第二十六話 アスクレピオス
森を突き抜けた先には、雄大な峡谷の景色が待っていた。
谷底では川が流れ、あちこちに草花や木々の緑も見える。
そんな大自然に満ちた峡谷の壁を這うように――また切り立った崖同士を繋ぐかたちで、人が歩ける道は頑丈なくらい丁寧に造り上げられていた。
つまり竜人の隠れ里は、峡谷の狭間や内部にあるのだ。
人工的に岩壁をくりぬき、住居や通路は建設されている。
それはどこか、古代ローマを彷彿とさせる造形に感じた。
だから魔物が潜む洞窟とは違い、独特の雰囲気がある。
部屋にある机や椅子のほか、棚や物置も空間を造る過程で得られた石を使っているようだ。また景観と保護のためか、どれもこれもむらなく塗装してある。
咲弥達は今現在、客室的なところへ招かれていた。
咲弥は石の席に着き、前に立つメイアに顔を向けている。
「それでは、目的の場所について説明しようか」
メイアは言いながら、石机の上に丸められた紙を広げた。
見た限りでは、大雑把な島の地図といった印象を受ける。
簡易的なマークのほか、地名っぽい文字も入っていた。
「空白の領域――通称、アスクレピオス」
「アスクレピオス……」
星座か、神話か――どこかで聞き覚えのある名称だった。
よく思いだせないまま、咲弥は誰にとなく呟く。
「この空白の領域は、なんだかとても広そうな島ですね」
「いや、これはこの大陸の中にある、アスクレピオスのみを描いたものだ」
メイアからの訂正を受け、咲弥は静かに驚いた。
そもそも一般的な地図では、領域のある部分は文字通りに空白となっている。それを大雑把とはいえ、これほど明確なものは今まで見た記憶がない。
それも当然の話ではあった。
空白の領域は、ほぼ国家機密に近い扱いの場合が多い。
だから一般人、または低級程度の冒険者では、そう簡単に具体的な情報が得られないのが実情であった。しかしそんな貴重な情報源が、今なぜか目の前にある。
咲弥は戸惑いながらも、改めて地図を凝視した。
「まずここが、神々の果実が発見された場所だ」
メイアは赤い星印に指を差した。今度は青い線をなぞる。
「その発見した者が進んだルートが、この線となる……だが、このルートはもう使えない。資料を読めばわかるが、領域の地形が大きく変化しているからだ」
咲弥は眉を寄せた。どう変化したのか、とても気になる。
しかしそれについては語らず、メイアは無数の紙を放つ。
「これは現在確認された危険生物の、容姿と特徴の資料だ」
気味の悪い絵や写真の横に、ずらりと文字が並んでいる。
咲弥達は各々、近くにある資料を手に取った。
その間に、メイアが淡々と説明を始める。
「最大級にやばいのは、強者を求め流浪する宵の狩人ニニ。生命を貪る鉱石獣ルピラス。他生物で接ぎ木する植物パーラ――ほかにもやばいのはまだ多数いるが、それぞれの資料に目を通して記憶しておいてくれ」
咲弥は隙を見計らい、抱えた疑問をメイアへと投げる。
「地図もそうですが、よくこれだけ資料が手に入りましたね……下級とはいえ、冒険者の僕でもここまでは不可能です。どうやって集められたんですか?」
「冒険者ギルトとの繋がりが、まったくないわけではない。交流の始まりは遥か大昔からだが、今でも時折、とある事情次第で軽い交流は続いている」
メイアの回答自体は、別に不思議な話ではない。
むしろ村や町どころか、国単位での交流をしているのだ。そして冒険者ギルドの設立に関係のなかった国々が、のちに加盟していたりもする。
そうでなければ、ギルドの支部など作れない。
ただこの里には、それらしい気配は見られなかった。
また軽い付き合いで、入手できるような資料でもない。
咲弥は訝しく思い、自然と首を捻った。
「アスクレピオスの調査をするにあたり、冒険者ギルドから協力を求められた過去がある。隠れ里の存在など、どうやら彼らには容易に知られていたようだな。ふっ……今も昔も、もう隠れ里と呼べたものではないが」
メイアは肩を軽く竦め、言葉を続けた。
「とまあ、そんな経緯から――得られた情報、または物資を平等に分配するといった条件で、当時の里長が了承した……だが、結果は最悪の一言だった」
「最悪……?」
咲弥のおうむ返しに、メイアはゆっくり頷いた。
「手始めに、上空での調査が主な任務だったため、里にいた飛竜の半分くらいが、冒険者達も乗せて飛び立った。そして目的地となるアスクレピオスを、多方向から調査に入り――結果、わずか十数分で全飛竜が撃墜された」
「え……」
「魔法、投擲、飛行型の魔物――その理由は、さまざまだ」
メイアは両手を小さく広げ、小さなため息をついた。
「問題は、そこで終わらない。飛竜は墜落してしまったが、無事に生存した同族や冒険者達がいた。だから今度は、救助任務へと移行したが……また飛び立った飛竜を含め、生存者及び救出隊も全滅した」
「まさか……またばか正直に、上空を飛んだわけ?」
ネイからの問いに、メイアは首を横に振った。
「いいや……傍までは飛んだが、安全地で待機させていた」
「なら、どうして飛竜も全滅なんかしたんだ……?」
ゼイドが重い声音で質問を飛ばした。
メイアの黄金色の瞳が、ゼイドのほうへと流れる。
「怪我をした救助者の中に――空白の魔物が潜んでいた」
咲弥ははっと息を呑み、ひどく冷たい悪寒が背筋を走る。
まるでホラー映画の、最後にあるような話だと思えた。
メイアは腕を組み、少し沈黙してからまた口を開く。
「まあ、それは……遥か大昔の話だ。当時と今では、かなり事情が異なる。そんな事態は二度も起きていない。先人達の犠牲があればこそ、今があるんだ」
メイアの発言を境に、場は静まりかえる。
咲弥は手元の資料に、視線を落とした。
想像を超える最悪な危険地帯――そう簡単にはいかない。そもそも遥か大昔からあるのに、いまだに空白の領域として安全が確立されていないのだ。
魔人ラグリオラスの言葉が、漠然と脳裏によみがえる。
『自然的にあらゆる要因が重なり合い、色濃く繋がる場合は多々とある。魔神は世界中のあちこちを、ある一定の法則でさらに色濃く繋いだ。幽界からの限定で』
(まさか、空白の領域って……魔神が繋いだ……点?)
咲弥の思考が、より深く巡る。
仮に繋いだ点を空白の領域と仮定した場合、ほかの地域に現れる魔物は――その点を軸に拡散された誘発効果、またはブレに近いものなのかもしれない。
本来なら自然現象に過ぎないはずが、魔神の力で強制的に生じている。ただ点ほど繋がりは色濃くないため、領域外に存在する零級の魔物は数が少ないのだろう。
実際問題、世界各国に空白の領域は存在している。
その事実からも、自分の思考が奇妙なくらい噛み合った。
ラグリオラスは言っていた。繋がれた道は塞げない――
これまで真実を語り、この部分だけが虚実なのはさすがにおかしいと思える。もし偽りだったとして、なぜそんな嘘をつくのか理由がまるでわからない。
ただ、一つ――ラグリオラスはこうも言っていた。
『少なくとも、俺には無理だ』
(じゃあ、僕――神殺しの獣に、なら……?)
黒白であれば、不可能だとは言い切れない。
もし魔神の繋いだ道が、精神系統に属するものならば――
ハクが消滅させられる可能性は、ゼロではないのだ。
咲弥の胸の奥に、ある思いがじわじわと湧き上がる。
しばらく続く沈黙を、ネイの疑問が打ち破った。
「あのさ、アスクレピオスへ進入――これって当然、正規の話じゃないわよね?」
「ああ。アスクレピオスに関連した情報のほか、入る許可もすでに得ている。だが、冒険者ギルドのほうからの恩恵は、それ以上にはもうない」
ネイは石机に肘をつき、げんなりとしたため息をついた。
「ふぅ……やっぱりね」
「そう。我らのみで、神々の果実を入手するほかない」
沈黙が場を支配する。
メイアは神妙な面持ちで、意を決したような声を発した。
「……ここまで説明しておいてなんだが、改めて問いたい。危険は最上級――やめると言われても、それは仕方がない。冒険者諸君には、関係のない事情だからな」
メイアの黄金色の瞳が、左から右へゆっくり流れていく。
「安全を優先し、この話はなかったことにしても構わない。仮にやめたとしても、事情を聞いてくれた礼として帝国には送ってやる――どうする?」
これまで遭遇してきた魔物の大多数が、ただの動物としか思いかねないくらい、空白の領域には危険生物しかいない。
お抱えの情報屋からも、話だけはよく聞いていた。
だが実際、それがすぐ目の前にあるともなれば――
正直なところ、この世の地獄に飛び込むのにも等しい。
たった一歩を間違えただけで、即座に死へと直結する。
咲弥は心を落ち着けながら、ゆっくりと悩んだ。
死への恐怖が、咲弥の心を静かにじわじわと蝕んでいく。今まで感じてきた恐怖とは、まるで別ものの感情であった。また、もう一つ――それが、もっとも怖い。
自分の死以上に、仲間の死という連想が手を震わせた。
嫌な汗をかき、眩暈にも近い不快感を覚える。
咲弥はある決心を固め、メイアに言い放った。
「……僕には果たさなければならない、使命があります……これは僕にとっても、またとない機会なのかもしれません。ですから、手伝わせてください」
当然、飛竜の治療が第一ではあった。
ただ神々の果実を入手する過程で、幽界と繋がった痕跡を発見できるかもしれない。もしも自分の予測が正しければ、実際に目で見て判断したかった。
ラグリオラスの言葉通り、本当に塞げないのか――
とはいえ、これはまだ公にはできない。
思考の道筋を問われでもしたら、困るほかないからだ。
まずは自分の目で確かめる。話はそれからのほうがいい。
メイアは少し不思議そうに、小首を傾げて見せた。
「使命?」
「僕は、邪悪な神――魔神を討つといった使命です」
「魔神……? 神の御使いの話に出てくる魔神か?」
やや裏返った声を発して、メイアは美貌に驚きを湛えた。
咲弥は首を縦に振ってから、軽く事情を伝える。
「空白の領域も、僕の目的の一つでした。魔神の封印場所もまだわかりませんし、いつ復活するのかもわかりません――空白の領域の中かもしれませんし、領域の中を通らなければ行けないような場所なのかもしれません」
メイアは相槌を打ち、小刻みに頷いた。
「なるほど。つまり空白の領域に怖気づいているようでは、使命を果たせはしない。そう考えているということか……」
「……はい」
「しかしあれは、ただのお伽噺か何かではないのか……? 本当に魔神が封じられており、復活なんかするのか?」
メイアの質問に、咲弥は少し考えてから応えた。
「間違いなく、復活します……十天魔という魔神の配下が、最低でも一体――ほかにももう何体か目覚めているらしく、魔神の復活を目論んでいました」
「十天魔……?」
「神器を祀る神殿でも、一部の人しか知らない存在です」
メイアは腕を組み、難しそうな顔をして黙った。
これが、当然の反応ではある。魔神は気が遠くなるほど、遥か大昔の存在なのだ。実際に魔人と遭遇した者か、仲間達以外は信じられないのも無理はない。
それを証拠に、ネイの故郷で現れた魔人ニギル――当然、訪れた調査班達に話はしたものの、結局は魔物による襲撃と処理された事実もある。
ただ、その気持ちはわからなくもない。
魔人の発言に、懐疑的な自分と理屈は同じなのだ。
実際に目で確認しない限りは、理解にまで行きつかない。
閉口しているメイアから、咲弥は仲間へと視線を移した。
「あ、えっと……皆さんは、ここで待っててください」
「へぁあ……?」
ネイが間の抜けた声を漏らした。
目が点となったネイに、咲弥は落ち着いて告げる。
「ネイさんと紅羽は、確かに中級ですが……今回は正規で、空白の領域に挑むわけではありません。僕のわがままで付き合ってもらうには危険過ぎます」
咲弥は前置きを終え、ネイ達を諭しにかかる。
「今回は、僕一人で行きます。もし、僕が戻らなかった場合……アイーシャさんに、代わりに返金しておいてください」
あまりにも大金すぎて、怖くて使えなかっただけなのだが――実はこれまでの間、アイーシャから送られたお金には、いっさい手をつけていない。
それは仲間達も、渋々ながらに承知していた。
「ですから……」
「はあ? ばか?」
「却下します」
ネイと紅羽が、揃って否定の声を上げた。
咲弥は言葉を遮られ、軽くうめく。
ネイが呆れ顔となり、咲弥へと指を差してきた。
「あんただけとか、普通に考えて絶対に死ぬでしょ」
「咲弥様はエーテルを未習得のため、不安しかありません」
「なんなら、あんたがお留守番している側じゃないの?」
「また少し目を離せば、すぐぼろぼろになるのですから」
「無知なあんた一人じゃ、お話にならないでしょうが」
「物事を冷静にお考えになってから、提案してください」
ネイも紅羽も――可愛い顔をして、言うことがきつい。
女性陣から怒涛の反感を買い、咲弥は冷や汗をかいた。
ただ、間違ってはいない。
そう理解すればこそ、余計に咲弥の胸に突き刺さる。
「当然、私も行く。そもそも、冒険者の到達点の一つだし」
ネイがため息をつき、次いで紅羽が淡々と言葉を紡いだ。
「私も同行します。宝具と治癒は必須だと思われますから」
「ちゃんとわかった?」
「ご理解いただけましたか?」
ネイと紅羽が、声を揃えて咲弥に了承を求めた。
頷く以外の所作など、許さないといった雰囲気がある。
メイアが腕を組み、やや得意顔をしながら鼻で笑った。
「どこの国の女も……性格が強いな」
紅羽とネイが特別だと言いかけ、咲弥は言葉を呑み込む。
オドの訓練次第で、女性が肉体的に男性を圧倒する場合は多々とある。容姿が可憐な少女だからといって、か弱いとは決して限らない世界なのだ。
それ以前に、魔物による影響でいつ死ぬともしれない。
そのせいか、非戦闘の女性も図太い性格は多い気がする。
これまで出会ってきた女性は、ほとんどがそうだった。
しかし今回ばかりは、簡単には同意できない。
「正直、怖いんです。皆さんの身に、何かあったらと……」
「それは、私達も同じじゃない?」
ネイはやや呆れた顔を見せ、肩をちょこんと竦めた。
紅羽はこくりと頷く。
「私達には、その気持ちがないとおっしゃるのですか?」
「そうは言ってないよ。でも……」
「俺が力になれるかは、さておき……仲間、だろ?」
静観していたゼイドが、静かな声音で口を挟んだ。
仲間の気持ちは、痛いくらいにわかる。
同時に、それを否定する自分もいた。
心配や不安が、咲弥の心の中で食い違いを起こしている。
何を言ったところで、確実に反論してくるに違いない。
咲弥はなかば無理矢理、首を縦に振るしかなかった。
「わかり……ました。でも、無茶はしないでください」
「あんたがそれ言う?」
「そのお言葉、そっくりそのままお返しします」
「はっはっはっ。確かに、そうだ」
ネイ、紅羽、ゼイドの言葉に、咲弥はまた冷や汗をかく。
「話はまとまったようだな。詳細な作戦は、のちに伝える。それまでの間は各自、体を休めておいてくれ。いずれにしろ――出立は明日になる」
メイアの提案に、一同は頷いて応えた。
するとメイアが腕を組み、難しい顔をして小首を傾げた。
「ところで……」
「はい……? なんでしょうか?」
咲弥も首を捻り、メイアに続きを促した。
メイアは片目を閉じたあと、横目に咲弥を見つめてくる。
「さきほど出てきたエーテルとは、いったいなんだ?」
可愛げのあるしぐさをして、メイアは問いかけてきた。
力強い美貌には似合わず、とても女性らしい一面がある。
そんな感想を抱きつつ、咲弥は言葉に詰まった。
「あぁ……えぇっと、ですね……」
それから、しばらくの間――
興味津々なメイアに、咲弥は根掘り葉掘り訊かれた。
とはいえ、そう簡単に話せる内容でもない。
咲弥は必死に、言葉を取り繕うはめとなった。