第三十四話 二つの開戦
ゼイドはネイの横に並び、蒼い飛泉の洞窟を進んでいた。
もう長く歩いた気もするが、いまだ出口は見つからない。
思いのほか、複雑な構造をしているようだ。
不安要素は多いが、安心できる点がないわけでもない。
ただその安心感が、不可思議な疑問をもたらしている。
強制転移をくらったゼイドは、気がつけば謎の黒い遺跡が見える場所にいた。周辺には暗い森が広がっており、ひどく危険な香りに満ち満ちている。
一人きりという状況に、気が動転した事実は否めない。
そのせいで隠密が失敗してしまい、最悪な事態が連鎖的に起きた。多種類の魔物から、それぞれの方法でつけ狙われ、状況は刻々と悪化の一途をたどる。
撤退していた最中に、さらなる絶望的な事実も判明した。
気配を完全に絶てる魔物が、この空白の領域にはいる。
狙われてようやく、認識が可能な魔物だったのだ。
領域内には、本当に奇妙な魔物がたくさんいる。
そのはずだが――飛泉の洞窟には、なぜかほぼいない。
暗がりの穴の中に、嫌な気配だけは感じられた。
しかし不思議な話、別に襲ってくる様子はない。
蝙蝠みたいな生物が、現状では最後に見た魔物であった。
(ここにも、完全に気配を絶てる魔物がいんのか……?)
ゼイドは周囲の観察をおこない、ふと違和感を覚えた。
「あれ? ここ、さっきも通らなかったか?」
きょとんとした顔で、ネイは小首を傾げた。
「そう?」
「いや、たぶんな?」
「似た場所が多いからねぇ」
ずいぶんとお気楽な物言いに、ゼイドはため息をつく。
とはいえ、ネイの返答は妥当なものではあった。
蒼い結晶は、どれも似た形をしている。
そのせいでより一層、同じ場所だと錯覚するのだろう。
そう解釈してから、ゼイドは別の疑問を投げた。
「そういえばな、ちと不思議な話なんだ、が……ん?」
何か妙なものが視界に入り、ゼイドは口を閉ざした。
目を細め、じっと覗き込む。
蒼い結晶の色が、少しおかしい
「なんだ……ありゃあ? ちと、待ってろ」
ネイに伝えてから、ゼイドは結晶群の隙間を通っていく。
蒼い結晶に囲まれた空間――そこには、男女二名がいた。
太い結晶にもたれ、まるで休憩しているようにも見える。
「こ、こいつは……」
嫌な予感は、目からも伝わってきていた。
格好からして、先走った竜人達で間違いない。
ゼイドは歩み寄り、まずは男のほうを揺さぶってみた。
「おい……おいっ!」
手から伝わる感触が、ある一つの事実を物語っていた。
揺らした男と同様に、女のほうもすでに亡くなっている。
非常に不可解な疑問が湧き、ゼイドは顔をしかめた。
どちらも外傷らしきものが、どこにも見当たらない。
きっと普通の場所や状況であれば、ただ眠っているとしか思わなかった。しかし触れてみた感じから、亡くなってから半日以上は経過している。
穏やかな死を迎えた様子ではあるが、肝心の死因がまるでわからなかった。
まだ二十代なかば頃のため、寿命とは到底考えられない。
ゼイドは肩越しに、背後を振り返る。
「おい、ネイ! 竜人達の死体だ!」
叫んだものの、ネイからの返答はない。
訝しく思い、ゼイドは歩いていた地点まで戻った。
「んなっ……はぁ?」
ゼイドの驚愕は、そのまま声となって漏れ出た。
ネイは呑気に、結晶を椅子代わりに座って休憩している。
ゼイドは大きなため息をつき、呆れながら伝えた。
「おいおい……あっちで、竜人二人の死体を発見したぞ」
「そう。まあ、なんとかなるでしょ」
「ならねぇよ……! あとなぜか、二人とも外傷がない」
「大丈夫。それよりも、なんか少し歩き疲れたわ。ちょっと休憩しましょうか」
確かにいつも余裕な姿勢を見せ、お気楽な思考はあった。
しかし今のネイは異常であり、明らかにおかしい。
詰め寄ったネイの肩を、ゼイドはがっしりと掴んだ。
「おい! いったい、どうしちまったんだ!」
「はぁ……なんか凄く落ち着くわ……しばらく、休憩ね」
ネイの蕩け顔に唖然となり、ゼイドは数歩後退した。
(なんだ……いきなり、なんなんだいったい……)
精神になんらかの攻撃を受けている――まず考えたのは、そこであった。
だが、いつそんな攻撃を受けたのかがわからない。自分と再会する前なのか、または蝙蝠を始末した際、精神に異常を引き起こす何かを受けた可能性が浮く。
ただもっとも傍まで接近されたゼイドのほうが、ネイより遥かに危険そうだと感じられる。そこは種族による違いか、はたまた別の理由があるのだろう。
混乱するゼイドの脳裏に、ふと竜人達の亡骸が浮かんだ。
竜人達もまた、今のネイと同様に似た姿勢を――
「まずい――っ!」
ゼイドは慌てて、強引に結晶からネイを引っぺがした。
ネイはまったく抵抗せず、ひどくだらけきっている。
当然、真偽は知れない。何もわかるはずがなかった。
それでも、漠然と導かれた解答の可能性を捨てきれない。
蒼い結晶自体が、精神に異常を招いた元凶――もし考えが正しければ、先にネイがおかしくなった理由も説明がつく。ゼイドよりも長く、この洞窟にいるからだ。
それは同時に、もう一つの可能性を示唆している。
(まじぃっ! これは、かなりまずいぞ!)
ゼイドもまた、時間の問題かもしれないのだ。
すぐ洞窟から抜け出さなければ、自分もネイも死ぬ。
だからといって、出口を目指そうにも場所がわからない。
(どうする……どうすりゃいい……!)
最悪な状況下、事態はさらに悪化する。
(おいおい、嘘だろ? なんだ、この気配は……!)
ゼイドはネイを抱え、即座に薄暗い岩陰に身を潜めた。
重い足音が響き、次第にどんどん迫ってきている。
ゼイドは警戒を最大限に、こっそりと覗き見た。
(チッ……そういうことか……ここは、お前さんの巣かい)
心の中で舌を打つと同時に、資料の内容が脳裏に浮かぶ。
生命を貪る鉱石獣――ルピラスは巨大な狼を彷彿とさせる姿をしており、全身が石英で覆われていた。否、体すべてが石英と言っても、なんら過言ではない。
光を発する結晶のせいか、今のルピラスは青白く見えた。
本来は、まるで硝子細工みたいな透明感がある。
足音は重いが、歩く所作はとてもしなやかで美しい。
ゼイドは眉をひそめ、はっと息を呑んだ。
ルピラスは迷うことなく、竜人達のほうを目指している。
十中八九、死臭を嗅ぎ取っていた。
(くそっ……)
竜人達はすでに、どちらも死んでいた。
それは、事実以外の何物でもない。
だからこそ余計に、ゼイドは懊悩するはめとなった。
ルピラスはまるで琥珀のごとく、生物の死体を体内に取り入れ、骨すらも残さずに溶かしきる。もっとも最悪なのは、特殊とも言える捕食後にあった。
高濃度なオドを死体から抽出したのち、そのエネルギーは永続的に循環する。
より硬く、より強靭に――あらゆる面が強化されるのだ。
つまりルピラスは、食えば食うほどに強くなる。
資料によれば、もはやどんな攻撃も通じなくなっている。
撤退しなければ、全滅していたと記されていた。
(くそっ……あいつがいれば……)
頭に思い浮かんだのは、咲弥の姿であった。
どれほど硬くとも、咲弥の能力と黒白を併せれば、砕ける可能性はなくもない。別の零級――ジャガーノートすらも、一撃で葬れるほどの攻撃力があるからだ。
だが今現在、咲弥は近くにいない。
そのうえさらに、ネイも戦える状況ではなくなっている。であれば、凡人の自分が一人で、ルピラスを相手に戦えるか――答えは当然、不可能であった。
こればかりは、どうしようもない。
そもそも、ゼイドが今考えなければならないのは、戦って勝てるかどうかではなかった。魔物の標的にならず、一刻も早く飛泉の洞窟を抜け出すことにある。
それがネイを護るためでもあり、自分のためでもあった。
零級の魔物と戦えるのかどうかなど、考える必要がない。
そのはずだった。それが一番、正しいと理解もしている。
ただ――
(もし、あいつが……同じ状況なら……?)
もうずいぶん、長い付き合いになる。
それゆえに、まるで見たかのようにわかることがあった。おそらく咲弥であれば、絶対に見捨てない。たとえそれが、遺体であったとしても――
あの少年は護るために、全力で立ち向かうだろう。
しかしいくら力自慢のゼイドとはいえ、三人も担ぎながら進むのは、さすがに無理があった。平坦な道でもなければ、出口が判明しているわけでもない。
またルピラスみたいな、かなり危険な魔物までもがいる。
そのため竜人の遺体自体は、放置するほかない――これは薄い記憶程度ではあるが、竜人が戦死した場合の習わしを、昔どこかで聞いた覚えがあった。
遺体は無理でも、遺髪程度ならば容易に持っていける。
問題はそれが、可能か否かということだった。
「ふぅ……」
ゼイドは大きくため息をつく。
ネイを地べたに寝かせてから、民族的な衣服を脱いだ。
効果のほどは定かではないが、何もしないよりはいい。
脱いだ服でネイを包み、青白い光を遮らせておいた。
それから戦斧を肩に乗せ、ゼイドは背後を振り返る。
「ネイ。少し、そこで待っていろ」
ゼイドは覚悟を決め、竜人の遺体があった場所に向かう。
ルピラスが大口を開け、竜人を咥える寸前であった。
「待ちやがれぇえええっ! こんの、でかぶつがぁっ!」
ルピラスの動きが、ぴたりと止まった。
ルピラスがゆらりと背後を振り返り、ゼイドへ結晶の目を向けてくる。まるで品定めでもするかのように、青白かった瞳が赤黒い色に変化した。
睨みつけるルピラスと対峙して、ゼイドは鮮明に悟る。
それは写真や一瞥程度からでは、決して得られない類いの感覚と予感であった。
おぞましいほどの死の気配が、全身にまとわりつく。
ひりつく痺れを覚え、ついには呼吸すらもままならない。
(これが、最大級にやばい魔物の一体か……)
想いの力で行動したが、失敗だと強く思わされた。
これは、凡人程度が手を出せる相手ではない。
戦斧を強く握り締め、しかしゼイドは一歩を前へ進んだ。
「わりぃが……ここで怖気づいてちゃあ、あいつの仲間とは言えねぇんだ」
震えた声を吐き、ゼイドは大きく息を吸い込む。
「へっ……零級がなんだ! やってやるぜぇえええっ!」
自身を鼓舞するように叫び、ゼイドは昇華しながら走る。
一歩を踏み締めるたびに、なぜか恐怖が薄れていく。
感覚が麻痺したのか、あるいは余裕が消えただけなのか。
予知にも近い死の未来が、明確に見えていた。
それでも、ゼイドは止まらない。
奥歯を強く噛み締め、戦斧を大きく振りかぶった。
「これが、凡人の! 本気だぁあああっ!」
立派な一本の角が生えているルピラスの額に、渾身の力で戦斧を叩き込んだ。
鳴り響いた音は、鈍重な鐘の音色にも似ていた。
ゼイドは視線を逸らさない。
ルピラスもまた、じっと睨んできている。
戦斧の直撃が合図代わりとなり、開戦の幕は開いた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
闇が色濃くなる森の中を、紅羽は独り駆け抜けていた。
やはり強制的な瞬間移動は、紅羽のみではない。
仲間もまた、どこかへと飛ばされてしまった様子だった。
事実の確認を終えた今、まずは黒い遺跡を目指している。
そこから南下すれば、作戦開始地点まで迷わず辿り着く。
一応、これまでの道中、仲間達の気配を探ってはいた。
ただ残念ながら、痕跡すらどこにも見当たらない。
粘り気のある不安ばかりが、紅羽をひどく包み込んだ。
神々の果実が最初に発見された地点まで行けば、はぐれた仲間と再会を果たせる――そんな夢幻にも等しい可能性に、縋りついている事実は否めない。
たとえ淡い希望だとしても、そのお陰で前に進めている。
考えたくなくとも、頭は自然と思考を働かせてしまう。
もし仲間の誰かが、あるいは全員が死んでいたら――
そこから先は、ねっとりとした暗闇だけが広がっていた。
失うのがつらい――
孤独になるのが怖い――
そう感じるようになったのは、いつの頃からだろうか。
最初の頃は、咲弥さえいればそれでよかった。
正直、咲弥以外がどうなろうとも、知ったことではない。
そう本気で思っていた。しかし、今は――
ふと、五號の言葉が脳裏によみがえる。
『心は、お前のように強くもさせれば、弱くもさせるのだ』
想う心は、人を強くさせる。それは、間違いではない。
だが五號の言葉もまた、確かに嘘ではなかった。
もし希望が崩れた場合、今の紅羽は一緒に壊れる。
それくらい、心が脆く弱くなっているようだ。
ならば、戦いをやめるか――答えは否定となる。
ならば、戦いをやめさせるか――それもまた違う。
冒険者という世界に、仲間達は身を置いている。
多かれ少なかれ、誰もが死を覚悟して臨んでいるのだ。
たとえ冒険者でなくとも、この世は死がすぐ傍にある。
だから失うときは、きっと失ってしまう。
それが当然であり、事実以外の何物でもない。
わかってはいても、わかりたくはない心境ではある。
矛盾だらけの現実に、紅羽の胸はきつく絞めつけられた。
ただ咲弥と出会う前の自分に、戻りたいのか――
そう問われれば、首を横に振るに違いない。
これまでに得た経験や思い出は、紅羽にとっては宝物だと思えているからだ。
(失いたくない。何も――!)
紅羽は覚悟を胸に秘め、さらに急ぐ足に力を込めた。
その刹那――ぞくりとした悪寒が、全身を駆け抜ける。
なかば無意識に近い状態のまま、紅羽は身を捻った。
空を裂く音すらもなく、何かが紅羽を横切っていく。
まず連想したのは雷だが、瞬間的に捉えた光景から、矢の形をした何かだと判断する。また物体というよりは、まるで紋様みたいな質感をしていた。
なににしても、標的となっている事実は覆らない。
重圧的な死の予感が、紅羽をずっと包み込んでいるのだ。
極わずかな気配を読み取り、また飛来してきた矢を避ける――それはどこか、流れ星にも近い。紋様みたいな矢を目で追いながら、発射された方角を分析する。
さきほどとは、明らかに異なる場所から射られていた。
(複数体……? いいえ……これは――っ!)
紅羽は目を剥き、とっさに地面を転がって回避する。
判断が遅かった。紅羽の左腕を、謎の矢が少し切り裂く。
まるで一筋の光が、複数の鏡を反射するように――一本の矢が跳ね回り、再び紅羽へ突っ込んできた。射られた方角が異なっていた理由を、即座に呑み込む。
これでは、複数体なのか一体なのか判断はできない。
それ以前に、相手の気配が微塵も感じられなかった。
多かれ少なかれ、射る際には殺意や意思がこもる。
よほど隠密に長けているのか、あるいは――
「くっ……」
紅羽は紅い大太刀で、跳ね回る矢を斬り落とす。
幸い、斬れば動きは止まる。紅羽は即座に行動した。
跳ね回る矢がある以上、身を潜ませる場所などない。
敵の位置を迅速に特定したのち、可能であれば始末する。
現状ではそれが、もっとも生存率を高めるに違いない。
紅羽は純白の紋様を浮かべながら、木の幹を蹴り上げた。
どんどんと高い場所へと登り、警戒しながらに唱える。
「光の紋章第七節、明滅の流星」
紋章術を使い、さらに空高く舞い上がった。
遥か上空から森の様子を見据え、敵の攻撃を待つ。
小さな光が灯ると同時に、さきほどの淡い矢が飛来する。
そのとき、黒い影が木々をすり抜ける光景を捉えた。
(見つけた)
紅羽は矢を斬ってから、再び紋章術を唱える。
「光の紋章第七節、明滅の流星」
黒い影へと向かい、瞬時に地へと降り立つ。
足に力を込め、飛ぶように黒い影を追いかけた。
ほどなくして、紅羽は敵の姿を目視する。
虎みたいな頭部を持つ、人に近い体形をした魔物だった。
不出来な弓を背負い、今現在は四足を駆使して一心不乱に逃げている。この空白の領域では、比較的弱めの魔物だが、少しばかり解せない点が浮上した。
眼前の魔物は近接戦闘型だと、資料で見て記憶している。
弓が扱える個体が現れたのか、はたまた進化したのか――
いずれにしても、捨て置くわけにはいかない。
紅羽は一気に距離を詰め、紅い大太刀を振りかぶる。
攻撃に転じるや、紅羽ははっと息を呑んだ。
なぜか眼前の魔物は、すでにひどい怪我を負っている。
目に光を宿していない魔物の体が、途端に淡く輝いた。
紅羽はやっと、傷が魔法陣の形を描いていたと気づく。
(これは……罠――?)
「ガァアアア――ッ!」
悲鳴を上げた魔物の体が、膨れあがる光景を目で捉える。
紅羽はぞっとした。死の恐怖に、全身が総毛立つ。
魔物がカッと光った瞬間、爆発の轟音が紅羽の耳を劈く。
灼熱、烈風、魔物の肉片が、一気に紅羽へ襲いかかった。
紅羽は肌を焼かれながら、ようやく真の敵が見えてくる。
しかし、その予測もまた――
強烈な爆発により、一緒に吹き飛ばされたのだった。