第三十七話 ただ強く、ただ美しい
森の一部が大きく震え、太い黒煙が立ちのぼっていた。
木々がぽっきりと折れ、爆心地では地面がえぐれている。
紅羽は状況を分析しながら、ひどく戦慄していた。
体中で嫌な汗をかき、焼かれた肌がひりつく。
なかば無理矢理に精製したエーテルのほか、自然と防御に徹した体が、間一髪のところで紅羽の命を救った。とはいえ今回ばかりは、さすがに無傷とはいかない。
さらに身に纏ったエーテルが、根こそぎ吹き飛ばされた。
逃亡していた魔物が、まさか爆発を仕込まれた囮だとは、予想すらもしていない。とても残酷非道な行為に思えるが、同時に賢いとも感じられた。
真の敵がいったい何か、ぼんやりとだが見えてくる。
(くっ……)
予感が正しければ、もっとも遭遇したくない魔物だった。
いまだに肥大化している不安要素さえなければ、想像した魔物を相手に、力試しがしたいという気持ちは持っている。しかし今は、仲間の安否確認を急ぎたい。
そうは思っても、もう始末する以外の選択肢はなかった。
たとえ紅羽が撤退を選ぼうとも、確実に妨害を受ける。
どこで標的にされたのかは不明だが、進行方向付近に囮と罠を用意していたのは、まぎれもない事実だからだ。そこが少し、解せない点でもある。
紅羽の行動を、的確に予知しているかのようであった。
何にしても、危険な魔物に追われながら仲間を探すなど、正気の沙汰ではない。ほかにどんな罠が張られているのか、もはや予想すらもつかなかった。
もし奇跡的に仲間と合流ができたとしても、それはそれできっと問題が生じる。
仲間のほうも、万全ではない可能性が高いからだ。
(最善の選択は……迅速に始末!)
跳ねる矢を撃ったのは、爆発した魔物ではない。
確実に別種だと睨む。であれば、紅羽を視認できる位置に潜んでいるのだ。
紅羽はエーテルを纏い直してから、戦闘態勢を整える。
周辺には、複数の気配が漂っていた。
さきほどの爆発で、呼び出された別物らしい。
「グォオオオォ――ッ!」
獣の太い咆哮が、腹の底に重く響いた。
そこかしこから、気配がぽつぽつと色濃く湧き出る。
(魔法……!)
紅羽は神経を尖らせ、気配をより深く探った。
左側のほうから、黒い影が走り抜ける。
熊を連想させる、漆黒の毛を生やした魔獣――紅羽の二倍以上は背が高い。筋肉質でごつごつとした巨体に似合わず、閃く速度で迫ってきた。
右手の鋭い爪をすぼめ、紅羽の胴を貫こうとしている。
紅羽は紅い刃でいなしてから、即座に後方へ宙返りした。
別の方角から黒い火炎が噴き、一直線に地面を焼き払う。
ほぼ同時に、三方向から黒毛の魔獣が姿を見せた。
紅羽は魔獣を丁寧に処理しながら、不可解な疑問が湧く。
人を狙うのは、特に不思議ではない。
爆発で気が立っているのもまた、おかしくはなかった。
だが、なぜか――何か妙な違和感を覚える。
紅羽の存在自体に、いら立っている雰囲気があった。
(なに……?)
紅羽は思考を巡らせ、ふと気づく。
血ではない液体が、民族衣装のあちこちに付着していた。
おそらくは、爆発の際に飛び散ったものだと考えられる。
(これは……?)
液体の一部を指で拾い、試しに黒毛の魔獣に飛ばした。
「グォアアアア――ッ!」
どうやら謎の液体は、眼前の魔獣が怒り狂う効果がある。
興奮剤に近いのか、いずれにしろ好ましい成分ではない。
紅羽は民族衣装を、即座に脱ぎ捨てる。
もっとも魔獣の標的からは、もう覆りそうになかった。
十重二十重――仕掛けられた罠は、やはり一つではない。
狡猾な人をも思わせる周到さに、紅羽は素直に畏怖する。
早々に炙り出さなければ、事態はさらに悪化するだろう。
真の敵は、罠を軸にしている。
そう簡単には姿を現さないと、結論を導き出した。
(それなら……私を、攻撃するしかなくさせる……?)
瞬時に作戦を立て、紅羽は実行に移る。
純白の紋様を浮かべ、静かな声音で唱えた。
「魔女の悪戯」
時間停止にも等しい世界へと、紅羽は身を投げ入れた。
魔女の悪戯は、発動時間が非常に短い。
だから付近にいる魔獣の首だけ、迅速に刎ねておいた。
最後の一匹を討つ寸前で、再び純白の紋様を顕現する。
「光の紋章第七節、明滅の流星」
紅羽が上空へ行ったところで、魔女の悪戯は終わる。
もうほとんど、太陽は沈みかかっていた。
光る葉を持つ大樹のお陰なのか、あまり暗くは感じない。
ほかにも光を発する何かが、点々とある様子であった。
そんな観察をしながら、紅羽は手を高く上げる。
見せびらかすように純白の紋様を描き、そのときを待つ。
(さあ……急がないと――かかった!)
徐々に落下する紅羽に、紋様みたいな矢が飛来してきた。
「光の紋章第七節、明滅の流星」
矢が飛んできた方角へ、紅羽は光速で移動していく。
ややひらけた森の中に降り立ち、真の敵を目で捉える。
そこにいたのは、やはり予想通り宵の狩人ニニであった。
太い木の枝に立ち、手には黒い長弓を持っている。
どこか騎士を彷彿とさせる風貌をしており、光沢感のある漆黒の甲冑は、ニニにとっては肉体そのものとなるらしい。
さながら動く鎧だと、資料のほうに記載されていた。
ニニに慌てた様子はない。むしろ、落ち着きすらある。
ただ己の失策を、恥じている雰囲気が漂っていた。
忽然と姿を消した獲物が、気がつけば上空にいたのだから無理もない。逃げられると予感したからこそ、一直線に矢を放ってきたのだ。
ニニが手にある得物を、ぽんっと放り捨てる。
地面に到達するや、長弓は灰のごとく散って消え去った。
「お見事なり。人の子よ」
低く重い、どこか電子的な声色に聞こえた。
ニニが木の枝から飛び降り、数歩だけ詰め寄ってくる。
素早く紅い大太刀を構え、紅羽は臨戦態勢に入った。
しかしニニは鷹揚な姿勢を保ち、電子的な声を紡ぐ。
「昨も強敵二体と巡り会えた。汝は超えられるか、否か」
わずかに紅羽の眉が跳ねた。先行した竜人達に違いない。
ニニが、ここに居る。それはすなわち、もう――
心に少し感傷が湧くが、すぐに警戒で塗り潰される。
ニニは広げた左手に、右の拳を横にあてた。
まるで左手が鞘のごとく、ゆらりと漆黒の剣が抜かれる。
魔法か――灰と化した長弓も、同様の物だったのだろう。
「良き構えだ。我が獲物――さあ、狩り合おう」
ニニが告げた瞬間、ふわっと姿が消える。
目では追えない速度で、ニニが紅羽の背後に回っていた。
紅羽は蹴りをまじえ、ニニの剣を紅い大太刀で滑らせる。
姿勢、力加減、刃の角度――凄まじく強靭な一撃だった。
ここまでの一撃を受けたのは、とても久しい気がする。
いなし方を誤れば、紅い大太刀ごと斬られていた。
ふとニニの一撃から、ある人物の姿が漠然とよみがえる。
(これは……)
ニニは神速で動き、上下左右と多彩な斬撃を放つ。
紅羽はからくも避け、隙を捉えては反撃する。
お互いに致命の一撃を、常に狙い続けていた。
切迫した状況下、金属が打ち合う音のみが鳴り渡る。
囮や罠を扱わずとも、恐ろしいくらい強い。
人でたとえれば、達人の域を脱した者で間違いはない。
おそらくは、さぞ名高い剣士となれたことだろう。
紅羽は浮かんだ感想を捨て、ニニと大きく距離を取った。
お互いに睨み合い、いつ仕掛けるか――
ニニが不意に、だらんと剣を下げた。
「良い。とても良い。最高の強敵だと改める」
ニニは立ち尽くしたような姿勢だが、隙はいっさいない。
下手に動けば、返り討ちにあう。
ニニがすっと構え直した。そして――
紅羽ははっと息を呑み、目を剥く。
「次に止まるは――どちらかが、屍と化す時のみ」
ニニが強烈に迸ったエーテルを身に纏った。
やがてそれは、漆黒の剣をも飲み込んでいく。
電撃のごとく体中が痺れ、紅羽も力強いエーテルを生む。
ニニはどうやら、魔人と同等の域に達していたらしい。
「さあ、共に踊り狂おうか」
ニニがついには、気配ですらも追えない領域に入った。
なかば勘に近い。ニニの斬撃を、大きく打ち返していく。
紅羽は純白の紋様を浮かべ、口早に唱えた。
「光の紋章第二節、煌めく息吹」
紅羽は光を纏い、紋章術で身体能力を向上させた。
それでもなお、届かない。わずかに、ニニが押している。
ニニが弾かれた剣に、指を滑らせた。
黒炎を纏った刃が、紅羽に襲いかかる。
(これは――受け流せないっ!)
紅羽は直感に従い、後方に飛び退いた。
黒炎は地面を裂き、瞬時に消し炭にしている。
魔法陣もなく、魔法を扱える魔物――
少なくとも資料には、載っていなかった情報であった。
きっと誰一人、ニニの本気を引き出せていない。
紅羽は紅い大太刀を純白の弓に転化させ、光の矢を放つ。
無論、命中するはずがない。ただし、退路は予測できる。
紅羽は弓から翡翠色の短剣に変え、接近戦に入った。
黒炎の斬撃は、直撃しなくても熱が襲ってくる。
紅羽の髪の一部が、ジッと音を立てて消し飛んだ。
紅羽は気にしない。
ニニの脆そうな部分に、短剣を突き入れる。
ニニもまた、寸前の回避をして反撃してきた。
斬撃と同時に、左手を紅羽に向けている。
紅羽は純白の紋様を浮かべた。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
ニニが左手から放った黒い光線を、純白の光線で弾く。
おそらく第五節では、突き破られている。
紅羽は流れるように再び紅い大太刀に変え、回転しながらニニに斬撃を放つ。
ニニは紙一重でかわしながら、漆黒の剣を下から振るう。
もはや、直感のみの行動をしいられている。しかし直感に次ぐ直感こそが、今現在もかろうじて紅羽の命を、この世に繋ぎ止めていた。
たった一つの失敗が、即座に死へと直結する。
強烈な圧迫感に満ちた場に、覚えがないわけではない。
それはまだ、紅羽が幼い頃の記憶であった。
紅羽にとって五號は、言わば種違いの姉となる。
唯一、一人のみ――種も同じ姉が存在していた。
ニニの剣筋や威圧感は、ふとその姉を鮮明に想起させる。
あの頃は、心の底から絶望した。
たとえどれほど足掻き、鍛錬を積み重ねようとも、決して届くことのない領域というものがある。人々はそれを、神に愛されし者と称していた。
その姉と、紅羽はよく似ている。だが、容姿だけだった。
この世に誕生した瞬間から――
姉はすでに紋章者として、開眼していたらしい。
四年目には紋章術に加え、武具の扱いにも合格した。
五年目には、歴代最速で號数が与えられている。
彼女は最高傑作――初代をも凌駕する逸材――
所長を含め、研究員や施設員達も口々に賛美していた。
当時の號持ちのほか、號無し全員が感じたに違いない。
あれは、人ではない。あれは、別の何かだ。と――
同じ遺伝子で作られた紅羽も、最高の期待が寄せられた。
さらに加えて、初代と同じ固有能力が発現している。
当然、届くはずもない。姉には、遠く及ばなかった。
失敗作、欠陥品だと――一際、誰からも言われ続けていた原因は、最高傑作たる姉の影があったからなのは否めない。
強さはすなわち、恐怖。
才能はすなわち、畏怖。
姉を間近で見れば、誰もがそう感じられるはずだった。
(そうか……私は……)
咲弥の顔が、今度は脳裏に思い浮かんだ。
彼にとっては、強さは恐怖ではない。羨慕だった。
彼にとっては、才能は畏怖ではない。羨望だった。
『それにしても、紅羽は本当に凄いね。もしかしたら、僕がこれまで出会ってきた誰よりも、強いんじゃないのかな』
彼は恐怖も畏怖もしない。
凄いものを見た――そんな顔をして、言っていたのだ。
彼が姉に会えば、どんな顔をするのだろうか――
苛烈な戦いの際中だというのに、紅羽は少し夢想する。
もうすでに、紅羽の体は限界に近いところまできていた。
体はひどく傷つき、手に力が入らなくなりつつある。
度重なるニニの斬撃は少しずつ、しかし確実に紅羽の命を摘み取りかけていた。
紅羽はじわりと迫る死を、体中から感じ取っている。
エーテルの扱いがうまくなり、強くなったつもりだった。
否、間違いなく向上している。
けれども、あと一歩が届かない。
姉のときと同じで、深く絶望してしまっている。
どこまで頑張ればいいのか、もうわからなくなった。
少し前に驕っていた自分を、引っぱたきたい気分になる。
まだまだ未熟なのを、ニニを通して実感した。
ただ――
それでも――
(……咲弥に、会いたいな……)
ニニから姉へ、そして姉から彼の姿へと至った。
たったそれだけのことで、紅羽の気力は満ち溢れる。
こんなところで、死ねるはずもない。
紅羽は目をかっと見開き、神経のすべてを戦闘に注ぐ。
ニニの癖は、戦い方からもよくわかった。
兜の隙間には目があり、しっかり視界は存在している。
ただ気配で動くということも、当然ながら熟知していた。
紅羽は瞬時に作戦を立て、純白の紋様を浮かべて唱える。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
地面に放った閃光が、大きく弾けて土埃を舞い上げた。
薄暗い森の中では、より一層見えづらくなっている。
紅羽は紅い大太刀に、エーテルを色濃く纏わせた。
もちろんこのままでは、気配で察知されて防がれる。
それは、視界が悪かろうが関係ない。
重々、承知している。だからこそ、できることがある。
紅羽はニニの気配に向け、紅い大太刀を素早く薙いだ。
「転化ぁ!」
紅羽は我知らず、自然と叫んでいた。
触れ合った金属音が、強烈に響き渡る。
それと同時に、受け止められた衝撃で土埃が吹き飛んだ。
紅羽は動かない。
ニニもまた、動かなかった。
紅羽は視線を逸らさない。
ニニもまた、紅羽に顔を向けていた。
「驚嘆だ……人の子よ」
漆黒の大鎌に頭を貫かれたニニが、電子的な声を紡いだ。
纏わせたエーテルは、まだ紅い大太刀の形を保っている。
正直これは、単なる賭けであった。
実際に試した経験など、一度たりともない。
とっさの思いつき――眼前の強敵に通ずるのか、果たして騙されてくれるのか、しかしそれを熟考している暇はない。その前に、紅羽の体力が尽きている。
極限状態が生んだ思考は、どうにか的を射たようだ。
ほんのわずかに、鉄製みたいなニニの顔面に笑みが浮く。
「――真の狩人よ。お見事なり」
電子的な低い声から伝わる。ニニは死を覚悟していた。
魔物から賞賛されるのもまた、初めての経験ではある。
宵の狩人は、そういった存在なのだと呑み込んだ。
紅羽は賛辞に応えるため、エーテルを大鎌に纏わせる。
まず頭部を横に斬り、勢いを殺さないまま腕と胴を一緒に裂いた。そして、最後に股下から、ニニを一刀両断する。
神速の攻撃に、ニニの体はいまだ形が崩れていない。
少しずつずれ、ニニの体は地にぼとぼとと落ちていく。
紅羽は楽な姿勢に移行してから、夜空を大きく仰いだ。
世界は、ひどく静まりかえっている。
よく見えない夜の星空が、少し紅羽の頭を朧気にした。
休憩している暇などない。
仲間達の生存を信じて、向かわなければならなかった。
とはいえ、体がなかなか動きそうにない。
宵の狩人ニニは、それぐらい強く、そして気高かった。
「はぁ……はぁああ……はぁ……」
紅羽は夜空に向けて、深呼吸を繰り返した。
少しずつ体力を蓄える。次第に気力が回復しつつあった。
動ける程度まで至れば――紅羽は、はっと息を呑む。
気のせいかと感じられるほどの、わずかな気配を捉えた。
紅羽は視線を滑らせ、そして絶句する。
血の気が引き、自然と腕の力がだらんと抜けた。
そこには、絶望しかない。
メイアの用意していた資料が、ふと脳裏によみがえる。
宵の狩人ニニ――
概ね強者以外には興味を示さず、下手な行動に出なければ見逃されることもままある。だがひとたび強者と認識された場合、執拗につけ狙われるだろう。
また詮索を非常に嫌っており、調査の対象が自身なのだと覚られた場合も同様、狩人の標的となるので注意が必要だ。
あまり群れることはなく、基本的には単独を好む。
彼らの求める強者とは別種の生物であり、そのため同種は省かれているようだ。
されども中には、複数で行動を取る個体もいる。
その生態を掴もうとした調査班は、音声記録を最後に――
上級冒険者及び、手練れの調査班計十三名が消息を絶つ。
紅羽の視線の先には、宵の狩人が二体――
やや遠くから、紅羽の様子をじっとうかがっている。
まるで他人事みたいに、なかば茫然と狩人達を眺め返す。
ふと気づけば、宵の狩人達だけではなかった。
ほかにも、虎視眈々と狙っている気配があちこちにある。
現実逃避に近いものに、もはや身を委ねるほかない。
「一號……あなたならば、この状況をどう対処しますか?」
紅羽は我知らず、この場にはいない姉に問いかけた。
どんな返答がくるのか、聞かずともわかる。
彼女は声を発さない。彼女は振り向きすらもしない。
無表情のまま、背丈と同じ細長い紅の大太刀を抜くのだ。
それから瞬く間に、眼前の敵を皆殺しにしていく。
華麗に、鮮烈に――彼女はただ強く、ただ美しい。
きっと場にいる全員が、彼女の姿から目を離せなくなる。
紅羽は、ごくりと生唾を呑み込んだ。
生命の宿る宝具、ヴァルキリー――
漆黒の大鎌を紅い大太刀に転化させ、戦闘態勢を整える。
(咲弥……もう少しだけ、待っていてね……)
想い人の姿を脳裏に浮かべ、紅羽は目に力を込める。
死ぬわけにはいかない。彼のもとへ行くために――
紅羽は想いを胸に乗せ、まず宵の狩人達へ駆けていった。