第二十二話 一瞬の隙
もとの世界に戻ろうと、考えなければよかったのか――
さまざまな感情や想いが、咲弥の心を激しく駆け巡る。
やがてそれらが混ざり合い、胸に激痛と苦痛をもたらす。
すべては優柔不断な自分が、招いた結果ではあった。
静寂に包まれた場で、咲弥は力なく立ち尽くすほかない。
視線を落としていた咲弥の耳に、アルベルトの声が届く。
「そうか。恋仲ではないのか……そうだ。君が勝った場合を考えていなかったな」
アルベルトに視線を向けないまま、咲弥は沈黙する。
決闘の話しなど、今はしていられるような心境ではない。
これから紅羽とどう接するか、どんな顔をすればいいのか――答えが出せない問題に、ずっと悩まされている。
そんな咲弥の心情も知らず、アルベルトは話を進めた。
「こうしないか? もし俺が勝った場合、そのときは紅羽とデートをさせてもらう。もし君が勝った場合、魔神に関する最新の情報を提供する」
アルベルトの提案に、咲弥は自然と顔をしかめた。
咲弥は理解不能に思い、再びアルベルトに目を向ける。
アルベルトは楽な姿勢で述べた。
「まだ完全に把握したわけじゃないが、君は魔神と何かしら因縁があるんだろ? ただ実際、神殿に戻らなければ事情はよくわからない。君から聞かされた話をもとに調査を進め、得られた最新の情報はすべて提供する。それで、どうだ?」
咲弥は驚きを隠せない。
一般的な方法では、決して得られそうにない約束だった。
咲弥はくっとうめき、また視線を地へと伏せる。
アルベルトの真意が、まったく読めない。
咲弥と紅羽が恋人の関係にないのは、アルベルトもすでに理解を示している。だから、極端な話――咲弥を気にせず、紅羽にデートの交渉を直接すればいいのだ。
だが、彼はやらない。いまだ決闘に固執していた。
咲弥からすれば、訳がわからないとしか言いようがない。
「決闘する意味なんか……もう、別にありませんよね?」
「そのほうが、あと腐れはない。だろ?」
アルベルトの言葉を聞き、咲弥ははっとなった。
ようやく、アルベルトの意図を理解する。
咲弥は紅羽に想いを寄せている――
咲弥が秘めていた恋情を、アルベルトに覚られたのだ。
そうでなければ、そんな言葉が出てくるはずがない。
咲弥は悩み、迷い、そして葛藤が生じる。
魔神に関した話は、実際のところ今は別にどうでもいい。咲弥が紅羽へ抱く想いを気づかれたのであれば、もはや決闘自体は避けられないだろう。
ただこれは、一人で決められるような問題ではない。
最初から最後まで、銀髪の少女を中心とした話だからだ。
咲弥はもう、視線を伏せたままではいられない。
無理にでも、紅羽と目を合わせて話し合う必要がある。
(なんで……こんなことに……)
咲弥は心の底から嘆いた。
少し前は協力関係を結ぼうとした魔人が、突如として現れ――それから今度は、紅羽に一目惚れをした英雄の末裔と、一悶着が起きている。
正直ラグリオラスよりも、アルベルトのほうがつらい。
彼との騒動で、曖昧にしてきた部分が浮き彫りとなった。
ついそう思いはしたが、咲弥は心の中で否定する。
(違う……全部、僕が濁してきたせいなんだ……)
それは事実だが、簡単に答えが出せる代物でもない。
たとえ、どちらを選択しようとも――本当の意味で自分の人生すべてをかけ、もしどんな状況に陥ったとしても、受け入れる覚悟を必要とした問題なのだ。
しかしいつまでも、沈黙状態で考えている場合ではない。
いい加減、アルベルトに対して応える必要がある。
咲弥は恐怖を抱えながら、紅羽へと視線を流していく。
彼女は真顔のまま、じっとこちらの様子を見守っていた。
咲弥は喉の奥から絞り出すように、紅羽に問いかける。
「紅羽……どうする……?」
「アルベルトとの決闘で、咲弥様の目的へ近づくのであれば――お引き受けすべきだと、私はそう判断しています」
紅羽の様子は、普段と変わらない。だが、咲弥は気づく。
表情は変わらずとも、声にはかすかに表れていた。
それは仲間達ですら、きっと誰も気づかない。
咲弥だからこそ察せる、紅羽が漏らした感情であった。
仲間と濁した発言に、紅羽はやはり胸を痛めている。
毅然と振舞った彼女が、とても切なく感じられた。
そんな紅羽をしっかりと見据え、咲弥は首を横に振る。
「そうじゃない……紅羽が、かけの対象になってるんだ」
「何も……問題ありません」
「……え?」
紅羽は一度目を閉じてから、小首を傾げながら微笑んだ。
その眩しい微笑みに、咲弥の胸がひどく疼いた。
「咲弥様は、負けません」
紅羽の言葉に、そして想いに――咲弥は泣きそうになる。
実際のところ、彼女の心情は彼女にしかわからなかった。
心を見抜く力など、咲弥は持っていない。
それでも、紅羽から暗に伝わってきたものがある。
咲弥を信じている――そんな言葉にはされなかった彼女の想いが、確かに咲弥へしっかりと伝わってきたのだ。
紅羽が込めた気持ちを、咲弥は涙目ながらに受け取る。
咲弥はそっと、目を閉じた。
そのまま深呼吸を、二度、三度と繰り返す。
心を整えてから、アルベルトへと力強い視線を送った。
「わかりました。あなたからの決闘、お受けします」
咲弥の言葉に、周囲にいる人々が騒々しい歓声を上げた。
咲弥は歩き、アルベルトと適度な距離で対峙する。
そんな咲弥達の間に、またゼイドが立った。
ゼイドは苦い顔をしている。彼も複雑な心境なのだろう。
「ああ、それじゃあ――さきほどと、ルールは同じだ」
「了解した」
「わかりました」
咲弥とアルベルトは、お互いに戦闘態勢を整えた。
黒白を解放した咲弥は、まっすぐアルベルトを見据える。
そしてゼイドが、再び決闘の開始を告げた。
「それじゃあ……始め!」
さまざまな感情を、咲弥はかなぐり捨てる。
絶対に負けるわけにはいかない。
自分のため、そして紅羽を奪われないために――
咲弥は覚悟を決め、アルベルトへと駆けていった。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
ラグリオラスは腕を組み、ゆっくりと壁に背をあずけた。
騒々しい声が飛び交う中、男二人が激しく交戦している。
ラグリオラスは静かに、やや遠目からじっと眺めた。
決闘をしているのは、神の御使いが選んだ英雄の末裔に、神殺しの獣に選ばれた少年の二人だ。純粋な身体能力だけを見れば、英雄の末裔に少し分がある。
鍛錬を積み重ねた期間の違いが、肉体によく表れていた。
ラグリオラスは、ふっと鼻で笑う。
あの時代を生きた英雄達が、現世の子孫を見ればいったいどう思うのか、少し想像してみたからだ。おそらくはひどく嘆き悲しみ、深く絶望するに違いない。
まさか血筋を絶やさないために、子孫達が家畜にも等しい扱いを受けているなど、夢にすら思っていなかっただろう。
魔神や十天魔の復活が周知の事実となれば、きっと英雄の血族は奮い立つ。
周囲に持て囃され、英雄の末裔として――それが、ただの生贄同然のものだとも知らずに、戦いに明け暮れ、そうして意味もなく人々の記憶に残る死を迎える。
あの頃も、たとえどの時代も、人類は何一つ変わらない。
神々が施した洗脳は、今もなお蔓延しているのだ。そんな神々を疑うことすらもなく、崇拝している人類もまた憐れな生物ではある。
もちろんすべての人類が、そういうわけでもない。
遠くに在る神より、身近な何かを大事にする者もいる。
その一人だと思われるのが、英雄の末裔と闘う少年だ。
天上の神々を憎み、殲滅しようとした名もなき神殺しの獣――遥か遠い過去に存在していた破壊神に、どういうわけか少年は惚れ込まれている。
少年が扱う異能は、神殺しの獣が神々から奪い取った力の名残と見て間違いない。ただ神殺しの獣が喰い殺して奪った力は、一つや二つではないはずだった。
長い時の流れで、失ってしまった可能性は否めない。
あるいは、まだ覚醒していない場合も考えられる。
魔神を葬るほどの力が、彼の中でまだ眠っている――
ラグリオラスは密かに、その可能性に期待していた。
正直、今の少年では使い物にならない。十天魔どころか、幽界からやってきた上位種にですら苦戦、または虐殺される程度の力しか持てていない様子だった。
ニギルを殺せたのは、神殺しの獣による恩恵が大きい。
それは少年も、痛感しているとは思われる。
だから存在を知ったあとも、ラグリオラスは少年を自由に泳がせた。どこかで野垂れ死ねば、それはもう仕方がない。所詮はその程度だったと諦められた。
だが、そうはならない。ラグリオラスは確信していた。
なぜならば、神殺しの獣が選んだほどの少年なのだ。
そもそも十天魔の一体として、表向きにはラグリオラスもやらなければならないことは多い。また自分が抱いた目的を果たすために動く必要もある。
そんな事情もあったが、概ね想定通りに事は運んでいる。
しかしまさか、こんなところで接触するはめになるとは、ラグリオラスにも予想外ではあった。薄々感づいているが、本当に歪な存在だと思うほかない。
少年の存在は、ラグリオラスから見ても不可思議なのだ。
今現在、銀髪の少女を巡っての決闘が行われている。
ラグリオラスに言わせれば、無駄な決闘でしかない。
英雄の末裔が少女と結ばれる未来は、絶対にないからだ。
この世のすべてを見通せるほどの力など、ラグリオラスは当然もっていない。
それは運命を司る神ですら、同様に不可能ではあった。
ただ人同士の繋がり程度なら、ラグリオラスにも見える。
英雄の末裔と少女の繋がりは、かなり希薄なものだった。
反対に神殺しの獣を宿した少年とは、それこそ存在自体を呑み込む勢いで繋がっている。少女の運命に噛みつく形で、少年が自分に繋ぎ留めていた。
二人の縁が、ただ深い。そんな単純な話ではなかった。
とてもよく似た類似現象を、ラグリオラスは知っている。
だから察せる点は、一つしかなかった――本来であれば、決して起こり得るはずのない、歪な運命へと変化した状態を意味しているのだ。
これはあまりに異常であり、おかしい話でもある。少年はこの世界に在りながら、なぜ在るのかが不明な生物なのだ。
少年がいなければ、少女はここに存在すらしていない。
だから英雄の末裔と、すれ違うこともなかった。
しかし現に、少女を巡って決闘している。
そしてゆっくり、まるで浸食でもするかのように、英雄の末裔に定められた運命を、少年は変えつつあった。繋がれば繋がるほど、歪な運命へと変えていく。
それはもはや、運命の破壊者と呼ぶに相応しい。
神々や魔には、確かに運命を破壊できる存在はいる。だが実際は、それすらも計り知れない運命の一端に過ぎないと、ラグリオラスはそう考えていた。
つまりどんな存在も、本当の意味で運命は変えられない。
しかし少年は、意図的かどうか平然とやってのけている。
人の身でありながらも、神々をも超える何かがあるのだ。
最初はただ、ニギルを殺せる存在が現世にはいる――
そんな興味本位でしかない。
だからニギルが消滅した地点へと赴き、砕かれたニギルの残滓を寄せ集め、そこに眠る事情を復元して覗き見たのだ。
神殺しの獣を宿しているのも、精霊を使役できるのも――
すべては、そこから得られた情報の欠片程度に過ぎない。
少年の結果は、のちのちでも観察できる。
ラグリオラスはそう思い、まずは十天魔の責務を急いだ。
そんなとき、少年とそっくりな人物を偶然にも発見する。
いい機会だと踏み、相棒と呼んでいる者と接触した。
そこから少年と相棒の類似性が、少しずつ見えてくる。
そして次第に、これが大いなる存在に仕組まれたものだとはっきりした。運命の破壊者が、どうやら現世には十天魔と同じ数だけ存在しているらしい。
より深く、より激しく、ラグリオラスは静かに歓喜した。
真の目的は推し量れないものの、そのお陰で顕界も幽界もすべてが大きく揺れ動く。その隙に乗じて、ラグリオラスは目的を果たせる可能性が高まるのだ。
手始めに邪魔となる、十天魔を殲滅しておきたい。
次に魔神を殺し、ようやく天上の神々に死をばら撒ける。
ただ目的を果たしたあとは、大いなる存在――この小さき世界に在る天上の神々よりも、遥か遠い場所に存在している原初の神にも会ってみたい。
漠然とだが、己の存在意義を確かめられる気がしたのだ。
ラグリオラスは、ふっと鼻で笑う。
それよりも先に、果たさなければならない目的がある。
(そのためには、神殺しの獣――君ももっと頑張ってくれ。言っただろう? 俺は目的を果たすためなら、たとえ小数点以下であったとしても、可能性を高めたい)
英雄の末裔と、いい感じに戦いは続いている。
二戦目とあってか、少年のほうは少し苦しそうだ。
頃合いを見計らい、ラグリオラスは動く。
ラグリオラスは少年に向け、その存在感を軽く放った。
絶対に誰も気づかない。少年のみに向けたものだ。
戦いのさなか、少年の視線がラグリオラスへ流れてくる。
その顔は、その目は、驚愕と恐怖に染まっていく。
ラグリオラスは少年に、口もとに湛えた笑みを送った。
その一瞬の隙が、少年にとっては命取りになる。
ラグリオラスはそっと、その場から離れていく。
ただ一人――少年は怪物と、行動をともにしているのだ。
視認される前に離れなければ、面倒な事態になるだろう。
当時はそんな怪物がごろごろといたものだが――現世では本当に少なくなってしまった。おそらく神々の仕業に加え、愚かな人類による導きのせいでもある。
これに関しては、ラグリオラスも予想外でしかなかった。
なににしても、決闘の結果はもう見なくても構わない。
少年が見せた一瞬の隙を、英雄の末裔が突いて終わる。
決闘場が静まりかえるのを察知しながら、ラグリオラスは心の中で微笑んだ。
(運命をいじれるのは、別に君達だけの特殊能力ではない。君にはいずれ、別の災厄が降りかかりそうだが、払い除け、這い上がって来い。そのとき君は、もっと強くなれる。まあしかし……そこで途絶えるようであれば、所詮はその程度の存在だったと諦めよう――また会おう、神殺しの獣)
数だけ揃えても、質が伴わなければ一吹きで消し飛ぶ。
のちに控えた大戦では、そういった戦いとなる。
ラグリオラスは闇に溶け込み、次の目的地へと向かった。
これから少年がどう動くか、もう予測はついている。
(魔神の復活は難渋させておき、ついでに十天魔達の動きも留めておくか……相棒のほうは怒りそうだが、対処法を少し授ければ落ち着くか)
一つ間違えば、自分が消滅させられる危険性がある。
それでも、ラグリオラスは迷わなかった。
何千年、何万年、たとえどれほどの時が流れ去ろうと――
荒れ狂った激しい憎悪は、今もなお決して消えない。
ラグリオラスは、もとは禍つ神と呼ばれていた。
神々からの迫害を受けながらも、たった一体――
ラグリオラスは思考をとめ、代わりに覚悟を胸に宿す。
(天上の神々に、必ず死の災厄を齎してやる)
その殺意はあまりに荒々しく、鎮まることは絶対にない。