第三十一話 ごめんね
斜陽に赤く彩られた峡谷は、緩やかに黒ずみつつあった。
少女は独り岩の地面に座り、自然を広く遠く眺めている。
この時刻は風が穏やかに変わり、気温も下降していく。
そして空にはすでに、双月と星が薄く見え始めていた。
じきに迎える闇を、照らす準備でもしているに違いない。
里以外の者には、きっと壮観な風景として映るのだろう。
しかし少女メイアにとっては、見慣れた光景でしかない。
そもそも景色を嗜む感性など、持ってはいなかった。
それなのに、メイアは今こうして大自然を味わっている。
この峡谷は、あくまでもただの起点に過ぎない。
もっと遥か遠くを、メイアは見据えていた。
(ずっと先のほうには、まだ見ぬものがたくさんある……)
眼前に広がる光景は、確かに雄大で間違いはない。
だが所詮、世界の一欠片に過ぎないことを知っている。
竜人は十五の歳を迎えると、証を手に入れるため旅立つ。
そこで得られた話を、メイアは多くの人から聞いていた。
メイアも来年には、ようやく旅立ちの日が訪れる。
故郷で自然の厳しさを学び、外の世界で危険を学ぶ。
そうやって竜人は、戦士として一人前になれる。
「綺麗な夕日ね。メイア」
不意に聞こえた可憐な声に、メイアの肩が跳ねた。
知らない間に、赤髪の少女が隣にちょこんと座っている。
夢想に浸り過ぎていたのか、まったく気づかなかった。
赤髪の少女レティアが、きょとんとした顔で訊いてくる。
「お邪魔だった?」
「いや……そんなことはない……が、いつから、そこに?」
「いま」
「……そうか」
満面の笑みで即答され、メイアは少し対応に困る。
レティアは鼻歌まじりに、遠くのほうへ目を向けた。
そんな彼女を眺め、メイアは呆れ半分に肩を竦める。
レティアとは、それこそ乳児の頃からの付き合いだった。
血の繋がりこそないが、姉妹みたいな関係を築いている。
しかしそれは、別にメイア達に限った話ではない。
この小さな里では、年の近い子はみんながそうであった。
大切な家族であり、友人であり、そして好敵手でもある。
いずれ訪れる旅立ちに備え、共に切磋琢磨し合うのだ。
その意味で言えば、レティアには少し惜しい点があった。
レティアには、メイアから見ても素晴らしい才能がある。
だがメイアが相手となれば、彼女は必ず一歩を引く。その理由に関しては、いまだ不明瞭のままなのだが、なぜか妙に慕われてしまっているからにほかならない。
ただ、懐いてくるレティアに、強く言えないのはメイアの責任でもある。
自分の甘さだと自覚してはいるが、どうしようもない。
つかの間の沈黙を経て、レティアが穏やかな声を紡いだ。
「そういえば、次の里長……マオさんに決まったね」
両親の死後、メイアを引き取ったのがマオだった。
メイアとレティアがそうであるように、両親とマオもまた本当の家族に等しい関係を築いていたらしい。物心がついた頃から、話にだけはよく聞かされていた。
マオの姿を脳裏に浮かべ、メイアはこくりと頷く。
「ああ。そうだな」
「次の世代で言えば、いつかメイアが里長になるかな?」
レティアはいたずらっぽい笑みを見せる。
好奇心が詰め込まれた疑問を、メイアは一笑に付した。
「ない。興味もない」
「えぇえーっ?」
「私は……」
慌てふためくレティアをよそに、メイアは立ち上がる。
世界を赤く染める夕日を、まっすぐ見据えたまま告げた。
「私はきっと、みんなと違って里には戻らない」
「えっ? うそ……?」
「この果てしない世界を、隅々まで渡り歩きたいからな」
メイアは口に笑みを乗せ、レティアに顔を向ける。
「ふっ……だが人生、何十回分が必要かわからないな」
「だめだめ! そんなの絶対だめ!」
レティアは勢いよく立ち上がった。
「メイアはいずれ、ここの里長になるの。それで私が、里長補佐として、メイアを支える――私の未来はそうなるって、すでに決定しているのだぁ」
「いや、勝手に決定されても困る」
「いんや。私も困る」
自然と苦い顔を作り、メイアは苦笑した。
レティアは頬を膨らませ、じっと睨んできている。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う――メイアならね、きっと歴代里長の中でも、最高の里長になれるよ。だって、メイアは誰よりも強いもん」
大いなる力には、大いなる責任が伴う――
レティアの母親が、たまに言ってくる言葉であった。
その言葉の真意は、いまだによくわからない。
訊いても答えてくれず、自分の中で見つけろと返される。
ただレティアの言わんとすることは、漠然と理解した。
「強いだけなら、里には大勢いる。お前も含めてな」
「そういうこっちゃじゃないんよ……うぅ~ん」
「まあ、悪いが……私が里長になる未来はない」
念を押しておくと、レティアはさらに深く唸る。
そうかと思えば、今度は顔をきらきらと輝かせた。
「そうだ。じゃあ、こうしよ?」
「なんだ?」
「私達は来年、証のために里を旅立つでしょ?」
「ああ」
「私が先に証を手に入れたら、メイアは里長を目指す。もしメイアが先なら、メイアの自由に生きる――それでどう?」
レティアの提案に、メイアは目を大きくして静かに驚く。
いつも一歩を引いていた彼女が、今回は珍しく真っ向から勝負を挑んできたからだ。勝負の内容は勝つか負けるか――確かに絶妙なところだろう。
どこか誇らしげな姿勢で、レティアは返答を待っている。
その態度はきっと、照れ隠しに近いものだとうかがえる。
生半可な気持ちで言ったわけではない。メイアには、すぐわかった。
しかし正直なところ、本当に里長に就任するのであれば、やはりレティアのほうが向いている。若い世代の中で唯一、彼女だけが特別なあるものをもっていた。
まるで太陽のごとく、周囲を明るく照らす光――
レティアのそれは、残念ながらメイアももっていない。
確かに戦闘技術では高評価を受け、才能に関していえば、竜人の長い歴史の中でも随一だと言われている。だが所詮、それだけのことに過ぎない。
人をまとめる力ではなく、戦い抜く力でしかないのだ。
メイアは自然とため息が漏れる。
理由はどうであれ、勝負を受けないわけにはいかない。
それが初めて挑んできたレティアに対する、礼儀になると思ったからだ。
「ふっ……私に勝負を仕掛けるとは、いい度胸だな」
「ふふっ……負けないよ?」
「ああ。私もだ」
お互いに微笑み合い、メイアはふと気づいた。
「というか、勝負で私を負かしたのであれば、やはりお前のほうが適任では?」
「むりむりむり」
「……? どうしてだ?」
「私は、メイアを支える柱でいいの」
レティアは手を後ろで組み、優しげな微笑みを見せる。
慕われている理由がまだよくわからないが、こうまでして人の下に就こうとする訳もまた不明であった。しかし意図を尋ねても、おそらく彼女は答えないだろう。
いつも通りの微笑みで、話をはぐらかされると予想する。
メイアは自分の手のひらに、ぽんと拳を打った。
「そうだ。勝負の報酬に、もう一つだけつけ加えよう」
「……んぇ?」
「私が勝った場合、私の抱えた疑問に包み隠さず答える――レティアが勝った場合、私が里長を目指す以外にも、さらにもう一つ好きに命令が下せる。どうだ?」
どうやら言葉の真意を、レティアは呑み込めたらしい。
少し目を大きくした表情からも、それは一目瞭然だった。
メイアは言葉を待つ。レティアは目を閉じてから応じた。
「……うん。わかった。それで、いいよ」
「よし、旅立ちの日は同じにしよう」
「うん。そうだね」
会話が途切れ、メイアはレティアと一緒に夕日を眺めた。
興味のなかった風景が、なぜかとても新鮮に感じられる。
レティアにはやはり、なにか人を変える魅力があるのだ。
メイアはしばらく、この時間を大事にしようと思う。
勝負の行く末に、漠然と思いを馳せ――
夕日が沈みきるまでずっと、二人で静かに見つめていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
咲弥は独り、隠密に全力を尽くしていた。
もうすでに、幾度となく危険な魔物とすれ違っている。
獲物を探し求める獣、罠を張り巡らした虫、木々の隙間を飛行する鳥――
どの魔物も、一種類しかいないというわけではなかった。
しかも魔法を扱えない生物は、ここには存在していない。
だから時折、あちこちから轟音が響き渡っていた。
当然の話だが、空白の領域内にも食物連鎖はある。
中にはまるで、人のように集団で狩りをする魔物もいた。
もしそんな魔物に目をつけられれば、どうなるのか予想に難くない。たとえ勝てる相手だったとしても、確実に咲弥の体力が先に尽きてしまう。
また気をつけなければならないのは、すぐさま気配や目で捉えられる魔物だけではない。ここには獲物を狩る魔物を、狙い撃ちにする魔物がいる。
隙を見せれば、完璧に気配を絶てる魔物に殺されるのだ。
つまりいつ、どこに潜んでいるのか何もわからない。
隠密しているつもりではいるが、すでに標的にされている可能性は充分に考えられる。咲弥の察知を潜り抜け、じっと好機をうかがっているのかもしれない。
いるのか、いないのか――
そんな極限状態の中を、咲弥はひたすら進み続ける。
まずは、隠れられそうな場所を目で選ぶ。
発見したのち、今度は正しいのかどうか熟考する。
それから警戒を最大限にしながら、場所を移動していた。
一連の行動を繰り返すたびに、神経が大きくすり減る。
いずれ集中力が続かなくなるのを、咲弥は自覚していた。
だが現在地を調べなければ、どうにもならない。
目印的なものを求め、咲弥はまた移動を――
そのときのことであった。
「――んぐっ!」
いきなりひっぱり込まれ、口を力強く塞がれた。
ほぼ同時に、なにやら柔らかいものが後頭部に当たる。
唐突な出来事に、咲弥はひどく錯乱した。
なかば反射的に、後ろのほうを肩越しに確認する。
(メ、メイアさん……?)
誰かは知れたが、抱き着かれている事情が呑み込めない。
木陰に座り込み、咲弥はずっと身柄を拘束されていた。
ひどく困惑していると、咲弥はようやく理解に達する。
咲弥が進もうとした場所――強烈な気配が湧き出てきた。
心臓を傷める唸り声には、聞き覚えがある。
二足で歩く、巨躯の魔獣に違いない。
咲弥はふと気づく。すぐ近くに、別の魔物が潜んでいた。
発見できたのは、もはや奇跡としか言いようがない。
どこかケンタロウスを彷彿とさせる、苔みたいな色をした魔物――擬態しているのか、じっと息を殺している雰囲気がうかがえる。
咲弥が、そう認識した直後だった。
激しい轟音とともに、黒い影が走る。
擬態していた魔物が、黒い毛の魔獣に瞬殺された。
おそらくは、魔法を使ったのだと思われる。
馬に近い体は引き裂かれ、嫌な音を立てて食われていた。
黒い魔獣は食いながら、獲物を引きずって歩き出す。
しばらくして、メイアの手が咲弥の口から離れた。
「うはぁ……はぁ……はぁ……」
全身から嫌な汗をかき、咲弥は必死に空気を肺に入れる。
もしメイアに助けられなければ、魔獣と鉢合っていた。
「危なかったな」
ようやく我を取り戻し、咲弥は現状を把握する。
ずっとメイアの胸を、枕代わりにしていた。
咲弥は急激に恥を覚え、別の意味で慌てて離れる。
「す、すす、すみません!」
「ばか! 声を張るな! 屈め!」
メイアが小さな声で怒鳴った。
咲弥ははっとなり、大急ぎで屈んで自分の口を塞ぐ。
咲弥は努めて、かすかな声音で謝罪する。
「す、すみませんでした……」
「発見できたのは偶然だ。こんなところにいたんだな」
「メイアさんも、この辺りに……?」
「いや……浮き島の中だ」
「えっ……」
「なんとか降りてきたところで、たまたまお前を見つけた」
かろうじて陽の光が射し込んではいるが、ここは背の高い木々に支配されている。そのため空のほうは、ほとんど何も見えないと言っても差し支えない。
浮き島が落ちてこないか、少しばかり心配になる。
あれが宙に浮いている理由が、誰にもわからないからだ。
なにはともあれ、メイアと合流できたのは幸運だった。
あとは仲間達や竜人達を探せば、不安の一つは消える。
「メイアさん。これから、どうしますか?」
メイアが周囲を眺めながら答えた。
「ここからでは、位置関係や周囲の状況を把握しづらいが、空から眺めてきたから大体ならわかる。この付近に、資料に記されていた古代の遺跡がある」
「ああ……模様の刻まれた黒い物体ですね」
「それなら、あとはわかるな? まずは古代の遺跡に行き、そしてそのまま、神々の果実が発見された地点を目指す」
メイアの作戦に、咲弥は素直に頷けない。
仲間達の安否が、まったく確認できていない状態なのだ。
また先に来た竜人達を、まだ一人も発見していない。
そんな心情を察したのか、メイアは続けて言った。
「みんなそれぞれ、神々の果実へと向かっている――仲間や同族の身は心配だが、ここはもう……そう信じるしかない。むやみやたらに探せる状況ではないからな」
「……はい。確かに、メイアさんの言う通りだと思います」
連絡手段がない以上、メイアの判断は正しい。
こんな散り散りになるとは、予想すらもしていなかった。
それはきっと、誰もが同じ気持ちを抱いたに違いない。
となれば、合流できる可能性がもっとも高いのは、神々の果実を目指すといった選択になるだろう。なかば無理矢理、咲弥は自分にそう言い聞かせる。
実際、適当に探したところで見つかるはずがない。
「よし。それじゃあ、行こうか」
「はい」
咲弥は仲間達を信じ、メイアの指示に従う。
メイアを先頭に、暗澹とした森の中を進んでいく。
その道中、メイアの才能には改めて驚かされた。
紅羽並みの察知能力に加え、ネイ並みの隠密術が扱える。
世界は本当に広い。メイアの背後で、そう強く感じた。
抱いた感想は打ち消し、咲弥はしっかり気を引き締める。
魔物を避け、少しずつながら目的地を目指した。
しばらくして――メイアのオドに、妙な乱れが生じる。
メイアの表情は険しい。慌ただしく視線を泳がせ、右手で咲弥の行動を制してくる。同時に左手の人差し指を口の前に置き、沈黙の合図を送ってきた。
咲弥は首を捻り、とにかく黙って待ち続ける。
「これは、まさか……?」
「メ、メイアさん……っ?」
メイアが途端に走り出した。咲弥も慌てて後を追う。
メイアはかなり素早い。まるで風のごとく駆けていた。
ほんの少しでも気を抜けば、置き去りにされかねない。
やや遠くにいるメイアが、不意に足を止めた。
咲弥もやっと追いつき、彼女が向いている方角を見る。
そして――
「……えっ……?」
咲弥は目を見開き、絶句する。
メイアもまた、固まったまま何も言わない。
顔を向けている方角に、二人して視線を奪われていた。
少し先には、奇妙な木らしきものが一本生えている。
それを樹木と呼んでもいいのかどうか、正直わからない。
ただ植物に属するもので、間違いはないはずであった。
恐怖と絶望を宿したものが、その木の枝にある。
しかし、突き刺さっているわけではない。
まるで切り揃えたように、ぴったりとくっついていた。
人の腕や脚や、赤髪の頭部が――
「ゴめ……んネぇ……ごメン……ねェ……メ、いアぁア……ごメ……ん……ゴメ……ん……ネェえ……め……イあぁ……ゴめン……」
頭の中が真っ白になりつつも、咲弥は心から戦慄する。
生首が突然――違う。きっと咲弥達が来るずっと前から、声を発していたのだと思われる。そのかすれきった呟きは、まるで呪詛に近いものだと感じられた。
問題は、そこではない。もっと別のところにある。
咲弥は自然と、メイアのほうへ目を向けた。
「レ、ティア……」
メイアは茫然とした表情で、震えた声を漏らした。
やはり枝にある生首が、探していた竜人だったらしい。
あまりにも残酷な事実に、咲弥は放心して立ち尽くす。
咲弥はもちろん、メイアも微動だにしない。
「ゴ、メン、ネぇエ……メ、いア……ごメん、ねぇエ……」
レティアの悲痛な声だけが、深い森の中で響いていた。