第十七話 女神を見つけた
大型船サンライト号が、大海原を颯爽と突き進む。
咲弥は甲板のふちに歩み寄り、潮風を全身に浴びた。
(うゎあああ……すっごい気持ちいいな)
見渡せる景色は、まさに圧巻の一言であった。
青い大空には、さまざまな形をした白い雲が流れている。そして青々とした海のほうでも白い波が立っており、まるで空と海が鏡のように思える光景だった。
空の船とは違い、海の船は落ちない。
その事実が、咲弥の心を一層晴れやかに澄み渡らせた。
「うぉおっ! ここも風が気持ちいいぞぉー!」
咲弥の隣付近に、碧眼を持つ茶髪の青年がやってきた。
怖いくらい綺麗な顔立ちをしている青年は、二十歳前後か――旅人らしさのある黒を基調とした服装なのだが、どこか気品めいた雰囲気が強く醸されている。
このサンライト号には、いろいろな人達が乗っていた。
忙しなく働く船員達は当然のこと、旅人の姿も多い。
彼もおそらくは、その内の一人なのだろう。
「おぉい、アルベルト! はしゃぎ過ぎて落ちんなよ」
似た装いをした黒髪の大男が、野太い声で注意した。
茶髪の青年アルベルトは、背で手摺りにもたれかかる。
「ガキじゃないんだから、わかってるって」
「充分、ガキのまんまだってぇの」
呆れた姿勢で、陽気そうな金髪の男が深いため息を吐く。
その彼もまた、黒一色に染まった服装をしている。
もしかしたら、地域特有の格好なのかもしれない。
なかば癖に近い領域で、三人のオドに咲弥の目がとまる。
とても流麗で力強い。かなりの使い手の様子であった。
アルベルトはそのまま、茫然と大空を仰ぎ見ている。
深く、より深く、大空を真正面へと捉えていた。
「うぉあっと……!」
「あっ!」
「ばかっ!」
アルベルトの仲間が顔を青ざめさせ、大慌てしていた。
危うく落ちかけたアルベルトに、咲弥もどきりとする。
広大な大海原を、船は勢いよく進み続けていた。
たとえ紋章者でも、落ちればどうなるか予想に難くない。
「なっ、なぁんちゃって……?」
「なぁにが、なんちゃってだ! 今のガチだったろ!」
「やれやれ。これだから、アルから目が離せないんだよな」
大柄な男が険しい顔で怒鳴り、もう一人は呆れていた。
不意に、アルベルトと視線が重なる。
にっこりと爽やかに微笑まれ、咲弥は対応に少し困った。
(……それにしても、ほんといい顔してるなぁ……この人)
ほかの二人も整った容姿をしているのだが、アルベルトはさらに頭一つ抜けた格好良さがある。同性の咲弥が見ても、少し見惚れるくらいだった。
ぼんやりとしていると、聞き覚えのある声が上がる。
「おぉい。咲弥さん!」
「あっ。リックスさん」
青髪のリックスが手を振り、傍まで歩み寄ってきた。
リックスはやや疲弊した顔を、にっこりとほころばせる。
「うちの船、どうっすか?」
「思っていたよりも揺れが少なくて、凄く快適です」
「この辺りは波も穏やかっすからね。よかったっす!」
咲弥は周囲に目を向けながら、リックスに言った。
「それにしても……皆さん、お忙しそうですね」
「天候と海は機嫌がころころ変わってしまうんで、こっちも気が抜けないんすよ。自分も積荷の状態に、あれやこれやと点検が終わったところっすから」
「はあ……やっぱり、大変なお仕事なんですね」
「安全を最大限に――それが、先代のモットーっすからね」
咲弥が相槌のごとく頷くと、リックスがからからと笑う。
「でも、このご時世……どうしようもないんすけどね」
「あぁあ……魔物の活発化ですね」
リックスは、げんなりとしながら嘆いた。
「忌避機で追い払えるのも、限りがあるんで困りものっす」
「ああ……」
ふと記憶がよみがえり、咲弥は曖昧な声で応えた。
忌避機の燃料奪還を終えて帰還したとき、咲弥は忌避機に関しての説明を受けている。見た目からでは、絶対にどんな役割なのか想像すらできない。
忌避機室の中にある装置は、船首付近にまで伸びている。ただの装飾品と思わせる代物だったが、歯車みたいな装置が忌避機の一部なのだ。
そこから、海洋生物が嫌う要素が放たれている。
「そういえば……海に関してはあまり詳しくないので、少し的外れな話しかもしれませんが……深海とかに行ける船ってあるんですか?」
「さっすが、冒険者っすね。潜水艇を知ってるって、とても博識じゃないすか」
「いえ……直接、実物を見たことはありませんが……」
それは事実、本当の話であった。
もとの世界で、潜水艦の写真や映像なら観た記憶はある。
乗ったこともなければ、傍まで行った経験もない。
「潜水艇は国家レベルの機関しか、扱ってないっすからね。俺ら船乗りでも、噂程度っすよ。でも冒険者なら……上級の人ならって感じなんかもすねぇ」
リックスは腕を組み、小首を傾げてから唸った。
「海洋生物の分析から海底遺跡の発掘と、いろいろな調査が実施されてるみたいなんすけど……海にはやばい生き物が、うようよいるっすから」
「海の中で襲われたら、ひとたまりもないですよね」
「それもあってか、あまり進展はしてないらしいっすよ」
咲弥はふと、嫌な想像が浮かぶ。
もし邪悪な神が深海、または簡単に行けないような場所に潜んでいた場合、どうすればいいのかさっぱりわからない。
この世界は確かに、神秘的な代物で溢れている。
だからといって、神秘一色で染まっているわけでもない。
現に移動手段は、船舶や飛行船のほか――迅馬は神秘的の類いと言えなくもないが、結局のところは自動車に匹敵した馬車でしかないのだ。
唸りながら悩む咲弥に、リックスが爽快に告げる。
「でもまあ、咲弥さんがいれば、たとえどんな魔物が来てもへっちゃらっすよ」
「えぇ……それはどうか……」
「魔物が現れたら、そのときはよろしくっす!」
咲弥は、リックスに苦笑で応えた。
正直、他人事ではいられない。
今度は墜落ではなく、沈没されても困る。
魔物が現れないよう、咲弥は何にとなく祈っておいた。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
アルベルトは再び、空を大きく仰いだ。
青空には大きな白い雲が、まばらに浮かんで流れている。
住まいから見上げた空と、それほど変わりはない。しかし船の上による雰囲気、あるいは場所によるものか、そこには確かな違いがあった。
「なぁに、ぼぅっとしちゃってんの?」
幼馴染のエルヴィンが腰を低くして、まるで下側から覗き込むように見据えてきている。風に煽られた金髪を手でかき上げ、そして不敵な笑みを湛えた。
アルベルトは対応に困り、肩を竦めて応える。
もう一人の幼馴染、大柄なキースが呆れ声を投げてきた。
「おい。お前はもう、海側には近づくな」
「せっかくの旅なんだ。めいっぱい楽しもうぜ」
アルベルトが軽口を叩くや、幼馴染達は苦い顔を見せる。
エルヴィンとキースとは、幼い頃――それこそ、生まれた頃からの付き合いだ。それぞれ性格に違いは当然あれども、話も合えば気も合っている。
だから幼馴染と呼んでも間違いではないが、しかし大衆のそれとは、ちょっと毛並みが異なるだろう。彼らは体裁上、アルベルトのお目付け役だからだ。
ただそれは、あくまでも形上のものに過ぎない。
なぜならアルベルトには、ほぼ存在価値がないからだ。
形式上は、もしものための代替――アルベルトの上には、そもそも兄や姉が複数人いる。だから実際は、代替とすらも見ている者は誰一人としていなかった。
とはいえ、生まれてしまったものは仕方がない。
そんなアルベルトに課せられた使命は、普通に生き、妻を娶り、子を作り育て、血筋を絶やさないこと――
それも兄か姉の誰かが本家に決まれば、もう用済みに近い状態となるだろう。
兄や姉達には、最高の環境と教育を受けた者が伴侶としてあてがわれる。
アルベルトには、その恩恵が与えられる事実はない。
自分で勝手に探せというのが、周囲からの答えだった。
正直、このままエルヴィンやキースと失踪したとしても、それほど気にはされない。仮に誰も娶ることなく死んでも、何か言ってくる者もいないのだ。
その事実を、そして人生を、別に恨んでなんかいない。
醜い権力争いなど、はなから興味を持てなかった。
当然、自分の責務自体はまっとうしなければならないが、妙な野心があるわけではない。同時に、本家になるつもりも毛頭なかった。
今まで通りに暮らせるのなら、それで充分に満足がいく。
そんな理由から、幼馴染の接し方は気さくなものだった。
名分はお目付け役だが、普通の友達とさして変わらない。
その事実が、アルベルトにはとても居心地よく思える。
呆れ気味の幼馴染達を見てから、アルベルトは空を仰ぐ。
(まあでも……嫁さんと子くらいは、やっぱ欲しいか……)
アルベルトは茫然と雲を眺め、そんなふうに思った。
しかし現状、別にお目当ての女性がいるわけではない。
確かに兄達の嫁候補は容姿端麗であり、教養も文句なしの女性ばかりであった。もし自分が、兄の立場ならば――そう考えたことも何度かある。
ただどの女性も、自分には合わない。何か違う気がした。
こっそりため息を漏らし、アルベルトは首を横に振る。
そして、視線を戻した――そのときだった。
腰まである銀髪を、風になびかせた少女が横切っていく。
端整な顔から少し寡黙そうな印象を抱かせたが、人の目を惹きつけるほどの神々しい美しさが宿っている。また彼女の洗練された肢体も素晴らしかった。
動作が研ぎ澄まされており、重心のぶれがいっさいない。
そして外見と同様、オドが恐ろしいほど流麗であった。
正直、人生で初めてと言えるくらい視線を奪われている。それこそ兄の婚約者候補ですら、彼女の前では揃いも揃って眉を顰めそうだと感じられた。
銀髪の少女を、アルベルトは自然と目で追いかける。
庶民的な黒髪の少年と船乗りの前で、彼女は足を止めた。
「あ、紅羽」
「どうもっす! 紅羽さん!」
銀髪の少女は、紅羽という名らしい。
表情一つ変えずに、紅羽は柔らかな声を紡いだ。
「こんにちは、リックス」
簡単な挨拶をしてから、紅羽は黒髪の少年を向いた。
「咲弥様――さきほどようやく、ネイが眠りました」
アルベルトは内心で、驚愕するほかない。
黒髪の少年、咲弥と彼女は主従の関係にある様子だった。
どう考えても、逆ではないのか――紅羽は、しかし咲弥のほうを向いている。
咲弥は苦い顔を浮かべた。
「ああ、そっか。オドを鍛え過ぎるのも、考えものだね」
「そういえば……赤髪のあの娘、どうかしたんすか?」
船乗りの問いに、咲弥がげんなりとした顔で答えた。
「二日酔いのせいか、船酔いしてしまったみたいで……僕が持っていた睡眠薬で、着くまで寝るって言いだしまして」
「あぁ……それじゃあ、ゼイドさんもっすか?」
「ですね。今もきっと、いびきをかいて寝ています」
仲間の話か、アルベルトにはよくわからなかった。
少し眺めていると、不意に船が大きく揺れた気がする。
アルベルトは妙な気配を、ぼんやりと感じ取った。
「咲弥様。南西の方角に、魔物らしき気配があります」
紅羽が真顔のまま、南西を見ながらに言った。
アルベルトは静かに驚く。極わずかな気配のはずだった。
彼女の言葉通り、確かに南西の方角にある海が山のごとく膨れ上がっていく。
「アルベルト! 下がれ!」
「アルはお留守番。そんじゃあ、少し運動でもしますかぁ」
キースが腰から剣を抜き、エルヴィンが双剣を手にした。
そのさなか、アルベルトは不思議な光景に我が目を疑う。
咲弥が虚空に描いた空色の紋様が、これまでの人生で見た記憶がないくらい、あまりにも特殊な造形をしていたのだ。まるで、天使を連想する形をしている。
咲弥の隣で、紅羽は穢れのない純白の紋様を顕現した。
「おいで、黒白」
「ヴァルキリー、降臨」
声を揃えて言った二人の紋様が、ほぼ同時に砕け散る。
咲弥の両腕が光に呑み込まれ、そして黒色と白色の装具が装着した状態で出現した。紅羽はまばゆい閃光から、赤黒い色合いをした長剣を抜き取る。
それは手に入れたいと願ったからといって、決して簡単に入手できるような代物ではない。アルベルトは内心、宝具に選ばれた二人から強烈な衝撃を受ける。
激しい水しぶきが聞こえ、アルベルトは視線を移した。
海から這い出てきたのは、クラーケンと呼ばれる魔物だ。
巨大なイカを連想させる容姿をしたクラーケンが、一本の大きな触手を振る。
「紅羽!」
「了解しました」
何に了承したのか、紅羽がクラーケンの触手へと向かう。
彼女の名を告げた彼は、なぜか関係のない方角を走った。
この場を、少女一人に任せるつもりなのか――
いくらなんでも、それは危険過ぎる。
助太刀をするために、アルベルトは剣を抜いた。だがその前に見せた紅羽の剣技に、はっと息を呑む。それはまさに、閃光のごとき早業であった。
触手を切り分けるように、瞬時に細切れにしていく。
本体と繋がっている触手の上に、紅羽は飛び乗った。
そしてそのまま、本体を目指して駆ける。
当然、これにはクラーケンも黙ってはいない。
まず斬られたほうの触手を、海へと沈めていく。
その最中、別の触手を紅羽へ向かわせていた。
「危ない!」
アルベルトは我知らずに叫ぶ。そのとき、ふと気づいた。
紅羽は長剣から、いつの間にか蒼い長槍を手にしている。
触手を刺した長槍を大きくしならせ、上へと弾き飛んだ。
「うぉおおおおおお!」
雄叫びが聞こえたほうへ、アルベルトは視線を滑らせる。
咲弥が檣楼から飛び、クラーケンを目指していた。
「紅羽! あとでちょっと助けて!」
「了解しました」
咲弥の両腕の変貌に、アルベルトは眉根を寄せる。
それは、獣じみた形に見えた。
クラーケンは咲弥を打ち落とそうと、複数の触手を振る。
咲弥はただひたすら、クラーケンの本体を目指していた。
咲弥が打ち落とされる――そう思った瞬間、今度は純白の弓を手にしていた紅羽が、閃光の矢を放つ。触手から少年を完璧に守ってみせた。
漆黒の手を大きく振り上げ、咲弥は空色の紋様を描く。
「黒爪限界突破!」
固有能力の発動か、咲弥は漆黒の爪をクラーケンに送る。
ほんの少し、クラーケンの額を裂いた程度に過ぎない。
そのはずだったのだが、轟音が響くと同時にクラーケンが四つに大きく裂かれていく。それはまるで、巨大な獣にでも引っかき殺されたようにもうかがえる。
強烈な衝撃はクラーケンをも越え、海にまで達していた。
大きな波が生まれ、船が大きく揺らされる。
転びそうになりながらも、アルベルトは心配が先立つ。
このままでは、二人とも海に落ちてしまう。
アルベルトの不安をよそに、紅羽が純白の紋様を描いた。
「光の紋章第四節、白熱の波動」
紅羽の右手から、凄まじい光の線が伸びていく。
アルベルトは、訳がわからない心境だった。
彼女が放った白い光芒の方角には、落下する咲弥がいる。
直撃する寸前、咲弥は白い手を前に差し出していた。
閃光を受け止めるや、咲弥が船へと吹き飛んでくる。
なるほどと、アルベルトは唸った。だが、問題はある。
(あの娘は、何か戻ってくる方法があるのか……?)
答えの出せない疑問に、考える余地はない。
アルベルトは念のため、腰の鞘を落とした。
いつでも飛び込めるよう、身軽な状態になっておく。
その最中、紅羽が再び純白の紋様を虚空に顕現した。
「光の紋章第七節、明滅の流星」
道標みたいに発生した光球を繋ぎ、紅羽は瞬間的な速さで船に戻ってきた。
ほぼ同時に、吹き飛んでいた咲弥が彼女の傍に降り立つ。
「さっすがぁ! お二人がいれば、怖いもんなしっすね」
周りの乗客や船員が、咲弥と紅羽を褒め称えている。
湧き上がる歓声の中、咲弥が苦い顔をして呟いた。
「ふひぃ……怖かった……落ちなくてよかった」
「咲弥様。ご無事でなによりです」
「紅羽は大丈夫? どこも怪我してない?」
「はい。問題ありません」
アルベルトは、まるで世界が止まったような感覚に陥る。
無表情で、少し気難しそうな少女だと思った。
そんな彼女が今、女神のごとき微笑みを湛えている。
これまでの人生で、経験した記憶のない感情が湧く。
ふと、エルヴィンの声が耳に届いた。
「いやあ……あの二人、すげぇな」
「何者なんだろうな……」
キースの呟きも聞こえた。
アルベルトはいまだ、紅羽から視線を外せない。
そんなアルベルトの右肩に、不意の重みが発生する。
エルヴィンが訝しげに肩を掴み、覗き込んできたのだ。
「おいおい? どうしたんだ。アル?」
「……俺は女神を、見つけた……かも……?」
アルベルトは我知らず、そう応えていた。