
エーテルを込めた一撃であれば、道化師に通じる。
(でも、ならどうして黒白が効かない……?)
もしかしたら、黒爪ではなく白爪ならば――
悩む咲弥に、黒白から不意の意識が流れ込んできた。
(なんだ……?)
咲弥は不思議に思いながら、まずは状況を確認した。
ネイが道化師を相手に、立ち回る姿勢を見せている。
道化師はネイを、ひどく警戒していた。
(ほんの、一、二秒なら……)
そう結論づけ、咲弥は白爪を自身の胸に刺した。
黒い闇が――視界一杯に広がる。
自分の精神世界を訪れたのは、思えば久々な気がした。
「やあ」
「ねえ」
咲弥は二つの声を振り返る。
小さな子供の背丈をしたクロとハクが、そこにはいた。
「あっ……お久しぶり、です……」
「果てなき戦いから」
「あなたは、あの瞬間から」
「逃れられなくなった」
交互に告げたクロとハクに、咲弥は首を捻って応じた。
「古の神々は気づいている」
「あなたという存在に」
「神殺しの獣の存在に」
「古の神々は意識しつつある」
「ごめんね」
「ごめんなさい」
「僕達は、君を引きずり込んだ」
「私達は、あなたを巻き込んだ」
「恨んでくれても構わない」
「呪われても仕方がない」
いつも唐突な発言に加え、理解に苦しい言い回しをする。
それでも、咲弥はなんとか呑み込めた。
道化師に言われた言葉が、漠然と脳裏によみがえる。
「えっと……神様が、本当に……怒ってるんですか?」
「いずれは君を抹殺しにくる」
「神殺しの獣ともども消滅させにくる」
「君は逃れられない戦いに身をおいている」
「決して避けられない戦いが待っている」
「ごめんね」
「ごめんなさい」
クロとハクの発言に、圧倒されたのは否めない。
まさか神々に、命を狙われるはめになるとは――と、そう思いはしたが、よくよく考えてもみれば、当然の展開だとも感じられた。
神々を殺戮した存在を、復活させた事実に間違いはない。
神殺しの獣を知った時点で、想像くらいはできただろう。
事情は理解した。同時に、不可解な点も浮かぶ。
とはいえ、今は正直それどころの話ではない。
何か理由があるのか、わからないままに咲弥は応じた。
「えぇっと……なぜいまさら、そんな話をされているのか、あまりよくわかりませんが……でも、別に……謝る必要は、ありません」
クロとハクを、咲弥は交互に見据えてから続けた。
「僕が今、生きてここにいられるのは――あのとき、黒白の籠手が、僕を助けてくれたからなんです。もちろん、仲間のみんなのお陰でもあるわけですが……でも、みんなと一緒に戦えているのは、やっぱり黒白の籠手があるからなんです」
咲弥は言いながらに微笑みを作り、結論を述べた。
「だから、恨んだりとか、呪ったりとかしません。むしろ、感謝してもしきれないくらい、僕は黒白の籠手に――そして神殺しの獣さんを大切に思っています」
咲弥は告げ終えた瞬間、少しばかりぎょっとなった。
これまで一度も見た記憶のないものが、そこにはある。
クロとハクが、ほんのわずかに微笑んだ。
「そんな君だからこそ」
「私達は、あなたの力になる」
「眠っていた力の一端を」
「今、解放しましょう」
「力の一端を……解放……?」
クロとハクは、こくりと頷いた。
「今はまだ、一つが限界」
「また一日に一回が限界」
「それでも、充分に通用する」
「あの神を〝騙る〟道化に」
「死の制裁を加えよう」
「さあ、ともに行きましょう」
「果てなき戦いの世界へ」
そう言い、クロとハクが手を差し出してきた。
咲弥は少し茫然と見とれてから、まずは頷いて応える。
「はい。よろしくおねがいします」
クロとハクの手を取った瞬間――
咲弥の視界は、現実世界へと戻ってきていた。