第二十一話 激しい自己嫌悪
酒場ティアラの付近に、とても綺麗な石畳の広場がある。
開放感に満ちた空間は、決闘するために造られたわけでは決してない。しかしこういった場所は、戦いに適した場合が多いのもまた事実だった。
咲弥は緊張感を持ち、陽気なエルヴィンと向き合う。
ざわつく大勢の人が、咲弥達の周辺に集まっている。
一人の女を巡っての決闘――そんな声が飛び交っていた。
間違いではないが、なんとも言えない気持ちが胸に募る。
「――っしゃぁ! やれぇいっ! らけんなお!」
決闘の中心人物は酔っ払い、地べたに座り込んでいた。
咲弥は自然と呆れ顔を作り、ネイを軽く睨みつける。
酔っ払ったネイの隣には紅羽が立っており、そこからやや離れた位置にアルベルトとキースがいた。ネイ以外の者達は全員、どこか神妙な顔つきで見守っている。
咲弥とエルヴィンの間に、ゼイドがすっと立った。
「それじゃあ、決闘の簡単なルールの説明をするぞ」
ルールは、とてもシンプルなものだった。
紋章術のほか、広範囲の攻撃は禁止となる。
敗北条件は戦闘不能、または敗北宣言の二つのみだ。
「ただ咲弥の武器は、紋様なしでは出せない。いいか?」
「もちっ! どうぞぉ」
ゼイドの問いかけに、エルヴィンは爽やかに了承した。
咲弥は重い気分のまま、空色の紋様を虚空へと顕現する。
「君の紋様って、いい意味で変わってんね。とても綺麗だ」
天使を模した紋様に、エルヴィンは目を奪われていた。
形がかなり特殊というだけであって、別に何か特別な力を秘めているわけでもない。言われ慣れてはいるが、これにはいつも、まず苦笑でしか応えられなかった。
「形だけですけどね……おいで、黒白」
砕けた紋様の欠片が両腕に眩しい光を生み、黒白の籠手が瞬時に出現する。
周囲にいる観戦者達がどよめく。そのときに気づいたが、どうやら賭け事をしているらしい。宝具を見てから、咲弥に賭けなかった者達が嘆いていた。
「ほんと……宝具所持者って、かぁなりレアだよねぇ」
エルヴィンは言いながら、小剣を二本腰から抜いた。
左手の小剣を前へ突き出し、右手の小剣は引っ込め気味に構えていく。突きに特化した姿勢だと少し考えたが、双剣の形は斬るほうに重点が置かれている。
その点から、戦いの動作は軽やかだろうと予想した。
英雄の末裔と行動を共にする男――神殿に身を置く者が、どれほどの戦力を持っているのか、少しばかり気にはなる。
エルヴィンを見据えたまま、咲弥は黒白を解放した。
右手は黒と赤が交じる、悪魔を連想する獣の手に――
左手は白と金が交じる、どこか神々しい獣の手に――
咲弥は戦闘態勢を整え終える。
ゼイドがゆっくりと後退しながら、大きな声を飛ばした。
「それじゃあ――始め!」
咲弥の緊張感が、最高潮を迎える。
咲弥とエルヴィンは、ほぼ同時に距離を詰め合った。
勝負を長引かせれば、咲弥は確実に不利になる。
エルヴィンが放つ初撃――咲弥はそこにあわせ、まず彼の胴を白爪で裂こうと目論む。多かれ少なかれ、オドを失えば必ず隙が生まれる。
その隙に乗じて黒爪を突きつければ、相手から敗北宣言を勝ち取れると踏んだ。
この方法は正直、ただの初見殺しでしかない。
白手の異能を知られれば、確実に対策を練られてしまう。
そうなれば、もう相手の虚を衝くのはかなり難しい。
普段なら奥の手もあるが、紋様の顕現は封じられている。
つまり純粋な戦闘技術のみで、戦わなければならない。
レイストリア王国で開催された国際大会を、もし相手側の誰かが観ていた場合、すでに知られている可能性はあった。だが、きっとそれはないと思われる。
もし観ているのであれば、無敗を勝ち取ったネイや紅羽に関して、もっとなんらかの対応があったに違いない。
そんな気配は、いっさいなかった。
今はまだ、白手の異能は知られていない――
だからこそ、一気に勝負を終わらせる必要がある。
(冷静に……でも迅速に!)
エルヴィンの挙動を、一つも見逃してはならない。
フェイントか――エルヴィンの体が、左右に少し揺れる。
どちらへ移ろうが、咲弥の黒白もまた小回りが利く。
奥に控えていた小剣が華麗に、しかし力強く振るわれた。
咲弥は寸前まで引きつける。焦りからの失敗はできない。
エルヴィンの剣技を、咲弥は間一髪の距離で回避する。
狙いを定め、エルヴィンの胴へと白爪を送り込んだ。
咲弥はそのとき、信じられない光景をまのあたりにする。
エルヴィンの姿が途端に、まるで霧のごとく霞んでいく。
咲弥の白爪は、エルヴィンの幻影を引き裂いた。
咲弥は再び、決闘相手の姿を視界の端で捉える。
エルヴィンはすでに、咲弥の左側を陣取っていた。
咲弥の脳裏に、漠然と古い記憶が浮かび上がる。
(死の狂姫……同じ……体術?)
エルヴィンが持つ、一本の小剣が閃いた。
咲弥の左肩から腰にかけ、彼の刃物が駆け抜ける。
斬られはしたものの、体が勝手に動いてくれた。
咲弥は前方へ転がりながら、その場から大きく離れる。
当時の経験が活きたお陰か、どうやら傷はとても浅い。
即座に黒爪を構え、咲弥はエルヴィンを牽制する。
エルヴィンは追撃の姿勢を見せない。
エルヴィンは不敵な笑みをもって、陽気な声を発した。
「もしかして、何か狙ってた? 危ない危ない」
「くっ……」
咲弥の胸が苦渋に満ちていく。
結果だけ見れば、自分の策をそのまま返されたに等しい。
ただの偶然だろうが、その事実が心理的に負荷を与えた。
「色違い……宝具って、特殊な力が秘められてんだよね?」
エルヴィンは再び構えを取り、言葉を続けた。
「どんな力かわからないけど、かすりすら危険っぽいかな」
まだ異能は知られていない。それなら、策は続行できる。
警戒程度であれば、それは黒白でなくとも変わらない。
背から伝わるかすかな痛みに耐え、咲弥も構え直した。
「らにやっとんじゃい! やったれんかぁ!」
ネイの野次を聞き捨て、咲弥はエルヴィンを注視した。
少なくとも彼は、霧にも近い特殊な能力を持っている。
あの頃の自分では、何一つ理解にまで及べなかった。
しかし、今は違う。あの幻影の正体を、漠然と把握する。
エルヴィンは接近前に、進める足取りを変えていた。
フェイントと睨んだが、いまさらに思えばそうではない。
特殊な歩行で、相手の目を錯覚させるのだと思われる。
(体術……か。確かに、その一種なのかな)
咲弥はふと、考えを改めた。何も速攻でなくともいい。
現状、エルヴィンは咲弥の武器自体を怖がっている。
虚を衝くのであれば、それを逆に利用すればいいのだ。
エルヴィンよりも先んじて、まず咲弥が動く。
咲弥は白手を高く掲げて、大振りの攻撃を繰り出した。
「うぉっ!」
エルヴィンは身を捻り、白爪が軽やかに避けられた。
咲弥はすかさず黒爪を薙ぎ、エルヴィンに追撃する。
今度は小剣を巧みに振るい、黒爪が華麗にいなされた。
ただ、これでいいのだ。今は狙い通りに事が運んでいる。
白爪は避けられやすいように――
黒爪は弾かれる、またはいなされるしかないように――
咲弥はエルヴィンに、猛攻撃を仕掛けた。
(まだだ。もう少し――)
そう思うや、エルヴィンがまた特殊な歩行を見せた。
咲弥はとっさに、飛ぶように後退する。
エルヴィンは苦い表情を浮かべ、不穏な前進をやめた。
同じ手は二度とくわないと、そう踏んだに違いない。
咲弥は着地の瞬間、また勢いよくエルヴィンを目指した。
高く掲げた黒爪で、また大振りの攻撃を放つ。
さきほどと同様、ただ手が入れ替わったに過ぎない。
エルヴィンは当然、軽快な足取りで回避した。
(ここだ!)
咲弥は流れるままに、素早く白爪を振るう。
エルヴィンは冷静な顔で、白爪を弾こうとしていた。
黒爪と白爪の違いを、彼はまだ知らない。
白爪は黒爪と異なり、物体をすり抜けられるのだ。
咲弥は気を緩めない。この瞬間に、全力を注ぎ込む。
エルヴィンの小剣を、白爪がゆらりとすり抜けていく。
エルヴィンの顔が、驚愕に彩られていくさまを捉える。
「白爪限界突破!」
あまりにも集中しすぎていた。そのせいだろうか、咲弥はつい、まったく意味をなさない言葉を発したと自覚する。
ほぼ同時に、白爪がエルヴィンの胴を大きく引っかいた。
「あっ! く、癖で言っちゃった!」
「んな……んだ、これ……」
咲弥は戸惑いながらも、体は自然と動きを止めない。
驚愕状態のエルヴィンを、まずは石畳に叩きつけた。
地に転ばせた彼の腕と足を踏み、強く押さえ込む。
咲弥はエルヴィンの喉元に、黒爪の先を突きつける。
「……敗北宣言……して、ください」
対処するすべが、まだ残っている可能性は捨てきれない。
ここで気を緩めれば、棍棒が飛んでくる――師と過ごした日々が強く根づいているからか、自然とエルヴィンを、また周囲への警戒を保ち続けた。
しばしの静寂が流れる。
エルヴィンは仰々しい嘆きのため息をついた。
「あぁー! くそくそくそっ! 俺の負けだぁああっ!」
周囲から歓声が飛び、決闘の幕は閉じた。
咲弥は途端に、大きく息を切らす。
敗北宣言を求めてから、呼吸していたのか疑わしい。
ひどい緊張感に、縛りつけられていたようだ。
「ちっきしょー! オドを失わせるとか聞いてねぇし!」
「ははは……僕の奥の手ですから」
咲弥は言いながら、エルヴィンから離れていく。
エルヴィンは地べたに座り込み、夜空を大きく仰いだ。
「あぁーあ! ネイちゃんとデートしたかったのになぁ!」
仮に決闘でエルヴィンが勝ったとしても――ネイの態度を考えれば、おそらくは散々なデートとなったように思えた。
そもそも、まずデートと呼べるのかどうかですら危うい。
本当に嫌であれば、真面目に断れば済んだ話なのだ。
それを変に大事にされ、咲弥はげんなりとする。
咲弥は深いため息をついてから、ネイに声をかけた。
「ネイさん……終わ……っ?」
咲弥は唖然となり、不意に言葉を止めた。
隣で座っている紅羽の肩にもたれかかり、ネイは気持ちがよさそうに眠りの中へと落ちている。勝敗が決したあとも、確かにずっと静かではあった。
咲弥はがっくりとうな垂れ、再び大きなため息がもれる。
ただでさえ溜まった疲労感が、さらに押し寄せてきた。
なかば諦めの境地で、咲弥はネイ達へと足を進めていく。
数歩だけ進み――咲弥はぴたりと足を止める。
「それじゃあ――次は、俺と決闘しないか?」
英雄の末裔アルベルトが、咲弥へ剣尖を向けてきたのだ。
アルベルトは綺麗に整った顔に、不敵な笑みを湛える。
「俺は、紅羽とのデートをかけて――で、どうだ?」
つい険しい顔になったと、咲弥は自覚する。
アルベルトとの接触からを振り返り、不穏な感覚が徐々に形をなしていく。最初から紅羽が目当てだったのではないか――そんな疑念が生まれた。
事実がどうかはさておき、決闘を受ける気はない。
咲弥は首を横に振った。
「申し訳ないですが、お受けできません」
「理由を聞いてもいいか……?」
咲弥は漠然と、過去の出来事を思いだした。
王都レイストリアに着いてから、まだ間もない頃の出来事――人と決闘したのは、あれが人生で初めての経験となる。
紅羽を護りたい一心で、強い覚悟を持って決闘に臨んだ。
そうやって誰かを護るためならばともかく、お遊びじみた決闘など何も意味がない。無駄に争う必要はないと思える。
それ以前に、まずデートをさせる気も暇もなかった。
明日の朝には、次の港町への船に乗らなければならない。
アルベルトの碧眼を見据え、咲弥はきちんと拒否する。
「今回はネイさんに言われ、仕方なくお受けしましたが……僕は決闘自体、正直好きではありません。できる限り人とは争いたくありませんので、お断りします」
概ね本音を伝えたが、暗に別の事情も含まれていた。
仮に決闘を受けた場合、絶対に負けられない戦いとなる。
だが勝負の世界において、絶対が存在しないということを咲弥はよく理解していた。もし勝負に負けた場合、約束通り紅羽とデートをさせる必要があるだろう。
口約束と濁せるようなものでは、決してないはずだった。
ただの遊びとしか考えていないのなら許せないが、紅羽を名指ししている点を考慮すれば、アルベルトが彼女に好意を抱いているのは間違いない気がした。
咲弥は別に、紅羽と正式に恋人関係にあるわけではない。
そうだとしても、想像するだけで嫌な気持ちが胸に湧く。
これは、身勝手な考えなのか――咲弥はふと悩んだ。
アルベルトについて、まだ深く知っているわけではない。
ただ本人の話によれば、彼は神殿や親族から不当な扱いを受けている。とはいえ、家柄的には王家にも引けを取らず、育ちのよさが雰囲気から滲み出ていた。
さらに同性の咲弥が見ても、羨むほどの容姿をしている。
大人な一面も垣間見えており、物腰も気さくで柔らかい。
それこそ、王子様と呼ばれても何も不思議ではなかった。
そんな王子様が住む神殿付近には、魔物がいないらしい。
血生臭い冒険者とは違い、平穏な日々が送れるのだろう。
現時点では、文句のつけどころがまったく見当たらない。
そして当然、アルベルトはこの世界の住人なのだ。
もとの世界に戻る可能性がある咲弥とは違い、彼であれば紅羽を幸せにできるのだろうか――そんな思考が、より深く咲弥を自己嫌悪へと陥らせていく。
咲弥が思考を巡らせている中、アルベルトが口を開いた。
「君達の関係性は――主従関係? よくわからないが、俺は真面目に彼女とデートをしたいと思っている。正直、彼女を船で見かけて、一目惚れしたんだ」
嫌な予感ほど、本当によく当たる。
やはりアルベルトは、紅羽が目的で近づいてきたらしい。
アルベルトは剣尖を向けたまま、咲弥に告げてくる。
「だけど、君がもし彼女と恋仲の関係にあるというのなら、俺はきっぱりと諦めるよ。さすがに人の女に手を出す気は、さらさらないから」
アルベルトの発言に、咲弥は息を詰めた。
良識のある彼は、かなり真面目な人物だとうかがえる。
だからこそ、咲弥も真摯に対応したい気持ちはあった。
(僕は……)
とはいえ、ここは言ってしまったほうがいい。
事実がどうであれ、紅羽の想いは暗に伝わっている。
たとえそうでなくとも、無用な争いは避けられるだろう。そのうえ、紅羽が引き合いに出される心配もなくなる。
だから紅羽は自分の恋人だと、そう伝えるだけでいい。
頭では理解していた。そのほうがいいとも思っている。
だが――曖昧に濁してきた部分が、ここで顔を覗かせた。
「紅羽は……僕の大切な……冒険者としての仲間……です」
自分でも不思議なくらい、思った言葉を口に出せない。
曖昧にした部分が呪縛のごとく、咲弥の心をひどく蝕む。
初めて決闘したときと、何も変わらない。
あの頃も咲弥の女か問われ、大切な仲間だと告げたのだ。
同じ対応――それなのに、まるで別物へと変化している。
紅羽の気持ちが、暗に伝わっているのだから当然だった。
アルベルトが剣を下げ、訝しそうに問いかけてくる。
「仲間……でも、様づけされているのに?」
「それは、いろいろな事情があったからです」
「主従でもなければ、恋仲でも……ない?」
「……はい」
咲弥はばか正直に、事実を語った。
咲弥は視線を伏せる。紅羽に、目を向けられなくなった。
今どんな顔をしているのか、知るのがとても怖い。
たとえ真顔のままだったとしても、その奥に隠されている感情が、ぼんやりとでも見えてしまうような気がしたのだ。
もし自分が紅羽の立場なら、きっと悲しんでいるだろう。
充分わかっている。わかっていてもなお、言えなかった。
さまざまな想いが巡り、咲弥は自分が嫌いになる。
激しい自己嫌悪の中――
嫌なくらい、場は静まりかえっていた。